横浜市 高野山真言宗 福徳院 弘法大師像
この言葉は、仏教の因縁因果から来ていると思われるが、前世の悪行が現世の不幸になって現れたというように、今さらどうにもならないあきらめの思想としてとられがちである。
しかし、悪い結果をみて前世や過去の業をとやかく言うのではなく、今できる善いことを因に、いい結果を得る努力をするべきであって、どうにもならないことにくよくよしても仕方ない。
弘法大師空海の「性霊集」に、『因果あい感ずること あたかも声響のごとし』と書かれている。行いとその結果は、やまびこと同じで、しばらく時をおいて響いてくるものと解されている。
悪事を働けばその報いがいつかは自分に返ってくる。間違いに気づき、善処して改めようとするなら、未来はどのようにでも変えることができる。
しかし、返ってくるのが一定の間隔ではなく、いつ返ってくるかわからないだけに、自分の子孫に出て来ることもある。親の現世の行いが因となり、子孫の現世に結果として表出するかもしれないと思うと、いまの自分が正しく生きなければいけないとつくづく思う。
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