昨夜は早めに就寝。ラジオ深夜便「こころの時代」に合わせて早起き、昨日からの2夜連続放送「ジャズバンドを率いて半世紀」、ビッグバンド「原信夫とシャープスアンドフラッツ」リーダー原信夫さんのお話に聴き入る。
原さんは今年82才になるそうで、1951年に発足したこのバンドを率いて、今年7月まで全国をまわりながら、ファイナルツアー中だそうである。引退の理由は、「体力の限界」と、過去に数多くの音楽バンドが、知らない間に消えていくのを沢山みてきたので、「いい時にやめたい」と思ったそうである。
江利チエミや美空ひばりのバックバンドとしての思い出や、アメリカのニューポートジャズフェスティバルに、人間国宝(尺八)山本邦山さんと出演して、世界のトップミュージシャンに高い評価をいただいたことなど、数多くのエピソードが語られ、とても素晴しく感動しました。あの世界のビッグバンド「カウントベーシー楽団」とも競演したそうです。
1968年(昭和38年)、初めてNHK紅白に出演したそうで、その年に私は高校を卒業しましたが、当時、私は高校の吹奏楽部に所属していて、音楽漬けの毎日でした。卒業の前年暮れに、急行高千穂号という夜行列車で、浜松から北九州小倉まで叔母を訪ねて行ったときのことを思い出しました。確か片道17時間ぐらいかかったかと思いますが、年末の帰省客ですし詰め状態で、京都駅ではデッキから乗車出来ず、窓から乗ってくる始末でした。
また、大阪あたりからは、両足が微動だに出来ないまま、立ちっぱなしだったのを覚えています。さらに、広島からは電化されていないため、蒸気機関車に交代、関門トンネルを過ぎて小倉駅に着いたとき、叔母さんが「顔が真っ黒よー!」「これで拭きなよ」と白いハンカチをくれたことも記憶にあります。
叔母のご主人はアルトサックス奏者で、進駐軍まわりのバンドを率いていたのですが、私が小倉に行ったときは「月世界」というグランドキャバレーの専属バンドのマスター兼アルトサックス奏者として活躍していました。「月世界」は博多にもあったのですが、今でも九州出身の人に「月世界って知ってる?」と訪ねると、多くの人が「知ってる」と答えてくれます。
興味深々の私は、到着の夜、爪入りの学生服を半オーバーで隠して叔父さんの顔でキャバレーの中に入れてもらったのです。大人の社交界を初めてみました。そのとき、アメリカから来たという黒人の歌手が唄っていた曲は「16トン」。お腹のそこにドーンと響きわたる重厚な声と節回しで、「これがジャズか!」と感動したのを今でもよく覚えています。
その後就職した私、音楽が忘れられず、高校のOB中心に故郷浜松で、「楽団ジェリーメン」というビッグバンドを結成しました。偶々私が銀行にいたこともあり、ヤマハにいた同じ吹奏楽部の先輩に頼んで、当時の第一銀行を支払場所とした割賦手形(マル専手形と言われていました)で、ロンドンセルマーのバリトンサックスなど買い込み、全員社会人というメンバーで練習を開始したわけです。ちなみに私はトローンボーンを吹いていました。今でもヒュッテルのトランペットとともに、屋根裏部屋に眠っています。
楽団ジェリーメンは、毎月第三日曜日に中上級者向けのダンスパーティの専属バンドとして今も活躍しています。結成44年になりますから、国内のアマチュアのビッグバンドとしては、最も古いのではと勝手に思っています。ちなみにラジオ深夜便で原さんが言ってました。シャープアンドフラッツは世界で一番古いビッグバンドだそうです。しかも同じリーダーでここまで続いたビッグバンドはないそうです。すごいですね!
今日は、ビッグバンド原信夫とシャープスアンドフラッツのことで感動し、自身の昔懐かしいバンドマン時代を思い出してしまいました。
この頃は、ライブに行くこともなくなりましたが、横浜関内の銀行支店にいた頃は、独身だったこともあり、ライブハウスの「酔いどれ伯爵」や「BAR BAR BAR」などに通って、プロのジャズミュージシャンの方たちと知り合うことが出来ました。
ジャンルを問わず、私にとって音楽は、酒と共に憂いの玉箒でした。21/2/25
原信夫とシャープスアンドフラッツ
http://www7.ocn.ne.jp/~jbbcon/sharpsandflats.htm
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