Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記140612 デミウルゲや「孤独」のこと と今日の絵

2014-06-12 10:24:36 | 朝日記

朝日記140612  デミウルゲや「孤独」のこと と今日の絵

みなさん、おはようございます。
 今朝は 昨夜来の絶え間のない雨です。 被害の少なからんことを願います。

徒然こと
*毎年 決まって 雨があって それが集中豪雨となって被害をおよぼしますが、なにか意志をもって 新しい場所を狙い撃ちしているような感をもつほど 被害先が多様です。

*たまたまギリシャ神話系で デミウルゲ(DEMIURGE)という 雷神みたいな猛々しい神を ネットで知りました。 どうも なぜ、宇宙の創造主に対して 悪魔が寄り添うように対置しているかという命題からでた神話です。 あまり精確ではありませんが、以下です。
*宇宙の創造主の妃の神がいてその名をソフィアといいます。 ソフィアは、自らの領分で好きに創造できることができます。動植物をつくり、そしてそれを世話する人間を創ったというものです。 またソフィアはなぜか、 子をはらみます。神の子ですから その子も神です。その名をデミウルゲ(Demiurge)といいます。しかし その子デミウルゲは 醜く ソフィアはその子が他の目に曝すことを嫌い 雲に包んでひそかに育てます。 デミウルゲは母を憎みます。そして母の創造になる世界の秩序とは ことごとく逆な力として働くようになる、つまりデヴィルです。 そういう話です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Demiurge


*この話は 宇宙の創造主と旧約の世界の創造主は同一ではなく 創造の階層構造を持っているという 世界認識への深い根っこみたいなものとおもいました。
なぜ いまどきデミウルゲが出てくるかといいますと、アメリカではまだ自然科学的定説である進化論に対する抵抗があります。宇宙や世界は 旧約の創世記にあるように、超越者の設計書に基づいて進行していているという形而上学的理念と対立してとらえている人たちがいます。最近のヒトDNAの分子解読をみるにつけ、超越者の意志につよく感動し、そのように理解できるという主張です。これを Intellectualismとよんでいます。 テキサス州あたりでは、これを学校でもおしえるようにという運動があります。
*生命科学者が哲学的あるいは思想的な見解が問われること多くなっているようです。
*先輩筋の友人からフランシス・コリンズ「ゲノムと聖書」(原著:The Language of God)の読書レビューが送られてきました。。
http://www.pbs.org/wgbh/questionofgod/voices/collins.html

*上の デミウルゲは、とりあえず ネットで彼の世界に入ってみましたが、例によって、その途中で寄り道したものです
 (私見ですが、カントの認識批判哲学からの思考の整理が意味のある時代であるとおもいます)
 
徒然こと 2 ユノの似像のこと
いま取り組んでいるカントの「道徳形而上学原論」(*)という本のなかで、道徳原理ようなものは 経験的動機や経験的な法則のなかに探しもとめても、 そこからは認識できないという論のくだりがあります。彼がそこで使ったギリシャ神話の隠喩を思い出しました。
*「それだのに、人間の理性は、疲倦したあげく好んでこの褥に憩い、甘美な幻影(これは人間理性にユノならで雲を抱かせるものである)の夢の中で・・・」
* これに訳者注があります。
「ギリシャ神話に出づる。テッサリア王イクシオンは、ジュピター(ゼウス)の妃ユノ(ヘラ)を犯そうとしたので、ジュピターは雲でユノの似像を作り、彼に抱かせた」
(*)カント(篠田訳)「道徳形而上学原論」岩波文庫 p.99

*真の認識にいたるための方向性を間違えているということを説いているものです。


徒然こと 3 「孤独」について
朝のラジオで 長野で読書カフェをやっているひとの話があり、これが面白かったので このひと村石 保さんにメールをおくりました。

http://o-emu.net/archives/13112.html#comment-1779

以下は その文を掲載します。
~~~ 
 
おはようございます。1938年生まれ男子です。今朝、村石さんのMyMy堂のおはなしをラジオで聞いて、おなまえを失念しないうちにと ここにたどり着きました。 うれしくなって書いています。 「孤独」のおはなしはなかなかいい話です。 
*ドイツ歌曲を’道楽’で取り組んでいたことがあります。ドイツ人は うれしいときも、またかなしいときも ひとりでいる時間と空間を大切にするということをその時に知りました。とはいえ たいして調べたわけではありません。 Allein や Einsamkeitがでてきます。
前者はたぶん英語ではaloneですが ドイツ語の方は ひとりであることの充実感を漂わせます。後者は もうわすれましたが、ブラームスの Feld Einsamkeitという名曲 野にひとりある「孤独」でした。
* そのときに この芸術形式が実は 「孤独」のなかで こころに充実感を味わう世界であるということを知りました。 おもえば、祈りや瞑想なども よそ目には単なる「孤独」ですが、そのひとには 広大な世界へとつながっていくのであろうかとおもいます。 
母を昨年 百歳でみおくりました。そのころ 老人ホームでひとりで 座っている方々をみかけるにつけ 単純に「孤独」が 「役済み」と決めつけることはできないなにかがあると思ったものでした。 もっとも人間 そのときになってみないとわかりませんが、ふと気が付くとそのときであるとも感じます。 読書は そのときどきの 内的な世界と今生きているこの世界との接点をきちんと与えてくれます。
そして ちょっとコーヒーを喫し、村石さんのような方と目があい、ことばを交わす、 すてきな カフェMyMyとおもいました。 村石さん よいおはなしをありがとうございました。 時節柄 ご自愛のほどを。あらいやすまさ 

~~~
徒然ことおわり


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