朝日記181214 偶感 課題を晒すこと と今日の絵
おはようございます。
今日の絵は「憧憬のケープタウン」です。
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偶感
課題を晒すこと
(会員) 荒井康全
メモA9140
本稿では、ミルの考え方とくにmorality(道徳的な価値観)について、述べておきたい。[1]
ミル(John Stuart Mill、1806-73 )[2] は、19世紀でもっとも影響力のある英語圏の哲学者である。
物事の事態state of affairs (SAとここで略す)ということばがある。日々の生活のなかで、あるいは、ニュースなどで知るその時々の話題や案件を思い起こせば、それである。 この個別のSAから、なにが善いか、そう考えることが正しいのか、それをどう取り組み解決に導きうるのかが、人としての関心事であろう。
。これを辞書でしらべると 価値もしくは価値の自然性(nature of value)に関する研究や理論と記されている。[3]
しかし、一般的にみて、SAが前面にでて、世論が沸いているときに、Axiology(価値の自然性の学)根底をみることは、やや迂遠としてか、どちらかというと目立たないところで立って、静かにしているようである。
さて、ミルに着目して、彼のAxiologyの選択は、moralityであった。その価値の自然性のひとつの選択として、moralityが登場するとみることになる。ここでは、このmoralityは、ひとがもつ価値観とするとその価値の出発点を、如何に考えるか、その学問がAxiology(「公理論」と訳しておく)である 彼の拠って立つ経験主義からの立場は、効用主義( Utilitarianism )にあった。 その論でのmoralityは「最大多数の最大幸福」であった。
ところで、最大幸福が価値ならば、もし、あるひとの行為が、幸福「最大」でなければ、それはだれが、どのように評価するのであろうか。また、責任は如何であるかということに関心が集まる。 西洋の哲学で、人(a man)というときは、特別に断らない限り、それは個人(individual)という起点から始まると言ってよい。(日本人である私は、ここは非常に注意を要するところである)
ミルはいう、SAにおいて、それに関与する個人が、事前に合意した約束や規範に違反しないかぎり、結果として最大「幸福」に至らなくても、違反として責任を取ることに価せせず、社会的制裁を直ちに受けることに該当することはないとする。しかし、関連した意識である”an emotion of blame”(責めの感情)は、自分と相手(まわり)に残るであろう。
これをどうするか? ミルの結論は、本人は不愉快であろうが、じっと我慢することだしている。 彼の表現では “disposition” としてことを「晒す」ことであるという。この「責めの感情」は、その人がいる文化(習慣)感情からくるものであるが、いつも一定しているものはなく、時間経過とともに変わるからだという。しかし、だからといって、意識として放置しているべきではなく、冷静に課題として位置づけるべきであると諭す。これはその個人への配慮でもあり、その認識が社会への貢献であるという発想であった。 いわくmoralityは、right(正しさ), prudence or policy(熟慮または公からの考慮),それに aethetics(品性、美徳)という価値をその人にもとめられており、それを社会も、自明のこと、つまり道徳の存在として受けいれる了解が前提にある。 そのようなAxiology(公理論)を成熟した民主主義社会では、受けいれている(べきである)と考えたのであった。
筆者が、彼の考え方で、特に関心をもったのは、ものごとの価値を捉える出発動機(initiation)は、先ずは個人”individual”であり、背景の社会としての価値はその次の共有に関するもので順は後にあることであった。これは、上にも述べたが、西洋の近代の共通の思考基盤であるともいえる。
そして、もうひとつは、彼のイギリスの思想のながれである経験主義の特徴であり、また彼の発想は、基本的にここに立つ。これは、カントの認識論哲学のように、ひとが自由意志のもとで知るという認識活動は、自分自身と境界を為す「超越」からくる直観a prioriであるという前提を取らない。経験主義では、あくまでも「その人」が、事態に直面して、場合によっては関与し、対象からの知覚(悟性)からの経験知を経て、そののちに判断する哲学的態度であった。その判断とつぎの行動については、 事態を 冷静にdisposition(晒す)する必要性があるという基本姿勢であった。[4] このことばのイメージとしては、軍隊のように粛々と準備をするという意味が合っているかもしれない)
これについては、この節文で、日本はいつもSAとして公衆にあらわれて、騒いで、あとは、そのまま課題対象として忘れてしまう。あるいはそれでお終いということになるが、如何であろうか。筆者はそう実感している。 SAが報道されているときは、世の中は、賛否両論で、”an emotion of blame”は大いに沸いて騒ぎ立てる、その意味ではdisposeといえるかもしれないが、それよりもexpose(曝す)であろうか。しかし、ミルがいうように、たしかに、その感情は、一過性の熱病の一時を経て、自然と冷える。それを、しずかに待っている人たちも、しずかにさせまい人たちもいるが、一般は、そのemotionは減衰しているという図である。 このdispositionの発想のヒントは、19世紀の科学技術の革命において、発明の初期の関心のブーム去って、忘れかかったころに、社会が受容すべく颯爽と成熟孵化して登場するアナロジーが、国の政治経済制度への適用にも意味あることを予見したともいえようか。 ミルは、このdisposition(晒し)が、民主主義社会において、意味をもつ効用あるものとしてとらえ、これが解決への知恵を発揮するのは、あくまでも、世論の水準であると考えた。 彼のあった19世紀の英国は、帝国繁栄の頂点にあった。世界に誇る君主制民主主義が定着したなかで、国の権力の中枢は、すでに政府や議会にあるのではなく、報道メディアにあることを見抜いている。情報の公開原則を説くが、しかし大衆世論の水準は低く、また時に暴力的であることに、将来への危惧を抱いていたのであった。
そこでの大衆のmoralityの知的向上と判断の成熟が、必須の前提であるとして、教育をふくめて、知的社会連携のための思考を展開し、後世に多大の影響を与えたのであった。
彼のmoralityの思想は、現在では、アメリカにおいて、Consequentialism帰着主義へとつながり、たとえばJohn Rawlsなど morality(モラリティ) =rationalism(合理主義) ⇒ human fallible(人間は誤謬するもの) and correction open(修正を前提に進める) ⇒ support to innocent and handicaps (弱いひとを支える)= morality(モラリティ) = …)のサイクルとしてmoralityを捉えている。 この稿の時点で、英国は、ヨーロッパ共同体(EU離脱)を国民投票で意志をきめ、その困難性を、時事として報ぜられているが、かれらのdispositionとしてのプロセスとして、かならずや、なるほどやるねという感嘆の軌道に乗せていかれることに思いを致し、それを見守るひとりであることを付言しておきたい
[1] “John Stewart Mill”, First published Thu.Aug.2016, Stanford Encyclopedia of Philosophy. https://plato.stanford.edu/entries/mill/
[2] John Stewart Mill 19世紀でもっとも影響力のある英国の哲学者。自然学者、功利主義者、自由主義で、彼の業績は一貫した経験主義の相貌の帰着として展開。それは18世紀の啓蒙主義と19世紀に現れたロマン主義と歴史主義を見事に結合した。 著書にSystem of Logic(1843),
On Liberty(1859) など。
[3] Axiology 哲学用語 The theory of study of values or of the nature of value. 語源[Gk. Axios worth ] (Encyclopedia of Britanica Dictionaryより)
[4] disposition 語源[<F<L. dispositto,-onis < dis- away + ponere place]
1Disposingの行為;軍隊のように、整列していること。2. 分配;disposalの状態と仕方;最終配置。 3. 制御:力;通常はatをともなう;at his disposition. 4. 自然の傾向;曲がり;傾向。 5. 生物や非生物の自然傾向。 6.建築用語。用意配置;計画、透視図など、分配から分配されたこと。:(from Encyclopedia Dictionary)
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