朝日記232013 ―随想― 夏は昼寝が一番
初出し HEARTの会 会報No.115、2023年秋季号
―随想―
夏は昼寝が一番
会員 荒井 康全
親愛なるいろはさま
お元気ですか。あさのラジオ体操の行きかえりに他所様の深紅のブーゲンビリアにおもわず暑さをわすれ、息を呑むおもいです。 それにしても世界はきな臭い緊張モードがただよい、それが増幅する気配にこころ痛む日々ですね。この不安を、そしてこの夏もまた特別といわんやの猛暑を払うべしと、スポーツTV中継にどっぷり浸かる。ことしは春のWBC(ワールドベースボール・クラシック)での日本の劇的優勝で、いっきに世界をまきこんでのベースボール熱狂となり、そのスーパースターのオータニOhtani選手の投打二刀流の活躍に沸く。競争や闘争心は‘いきもの’としての基本的本能であり、戦など国と国との争いより、からだと汗をぶつけ消化していく道がある。
ローマ帝国が‘パンとサーカス’で千年治世をまがりなりにも保ったことを想う。青、白、赤、そして黄色の四組で競ったという。
さて、それにしてもしずかになにかに集中したり瞑想することも暑気払いを兼ね、生活リズムのたすけになるのか。
徒然こと ‘夏は昼寝が一番’
さすがに早朝はすずしいのでこの時間帯が、思考を集中させものごとに当てることをねらう。とくに、手紙出しや洗濯やかたづけなど、日常の身の回りことが意識に浮上するまえに、純粋に目にはいり、読み、その内容に入っていけるときがある。大体 寝覚めのタイミングがそれに向いている。
目下の焦点は、ゲーデルの不完全性定理としています。大学の図書館から放送大学のテキストで「数学基礎論」というのを借りる。この本は、過去、2013年1月17日日付で借りて4月ごろまで借りる。返却期限票に記録がのこり、時の流れの速さにおどろく。
‘こころのOS'とアルゴリズム・パラダイムについて
ご承知のようにコンピュータのプログラムは、その計算手順を機械にあたえ、計算実施をするもので、その論理の表現手段をアルゴリズムと呼ぶ。これは、20世紀の始め、ドイツの大数学者ヒルベルトが公理主義論的な数学論によって、人の論理知は公理として数学形式知に変換され、論理演算されるべきであるという大構想である。その変換は当然無矛盾性で、かつ完全性なものに至るという。その大構想が1920年ころ、若い数学者クルト・ゲーデルがかれの名を冠する「不完全性定理」によって、否定された歴史がある。数学論理に頼っていても正しくないことに行きつくということで、数学自体以上に人文社会系への衝撃が走る。この経過は、林普 八杉満利子・解説『ゲーデル「不完全性定理」』(岩波文庫)に大変やさしくまた的確な説明があり、参考になる。ただ、ゲーデルの論文が本題の本であるが、これが数学基礎論の前段素養がないと、最後のところで歯が立たない硬さを思い知らされる。そのままでは、情けなくあり、ちょうどこの夏の暑さしのぎに挑戦したのが、冒頭の「数学基礎論」の再取り組みとなる。
こういう本を読むときの自分とのたたかいは、本の記述を読み続ける意識限度を見定めておくことと思っている。意識が散漫になったら、迷わずに、目を離す。
そしてできれば眠ってしまう。目を覚ましたら、すぐ取り組む、そんなのがよろしいようで、今朝は三時半ごろに目が覚めたので、一気に取組み、最終のゲーデルの定理まで読み通す。
これで記述している分の理解ができたかというとまったくだめ。しかし、見通は得られ、やったかという感想は残る。
ところで、ゲーデルの不完全性定理は、一方の応用数学上の歴史では革命的な進歩を人類に拓いたといえる。フォン・ノイマンの外部記憶型計算機、テューリングの機械計算原理、チャーチのアルゴリズム論理、さらに加えるとノバート・ウィーナの負帰還情報制御理論で、いまの情報システム社会に繋がったとみる。その根底は、数学的記述としてのモデルと、解法としてのアルゴリズムの科学哲学であったとみている。
林晋らの解説は、しかし一読に価すると思う。林は、やはりヒルベルトの公理主義的な形式数学が、数学の王道として揺るぎないこと、ゲーデルの話はその王国の辺境でのトラブルとして、ある意味で毅然として存在し、力に富むものであると解説する。学部のころ、大学の数学とは何に役立つのか、単に数理哲学的な知的満足だけではないかと避けて通ってきた。
応用分野の著でも、公理、定理、証明で埋まっている本が多く、自分が知りたいことに隔靴掻痒の思い。
ご記憶でしょうか、日本の一農機メーカーの創業者の方が、アメリカのワイリーの工業数学などを、ガリ版で翻訳出版されたのが始まりで、この本が、日本の
若い技術者の数学応用能力を飛躍的に向上させる。個人的なことで恐縮ですが、後年、米ウィスコンシン大学大学院化学工学での応用数学の履修では、たとえばヒルデブランドの応用数学(Advance Calculus for Application)や、ヘンリー・マージナウとジョージ・マーフィーの物理と化学の数学(Mathematics of Phyics and Chemistry)でした。この洗礼を受けたことがその後の人生を一変させたという個人的事情も残す。
肝心なのは、日本の学部での公理、定理、証明で囲った解析学あたりで、ずいぶん時間を無駄にしたなという思いが強い。多分、なにを知るか、何に役立つかという問題意識の欠如であったのであろうと、反省するが、「数学の王国の辺境」での数学が、今のアルゴリズム数学であるとするなら、いまの数学者の方が逆に「辺境」にいて鎮座しているのではないかと、土地勘の乏しい私には、思えるのだがいかがでしょうか。(岩波「数学辞典」でもアルゴリズムの記述は半ページほどもない)
今回の投稿の中心のひとつであるアルゴリズムについては、デイヴィド・バーリンスキ著 林大訳 「史上最大の発明 アルゴリズム ~現代社会を造りあげた根本原理」。
2012年ハヤカワ文庫が大いに刺激を与えてくれたことを申し添えておく。
本文をまとめますと、数学の本を読むのは、夏の昼寝のあとが一番とします。
いろはより
数学に苦手意識が強いのですが、作家の新田次郎と藤原ていの御子息の藤原正彦が、数学の美しさを述べており、私には絶対にその美しさを感じることができないのだと思うと、悔しいような損をしたような思いがします。
最近アルゴリズムという言葉をよく耳にするようになりました。踊りだしそうなラテン音楽的な響きの言葉ですね。非常に感覚的な捉え方ですが、パソコンをタイピングする音に刺激を受けて、思考を巡らしていると感じるときがあります。
静かに走る車に、わざと音を加えて走行を知らせるような工夫もされている話を聞きました。音が人の感覚を広げていることを感じます。しかし音のないコンピュータ処理が粛々となされた到達世界はどんな様相をしているのでしょうか。
曼荼羅図には胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の両界曼荼羅があります。また、平面ではなく仏具を使った立体で表すこともあるそうなのですが、数学の美しさというものはひょっとしたら曼荼羅と共通する法則で並んでいるのかもしれないと漠然と想像しています。
絵 荒井康全
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