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朝日記240721 Wiki英文翻「可謬主義」つづき1

2024-07-21 17:31:18 | 絵画と哲学

Wiki英文翻「可謬主義」つづき1

表紙へかえる;朝日記240721  Wiki英文翻訳 「可謬主義について Fallibilism」

 

1.無限回帰と無限進行 Infinite regress and infinite progress

哲学者  Scott F. Aikinによると可謬主義fallibilismは無限回帰が欠落the absence of infinite regress.[6]場合には適正なる機能を起こしえないというものである。その意味は、  Pyrrhonist派の哲学者 Agrippa に通常帰せられるが、すべて人間の探求human inquiryからの避けがたい出力inevitable outcomeであるべきであるという議論になる、それは人間すべからく、提案every propositionというものは正当化の手続きjustificationが要求されるからである。[7]    

無限回帰Infinite regressは回帰論 regress argumentのなかで取り扱っているが、臨界問題 problem of the criterion および  Münchhausen trilemmaの構成要素constituentが密接につながっている。

代表的な例としては、無限回帰とみなされるものとして、宇宙論的論議 cosmological argument亀の全方位丘下りturtles all the way downそしてシミュレーション仮説simulation hypothesisがある。

多くの哲学者は無限回帰にともなってついてくる形而上学的内包metaphysical implicationsと格闘する。この理由のために、哲学者はその回帰を止める探求において創造的creativeになった。

17世紀において、英国の哲学者 Thomas Hobbes は「無限回帰」"infinite progress"の概念を前面に置いた。

この意味によって、Hobbesは人間の性向を完ぺき perfection.[8]への努力にあると捉えた。

  Gottfried Wilhelm Leibniz, 、Christian Wolffのような哲学者および Immanuel Kant はこの概念をさらに洗練させてきたようである。

そのKantでさえ、不死の生体種 immortal speciesにおいては完ぺき性への受容の展開力のの仮説可能性についての見解に動いたのであった。[9]

 

350 B.C.Eにおいてすでに、ギリシャの哲学者  Aristotleは可能力potentialと実際上の無限性 actual infinitiesとの間の差異を行っていた。

彼のこの言に基づいて、実際的無限性actual infinitiesは存在しないとした、なぜならそれらは逆説paradoxicalであるからとした。 Aristotle は考えた、人間は有限集合finite setsにたいしてその要素を無限にくわえ続けることは不可能なことと考えたのである。  

 これが彼をして、Zenoの逆説Zeno's paradoxes.[10] を拒否することにつながったのである。

可能的無限性potential infinitiesの適正なる例としては Galileo's paradox  と  Hilbert's hotelの逆説 が思い当たる。

無限回帰infinite regressと無限進行infinite progressの概念こそがそれらをして可謬主義を保持し、これを活かすことになるのである。

 Elizabeth F. Cooke教授によれば、可謬主義fallibilismは不確定性uncertaintyを内包embraceしていること、そして無限回帰infinite regresssと無限進行infinite progressとは人間認知力human cognitionにおいては不幸なる限界となるのではなく、むしろ知識獲得 knowledge acquisitionの触覚となると。 

それらはわれわれに機能的functionalにして意味meaningfulある生命livesを与えるのである。[11]

 

 

2.臨界合理主義 Critical rationalism

 

Main article: Critical rationalism

 

The founder of critical rationalism: Karl Popper

 

二十世紀の中葉において、幾人かの重要な哲学者が論理実証主義 logical positivismの基盤を批判しはじめていた。 

彼のその著The Logic of Scientific Discovery (1934)では、 Karl Popper 、臨界合理主義critical rationalismの祖であるが、かれは科学的知識scientific knowledgeというものは帰納的原理inductive principleからよりも変造偽造する推測falsifying conjecturesから成るのであり、そして可謬性falsifiabilityこそが科学的提案scientific propositionの判断基準criterionであると論じたのである。 

すべての主張all assertionsは臨時的provisionalのものであること、かつ、従って自然科学 natural sciences.[12]のもとで認証grantedされるために、ひろく取られた結果のあらたな証拠new evidenceのひかりのもとで見直しrevisionされるべく開かれたopenものであるべきであるという要求claimである。

さらに Popperは彼の臨界的合理主義critical rationalismを規範的normative かつ方法論的理論methodological theoryとして擁護したのであった、すなわちこの理論こそが、知識がはたらくためには、いかに 客観的objectiveであり、かつ心情独立mind-independentにあるべきかを教えるものであるとした。   

 

ハンガリーの哲学者 Imre Lakatos はその線引きdemarcationの問題を規範査定問題problem of normative appraisal.として言い換えることによって理論を構築したのであった。 

Lakatos' and Popperの狙いはおたがいに似ていた、それは変造偽造性falsificationsを正統化justifyしうる規則rulesをみつけようとするものであった。

 Lakatosはしかしながら指摘した、それは臨界合理主義critical rationalismのみが理論theoriesの如何様なる変造偽造化falsifiedされうるかをしめすことができること、しかし、それは臨界合理主義critical rationalismにおいてのわれわれの信念beliefがどのように正当化justifiedされうるかは、省略omitsしていたのであった。

その信念beliefは帰納的証明原理inductively verified principle.[14]を要求してくる。 

 Lakatosは Popperに変造偽造化原理falsification principleが、帰納性inductionを内包していないときは正当化できないことを受け入れるよう迫ったとき Popper はそれに動じなかったのであった。[15] 

 

 Lakatosの合理主義 rationalismへの臨界的態度critical attitudeは、彼が斯く呼ぶ臨界的可謬主義critical fallibilism.[16][17]のための象徴emblematicとなってきたのである。  

臨界的可謬主義critical fallibilismは鋭く教条主義dogmatism に対立している一方で、ごく限られた分限の教条主義dogmatismをゆるしているといわれる。[18][19] 

 Lakatosでさえ彼自身はその過去において臨界的合理主義者critical rationalistを通してきたのであるが、それは彼自身が 帰納主義者幻想inductivist illusionに反発しているときのことであった。そこでの幻想とは必然性consequencesからの真truthこそが公理axioms を正統化justifiedしうるということを指していた。[16] 

まとめると、LakatosとPopperはふたつの立場の中、それぞれ一回ひとつをとったであるが、両者とも可謬主義fallibilismと合理主義rationalismに向かう二つの臨界的態度critical attitudeを保持し、その間を振動していたのである。[15][17][18][20]  

  

 

 可謬主義Fallibilism もまた哲学者  Willard V. O. Quineによって採用されてきたが、その目的は、いくつかあるが、 分析と総合言明analytic and synthetic statements.[21] 

との間の区分に向け攻勢をかけるためであった。

英国の哲学者 Susan Haack は Quine に同意して、可謬主義fallibilismの本質がしばしば誤解されていると論じた、なぜなら、人々は誤った提案fallible propositionsを誤てる機関fallible agentsとして、またその逆をふくめて混同する傾向があるからである。  

彼女は、主張した、それは論理logicというものは見直しrevisableができるものであること、その論理に分析性analyticityが存在しせず、そして必然性necessity(または 優先性 a priority )が存在するからといってそれを以って論理的真logical truthsへとは向かわないという意味の主張なのであった。

彼女は斯くしてその提案propositionsそのものが、論理logicにおいて無謬infallibleを確信convictionすることに反対するが、同時に、agents機関の方は可謬fallibleでありうるとした。[22]

臨界的合理主義Critical rationalist Hans Albert はどのような真truthもそれが確実性certaintyであると証明することは不可能であることを論じた、それは論理的logicにも、また数学的mathematicsにでもある。[23]  

 

 

3.数学的可謬主義  Mathematical fallibilism

 

Imre Lakatos, in the 1960s, known for his contributions to mathematical fallibilism

 

 

Imre Lakatos,は1960年代にmathematical fallibilismへの貢献で知られている。

 Proofs and Refutations: The Logic of Mathematical Discovery (1976)では、哲学者 Imre Lakatos  は数学的証明mathematical proofsを実施した、それは彼がPopperian "critical fallibilism".[24] 「ポパー臨界可謬主義」とよぶものである。

 Lakatosの数学的可謬主義mathematical fallibilismは一般的見解としてつぎのようなものになる、すべての数学定理 theoremsは誤りになりうる。[25] 

 数学的可謬主義 はHegel, Peirce, そしてPopperのような哲学者によって保持された伝統的見解から乖離する。[16][25]

 Peirce は可謬主義fallibilism を導入したが、彼もまた我々の数学的信念において我々は間違いを起こす可能性を織り込んでいたように見える。[2]  

 

 Mathematical fallibilismは、いま、数学的推測が真であると証明し得ないときでさえ、我々は真へのよき近似もしくは推定の何かを考えてよいという姿勢をもつために現れるものである。

この緊迫性 verisimilitudeともよばれるものは我々をして、数学における固有の不完全性 incompletenessの最中においても整合性を与えるのである。[26] 

数学的可謬主義Mathematical fallibilismは  擬似経験主義quasi-empiricismとは異なる、 後者の擬似経験主義が帰納主義 inductivismとの連携をしない、その先への展開していくのであり、様態としては集合理論 set theory.[27] の基盤核心的重要なものであると考えられる。

数学の哲学において、可謬主義fallibilismの核となる概念は非決定性 undecidabilityである(これはisostheneia,ともまたがは "equal veracity"(等しく信じられること)という観念にも似ている)[25]

用語としての非決定的"undecidable"にはふたつの種類がある。

最初のは 連続性仮説continuum hypothesisに関係している、これは  1873年に Georg Cantor[28][29]によって提案されたのである。 

連続性仮説continuum hypothesisは無限集合infinite setsの性質としての非決定的解undecidable solutionsを許すものとしてあらわれたのである―その解とは或る構築的宇宙constructible universe では真であるが、他では誤りであるといったものである。

双方の解は 選択公理axiom of choice( ZFCとも呼ぶ)と結合した Zermelo–Fraenkel set theory axiomsからは独立independentのものである。

この現象はこれまで(連続性仮説からの独立性)independence of the continuum hypothesis.[30] と呼ばれてきたものである。 

この仮説とその否定とも ZFC 公理と整合していると考えられている。[31]

沢山の注目すべき発見が連続性仮説の確立に先行してきたのである。

 1877年には、Cantorは対象化論議diagonal argument を導入して、二つの有限集合の基数性 cardinalityは等しいことを証明した、これはそれら一対一対応  one-to-one correspondence.[32]をさせたのである。 

 

対角化は Cantor定理Cantors theoremにおいて再び登場した、それは如何なる数え上げ集合countable set の 冪集合power setも、さらに高次の基数性higher cardinalityをもたねばならないということを証明するためであった。

その 冪集合の存在性はその公理axiom of power set において仮定されていたのである; Zermelo–Fraenkel 集合理論の活きた部分である。

1899年には Cantor's paradoxが発見された。

それはつぎの仮定である、there is no set of all cardinalities.(すべてが基数である集合は存在しない)というものである。[33]

二年後に博覧強記なる学者であるBertrand Russell(polymath Bertrand Russell )は  普遍的集合universal setの存在性は無効であると示唆する。これは Russellの逆説Russell's paradoxから来るものであった、その逆説とはno set can contain itself as an element (or member).(いかなる集合も それ自身を一要素として含むことはない)というものである。

 

この普遍集合universal setとはaxiom schema of separation 公理または  axiom of regularity公理を使うことによって否定されるものである。 普遍集合universal setとは対照的に、 冪集合power setではそれ自身を包含containしないのである。 

それは数学者  Kurt Gödelが証明する1940年まで待つことになったのである、それはいわゆる  diagonal lemma を適用することによってなされたのであって、

連続性仮説continuum hypothesisは拒否され得なないというものである[28]、そして1963になって力量の高い数学者 Paul Cohenが、 forcing方法を通じて、continuum hypothesis連続性仮説もまた証明し得ないということを顕わにしたのであった。[30]

この疑いの感覚sense of suspicionは、 ZFCの整合性に対する強固な信頼に結びついたもとで、 数学的可謬主義mathematical fallibilism.[35] と気脈を通じているものである。

 

 

数学的可謬主義者Mathematical fallibilistsは新しい公理、それはたとえば射影的決定性の公理axiom of projective determinacyが、ZFCを改良してくれるかもしれないとする、だがしかし、これらの公理は連続性仮説continuum hypothesisの従属性dependenceのためには使えないのである。[36]

非決定性undecidabilityの第二番目の種類は、計算可能性理論(もしくは再帰性理論) computability theory (or recursion theory)との関係において使われるのである、これは単なる声明文statementsではなく、特定の決定問題decision problemsに適用される;決定可能性decidabilityの数学的設問なのである。  

非決定問題undecidable problem は計算問題computational problemの典型であり、そこでは設問の無限集合countably infinite setsがあらわれる、それぞれが有効なる方法 effective methodを要求してくる、その方法とは出力an outputがイエスかノー"yes or no"のどちらかを決定するためにあって、そこには正しい答えを常に提供するような計算機プログラム computer program または チューリング機械Turing machineも存在していないのである。

どのようなプログラムもときには誤った答えを与えるし、またいかなる答えにも到達せずに永久に計算続行することになろう[37]。非決定性問題undecidable problems の有名な例は、 halting problem 、 Entscheidungsproblem そして  Diophantine equationの非解到達性である。

通常的には、非決定問題undecidable problemは再帰集合recursive setから引き出されるのであり、これは非決定言語 undecidable languageで式化されるのであり、そしてTuring度 Turing degree.[38][39]によって測らさるのである。 

非決定性Undecidability、これは計算科学 computer science と数学的論理mathematical logicに関してであるが、これもまた非解性unsolvability もしくは非計算性non-computabilityとも呼ばれている。

非決定性undecidabilityと非確実性uncertaintyとは単一でも同一でもない現象phenomenonである。数学定理というものは、形式的に証明することを可能にするが、数学的可謬主義者mathematical fallibilistsによれば、残念ながら未だに定理は与えられないままにある。[40]  

たとえば、いま連続性仮説continuum hypothesisの独立性の証明を取り上げよう、もしくはさらに基盤的に、対角項論議diagonal argument.の証明を考えてもよい。

この節の終わりにあたって、非決定性undecidabilityの種類は可謬主義fallibilismへのさらなる微妙なるニュアンスを加えることになるが、これらは基礎的な思考実験thought-experiments.[41]を与えることによってである。 

 

 

4.懐疑主義の哲学 Philosophical skepticism[edit]

主課題 Main article:  Philosophical skepticism

 

 

可謬主義Fallibilismは局所的もしくは全体的な懐疑主義と混同されるべきではない、懐疑主義skepticismとはどのような種の知識も未達unattainableという思想viewである。

しかしわれわれの知識の可謬性fallibilityは―それがいかに厳しく試験に堪え得た想像から得た理論や見解ものであったとしても その知識すべてが想像から得たものということをもって―懐疑主義や相対主義の軍門のもとの位置付けで記述されてはならないのである。

 

 

われわれが誤りをおこす事実から、そして我々を誤まりから守ってくれるような真があるとしても、その判定基準criterionが存在しないという事実から、理論選択が任意であってよいとか、非合理であってよいということにはつながらない;またわれわれが学ぶことができないということにも、真理により近づくことができないことをも意味しない;知閾は成長しないということも意味しない。

 

可謬主義は正統(適法)とみとめた認識legitimate epistemic が、正当(根拠)性justificationsにおいて誤った信念beliefsへ導くということを主張しているのであり、一方で学術的懐疑主義academic skepticism は正統なる認識であるからといってそれが正当など何も存在しないことを主張している(acatalepsy認識不可能性)。 

Karl Popperはいう;

可謬主義はepochéや、判断の保留とも異なるものであり、 そのことは  Pyrrhonian skepticism への意味するものとつながるのである。

 

5.限界判断主義 Criticism[edit]

 

ほとんごすべての哲学者は今日、そのことばの意味において可謬主義である。知識に絶対的確実性を求めるものはなく、また科学が主張することが非修正のものであることを否定するものはいないが、21世紀においてある哲学者たちは非可謬性(つまり絶対性)知のための論議を続けている。[42][43][44]

歴史的には、西洋の哲学者のおおく、 Plato  から Saint Augustine ,René Descartesまである人の信条human beliefsは非可謬的知infallibly knownであることを論じてきた。

 John Calvin は他の信条へむかう種の神学的可謬主義theological fallibilismを取り入れた。[45][46]  

尤もらしい信条beliefs候補は論理的真logical truths(「Johnは民主党員であるかまたはJohn民主党員ではない」)、一見immediate appearances(「わたしがみたのはブルーのリボンだったようにおもう」)、そして頑固incorrigibleなる信条(「私は考える、したがって私は存在する」)がそれである。[22] 

しかしながらその他の多くの哲学者は可謬なる信条でさえ取り入れてきたのである。

 

 

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