朝日記190204 スタンフォード「集合体責任 」(その1-B)
~~~~~本文
•2. Making Sense of Collective Responsibility: Actions, Intentions, and Group Solidarity
集合体責任の意味について:行為とグループとしての一体性について
集合体的責任 collective responsibility, (ここではCRと略す)について記述するほとんどのひとは、CRが、それが、唯に、ある塊(かたまり)的な現象[1]としてなら、感覚的に受け入れることに合意する。
おおくの場合に、この文脈では、懐疑が支配する。つぎの二つが重大である。
第一は、グループは個人とは異なり、意図を形成することができない、そして、したがって、グループそれ自体として行動したり、もしは 危害を起すとは理解し得ない。
第2に、グループが、個人のメンバーとは別に、道徳的責任を要求する感覚を持ち、その道徳的けん責を、理解することはできないということである。
双方の要求とも、古典的方法論的個人主義[2]の流れとしてMax Weber (Weber 1914) とH. D. Lewis (Lewis 1948)が代表であり、それぞれCRへの拒否の立場をとり、注意深く取り扱った。
Weber (Weber 1914)は Economy and Society Vol. Iにおいて次のように論じている、すなわち、CRは何ら意味をもたない、なぜなら、我々は本質的に集合体行動を個別化できないからである。それは沢山のひとが同じ行動するのとは異なるものであり、またグループに属する個人とは別に、グループが、グループとして考えたり、あるいは通常行動において、必要と考える種類の思考から意図を形成することが出来ないからである。
H. D. Lewisは、彼の方法論的個人主義での一貫論述として、他者(他者たち)による道徳的不在や乱暴行為に対して、その非難の対象はあくまでも個人であると捉えている。
Lewisは書く;価値はその個人に帰属するものであり、そしてひとえに、道徳的責任の受け手はその個人である。
如何なるものも、彼自身が悪いと考えている行為[3]に関係している場合を除き、道徳的罪悪感はありえない…CRは、野蛮である。(Lewis 1948, pp. 3–6)
しかし、現代の批評家は、一般に、CRについてはLewisがCRをして野蛮主義というレベルまでには、踏み込んでいない。
しかし、かれらは、一般には、グループ意図について、本質的に集合体行動可能性があるのかについて、彼らの先輩の懐疑主義を尊重する。
同様に、彼らもまた、個人(たち)がいまそこに居て、彼ら自身が直接危害の原因でなく、または危害を意図的にもたらすことをしていないとしたとき、そのような個人(たち)にCRを帰することに(論理構成上の)危惧をもっている。
Stephen Sverdlikは言う:我々が複数のひとによって、あるいは単一のひとによって、生み出された結果を考えよう、その行為の当人がその結果を産む意図がなかった場合、あらわれたその結果に対して、その当人を非難することは、公正ではないとは言えない。(Sverdlik 1987, p. 68)
彼らは要求する― 本質的に集合体行動は不可能であり、そしてそれは、意図したのではない危害に対して、その機関agentに、道徳的けん責を考えるのは非公正である― この規範要求は批判者の鍵となる位置として残る。
双方とも意図の重要性に関心がある。
第一には、行動は― 彼らが個人であるか、集合体であるか―いずれにしても 必要条件として、意図から始まること。(他の場合では、それは、行動ではなく、単なる行為の類である)
第二には、道徳的けん責にはその根源があり、悪しき意図の存在が必要条件であること―または、最低でも道徳的欠落があり― これは責任をもつ者の部分である。
第一仮定は、すべての行動は意図で開始するものであるが、この仮説は研究者には非常に有益である、なぜなら、それは、彼らをして、グループ意図が、集合体の行動の定義として、またグループ意図をして、CRの必要条件とならしめるからである。
J. Angelo Corlettの集合体行動定義が典型である;
コーレットによれば、集合的意図行為[4]はその集合体を主体[5]としての行動[6]であり、その主体とは集合体の意図を負う機関[7]agentである。
集合的行為behavior は一つの集合体結果としておこる行為であるが、それを意図の結果としない。
集合的行動collective actionは、その集合体自体の信念と願望(欲望)によって起因するものであって、そのような信念や願望が、個人主義的意味において、その起因を問うは当たらない。(Corlett 2001, p. 575)
第二の仮説は、あらゆる種類の道徳的けん責moral blameworthinessが、道徳を負う主体機関agentに、その危害を起す悪しき意図の根拠土壌があるとする。これは、CRは、そのグループをして、その意図はないとしても、そのグループが悪しき意図を持っていること、もしくは少なくとも道徳的誤りにあることを明らかにすることを可能にするので、この分野の専門家を納得せしめるものである。
個人のメンバーとは別に、グループとして悪しき意図をもっていることを如何にして理解するのか。道徳的誤りであることが如何にわかるのか。 あるひとつの道徳的な性格を取り上げるときに、それが誤りであるのかそうでないのか。別な言葉でいえば、グループが道徳侵犯、罪意識、もしくは恥辱の適正な受け皿[8]であることを、どのように理解にいたるのかである。
専門家の大半は、この段階でのつぎのいずれであるかの証明に集中する;ひとつは行動というのは個人と独占的につながるものであり、グループではないことを証明すること、
あるいは、そのグループ自身は、こころmindをもたず、意図の形成として要求される感覚選択や信仰を保持することはできないことを証明することにある。
ルイスH. D Lewisは、CRについての1948年批判でこの二つの点を取り上げることに集中した。 同様にJ. W. N. Watkins (1957)であった。 後に方法論的個人主義者であるAlvin Goldman (1970), Stephen Sverdlik (1987), J. Angelo Corlett (Corlett 2001), さらに Jan Narveson (2002)がこの点に加わった。彼らは、先人とは異なり、ある限られたケースではCRが意味をもつという方向へ動く。
しかし、一方で、道徳的構造としてCRを、これを実体存在している生命体での単純的事実を認めることからくる困難性の方にもまた、注意をひくことにもなった。
C Rの研究者は、CR行動の本質に関心があり、道徳的けん責の関心が幾分、少なかった。
しかし、かれらは、ときに、グループのメンバーと切り離して、グループの道徳けん責性blameworthinessにつなげることの適正さについて注意を払っていた。
R. S. Downieは、他の研究者のなかで、道徳的責任として非常に伝統的な概念は何であるかを明らかにすることに注目を置き、集合体は道徳的誤りは持たないと論述する。それは、集合体は道徳的選択を行わず、従って、かれらに道徳的責任を帰するされるは相応しくないとしたのである。
道徳的責任があるところには道徳的誤りの決定を含むけん責性blameworthinessは存在すべきであり、そしてこれは個人レベルでのみ起きる(Downie 1969, p. 67)。
Jan Narvesonは、さらにこの文脈で掘り下げ、つぎを論じた;道徳けん責性を負う者は個人であるべき(have to)であること、なぜなら個人のみが道徳的意図を負う機関agencyを持ちうるからである。「個人以外には、文字通りに、十分な責任の保持者であることはできない」と記した(Narveson 2002, p. 179)。
「文字通り」“literally”は、CRについて書く者に対しては意味があるものである。 それは、Narvesonその他のひとたちの意味感覚を共有する人たちとは、反対側にある。
(「文字通り」“literally”派)は、我々が、最終的には道徳を負う先として個人主体機関individual moral agencyとし、この隠喩的術語のなかでCRの意味感覚を作り得るかもしれないというものである。このなかでは、主体機関起因agent causationと道徳的けん責性blameworthinessの両方を含み、伝統的に理解される道徳的責任と適合させるグループ主体機関group agencyへの隠喩となるものである。
CRの擁護者は、上の要求を顕わにするために、また、ある場合でのCRの可能性、そして知的構築としてのCR起因の可能性を、正当化するために様々な哲学的な戦略をおこなう。
我々の戦略のひとつとしであるが、実際上はいつもグループを非難すると同時に、方法論的個人主義[9]では分析することが困難な道筋で、グループ非難を単純に続けることである。。
David Cooperは、このなかにあって、この戦略を使い、CRについての彼の用語に大きな手応えを得ている。
Cooperによると、「認識されるべきあきらかな点があり、責任が個人としてのひと[10] と同じく、集合体へも帰着することがある。けん責態度は集合体の上にも、個人に上にも向けられる。」(Cooper 1968, p. 258.)
Deborah Tollefsen (Tollefsen, 2003)は、たとえば、怒り、憎しみ、そして道徳的な憤慨へのさまざまな反応を表わす事実に焦点をあて、照準を合わせる。
彼女は論じた、このような態度の意味を如何に納得するか。
我々の感情はここで暴発することになるか、あるいは我々の態度が実際にグループ自体に向けられる以上に、グループのメンバーに向けられることを、単純に位置づけるかは、その状況では意味が分からないという。
代わりに、次のことを認識しなければならない、道徳的責任の実際のうちに(a là Strawson)、グループがモラルの受け先となる能力あり、そしてモラルでの競合を発揮する。
しかし、もちろん道徳的責任についての我々の実施は、その基礎となっている反応的な態度と同様に、正当化されないかもしれない。
Cooperは彼自身、ここで使う言語やけん責する態度がともに誤った道案内になることを認めている。
かくして、彼らは、実際に集合体へ、けん責を帰着することでなく、むしろ集合体のけん責は個人のけん責の用語では分析しえないことを証明する必要のあることに気が付いたのである。
Cooperはけん責の特定のケースを調べることにより、プロジェクトを立てる、たとえば、グループにのみ接続するスポーツクラブの人々や、国をケースとするような場合である。
Cooperによると、我々が集合体がどのような行動をとるかを見るときに、集合体をして機能できる提案として言明するか、その反対であるかで見るのであり、特定の個人からの言明からは推論できない。
「これがそうである、なぜなら 集合体の存在はメンバーが交代している状態で整合するからでる
集合体の存在のためには、個人の決定的な状態設定は必要としない。」と彼は論じる(Cooper 1968, p. 260).
同様な脈筋で、Peter Frenchは、彼は満足しているが、集合体についてのみ真であることができると断言できる範疇[11]に焦点を当てる。
Frenchによれば、個人について真であるとは全く言い切れない範疇があって、それは集合体についてのみ真である。
そのような断言の例は沢山ある。…「解散」‘disbanded’(「もっとも多く使われ」。)「サッカーでまけた」‘lost the football game’、「大統領になった」‘elected a president’、そしえ「修正案が通過した」‘passed an amendment’.… .,方法論的個人主義者はこの文脈では手足が出ないであろう(French 1998, p. 37)。
この文脈でのグループ行動の可能性を擁護するひとの大半は言語分析に拠っている。
しかし、Larry May,のようなひともある、かれらは社会理論の替わりに、実存主義者の伝統に向かう。
Mayは彼自身がJean-Paul Sartreの相対理論を使って論議する、これは、責任をグループに帰する行動を適法にすることができるという理論である。この場合個人は他者と関係しており、彼らがひとりでいるなら可能でないようなことが一緒にいて、行動できる場合である。
Mayは二つの関係を基礎の条件を置いた。この条件のもとで、我々は、遵法的に、ひとつの行動と言うことができる。それは、個人よりもむしろ集合体である行動である―それは、Mayが意味するように (個体の中身が相互に入れ替わる)移行個人体[12]ではなく、関係的なものである。
第一の条件は、当の個人たちは互いに関係づけられており、彼ら自身についての管理することができない方法で各人が活動するような場合である。
第二には、グループのある個人は、そのグループ全体としての行動として彼ら自身を代表し、権威づけている場合である(May 1987, p. 55)。
グループの意図とは何であろうか。驚くなかれ、グループ意図はグループの行動がもつ挑戦性よりも、おおきな挑戦性を与えるのである。
意図は精神状態であり、物事(の種類)ではないので、規範的に考えると、それの分割シェアはありえない考えである。それらはシェアできるものか。
そのなかで、Brook Sadlerを 代表させれば、その質問は古来からの謎である。
「意図が精神的状態であるなら、ある機関agentは実用的な節度と願望において、基本的な役割りを演ずるような状態である。それは、共有化された意図という観念prospectから、共有精神状態を導入することになる。したがってこれが共有精神shared mindsである」―これは哲学者が伝統的にひそかに望んでいたことでもあった。(Sadler 2006, p.115.)
事実、CRが要求する可能性そのものが、集合体としての行動と意図に留まらず、集合体のこころmindという、最大の挑戦のひとつであることを証明したのであり、この可能性が、CRの概念を保持ししていくのである。
グループは合法的に、信念や、ある特定のケースでのこころmindの性格的状態をもつということができる。たとえば、そのグループがそのような信念で組織されている場合である。
そこでは、個人メンバーのmindこころの形成の行動は見えても、グループとしてのmindsがあるようには、表からみては見えない状態がある。
David Sosaは論述する、「グループはひとつのこころmindもしくはそれからの派生する意志willを持つと言ってよいであろう:そのグループのメンバーで、そして同じグループのこころmind(それは、いかなる意味においても、ひとつの、その信念と願望をもつもの)である人たちは、そのこころmindsから誘導されるしかるべき存在種である。」(Sosa 2007, p. 215)。
Bratmanによれば、集合体意図で、グループメンバーのなかで共有分有された意図の状態で、集合体のこころmindを、または、その実体として、一元化した道徳主体として語ることを実際に我々に要求するのであろうか、彼Michael Bratmanは、これについてあまり深掘りしないが集合体意図の帰着の見解を展開したように見える。
我々は Jをすることを意図する場合は次の場合であり、またその場合に限る; (1)(a)私は我々がJであることを意図する (b)あなたは我々がJであることを意図する、そして(2)私は我々が(1)(a), (1)(b)のもとで、およびそれ故に我々はJ であり、そしてあなたは、そのように意図する。 (3):(1) と (2)は、我々の間での共通知識である。(Bratman 1999:121)
Bratmanは共有意図を、多重化した個人行動multiple individuals’ activityの秩序化として通常の意図[13]と信念beliefs[14]の結合のパーターンとして捉えた。ここではその行動は個人の意図が時間を媒介し、自らの行動が類似秩序化様態する道すじとして捉えたのである。
ここで、ふたたび、Bratmanは共有された意図は 細網化プラン“meshing subplans.”の案件としてあらわれたのである。
Bratmanによれば、ひとつの「共有された意図 J」[15] では、Jは結合した行動である。そして 「我々それぞれが、われわれはJであるという意図を持ち、そして我々は、われわれの意図のそれぞれの道すじによって、我々それぞれがJであることを意図するものであり、なおかつ、その意図とは、我々がJであることと、細網化された小プランによって意味されるものである。(Bratman 2014, p. 103)
Bratmanは、ここで共有された意図についての非常に説得性のある具体性を与える。それは、個人の機関agencyの計画理論を、秩序化行動の領域として適用することによって、共有機関shared agencyの位置づけし、その実際面での説明をまとめたのである。これによって、さまざまな集合体活動の核心として機関agencyの意味が獲得されたのである。
とはいえ、CRとは、一体何であるか?
ふたつのことが、ここで上げられる。
第一にはBratmanは集合体のこころ[16]については大小の数え上げをせず、代わりに、集合体意図[17]を数えてあげた。
彼は、Shared Agency: A Planning Theory of Acting Togetherで示唆するように、我々はグループ機関[18]の活動としての共有活動を考えることができるが、一方、グループ主体[19]を位置づけることをしないことと明示した。ここで、グループ主体とは、そのグループそれ自体が負う道徳的機関[20]であるが、それを、けん責帰着[21]に必要な主体とはしなかったのである。
上記の二つの点は、つぎのことを示唆する、Bratmanの理論は、さまざまな種類の集合体意図と秩序化行動の理解に非常に有用なみちを与えており、それは共有熟慮と共有化理性[22]の本質を把握する根拠でもあるといえる。一方、それが集合体道徳機関の道徳的責任の根拠や、該当案件にたいして、一体化した道徳的主体の根拠を与えてはいない。この理論はそもそもこの目的のために設計されたものではないのである。
これまでのことから、集合体道徳機関および、または一体化集合体の道徳的主体は、集合体道徳責任の要求とどのように繋がるのであろうか。
興味あることにCRの擁護者はしばしばDurkheim(1895)とSimmel(1971)の仕事にしばしば帰るが、同様に、Sartre(1960)にその精神的刺激へ帰る。彼ら自身分析的位置にあるにも関わらずで、ある。
Margaret Gilbertは、CRの必然性を合法化するために、「多-主体勘定“plural-subject account”」と自らがよぶものを展開した。これは社会的要素でのDurkhaimの理論のなかで彼女のいくつかの論述が基礎になっている(Gilbert 1989, 2000, 2006 and 2013)。
彼女は連結関与について場合に、思考照準を当てている。
Gilbertによれば、グループ意図は、二人以上のひとが、特定の行動を遂行するために意図の多-主体を構成するとき、もしくは 「彼らがAを実行する一つの体[23]として意図に関与するときに、それは存在する」(Gilbert, 2000, p. 22)。
David Vellemanは、この多-主体の一元化的本性を強調し続ける。
かれは言う、「真の多-主体は、二人以上の主体を含むものであって、その主体は単一主体を作るような道筋で結合する(Velleman 1997)。
Gilbertも、そして Vellemanも単一道徳主体には集合体道徳責任が要求されるこをを明らかにした。
一方、この両者は多-主体の見解を我々に強制しないが一方で、ふたつの設問が残す。
彼らの多-主体は、危害をもたらすことへの道徳的けん責が可能であるような種類の一体的道徳主体を構成するであろうか。
もしそうであるならば、道徳的けん責のある種類が一体的道徳主体と連結しているならば、それは個人としての道徳的機関の場合におけるのと同様に集合体の場合でも同じとしてみてよいことになるが、それは善いことなのか。 我々はこれらの質問は本文節5であつかう。
ここでの二つについては次のように言っておくだけで十分であろう:(gilbert自身が認めるように)集合体道徳責任は、一体的な道徳主体が必要であること、および集合体道徳機関には、そこに多-主体の所在locationがあることが感覚的にわかりやすくするが、それが唯一の道すじとはいえないということを付言しておく。
Raimo Tuomela (1989, 2005, 2006 and 2013)は、幾分異なる戦略をCRの擁護に選らんだ。
かれは、「我々は意志する」“we intentions.”と呼ぶものを前に置く。
Gilbertのように、かれは連結関与根拠のうえに集合体主体を建て、これをCRの概念へ適用する。しかし、かれは、Gilbertのように、この主体の多元的性質を強調しない。
かわりに、彼は論じる;集合体意図機関は、個人的意図機関の上に予想以上のことが起こるとするsupervenes。その方法は集合体意図および集合体行動の両方について我々が話すことを許す。
Tuomelaによると、集合体による活動が、その集合体を動かしているメンバーの活動のうえに、忽然としてあらわれる。それは、(彼らの意図、信念や願望のような)特定手段の性質が、体内に埋め込まれて“embodied in”、決定的“determined by”になっているようになる 場合である。その動かしているのは、個人メンバーの性質を通して、あるいはその当該の集合体の代表的なものを通してもたらされる(Tuomela 1989, p. 494。
十分に興味あることは、Tuomelaの試みは、ここでは、代表的主体を置くことによってCRの存在を擁護するものである。 その主体とは、Thomas Hobbesが生み出しLeviathan(1651)という風貌での集合体の主体を思い起こすものである。
Hobbesは一般的に主権を説明することと特に英国の君主の正当性を合法化するふたつの努力をした。ここではその集団communityでのより高い権威を位置づけるものであった―
Leviathanである-、これ自身の意志、そして活動も、その主体のそれであるとして来す。この主体は、彼らが自身の機関を通して、彼つまりLeviathanへ移転した結果としてのものである。さらにこれは、Hobbesの見解からの社会契約においての意味からくる部分であり、その結果として集合体としての生命の存在が付与されることになる。
Hobbesのこの集合体の主体は、そのグループのメンバーを代表するだけでなく、かれのLeviathanのメンバーのような存在を獲得する。
現代のCRの擁護者は、ときに、HobbesのLeviathanを思い起こし、かれらの集合体主体を展開するために使うことを試みる。
しかし彼らは、Hobbesの権威主義のひかりを使って、Leviathanが集合体意志擁護を期待してそのまま従うことはしない。
また、Rousseau(1762)の善意の一般意志をさらに再導入する可能性に戯れることをしない。
彼らはその替わりに、権威主義的ではなく、実体的なグループ意図の道筋― 代表的であるかどうかは問わず― または 伝統的なカントの道徳的概念につながる種類のグループ意図を敢えて論述する。しかし、カントの概念は、集合体の道徳責任へのすべての必要条件の後から出てきたものではない。
Larry Mayは集合体道徳機関についてのかれ自身擁護として、後者の種類[24]につては非常に興味ある論述をしている(May 1987, 2006 and 2010)。
Mayはグループ意図についての上の記述で取り上げた項目[25]の多くが、道徳機関についてのカント派の概念にあまりにも密着したものであるとして、それらを拒否する。
しかし、かれはCRの必要条件としてのグループ意図を見限ってはいない。
また全面的集合体主義をうけいれていない。
そのかわり、彼は、グループ意図をして、独立と彼がよぶことについての理論を、そのなかに繋げるよう形式再構成をし、そして、そうすることによってCRについての外見を展開する。それは、個人主義と集合体主義を結びつけるだけでなく、我々の関心の核である関係性と社会構造をそこに置いている。
この挑戦はそのようなグループ意図が実際にどのように見えるかを記述することになる。
Mayはこの文脈に再度Sartreの業績にむけ、かれのいうグループ意図についての考えを展開した。これは、彼の「予‐反射意図“pre-reflective intention”を位置づける、すなわち「そのグループの各メンバーからの反射がおこる以前での意図」である。」(May 1987 p. 64)
Mayはこの種のグループ意図は、グループのひとりからというよりも、グループの特定のメンバー間での関係から起こるということを明らかにする。
したがって、彼らは、移行個人[26]や集合体という意味のものではなく、全体として個人の上に立ち、「あたかも彼らは集合体であるかのように“as if they are collective”」として扱うことができる。(May 1987, p. 64)
さらに、これらの意図は、個人意図individual intentionsではなく、グループ基盤group-basedであるとMayは明言する。
事実、「意図の同一性は、クループ構造によって興される感覚において集合体的であり、その意味で、グループ基盤 [27]である」(May 1987, p. 65)。
Mayに対する質問は、「意図の同一性“sameness of intention”」は集合体道徳機関のけん責について語るに十分であるかというものである。これはMay自身が他者となってみたときにどうであるのかという質問でもある。
集合体道徳責任の可能性を擁護する人たちの多くが集合体道徳のけん責の条件にまで立ち入っていない一方で、List and Pettit (2011)は、主体についての研究で、その調査として集合体道徳機関について、倫理的、政治的、そして法的な意味での責任の軽重勘定[28]へと入っていった。
List and Pettitは つぎの要素によって道徳機関として要求されるものが合致することを論述する、すなわち、彼らは「代表できる状態にあるか[29]、動機のもてる状態にあるか[30]、そしてそれを実行する能力性[31]があり、その実行においてかれらの根拠に立脚しうる能力[32]があるか」である。(List and Pettit 2011, p. 21)
同様に、彼らは論述する;そのグループが、義務[33]、資格[34]、そして力行使[35]の関係を有していることであり、そしてそれらの関係とは、それまでの状況で、特定化されておらず、そして道徳的喚起を要求するものとしてである。
List and Pettitは、彼ら自身の喚起したことを認識するために多くの貢献をしている、すなわち、我々はこれら義務、資格、そして力行使の関係を現代社会で、種々の制度化[36]へ還元する取組みについてである。
しかし、彼らは集合体道徳のけん責についてのその質問も無視しない。またそのようなけん責がグループ道徳機関から自動的につながるというようなことを、単純に仮定もしない。
そのかわり、彼らが明らかにするのは以下である;グループが道徳的けん責にあるためには、その行動は、「重い案件“grave matter”」と連結しているべきこと;そのグループが「罪意識についての十分な知識“full knowledge of guilt”を持つべきであること、そして、そこには「その罪意識についての十分な知識“full knowledge of guilt”」がなければならないことである(List and Pettit 2011, 155)。
List and Pettitは、これらの条件は、少なくともあるグループには合致すると考える。かれらは正しいか? 彼らは、少なくとも、あるグループが最初のふたつに合致することができる確なる証明を与える一方、我々はもう一度、必要とし、懸念するものは第三の条件である。これが、集合体機関の意向性[37]もしくは制御[38]を保持するものである。
別のことばでいえば、「第三の条件によって興される質問は、ひとつのグループ機関が、その規範的判断、たとえば、その機関の行為へ逼迫性をあたえることを可能にすべきような場合があるが、そのときにその規範的判断が期待できるよう行動に対する制御状態があるか」という質問である。
上のその個人メンバーの上にあるグループは、この制御水準をどのように発揮するか。
List and Pettitは、この質問に答えてはいない。その代り、彼らは、その質問は個人に対してよりも、グループに対して、より深刻ではないと(正しく)指摘する。
この制御の概念は、機関についての十分な理論において分析する必要があるが、この案件は、グループ機関で起こるのと同程度に個人機関でも起こるのであり、それ故に、我々は、ここでは、その分析を求めない。
この挑戦は、我々に対して、機関の制御性とは何であるかを説明するためにあるのではなく、むしろ特別の理由を証明するものとしてのものである。なぜなら、そのような制御は、それが何を含んでいようとも、個人機関と同じくらい、グループ機関において事例化されるべき[39]ものでないからである。(List and Pettit, 2011, 159)
しかし、もし、我々がグループ道徳のけん責の可能性を正当化したいのなら、我々は、その制御案件が、個人のそれより軽いものであると単純におもうことは満足されない。
そのかわり我々は、グループ制御がこの文脈において糸を曳くように、それがつぎに何を持ち来たらすか、そしてそれは可能なのであるかを知らなければならい。
別な言葉でいえば、我々はグループ制御についてのこの種の説明をさらに展開しなければならない。その求められている説明とは、List and Pettitが重要であるとみとめているグループ制御性および彼らが記述する「そのような制御になにが含まれていて」、それを(責任)勘定のなかにいれるかについてである。
List and Pettitが(未だに懸案のグループ道徳のけん責の可能性を離れうるか)を、我々に提供しないが、一方で、彼らは次の重要な二点を作りだす。
第一は、この文脈での制御とは、それがグループの中に、あるいは個人のなかに居住している必要はない。 そのかわり、それは次の二つの場所に同時的に、形を変えて、居住する:「プログラム指示起因“programming causes”」に対する「適用実施起因“implementing causes”」である(List and Pettit, 2011, p. 162)。
第二は、我々が考える必要の件であり、つぎのことである;危害について、そのグループが道徳的責任にあるかどうかについてだけではなく、さらに、我々が危害についてそのグループに道徳的責任を保持すること、さらに、もしそうであるならばどのような条件のもとですべきかについてである。
List and Pettitは、後者への案件への全体的な帰着論的なアプローチを採用しない。
しかし彼らは、我々が特定のケースでのグループ道徳的責任を保持することから、もたらされる積極的帰着を低く見ている。
それは、我々の認識において「いま我々が住む道徳的および政治的世界の真の状況[40]…についての認識」(List and Pettit 2011, p. 185)範囲から、グループのメンバーが危害的行動を放棄すべきであることへの説得する範囲への落としどころとしての帰着、つまり未来でのより責任のある行動をグループのメンバーをして、社会化指向に変わらしめることへの落としどころとしての帰着である。
これについては別節である節6において、これらと他の帰着性について十分に議論
[1] an aggregative phenomenon
[2] classical methodological individualism
[3] conduct
[4] collective (intentional) action
[5] subject
[6] action
[7] agent
[8] appropriate bearers
[9] methodological individualism
[10] individual persons
[11] class
[12] trans-individual(相互が入れ替わる (荒井注)
[13] intensions
[14] beliefs
[15] “shared intention to J,”
[16] collective mind
[17] collective intentions
[18] a group agent
[19] a group subject
[20] group itself qua moral agent
[21] the ascription of blameworthiness
[22] shared deliberation and shared reasoning
[23] jointly committed to intending as a body
[24] (Kantian notionsのことか? 荒井)
[25] accounts
[26] trans-individual
[27] group-based
[28] accountability
[29] representational states,
[30] motivational states
[31] capacity to processing
[32] act on their basis
[33] obligations
[34] entitlements
[35] power
[36] institutions
[37] willfulness
[38] control
[39] instantiated
[40] true contours…
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