朝日記161007 「世界の大田」、わたくしのあの頃のことと今日の絵
みなさんおはようございます。 台風18号が日本海、北海道を抜けていきました。 関東は、もどり夏日ですね。
今日の絵は 4つです;パプリカ パプリカとクランプ 柿の実 ヤコブ
私は、化学企業にいた最後の八年は、化学企業を中心とする四十数社がメンバーの公益法人で、コンピュータケミストリー調査研究にたずさわりました。この研究会の主査として 国プロジェクト「高分子材料設計のプラットホーム(OCTAプロジェクト)」の立ちあげに関与しました。 これは経済産業省の外郭で、「新化学発展協会」(現在「新化学技術推進協会」)での場でした。 この協会は、化学産業技術開発のための調査研究をする社団法人です。 私は、いまは、ほとんど関係がなくなりましたが、忘れられそうになるころ事務局の知人から、朝日記などの感想などをもらいます。
その知人が仕事で、いま、「大田区に来れば見つかる未来の技術」~おおた研究・開発フェアが開催中で、それに行ったとのことで、ふと これを思いだしました。以下に「世界の太田」のことを思いだしたので少し書きます。
(パプリカ)
徒然こと 1 ちょっとあのころのこと
1988年新化学発展協会のNEDO産学連携研究土井プロジェクトスタートと同時に
私は昭和電工を定年退職し、五島育英会武蔵工業大学(いまの東京都市大学)で
国際交流課長兼産官学交流センターの事務局長で採用されました。
国際交流課の方は別のお話として、交流センターのことをすこし触れます。
当時ブッシュ父大統領の時代で、アメリカの大学なども連邦政府からの補助金が減り、
研究者は自分の力で資金を調達し、起業することを推奨する時代にはいりました。
日本も遠山文相のころで、先端技術開発の名目で産学連携が声高にうごき始めた最初のころでした。
私のいた大学が世田谷区でしたので、東京都と各区、特に大田区などとの連携が
あって、蒲田の区の連携センターへは企画などの会合で頻く行きました。地域産業ファアなどもあって、大学のブースで外国のvisitorsとの交流なども記憶しています。
(パプリカとクランプ)
徒然こと 2 NEDO「土井(OCTA)プロジェクト」と「焼き鳥論」
はなしは逸れますが、新化協発の土井プロジェクトへの最終段階のピークは1998年でした。翌日は大蔵説明のときでした。 われわれ調査研究会の方は、主力のメンバーの一隊が海外調査出張中でした。 このとき、残存老朽艦である私が、通産のひとたちにつかまって、その日、通産省に缶詰になったことがあります。通産省の弁当などを食べて夜遅くまでいました。 最後のつめで、荒井さん、文部省と通産省のプロジェクトの違いを端的にどう説明する?と問われました。 瞬間!!、わたくしの脳裡を走った答え、それが「焼き鳥論」でした。肉は文部省、櫛は通産省、櫛は食えるか、櫛とはなにか、ネギもあるが、というものでこれで妙にうまく合ったようでした。
そして、話は、大学事務局長のときの大田区フェア産公学交流の懇親会に転じます。ここでのスピーチで、私は、「焼き鳥論」を披露したのでした。で、受けました。司会していた大田区の明敏な係長が、間髪いれずその焼き鳥は、タレですか、シオですか?と訊いてきました・・・ 何と答えたかはわすれました。
徒然こと 3 大田区の産業的位置のこと
ところで、大田区の産業背景はいま如何になっていますかね。当時、大田区を中心とする多摩川沿いの中小企業群は ドイツのデュッセルドルフとともに世界の二大製品開発精鋭拠点として、世界的に特異な地位を獲得していたようです。
こういうのって、大企業にいるとわからないですね。 お名前は失念しましたが、後に一橋大学の先生になられた方ですが、当時は、東京都の技術推進研究所(名称は不正確)のスタッフでした。 このひとは、一万数社あった大田区の工場の相当数歩いたそうです。 そして、つぎのことを発見します。
なぜ、日本の産業が新規製品の開発期間を短くし得るかという答えが、以下でした。
1.大田を中心に多摩川の上って八王子までに多種多様な高度洗練化した機械工作技能の中小企業群が存在
2. 相互の緊密・友愛的な職人的技術互助関係の存在
3. 顧客からの緊急要請への臨機応変、連携のすばやさ、技の巧みさの抜群性。
4.戦前からの兵器試作の精密機械工作技能の伝統への誇り。
(昔、私の勤めていた化学会社の中央研究所もこの辺り、東急電車「矢口の渡し」駅にほど近くにありました。)
実験装置の試作に際し、大会社の内作工場よりも、安価で、迅速、狙いに添って工夫もして対応してくれる。 そうですね、富士通も日電も、東芝も近くにあり、彼らの貢献度は高かったのです。 その隠れた力が、外からはなかなかみえない。
唯一、石原都知事が、彼の知事の初期に、この人たちの仕事に着目して、大いに賞揚され、激励したのを記憶しています。 企業や組織体の革新は、現場の汗と知恵からという彼の説は、いまでもただしいと思います。ただ株主や選挙民に慮って、任についた冒頭から、自分の統括する組織体が怠けているときめつけ、かかる派手な振る舞いは、浅ましく、見え透いてだめです。こういう現場とつきあう視線がいまの都知事にほしいですね。
(柿の実)
徒然こと 5 「世界の京浜島」、残る技術・技能はいま?
さて、1990年代は、日本経済はバブルがはじけ、大企業はリストラ、そして雇用の求人倍率もじり貧でした。企業はコスト低減のために低賃金の中国へ進出するころで空洞化という語が蔓延していました。大田区の企業数も往時の7割位に減っていたとおもいます。大田区をはなれ、東北に新天地をもとめて移動した会社もあります。
ところで、羽田空港の横に、京浜島というのがあります。ご存知ですか。メッキとか、鍛造、板金など、すでに街中での職住環境条件が失われた工場がこの京浜島の工業団地に移りました。これが、「世界の京浜島」となります。 たとえば、スペースシャトルや新幹線の機首の尖頭の部分は、昔の洗面器をつくる高度熟練工作;平板絞りです。 ハイテクを支える超高温炉のなかのタンタル合金台座、特殊な形状の鋳物製品など。 こういうのが、世界の先端のレベルに達していたのです。
こういうところに学生を連れていったり、連携業務の個別調査をしたり、 業務委託的に簡単に大学の専門の先生の力を借りる簡易受託研究を作ったり、 知的所有権規定を制定したりで、交流センター事務局長というのは、大変面白かったです。大学自体としてはこれまでに経験のない仕事ですので、学長の補佐官として、総務のベテラン課長と連携して学内規程など、その大学内インフラもどんどんつくりました。
この個人のキャリアーとして新化協のコンピュータケミストリー分科会の八年間の経験がおおいにいかされましたね。 もちろん見えぬところで、働きやすいように見守ってくれた多くのひとたちの御蔭でもあったのでした。
ここで五年、あとは三年ほど、東工大でプロジェクトの資源化学研究所にて研究に参加しました。 いまは退役しています。 自宅で絵画制作、朝日記と哲学三昧の日々ですありがたいことであります。
知人の大田区の研究・開発フェアで、記憶がよみがえりました。少し長くなりました。
(ヤコブ)
ご参考として世界に誇る「おおた」の動画を掲載します。
モノづくり探検隊 高校生のふたりが自転車でルポしています。
https://www.youtube.com/watch?v=n_uJzZG6iV4&feature=youtu.be
京浜島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%B5%9C%E5%B3%B6
2015年12月時点 この島の人口は 1名でした。
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