男女平等、男女共同参画。
平等というのは、
「同じ」ということではない。
「フェア」ということだ。
だから、男女公平、というほうが
いいのではないのだろうか?
「フェア」というのは、
人間として扱われる
ということだ。
だから、ウーマン・リブ、だったのだ。
リブ=live=人間として生きる、なのだ。
女が、「女」として生きるのではなく、
一人の人間として生きること、なのだ。
「女」であることが好きで、
あるいは、それを武器として
生きる人がいてもいい。
そうでない人も、自分自身として
生きられるように、ということなのだ。
それなのに、社会闘争となると、
解放は正義で、それに反対する人は不正義、
になってしまい、「女」として生きることを
選ぶ人が、攻撃されることになってしまうのが、
不思議というか、残念というか、悲しいところだ。
* * *
考えてみれば、誰しもが、
「リブ」を考えるべきなのだ。
男もまた、「男」として
生きることを強いられている。
最近話題になることの多い LGBT ではないとしても、
「男らしくない」ことで差別されたり、
いじめられたりすることはよくあることだ。
社会の中で人が自分として生きる、
ということは、本当に難しいことなのだ。
人は、時に社会に寄り添い、
時に反発しながら、なんとか
やりくりして生きてゆく。
できるだけたくさんの人が
できるだけ自分らしく
生きられるようにする。
しかし、バランスを欠けば、
社会が成り立たなくなる。
そういう意味では、
前のエントリーで書いた、
カズオ・イシグロの言う「記憶の働き方」とも
似ているのかもしれない。
どの記憶を忘れてはならず、
どの記憶は忘れるべきなのか?
忘れていた記憶をいつ想い出すべきなのか?
自分というものを忘れてはいけないが、
忘れないといけない場合もある
忘れていた自分をいつ想い出すべきなのか?
人が人として生きることの難しさ。
そこにおける「愛」の重要さ。
たとえばカズオ・イシグロの小説が
伝えよう、シェアしようとしているのは、
そういうことのようにも思われる。
「愛」という物語の怪しさ、
すらを含みながら・・・
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