ちょっと思い立って、以前に読んだ、
一橋大学リポジトリにある
安藤和弘さんという方の
「『わたしを離さないで』における語りの技法」
という小論を読み返した。
<<以下、激しくネタばれあり>>
キャシーの、ヘールシャムとその後の友情や恋愛についての語り
の裏に隠れている、ルースとトミーへの憎悪、さらには、
この世界全体への憎悪の物語とその語り口を読み解いている。
「遠い山なみの光」の語りの技法を知った後では、
そういう読みには妥当性があると思うし、
かつ、クローンとして生まれた人間が、
この世界に憎悪や虚無を感じていないはずはない、とも思う。
キャシーの語りの穏やかさは、
とても不自然なものだ。
子供にとっては育った世界は絶対であり、
大人が介入しない限り、生まれ育った世界を「不条理」と感じて、
そこにプロテストするということは無いのかもしれないが、
それでも、「虚無」や「憎悪」というものはあるだろう。
それがいわゆる実存としての生なのだし。
というわけで、キャシーは、
一方で、自分たちが育ったヘールシャムを美化し、
その後も含めた、ルース、トミーとの関係を美化したい。
自分の過去を美化したい、
つじつまを合わせたいというのは
誰しもそうだろう。
その裏では、しかし、そうではなかった現実、
あるいは、現実の中でのヘールシャムの在りよう
が常にうごめいていて、隙を見ては飛び出してくる。
実際には、ルースとトミーのせいで、
あるいはクローン人間として生まれたことで、
キャシーはとてもつらい思いをしたのであり、
しかし、だからこそ、それをなんとか
美しい物語=希望、夢に回収したいのだ。
その裂け目が決定的になるのが、
マダムとエミリ先生との面会の場面であり、
そこでキャシー(とトミー)の物語は壊れる。
面会の帰り道のトミーの激しい叫びは、
猶予が認められなかったことではなく、
自分たちの物語が壊れたということに
呼応しているだろう。
だから、その後、トミーはキャシーから離れてゆき、
キャシーもまた、トミーの思い出
(トミーとルースとの思い出、ではなく)を封印して、
絶望的な虚無の中、キャシーが未来へと進もう、
と語るところで物語全体が終わる。
* * *
この小説全体の最大の謎は、
キャシー・H とは何者なのか?
ということだ。
ヘールシャムという特別な場所で
過ごしただけでなく、異例とも言える期間、
介護人として提供を免れているのは
明らかに普通とは言い難い。
しかし、特に強い意志や夢が
自分自身にあるわけではなく、
他者の夢や希望に付き合う、
良い言い方をすれば、そこに献身する、
悪く言えば雷同するタイプ。
常に空気を読んで行動し、
自分を表には出さない。
ある種の普通の人間の
ペルソナではある。
そんなキャシーが、介護人生活が
終わりに近づいたときに手記を書く。
その中で、キャシーは、
友情と恋愛について語り、
自らの夢と希望、絶望と虚無、
高慢と偏見、嘘、について語り、
そしてまた、クローン人間と
普通の人間の間の大きなギャップ
についても語る。
この手記こそ、彼女が人間であることを示す、
彼女なりの最大限の反抗、抗議の形、
とも言えるのかもしれない。
そういうふうに考えるたときに連想されたのは、
森鴎外の「最後の一句」のラスト、
「お上の言うことにまちがいはございますまいから」だ。
「わたしを離さないで」のラストは、
「空想はそれ以上進みませんでした。
わたしが進むことを禁じました。
顔には涙が流れていましたが、
わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。
しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、
行くべきところへ向かって出発しました。」
私たちもまた、夢を持ち(持たされ)、夢破れて、
「行くべきところへ向かって」行く他は無いのだ。
いやはや・・・
「わたしを離さないで」は映画のイメージが強かったので、
小説をもう一度丁寧に読み直してみたいのだが、
なかなか時間が無いなぁ・・・
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