人はなぜ感動するのが好きなのだろう?
がある。
背景のひとつは、
だいぶ前に見たNHKの「バリバラ」で
取り上げていた「感動ポルノ」。
「感動」が商品化されて、
安いジャンクな感動があふれていて、
ちょっと感動中毒のような状態にあり、
それによって見えなくなっているものが
あるのではないか、ということ。
もうひとつの背景は、これもだいぶ前に読んだ
「反応しない練習」。
「サピエンス全史」にも書かれていたが、
仏教においては、感情を動かすことが
苦悩の源であり、そこから解脱することを
目指すとされている(誤解がありそうだが)。
* * *
感動することが好きな理由というか仕掛けとしては、
脳科学者風に言えば、感動するとエンドルフィンや
ドーパミンなどの脳内麻薬が出て・・・
みたいな説明になるのだろうが、
なぜ、感動することが快につながるのか?
なぜ、その連関が進化の中で生まれたのか?
人間が生きるためにどう役立っているのか?
* * *
試みに検索すると、茂木健一郎さんが
こんなことを書いている。
わかったような、わからないような・・・
感動こそが生きる力、変わる力の源泉、
というのはわからなくもないが、
感動こそが悩みの源泉でもある。
感情が動くことと、感動は違うのか?
センセーショナルな安易な感動、
安い感動と本当の深い感動、
みたいなものはあるのか?
なかなか疑問は尽きないので、
しばらく継続的に考えてみたい。
* * *
追記:
仁志田博司さんという方が
人間はなぜ感動するのか、について書いていて、
人間が群れとして生き残るための共感する心、
と関連させているところは、少し説得力が感じられた。
感動する能力は、人間を生き残らせた、
共感する能力がもとになっている。
しかし、人間はそういう本能的な能力を
より大きな(過剰な)快楽を得るなどの
別の目的のために活用する力が大きい動物であもある。
たとえば、
身体を動かすエネルギーを得るための糖質代謝回路や
甘いものがもたらす快楽をとことん追求して、
さまざまなスイーツを開発してしまう。
セックスもそうだ。
本来は子孫を残すための能力を、
より大きな快感や共感、社会的絆を
生み出すために活用して、いろいろな
商品を開発してしまう。
すべてを商品化する市場主義が絡むことで、
事態がさらに加速されている。
その結果として、我々は、
糖尿病になるのと同じように、
感動中毒のような状態になっている。
結局のところ、過ぎたるは及ばざるが如し、
ということなのだが、これもまた
人の本能のようなところがあるのがややこしい。
仏教との関係はもう少し掘り下げることが
ありそうだ。
* * *
追記2:
こちらのブログはさらに深い。
確かに、善と偽善の線引きが難しいように、
自然な感動と、作りこまれた感動の線引きも難しい。
現象としては同じことが、
善だったり偽善だったりする。
強いて言えば、そこになにか雑念的な要素が
入っているかどうか、なのだろうか?
たとえば「自己満足、自己慰撫したい心」とか、
「感動を売って儲けたい心」とか。
「雑念」という言葉を使うと、
仏教との接点も少し見えてくるのかもしれない。
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