「ユリイカ」がカズオ・イシグロ特集を
出しているのを見つけた。
その中に「遠い山なみの光」についての
評論もあり、それが、自分の記憶と
かなり違っていたので、改めて読み直した。
そもそも、昔、文庫本で読んだときには、
ほとんど無い筋を追っただけで、
なんだかよくわからない世界でのとても暗い話だ、
という印象くらいしか残っていなかったのだ・・・
読み直してみても、とても暗い話だ。
「ユリイカ」では、
中井亜佐子さんという方が、
女性=抑圧されたものの語り、
という観点から、この作品を
「わたしを離さないで」と対比させていて、
なるほど、と思ったが、
しかし、もっともっと暗い、
というか怖い。
これは怪談だ。
万里子さんはずっと不気味だし、
子猫を殺す佐知子も怖いし、
何より、いい人に描かれている悦子さんが怖い。
いかにも日本的?な、感情の屈折した会話と、
日本のような日本でないような
冥界的な不思議な世界も怖い。
5歳で日本を出てしまったのだから、
これは小津さんの映画などから
形づくられたものなのだろうか?
佐知子さんと万里子さんの物語が、
悦子さんと景子さんの物語と同型で、
どちらも、外国人と結婚して(しようとして)
娘を犠牲にしてしまう。
佐知子さんと万里子さんの物語は、
自らの苦悩を相対化するために、
悦子さんが勝手にねつ造したのでは?
とも思える。
実際、作品のラスト近く、
長崎で稲佐山に出かけたことが
振り返られるのだが、そこには
「あの時は景子も幸せだったのよ。
みんなでケーブルカーに乗ったの」
という悦子さんの言葉がある。
しかし、物語の半ばにある
稲佐山へのお出かけのエピソードでは、
そのとき景子さんはまだ
悦子さんのお腹の中にいた
ことになっている。
これは作者のミスなのか、それとも、
人の記憶のいい加減さ(不誠実な語り手)
を示すためのものなのか、
それとも・・・
* * *
「実存主義」という言葉は遠い昔に廃れているが、
別に「実存」がこの世界から無くなったわけではない。
というか、実存=近代的自我、があまりにも
あたりまえのものになったので、
言葉としては廃れただけだ。
カズオ・イシグロも当然ながら、
「実存」をめぐる物語を、
丹念に作り上げる「実存主義的」作家だ。
イシグロさんの功績の一つは、
「実存」の内実が
「記憶」に懸かっている、
ということに新しいやり方でライトを当てて
いることにあるのかもしれない。
カズオ・イシグロは、
その「記憶」が、実にいい加減で、
不誠実なものだ、ということを通して、
「実存」の脆さ、哀しさ、卑怯さ、闇の深さ、
そして、逞しさ、を暗示する。
読者は、そこに示されるものと、
自分の中にあるものとの共鳴を感じる。
なんだか、カミュの作品でも
読み返してみたくなったなぁ・・・
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