花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

浪花、消えゆくものを訪ねる。

2013年05月27日 | 徘徊情報・浪花
 師匠案内による各地徘徊、花粉のシーズンということで謹慎というより物忌みしておりましたが、ようやくに再開であります。
 本日の集合は東海道線の東淀川駅、新大阪より500メートルばかり京都よりの駅ですが、「ほんまかいな?」というぐらい鄙びています。残念ながら写真は撮り忘れました。
 駅のすぐ近くに大願寺、「長柄の人柱」に関係する寺です。創立は推古年間ということですから古いといえばこんなに古い寺は周辺にはありません。孝徳天皇の難波長柄豊崎宮の名が示すように「長柄」というのは非常に古い地名でありますし、往時の大阪は上町台地の線に沿うところが陸地で、現在の市部の大部分は海乃至湖の底であったことを考えてみると非常に初期の段階の寺がここに営まれても不思議はありません。
 まあ、そんなことはともかくとして、ひとまず境内も拝見しておこうと門前に建つと、チャリンコのおっさんが「人柱の碑は向こうやでー。」などと声をかけてくれます。わかってはいても、ありがたい話であります。寺の本堂も大変に立派なものでありました。



 この寺のすぐ近くに「長柄の人柱の碑」、余計なことを言ったために自らが長柄橋の人柱にされた人を悼む気持ちからでしょうか、大変立派な碑が立っています。「キジも鳴かずば撃たれまい」等と言う言葉は、ここに伝わる話から生まれたものとされています。師匠曰く「人柱となった巌氏、それを自らかって出たる感が強い。」また、「今は大願寺とは少し離れているが元々は寺の境内であろう。」と。



 東海道線の下をくぐって「須賀神社跡」、線路の下を行く歩道は西宮などで見られる「まんぼう」程ではありませんが、大の男は身を屈めねばならぬ歩道で、側壁を見ていけば明治のころからの拡幅の跡がよく確認できます。


須賀神社跡

 いつ頃まで神社が存続したのかは分かりませんが、燈籠などもある参道が新しい道路にズバーと斜めに切り取られながらも残っていることから近代以降の廃絶であろうと思われます。ここには立派な楠がありました。




残る常夜燈

 この参道近くの立派な古民家を見て、淡路小学校方面に進むと「高射砲台住宅」です。今、ゼンリンの地図などを見ると4つばかり確認できるのですが、実際に残るのは2つで、1つは工場の中に取り込まれていますから、民家といえるのはひとつが残るのみ。しかも新しい道路がすぐそこにまで来ていますから、早晩無くなってしまうのは間違いありません。
 師匠によると近くの柴島の浄水場を守る意味でここに高射砲群が配置されたのではないかということで、戦後になって高射砲が撤去された台座を住居として再利用したのが今日に残っている訳です。「話のタネ」以上の価値は無いものかも知れませんが無くなってしまうと言うのは寂しいことであります。



 高射砲台住宅から新幹線の下をくぐって「中島大水道顕彰碑」。延宝年間と言いますからこれは古い。もとをたどればこの付近は淀川の氾濫原でしょうから排水が非常に悪い、そのために排水路を現在の西淀川付近まで造ったものですが、全てが3人の庄屋を発議者として農民の力で造られたということです。幕府の許可を得なかったということで3人の庄屋は結局は自殺することになるのですが、これによって幕府も重い腰をあげて排水路を完成させることになったということです。





 師匠がアテにしておられた飯屋は閉まっていたので、阪急淡路駅近くの商店街で飯を食うところを探しました。9人の大人数なので一度に座れるところは無いのではないかと思われましたが、幸い商店街から少し曲がったところの喫茶店に全員が座ることが出来ました。しかもメチャクチャ安い。



 昼食後は阪急の線路の下をくぐって亀岡街道へ。ここは個人的にはついこの間も来たところですね。


亀岡街道


和合橋

 ついでですので、菅原神社にも寄っていきます。本日は日差しが強いので大きな木の下は本当に心地よい感じです。ここで、鎌倉街道様に関東の珍しい饅頭をおやつにいただきました。ありがとうございます。


菅原神社へ


菅原神社境内





御神木

 再び亀岡街道に復帰します。例の如く道標などを見た後は赤川の人道橋に。明治以後はこの人道橋も亀岡街道の一部を為していたということです。この人道橋も年内には姿を変えて大阪東線の鉄橋になり、人は通行できなくなります。





 人道橋を渡っているときにちょうど貨物列車が来たらいいのになぁ等と言っていると本当に貨物列車がやって来ました。みんなが期待していただけに人徳やなあ。誰の?








渡り終えて東淀川区側を望む

 後は淀川の堤防上を下ります。方向は逆になりますが、蕪村の春風馬堤曲の世界であります。「楊柳長堤」というやつであります。ただ、茶店もなければ妻を呼ぶ猫もいない。行き着いた先は蕪村句碑。蕪村の生家はまさしくこの句碑の建つ辺りという人もいるそうです。ここよりは淀川の古い流れは大川となり、十三の方に流れていくのは新淀川と言われます。



 現在の毛馬閘門から胸像のある広場を抜けて旧毛馬閘門に。船をつなぐロープを通す輪っかまでしっかりと残されています。


毛馬閘門


胸像広場


旧毛馬閘門



 大阪城石垣残石、通称残念石のある辺りに立派な水準点と改修記念碑。





 毛馬橋を渡って大川の左岸に向かいます。橋のたもとには架橋碑が残っていました。また、わたったところには淀川神社。この辺りにあった神社を全部合祀したものでしょうか、御祭神はおおよそ知られている全ての神でありました。





 大阪拘置所の横を延々と通り、都島でお茶休憩。付近には桜宮神社の御旅所、渡邊綱の駒繋ぎの楠跡等があります。平安時代はここら付近は渡邊党の根拠地ですね。


桜宮神社御旅



 都島神社には最も古い形の宝篋印塔があります。この神社、境内が禅宗の寺の庭の如くに掃き清められているのは結構なのですが、その為に境内の中を自在に通行できないのはなかなか不便であります。





 どこをどう歩いたかは師匠のみぞ知るというヤツで、もう一度行けと言われたら困難なところに何とヌエ塚。源三位頼政に絡む史跡であります。芦屋川河口付近のものが有名ですが、こんなところにもヌエ塚があるとは知りませんでした。



 都島橋を渡り再び大川左岸。鶴満寺には鬼貫の参り墓があります。鬼貫が亡くなって大分してからファンが建てたものだそうです。鬼貫の夭折した子供の墓が伊丹にありますが、そこには鬼貫の髪も埋められているとのこと。子供を一人そこに置くに忍びない気持ちがあったのでしょう。韓愈などにも連なる感じがします。けれども死後に葬られたのは夕陽丘に近い鳳林寺だということです。



 その近くに鶯塚、小生にとってはものすごく久しぶりであります。周囲の景色はガラリと変わっている感じだし、塚そのものも動かされているような気がします。その昔、この塚の前でボーとしていると、この近所に住むというオッサンが話しかけてきました。たいそうな歴史好きと見えて、いろいろな話をしているうちに「家に来い。一杯やりながら話そう。」等と誘ってくれました。その話しぶりは、そんなゾンザイな言い方ではなくて「ワタクシはこの近くに住む○○と申しますが‥」てな感じで非常に丁重。
 今に至っても小生が自分のことを「あかんなあ」と思うのは、こういうときに断ってしまうことで、その時もあっさりと断ってしまいました。どう言って断ったかは忘れてしまいましたが。



 この付近には阿倍野と並ぶ広大な斎場があったはずで、小生自身も無縁さんが山のように積まれている景色を見たように思うのですが、どうなったのか焼き場も墓もきれいさっぱりと無くなっています。今、地図で確認すると斎場は今もあるようですが、規模として、このような小さなものではありません。ということは…。まあ、そんなことを言っていたら千日前とかでは遊べまへん。

 摂津の国国分寺跡ではないかと言われるところに國分寺。聖武天皇との関係からも、国分寺がここに営まれた可能性は強い。ただこういう形で国分寺が残っていることは初めて知りました。本日は残念ながら閉門時間を過ぎてしまっていました。そのまま天六に到着しました。基本はここで終了なのですが、皆さんの意向を伺うと商店街を抜けたいということ。大阪天満宮に向かいます。天六から天一まで長い商店街を抜けていきます。昔、歩く植物図鑑氏と一杯やって、酒場の大将をして「あんたら、(飲むの)はやいねー!」と驚愕せしめた飲み屋は健在です。


繁昌亭

 大阪天満宮。ついこの間まで鳩の餌を境内で売っていたのですが、屋根の修理をして神職たちに物惜しみの心が出たのでしょうか。鳩を追い払ったようです。今まで「ええで」と言っていて、ある日突然豹変するのは一番悪い。ということは同時に神も去ったのでは。小生にとってはセコイ神社に区分するお宮さんになってしまっています。汚れたら洗えばいいし、どうしようもなくなったら建て替えればよい。もうこの神社はそれを拒否したのですから、今後1万年ぐらいは建て替えも出来ないのでは。もしかしたら、今度来たときには廃墟になっているかも。天神祭とやらもしらけるばかり。本日は消えるもの、残るものを多々見てきましたが、このお社もまた消えるのかな?ただ境内にはなんやかやとオモロイものがあります。


力石


芭蕉句碑


東照宮

 門前に川端康成の生家跡があることや、頼山陽が揮毫した常夜燈が残っていることなどは初めて知りました。この周辺もまだまだウロウロし足りない感じです。





 そのまま、天神橋筋商店街内の寿司屋(回転寿司でもないのにこれがまた安い)で飲みました。日本酒は熱燗も冷酒も今一でしたが、まあ安いから我慢しよう。

 今、ふっと気が付きましたが、本日5月27日は海軍記念日ですね。押川春浪風(あれぇ?海野十三やったかな?)に結ぶならば「旗有る者は旗を振り、帽あるものは帽を振り、何も持たざる者は手を振って帝国万歳、日本万歳を連呼しましょう。」。小生は勿論日の丸の扇を振ってお祝いしますよ(わかる人にはわかり、わからない人には全くわからない)。ちなみに陸軍記念日は3月10日です。



 


8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
面白かったですね (鎌倉街道)
2013-05-27 20:53:47
当日はお世話になりました。 良い時間を過ごさせていただきました。

大阪の裏の部分も見せていただいたのでしょうか。 単なる観光旅行では見ることのない、足を踏み入れることのないところへも案内していただき、「へー」「そうなんだー」とその時は思っても、帰宅するとどこかへ抜けていて、こちらのブログがなかったら何も解らないところでした。

友人が何年か前、観艦式の旗艦に乗船させてもらったと言っていたことがあります。 「私も乗りたい。」と言ったのですが、実現しませんでした。 三軍持ち回りだから、毎年海上であるとは限らないはずだと、今、言われてしまいました。 本当ですか?

返信する
満足の徘徊でした (mfujino)
2013-05-27 22:53:46
gunkanatagoさん、おきれいにまとめられましたね、しかも訪問地を殆ど網羅して。さすがでございます。

当日一緒に歩かせて頂いた感想の一つに、東淀川の神社界隈に残る楠などが立派なことです。新しい道が通り新築の家も多いのですが、神社はしっかり残っている感じでしたね。師匠の解説を聞きながら参道の昔の姿を想像したり、街道のルートを思うのも楽しいものです。

赤川の鉄橋に貨物列車が走ってくれたのは、 私はこれを企画してくれた人の人徳と思っております^o^ 利他の精神の持ち主の方の人徳を語らずして何ぞやというところです。人間、感謝からスタートしないと世の中が見えない。

こんな所に鵺塚がという発見はビックリでした。我がブログにも少し触れましたが、日本人の優しい心持ちには感激です。また記念碑などで残すべき史跡の残されている姿に接することが出来たのも嬉しかったですね。こういった旅の楽しみ方をより多くの人に知って貰いたいと師匠とあれこれ画策していまっせ。
返信する
春逝きてやがて消え行く古き橋 (道草)
2013-05-28 06:05:22
「長柄の人柱」と言い「中島大水道」の三人の庄屋と言い、昔は凄い人が存在したものです。今は、自分の命を投げ出す人など皆無ではないですか。私もそうですけど・・・。
この話を聞いて、粛然と襟を糺す気分になりました。老い先を考えると、何かしないといけませんネ。
巌氏と言うのですか、これだけの立派な石碑があるのは、やはり余程の感銘を与えたからでしょう。今回の徘徊は、スタートから中味が充実しているのではないですか。

菅原神社は名称もそうですし、牛の石像もありますし、やはり北野神社の系列ですか。
終焉の近い人道橋を渡っていて列車に出会えたのは、やはり誰かの(誰とは申しませんが)人徳の御蔭でしょう。
「渡澱水過馬堤 偶逢女歸省郷者」ですか。「容姿嬋娟・・・」と。―たんぽゝ花咲けり三ゝ五ゝ五ゝは黄に―の光景は見られましたか。淀川の上流の亀岡やさらにその上流の京北へ行けば可能かも知れませんが。
それにしましても、誰が名付けたのか「残念石」などと、うまい命名ではないですか。

桜宮は渡邉根拠地ですか。綱と聞けば、私には遠い日に聞いた一条戻り橋の逸話が思い出されます。
それにしましても、整頓し過ぎて境内を自在に見て回れないとか、修繕して新しくなったので鳩を追い払ったとか(これまでは餌の豆を売っていたのに!)、そんな所は「神社」を名乗る資格は無いのではないですか。
神仏の本質を自ら放棄した寺社など価値は零でしょう。そんな傲慢非道な天満宮などは、取り壊して公園にでもすれば宜しいのでは。

それにしても、鶯塚ですか、近くの親切な人に誘われたのを断わるなんて、何と言う勿体無いことをされたのですか。探究心旺盛なgunさんの行動とは到底思えませんが。
きっと面白い逸話が聞けた事でしょうに、オッサンだったからお断りになった・・・?
天神橋商店街は、大阪で一番長い商店街でしたか。私も知人の事務所が天六にあって、たまに行ったことがありますが、一杯飲ったことはありません(昼間でしたから)。

途中で鵺塚の話も出ていましたが、鵺は得体の知れない人物の代名詞でもあります。世の中にはそんな輩が跋扈しているのを痛感する昨今です。
ただ、昨日が海軍記念日とは知りませんでした。日の丸の扇は100円ショップで売っていましたが・・・。

むかしむかししきりにおもふ慈母の恩―蕪村(春風馬堤曲)。何だか、こんな神妙な思いに浸れる徘徊録でした。
返信する
護衛艦 (gunkanatago)
2013-05-28 14:37:06
 鎌倉街道様、コメントをありがとうございます。当日いただいた饅頭は素晴らしくおいしかったです。翌日も、随分と歩かれたとのこと。もうその辺に住んでいる大阪の人よりも「通」ですよ。ある種マニアックな徘徊にいつもおつき合いいただきありがとうございます。
 自衛隊記念日の記念行事の担当は3軍回り持ちと聞いたことがあります。ただ、護衛艦などは時々公開しているみたいです。大昔になりますが、小生は神戸港で「うらなみ」に乗せてもらったことがあります。鎌倉街道様は、横須賀がすぐお近くですね。何かと行事があるのではないでしょうか。何年か続けて「記念艦三笠」を訪ねましたが、このところはご無沙汰しています。
返信する
画策とは? (gunkanatago)
2013-05-28 14:47:55
 mfujino様、コメントをありがとうございます。当日はお疲れ様でした。河内や摂津南部の大木と言えば楠ですね。やはり気候が関係しているのでしょうね。
 お書きになっているように「感謝」の気持ちは大切だと思います。「不平・不満」から出発したら必ず道を誤ると思います。小生も最近になってようやく、神社などにささやかでも何かを残してくれた先人に素直に感謝できるようになってきました。一度釣鐘山の「感謝坂」をみんなで登らねばなりませんね(笑)。
 都島の鵺塚は全く知りませんでした。それがまた港の紋章のデザインになっているとは。頼政に退治された鵺も救われている感じですね。
 画策、楽しみにしております。師匠は先日も小谷城や賤ヶ岳に登ってきたと言うことで絶好調のようです。
返信する
確か日本一。 (gunkanatago)
2013-05-28 15:06:07
 道草様、コメントをありがとうございます。淀川の河川敷は結構広いので、すまんだのほうに行けば、「たんぽぽ花咲けり」の景色を見ることが出来ました。多分今頃は全部綿毛になって飛んでいってしまったと思いますが。
 大阪天満宮には本当にガッカリです。セコイ人が宮司になったのでしょうね。八幡宮などは鳩を追い払うというのは自殺行為だと思いますが、天満宮やその他の神社であっても境内の一角で必死に生きているものを追い払う権利はないと思います。すべて「自分の物」と思う執着心から出ているのでしょうね。100年先まで持っていることはできないのに。
 天神橋筋商店街は確か日本一長い商店街だと聞いたことがあります。ある店が無くなってもすぐに次の店が入る感じです。だから結構今風の店も多くあります。
 蕪村の春風馬堤曲、若い女性との堤防歩きを楽しんでいる歌なのですが、どこかしんみりとさせるところがありますね。慈母の懐袍別に春あり。
返信する
いい徘徊ですね! (ささ舟)
2013-05-30 14:08:08
こんにちは。
今回のタイトルステキです。また赤川鉄橋では思いのままに。良かったですね。
東淀川駅は降りたこと無いですが、駅近くに村の親友が兄妹で歯科医院をしていました。訪ねたいと思いながら果たせませんでしたが。
長柄の人柱は実話?伝説?でしょうか。「きじも鳴かずば打たれまい」、ほんと、私も要らぬこといってはっとすることあります。くわばらくわばらですね。
源三位頼政の伝説も方々にあるのですね。わが町以外は何処の知りませんでした。
ちらちらとお知り合いのお姿も見え隠れして楽しませていただきありがとうございました。
次回からの徘徊、断念するのも勇気がいりますわ笑)
返信する
長柄の人柱 (gunkanatago)
2013-05-30 14:50:02
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。これからしばらくは京街道が続きそうです。また、体調がおよろしいときにご参加下さい。いつも参加されている方々もささ舟様とお会いできるのを楽しみにされています。
 長柄の人柱ですが、まあ火の無いところに…というやつで、根底には何らかの事実があったのではないでしょうか。ただ、日本は王の死に際する殉葬を早くから禁止した国柄ですから、案外人形か何かで代用したのかも知れません。ちょっと意味合いは違いますが。琵琶湖の瀬田の唐橋は昔の物が発掘されましたが、長柄橋は確認のしようがありませんね。
 今回のタイトルは師匠にもらった予定表からパチリました(笑)。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。