大阪府高槻市の番田というところを起点として、現在は摂津市の安威川と神崎川の合流点付近まで流れているのが江戸時代に開削された番田井路です。本来は番田近辺のたまり水を流すためのものであったようですが、当然、流域の田畑を潤す用水路としても使用されたと思われます。
江戸時代に高槻を治めた永井氏はなかなかに良い政治をしたようで、江戸時代初期から幕末まで、ついに転封されることなくこの地を治めきったのですが、初代の永井直清という殿様は分けても優れた人物であったようです。
今現在は、高槻城祉の横にある永井神社の御祭神としても祀られているこの人、文化行政として能因法師墳や平安時代の女流歌人伊勢の墓などに羅山撰文による顕彰碑を建てたことでも知られています。
番田井路も亦、永井直清によって1651年から開削が始まりました。以前に廻った兵庫県川西市の加茂井(かもゆ)も大体同じころの開削ですね。江戸時代に利水が随分と進んだということが、これらによっても実感されます。
さて、この番田井路に沿って歩いてみて、何かおもしろいものはないかなと探ってみることにしました。
先ずは「番田」という地名そのもののところへ。高槻市の南の端、淀川に沿った地域です。ここには摂津峡の方から芥川という淀川の支流も流れてきています。今現在は高槻市の下水処理場などが造られています。これがまた広大なもので、近辺に何本かの水路は見られるのですが、何が番田井路で何がそうではないのかが判りません。後で地図を見ると水路はかなり明快に判るのですが、地図もなく現地に立っていると「どれが番田井路だ?」ということになります。
何か判らない
この際ということで、芥川が淀川に流れ込むところも見に行くことにしました。思っているよりも距離があり、しかも雰囲気的には、どこに死体が転がっていてもおかしくないような感じです。葦の茂みの中をどんどんと抜けていかねばなりません。殆ど誰も渡らぬような河原の中の橋からでも距離は相当ありました。出会ったのは高槻のマスコットである「はにたん」ぐらい(笑)。てことは、淀川については左岸(枚方・寝屋川・守口側)はまっすぐ堤防沿いに大阪に下れるけど、右岸(高槻・茨木・摂津側)はここでぐっと迂回する必要があるから、まあ真っ直ぐには大阪には下れぬぞということです。
芥川最河口
芥川
芥川河口から戻ってきて、だいぶとウロウロとしましたが番田井路はどこだーということでしきり直しです。はっきりとこれが番田井路だと判る地点まで行って、そこから戻ってくることにします。
ということで、バスを利用して「玉川橋団地」というところまで、やってきました。ここに何か碑が立っていたことを覚えていたからです。団地のバス停付近に立っていた碑は番田井路ではなく玉川由来の碑でした。碑によると全国に六玉川というものがあり、ここはその一つと言うこと。おお、近江の玉川と山城の玉川は行ったことあるやんけ。板東の玉川も歩いたかも知れん。
小生はここいらでは玉川=番田井路と理解しておったのですが、どうも北の方から流れてくる玉川というのがあって、それがここいらで番田井路と合流することになったようです。ここから、下流に向かえば「三島江」ということ。道も楽しそうな遊歩道でありましたが、それはまた次回のこととして、初心貫徹、上流に向かいます。そういえば、芥川上流、宿場近くの金比羅燈籠には三島江から舟に乗って云々と書いてあったような。
三島江へ
すぐ近くに番田井路の説明もありました。この説明板から少し行くと、川が2つに分かれています。道を行く人何人かに尋ねましたが、どちらが玉川でどちらが番田井路か判りません。というより、そのような名前は初めて聞いたという人ばかりでした。そういえばそうですね、小生などもついこの間までは街中を流れる三面張りの運河の名など全く気にしませんでした。
まあ、「番田」方向ということで、写真で言えば右側の水路を選びましたが、これは正解でした。この川も高度経済成長期などには随分と汚染されて腐臭を発していたかも知れませんが、今はきれいな水が流れていて、水鳥もたくさんいます。
またまた、分岐がありました。今回も右の方を選びます。ここいらでは北摂の山々から流れてくる淀川の支流としては檜尾川、芥川、安威川が知られていますが、他にも無数の小さな流れがあったようです。
一部、師匠お得意の「無信号地帯道路横断」をやらねばならぬところもありましたが、基本的に土手の道はプロムナードとなっています。人は誰も歩いていませんが。
対岸にたくさんの亀が甲羅干しをしている中で、ヌートリアでしょうか。大きなネズミが亀に交じって日向ぼっこをしていました。このような環境下で、頑張って生きていると言うだけで随分と健気であると思います。たくさんの水鳥や亀、それにこういうのまでが生きていける環境というのは人間にも都合が良いはずです。
と、いつの間にか芥川の堤防にぶつかりました。ここに芝生(しぼ)樋門の跡の碑がありました。探していたのはこういうやつやんけ。
番田井路はこのところで対岸から芥川の下を通って流れてきていたということです。確かに芥川を渡り、対岸からこの芝生方面を眺めても取水口などは見られません。
さて、芥川を渡ってしまうと、芥川に沿って南に流れる水路、北東に流れる水路、その水路と並行に北東に流れ、途中から北に向かう水路と水路だらけで、どれが番田井路なのかが判らなくなりました。まあ、ひとまず「番田」の方に向かってみます。
南に流れる水路を選んだことは正解でした。しばらく行くと番田大樋の跡があったからです。今もこのところで水路は芥川の下をくぐって対岸に続いているようです。ここより上流部の水路としては流れとして北東から北に向かう水路が自然な感じがします。
この後は広大な下水処理施設の中に取り込まれたのか、判然としません。やむなしということで、北東に向かう水路を追うことにしました。
下水処理場
下水処理場の周辺は遊歩道になっています。梅が早くも咲いていました。
さらに水路に沿って歩きますが、もはや何もありません。この水路が何という名なのかすらもどこにも記されていません。
と、地名表示板に「南大樋町」という名が記されていました。これは何かありそうぢゃと南大樋公園という公園に随分と期待したのですが、日時計があっただけでした。
水路はまだ延々と続いていきますが、本日はここまで。ということで「おかえりなさーい」の店に行くことにしました。
途中、高槻城祉の横にある永井神社にお参りをしました。御祭神の永井直清の兄尚政は淀藩の初代藩主、父の尚勝は長久手で池田恒興を討ち取った武将として知られています。この日も唾棄すべき高山右近の像を二体とも見ましたが、高槻に於いて顕彰すべきは永井氏です。
ただ、今地図を眺めていると、上宮天満宮(織田信長が陣を敷いた天満宮とはまた別の天満宮があるみたい)や大将軍神社などいくつかの神社を見落としていますね。また、地図上にある多くの水路を見ると、芥川左岸からは番田井路というテーマで徘徊することは難しそうです。
お日さんの高いうちから飲むという麗しい癖はいつごろから付いたものやら。チョロチョロとした徘徊ばかりしているからでしょうね。もうこの日常の中に埋没すると、山登りなどもしたいと思わなくなるのでは等とちょっとビビリながら反省しているのに、近く玉川橋団地から三島江方面へと歩かねばならぬ、するめの天麩羅も食わねばならぬと固く決意もするのであった。
江戸時代に高槻を治めた永井氏はなかなかに良い政治をしたようで、江戸時代初期から幕末まで、ついに転封されることなくこの地を治めきったのですが、初代の永井直清という殿様は分けても優れた人物であったようです。
今現在は、高槻城祉の横にある永井神社の御祭神としても祀られているこの人、文化行政として能因法師墳や平安時代の女流歌人伊勢の墓などに羅山撰文による顕彰碑を建てたことでも知られています。
番田井路も亦、永井直清によって1651年から開削が始まりました。以前に廻った兵庫県川西市の加茂井(かもゆ)も大体同じころの開削ですね。江戸時代に利水が随分と進んだということが、これらによっても実感されます。
さて、この番田井路に沿って歩いてみて、何かおもしろいものはないかなと探ってみることにしました。
先ずは「番田」という地名そのもののところへ。高槻市の南の端、淀川に沿った地域です。ここには摂津峡の方から芥川という淀川の支流も流れてきています。今現在は高槻市の下水処理場などが造られています。これがまた広大なもので、近辺に何本かの水路は見られるのですが、何が番田井路で何がそうではないのかが判りません。後で地図を見ると水路はかなり明快に判るのですが、地図もなく現地に立っていると「どれが番田井路だ?」ということになります。
何か判らない
この際ということで、芥川が淀川に流れ込むところも見に行くことにしました。思っているよりも距離があり、しかも雰囲気的には、どこに死体が転がっていてもおかしくないような感じです。葦の茂みの中をどんどんと抜けていかねばなりません。殆ど誰も渡らぬような河原の中の橋からでも距離は相当ありました。出会ったのは高槻のマスコットである「はにたん」ぐらい(笑)。てことは、淀川については左岸(枚方・寝屋川・守口側)はまっすぐ堤防沿いに大阪に下れるけど、右岸(高槻・茨木・摂津側)はここでぐっと迂回する必要があるから、まあ真っ直ぐには大阪には下れぬぞということです。
芥川最河口
芥川
芥川河口から戻ってきて、だいぶとウロウロとしましたが番田井路はどこだーということでしきり直しです。はっきりとこれが番田井路だと判る地点まで行って、そこから戻ってくることにします。
ということで、バスを利用して「玉川橋団地」というところまで、やってきました。ここに何か碑が立っていたことを覚えていたからです。団地のバス停付近に立っていた碑は番田井路ではなく玉川由来の碑でした。碑によると全国に六玉川というものがあり、ここはその一つと言うこと。おお、近江の玉川と山城の玉川は行ったことあるやんけ。板東の玉川も歩いたかも知れん。
小生はここいらでは玉川=番田井路と理解しておったのですが、どうも北の方から流れてくる玉川というのがあって、それがここいらで番田井路と合流することになったようです。ここから、下流に向かえば「三島江」ということ。道も楽しそうな遊歩道でありましたが、それはまた次回のこととして、初心貫徹、上流に向かいます。そういえば、芥川上流、宿場近くの金比羅燈籠には三島江から舟に乗って云々と書いてあったような。
三島江へ
すぐ近くに番田井路の説明もありました。この説明板から少し行くと、川が2つに分かれています。道を行く人何人かに尋ねましたが、どちらが玉川でどちらが番田井路か判りません。というより、そのような名前は初めて聞いたという人ばかりでした。そういえばそうですね、小生などもついこの間までは街中を流れる三面張りの運河の名など全く気にしませんでした。
まあ、「番田」方向ということで、写真で言えば右側の水路を選びましたが、これは正解でした。この川も高度経済成長期などには随分と汚染されて腐臭を発していたかも知れませんが、今はきれいな水が流れていて、水鳥もたくさんいます。
またまた、分岐がありました。今回も右の方を選びます。ここいらでは北摂の山々から流れてくる淀川の支流としては檜尾川、芥川、安威川が知られていますが、他にも無数の小さな流れがあったようです。
一部、師匠お得意の「無信号地帯道路横断」をやらねばならぬところもありましたが、基本的に土手の道はプロムナードとなっています。人は誰も歩いていませんが。
対岸にたくさんの亀が甲羅干しをしている中で、ヌートリアでしょうか。大きなネズミが亀に交じって日向ぼっこをしていました。このような環境下で、頑張って生きていると言うだけで随分と健気であると思います。たくさんの水鳥や亀、それにこういうのまでが生きていける環境というのは人間にも都合が良いはずです。
と、いつの間にか芥川の堤防にぶつかりました。ここに芝生(しぼ)樋門の跡の碑がありました。探していたのはこういうやつやんけ。
番田井路はこのところで対岸から芥川の下を通って流れてきていたということです。確かに芥川を渡り、対岸からこの芝生方面を眺めても取水口などは見られません。
さて、芥川を渡ってしまうと、芥川に沿って南に流れる水路、北東に流れる水路、その水路と並行に北東に流れ、途中から北に向かう水路と水路だらけで、どれが番田井路なのかが判らなくなりました。まあ、ひとまず「番田」の方に向かってみます。
南に流れる水路を選んだことは正解でした。しばらく行くと番田大樋の跡があったからです。今もこのところで水路は芥川の下をくぐって対岸に続いているようです。ここより上流部の水路としては流れとして北東から北に向かう水路が自然な感じがします。
この後は広大な下水処理施設の中に取り込まれたのか、判然としません。やむなしということで、北東に向かう水路を追うことにしました。
下水処理場
下水処理場の周辺は遊歩道になっています。梅が早くも咲いていました。
さらに水路に沿って歩きますが、もはや何もありません。この水路が何という名なのかすらもどこにも記されていません。
と、地名表示板に「南大樋町」という名が記されていました。これは何かありそうぢゃと南大樋公園という公園に随分と期待したのですが、日時計があっただけでした。
水路はまだ延々と続いていきますが、本日はここまで。ということで「おかえりなさーい」の店に行くことにしました。
途中、高槻城祉の横にある永井神社にお参りをしました。御祭神の永井直清の兄尚政は淀藩の初代藩主、父の尚勝は長久手で池田恒興を討ち取った武将として知られています。この日も唾棄すべき高山右近の像を二体とも見ましたが、高槻に於いて顕彰すべきは永井氏です。
ただ、今地図を眺めていると、上宮天満宮(織田信長が陣を敷いた天満宮とはまた別の天満宮があるみたい)や大将軍神社などいくつかの神社を見落としていますね。また、地図上にある多くの水路を見ると、芥川左岸からは番田井路というテーマで徘徊することは難しそうです。
お日さんの高いうちから飲むという麗しい癖はいつごろから付いたものやら。チョロチョロとした徘徊ばかりしているからでしょうね。もうこの日常の中に埋没すると、山登りなどもしたいと思わなくなるのでは等とちょっとビビリながら反省しているのに、近く玉川橋団地から三島江方面へと歩かねばならぬ、するめの天麩羅も食わねばならぬと固く決意もするのであった。
今の関東は、先々週の金曜日に降った雪が、まだ残っています。 我が家の玄関タイルの雪は、10日振りに昨日やっと融けました。 庭にも道路にも雪はまだまだたくさんあります。 春の淡雪どころではありません。
番田井路とは何処を流れているのか全く分かりませんが、疏水のようなものなのですか? それともどこからか流れてくる川の支流(?)なのですか?
ブログが更新されるとホッとしますね。 皆さんお元気に歩かれているのだということがわかりますので。
関東は、えらい雪で大変でしたね。こちらは小生の近辺ということで絞って言えば、全然たいしたことありません。寒さの方もボチボチピークは越したように思われます。
今ちょっとバタバタしていますので、次の更新はいつのことやらと思いますが、なるべく早いうちに更新したいと思っています。
いつもながら玄人の一人紀行、難しいけどおもしろい。埴輪のマスコットと水鳥とヌートリアにほっとしました。
スルメが手に入ったので天ぷらにしてみました。おっしゃる通りなかなか美味でした。このあたりは海産物がないのでスルメも貴重です。またやるつもりです。はまりそうな味ですね。
水利の詳しいことはわからないのですが、ただ単に排水のためだけなら、淀川も近いのに何故あんなに長い水路を必要としたのかが判りません。多分「高低差」の問題があったのだろうなと思います。悪水が溜まるぐらいだから番田は周囲と比べてグッと低い土地だったのでしょうね。
だからすぐ近くの淀川の水面よりもかなり低かったので、より低い下流地域まで水を流す必要があったのだと思います。加茂井もそうでしたが、日ごろ見慣れている何でもない水路が意外に歴史のあるものだと近年になってようやく知りました。
井路って「イジ」と読むんですね。この界隈は芥川や安威川が淀川へ流れ出るデルタ地区なのでしょうね。従って写真を見せていただいてもいろんな水路があって苦労されたことでしょう。また番田井路に関するまとまった説明資料がネットでは見つかりませんのに、これに目を付けて徘徊されるのは屋形船さんが指摘される様にまさに玄人一人紀行ですね。
あ、地図を見ていて気がついたのですが、茨木市などの北摂山系の麓にはため池が多い様な気がするのですが…。
最近は用水路の方にご執心の様子ですが、ネットサーフィンで篠山の田松川に目がとまりました。「開削された運河によって、両水系が結ばれることになった。こうして、一本の川のなかに分水界が存在するという、全国的に珍しい河川が生まれた」という説明書きです。氷上町や柏原の辺りも分水界についての面白い話題を提供してくれそうだなと私は鼻を鳴らしています。谷中分水界ってかの師匠お得意の標高差の世界ではないですか(^_')あ、分水界と云えば当地の近く日吉町胡麻(山陰線の胡麻駅周辺)もその世界をみせてくれるそうですが、私はまだ行ってません。
笹山にそのような面白いところがあるのですね。ご教示深謝です。そういえば笹山も長いこと行っていません。笹山から母子に蕎麦を食いに行った後、訪ねることができていません。八上城も宿題のままです。いつか、みんなで笹山を歩いて篭坊温泉で宴会等できたら良いですね。勿論日帰りは無理ですが。
『都会の水辺から生き物が姿を消して久しい』とはいうものの、ちょっとした茂みなどの小さな緑の世界に目を向ければ鳥や魚などが一生懸命生きているということを、いたるところで目撃します。そういうのを注意して見ていない人が、一見して見当たらないというだけで勝手に『生き物の絶滅』を宣言するのはいかがなものかと
高槻市の南部は、淀川の氾濫原で、しょっちゅう洪水に見舞われ水をかぶるので「大冠」という地名になっています。(枚方大橋の高槻側に「大塚」とあるのは、古墳があったとか、マウンド(土塁)があったからと言われます。)
檜尾川も芥川も高槻市南部を流路を定めずに流れていたわけです。その流れを農業開発のために堤防で固定することが行われました。檜尾川も芥川も土砂の排出量の多い川なのでたちまち「天井川」になりました。檜尾川と芥川の高い堤防に阻まれて、天川や大冠、大塚、番田の排水は淀川に流すことができなくなり有機物を含んだ水がたまり「悪水」となり農業に支障が出たわけです。そこで、天井川の芥川の底をくぐって(サイフォンの原理)西の安威川に流すことにしたのです。高槻藩主導の下に大工事が行われました。「悪水」を流されることになった安威川下流の鳥飼や味舌などの村は当然これに反対をしました。この村々と協議をした結果、「悪水」が下流の村沿いに流れないように、水路に仕切りを設けて安威川の流路の真ん中に流れるように工夫をすることになりました。レポートの中の水路中にコンクリートの仕切りがあるのはこのためです。
「玉川の里」ですが、安威川の西に「溝咋(みぞくい)神社」というのがあります。この辺り一帯の開発領主の清和源氏の流れを汲む溝咋氏の神社です。
溝咋氏が、条里制の区分けに沿って、南北に流路を定めたものです。武士の遺跡があったのでしょう「目垣」「西面」という城や武士の駐屯地にちなむ地名が残っています。
安満遺跡のある地域からの排水については疑問があったのですが、流路を変えていたのですね。
溝喰氏に就いても知らんことばかりで、ありがたく思います。