徘徊の途中で、偶然に知った都加母止塚と足跡塚、摂津名所図会にはセットで記されていて、しかも説明は一切無し。小生はいろんな意味で楽天家ですが、これに関しても「調べれば分かる」と軽く考えていました。けれども、なかなか厄介です。本日は、未だ訪ねていなかった足跡塚を訪れ、その足で高槻市の図書館で調べてみようと思います。図書館を利用するということを思い出させていただいたのは、つい最近で、示唆を与えてくださった方に感謝します。
その前に師匠から都加母止塚について、メールを戴きましたから披露します。
都加母止塚
ちょっとだけわかった。これは徘徊の成果。塚は今はないように見えるが、そうではない。周囲が嵩上げされてわからなくなっている。塚の面している道は野道だが、おそらく江戸時代から存在していた模様。塚は幅約5M、高さ1M。話を聞けたのは塚の向かいに住む住人。土地の人で何代も住んでいる様子。俺とほぼ同年輩に見えた。
子供の頃は塚がはっきりしていて、その上で遊んでいたそうだ。碑はその頃は寝ていたそうだ。その人が石屋に聞いたところでは、字体から見て明治以後と判断していたそうだ。田の中にあって目立っていたという。元々西天川村の共有財産らしく現在でも財産区が所有管理しているそうだ。
供花があったが、現在も財産区の古い住人が守ってるそうだ。住宅開発で財産区の住民数は増加の一途だが、高齢化で塚のことを気にかけている人はもう数人に近いらしく、話を聞いた人は自分は財産区のメンバーではないので、口を出すわけにも行かず気をもんでいると言っていた。
話を聞けたのは偶然で、塚を見たあと何かわからんかと思って八幡神社へ行ってみた。残念ながら社務所はあるが人がいない。諦めかけたがもう一度戻ってみたら、塚の向かいの家が目に入った。周りがいかにも建売ぽいなかで、昔ながらの民家なので、ひょっとしたらと思った。するとそこへおっさんがふらりと歩いてきて、そのウチに入ろうとする。で声をかけたら上記のとおり。これは日頃の精進を徘徊の神さんが認めてくれたということやなと自己満足しておこう。
「日頃の精進」(笑)、ということで、やはり多くの人に会って塚のことを教えてもらうしかないようです。師匠、ありがとうございました。今後の課題はずばり都加母止塚の正体です。師匠、さらに精進を(爆)。
さて、前回には都加母止塚を見た後、足跡塚を探して付近をグルグルグルグルと回ったのですが、よう見つけませんでした。その後、師匠に訪ねると国道よりも東だということが分かりました。そうですね、国道は現代人の都合、昔の人には関係ありませんね。それを絶対に国道より西と思い込んでいたのは、まだまだ昔を見る目になっていないということ。
ところが、無事に藤の里町についてからも随分と迷いました。もう藤の里町のことなら何でも聞いてねというぐらい、炎熱の中をめぐりましたがよう見つけません。尋ねるにも人が全く外に出ていなかったのですが、やはり神さんはおられるもので、スーパー帰りと見えたオバチャンが自転車で通りがかりました。
そのオバチャンも塚の正確な位置は知らなかったのですが、小さな運河があってそれよりもさらに東だと教えてくれました。国道の件で解っているはずなのに、ここでも勝手にこの川よりも西だと自分で決めつけていたのです。どーみゃく硬化やんけ。
さてさて、無事に足跡塚に辿り着くことが出来ました。表面に「大道法師」と刻まれ、その横に「あしあと」という字も読めます。裏には「文化八辛未天晩秋 再建主 ?代勝」と彫ってあります。?の部分は根気と知識のない小生には読めませんでしたが、師匠なら難なく読めると思います。〈※ということで、師匠よりメールを戴きました。〉
裏面
さて、足跡塚の建碑者だが 行った日に調べるつもりで忘れていた。花洛を読んで思い出したので 調べてみた。「またぎ」でよさそうだ。つくりの垂が1本多いが たぶんこれだろう。国字だ。あるいはそこから派生して2本ならと何かひねった読みかもしれんがそこまではわからん。
さて、小生もひとつ聞き取りをと思いましたが、炎天下で人が出ていません。塚から少し離れた家、庭で花の世話をしているお爺さんがいましたので声をかけました。「こんにちはー。あの足跡塚について、何か御存じでしょうか?」、「ああ、大道法師さん?」。おっ、脈があるやんけ!と期待しました。けれどもその後、お爺さんは「何にも知りまへんねん。」、ということで聞き取り終了。暑いので図書館に向かいます。
途中の運河、決して水はきれいではありませんが、サギがエサをあさっています。この鳥なら淀川へひとっ飛びでしょう。
国道からこの道に入れば都加母止塚の前に出られると思いましたが、実際には塚よりもずっと北に来てしまいました。従って、今回の塚の写真は前のご報告の時の使い回しです。
高槻城祉が近づくと傾いた道標(これは高槻市発行の書物で確認できるだろうと思っていたら載っていなかった)と愛宕灯籠、最近は傾いた道標を見たらもう可哀想で可哀想で。ここからしろあと歴史観の方には行かないで北上すると本行寺など寺が3つ並ぶ通りがあります。
愛宕さんのお札が入っています
ミニ寺町
本行寺には藤井竹外の墓があります。師匠なら墓場をグルグルするでしょうが、小生は墓の入り口で辞退。この寺の門は高槻城の高麗門を移設したものということです。
で、無事に図書館に到着。けれども最近のシステムに慣れていない身なので、随分と手間取りました。開架していない本を一生懸命探したもんなあ。見つけた本は天坊幸彦氏の「三島郡の史跡と名勝」、今から50年以上も前の本で、天坊先生没後に出版されたものです。初めて手に取りましたが、とにかくスゴイ!能因塚や伊勢廟にある永井直清建立・林羅山撰文の碑の文章なども全部載っています。
その中に「足跡塚」の項はありましたが、「都加母止塚」については記載がありませんでした。足跡塚については巷間「だいだらぼっち」に絡むものという説が有力ですが、天坊氏は「耶蘇坊主」説を立てられました。この本がその出典です。短い文章ですので、自分の勉強も兼ねて、ここに全文を引用させていただきます。泉下の天坊先生、議論が盛んになるためだから許してちょ。
足跡塚 大冠村字西天川字円ヶ下(高槻市大字西天川)
周囲二十一間余にして、別に封土とてはなく、中央に一個の表石の存するのみ。村誌に
活石ありて其中央に足跡存す伝え言ふ大道法師の家なりと大道法師は京都東福寺の僧なりと其何れの時なるやは詳ならず、而して人の之に触るるあれば祟ありとし恐るること蛇蝎の如し
とあり、されば満地荊棘繁茂して近く可からず。よりて村長の協力により火を放ちて荊棘を焼き払い漸く其状を明にするを得たり。然るに村誌伝ふる所の活石なるものはなく、土中に半埋もれて表に「大道法師足跡・・・」裏に「文化・・・」とある標石のみ存せり。
右の如く、其由緒甚だ不明瞭なれども、大道法師といひ、足跡塚といひ、土人蛇蝎の如く恐るるという諸点より強て説を立つれば、或は切支丹師父の墳墓にあらざるか。元来茲地に隣接せる高槻には高山友祥あり、熱心なる信仰を以て、之が布教に努めたれば、西教史にも
ジユードー右近殿ノ管轄ナル高槻ニハ師父一人法兄弟一人アリ此ニジユードー右近殿の允許を受け美麗ナル基督寺院ト師父ノ家ヲ建テ其創立費用ハ悉ク右近殿ヨリ之ヲ出シ高槻ヨリ三里ヲ隔テ若山飯森、嵯峨島ノ基督寺院アリ是皆高槻教区ノ所轄ナリ
とありて其盛決を察し得べく、殊にスタイヘンの「クリスチャン大名」には
天正九年の耶蘇昇天祭には高槻に会するもの一万五千人弥撤経を唄ひ音楽を奏し大行列を以て式を畢り午後は余興に移り黒奴をして舞はしめたるに一時遠近之を伝へて珍となせり。
とありて以て一時の盛を極めしを知るべし。然るに禁教漸く厳にして、夫等遺跡は全く破壊せられ、其会堂の址さへ知るべからざるに至れり。されど史学雑誌所載日本殉道者記に
P.Franciscus Carrionius 一五九〇年八月 Ikizuki にて死
P.Georgius Carvalhal 一五九一年五月五日同上
といふ記事あり。イキズキとは何地なるや不明なれども、もしIがTの誤字なりと認とむる時は、イキスキは高槻とも考へらるべく、一五九〇年は我天正十八年なり。而して周防国吉敷郡山口の切支丹寺を大道寺と称すると対比するときは、大道法師の名に似通いたるものあるを知るべく、且つ天に昇るといふ話には往々履の残さるることを説くことあれば、足跡といふは昇天の義にあらざるか。かく考ふるときは、天正十八年頃高槻に在りし宣教師が此地に死したるを葬りたる墓にして、名を大道法師に仮り昇天を殊更に足跡と称し、猶其の破壊を防ぐため祟を説て何人も触れざらしめしものと見ることを得るなり。
未だ巨人伝説にも西教史にも通ぜざる小生は、その決を留保すべく…と何か文語調になってしまいますが、村人=土人だったのですね(笑)。今なら、あちこち行って土地の人に話を聞いたことを「これを土人に聞く」などと書いたら怒られますね。塚近くの家のお爺さんの「何にも知りまへんねん」は土人の畏れかな?
それにしても、籔を焼き払っての調査というのもスゴイですね。今だったら絶対に不可能。
図書館から出たら当然「おかえりなさーい」の店。何か、ゴーヤの天麩羅て毎週食うてるような気もしますが、まあ季節ものだしと申す処。ビールは実は2杯目。
本日は50年以上も前に亡くなられた碩学の一端にも触れることが出来、まことに有意義な1日だったと思います。この本を読むために高槻の図書館に来ることが多くなりそうです(本丸っぽのコピーは禁止されている)。誰か古本屋で見つけたら教えてね。
その前に師匠から都加母止塚について、メールを戴きましたから披露します。
都加母止塚
ちょっとだけわかった。これは徘徊の成果。塚は今はないように見えるが、そうではない。周囲が嵩上げされてわからなくなっている。塚の面している道は野道だが、おそらく江戸時代から存在していた模様。塚は幅約5M、高さ1M。話を聞けたのは塚の向かいに住む住人。土地の人で何代も住んでいる様子。俺とほぼ同年輩に見えた。
子供の頃は塚がはっきりしていて、その上で遊んでいたそうだ。碑はその頃は寝ていたそうだ。その人が石屋に聞いたところでは、字体から見て明治以後と判断していたそうだ。田の中にあって目立っていたという。元々西天川村の共有財産らしく現在でも財産区が所有管理しているそうだ。
供花があったが、現在も財産区の古い住人が守ってるそうだ。住宅開発で財産区の住民数は増加の一途だが、高齢化で塚のことを気にかけている人はもう数人に近いらしく、話を聞いた人は自分は財産区のメンバーではないので、口を出すわけにも行かず気をもんでいると言っていた。
話を聞けたのは偶然で、塚を見たあと何かわからんかと思って八幡神社へ行ってみた。残念ながら社務所はあるが人がいない。諦めかけたがもう一度戻ってみたら、塚の向かいの家が目に入った。周りがいかにも建売ぽいなかで、昔ながらの民家なので、ひょっとしたらと思った。するとそこへおっさんがふらりと歩いてきて、そのウチに入ろうとする。で声をかけたら上記のとおり。これは日頃の精進を徘徊の神さんが認めてくれたということやなと自己満足しておこう。
「日頃の精進」(笑)、ということで、やはり多くの人に会って塚のことを教えてもらうしかないようです。師匠、ありがとうございました。今後の課題はずばり都加母止塚の正体です。師匠、さらに精進を(爆)。
さて、前回には都加母止塚を見た後、足跡塚を探して付近をグルグルグルグルと回ったのですが、よう見つけませんでした。その後、師匠に訪ねると国道よりも東だということが分かりました。そうですね、国道は現代人の都合、昔の人には関係ありませんね。それを絶対に国道より西と思い込んでいたのは、まだまだ昔を見る目になっていないということ。
ところが、無事に藤の里町についてからも随分と迷いました。もう藤の里町のことなら何でも聞いてねというぐらい、炎熱の中をめぐりましたがよう見つけません。尋ねるにも人が全く外に出ていなかったのですが、やはり神さんはおられるもので、スーパー帰りと見えたオバチャンが自転車で通りがかりました。
そのオバチャンも塚の正確な位置は知らなかったのですが、小さな運河があってそれよりもさらに東だと教えてくれました。国道の件で解っているはずなのに、ここでも勝手にこの川よりも西だと自分で決めつけていたのです。どーみゃく硬化やんけ。
さてさて、無事に足跡塚に辿り着くことが出来ました。表面に「大道法師」と刻まれ、その横に「あしあと」という字も読めます。裏には「文化八辛未天晩秋 再建主 ?代勝」と彫ってあります。?の部分は根気と知識のない小生には読めませんでしたが、師匠なら難なく読めると思います。〈※ということで、師匠よりメールを戴きました。〉
裏面
さて、足跡塚の建碑者だが 行った日に調べるつもりで忘れていた。花洛を読んで思い出したので 調べてみた。「またぎ」でよさそうだ。つくりの垂が1本多いが たぶんこれだろう。国字だ。あるいはそこから派生して2本ならと何かひねった読みかもしれんがそこまではわからん。
さて、小生もひとつ聞き取りをと思いましたが、炎天下で人が出ていません。塚から少し離れた家、庭で花の世話をしているお爺さんがいましたので声をかけました。「こんにちはー。あの足跡塚について、何か御存じでしょうか?」、「ああ、大道法師さん?」。おっ、脈があるやんけ!と期待しました。けれどもその後、お爺さんは「何にも知りまへんねん。」、ということで聞き取り終了。暑いので図書館に向かいます。
途中の運河、決して水はきれいではありませんが、サギがエサをあさっています。この鳥なら淀川へひとっ飛びでしょう。
国道からこの道に入れば都加母止塚の前に出られると思いましたが、実際には塚よりもずっと北に来てしまいました。従って、今回の塚の写真は前のご報告の時の使い回しです。
高槻城祉が近づくと傾いた道標(これは高槻市発行の書物で確認できるだろうと思っていたら載っていなかった)と愛宕灯籠、最近は傾いた道標を見たらもう可哀想で可哀想で。ここからしろあと歴史観の方には行かないで北上すると本行寺など寺が3つ並ぶ通りがあります。
愛宕さんのお札が入っています
ミニ寺町
本行寺には藤井竹外の墓があります。師匠なら墓場をグルグルするでしょうが、小生は墓の入り口で辞退。この寺の門は高槻城の高麗門を移設したものということです。
で、無事に図書館に到着。けれども最近のシステムに慣れていない身なので、随分と手間取りました。開架していない本を一生懸命探したもんなあ。見つけた本は天坊幸彦氏の「三島郡の史跡と名勝」、今から50年以上も前の本で、天坊先生没後に出版されたものです。初めて手に取りましたが、とにかくスゴイ!能因塚や伊勢廟にある永井直清建立・林羅山撰文の碑の文章なども全部載っています。
その中に「足跡塚」の項はありましたが、「都加母止塚」については記載がありませんでした。足跡塚については巷間「だいだらぼっち」に絡むものという説が有力ですが、天坊氏は「耶蘇坊主」説を立てられました。この本がその出典です。短い文章ですので、自分の勉強も兼ねて、ここに全文を引用させていただきます。泉下の天坊先生、議論が盛んになるためだから許してちょ。
足跡塚 大冠村字西天川字円ヶ下(高槻市大字西天川)
周囲二十一間余にして、別に封土とてはなく、中央に一個の表石の存するのみ。村誌に
活石ありて其中央に足跡存す伝え言ふ大道法師の家なりと大道法師は京都東福寺の僧なりと其何れの時なるやは詳ならず、而して人の之に触るるあれば祟ありとし恐るること蛇蝎の如し
とあり、されば満地荊棘繁茂して近く可からず。よりて村長の協力により火を放ちて荊棘を焼き払い漸く其状を明にするを得たり。然るに村誌伝ふる所の活石なるものはなく、土中に半埋もれて表に「大道法師足跡・・・」裏に「文化・・・」とある標石のみ存せり。
右の如く、其由緒甚だ不明瞭なれども、大道法師といひ、足跡塚といひ、土人蛇蝎の如く恐るるという諸点より強て説を立つれば、或は切支丹師父の墳墓にあらざるか。元来茲地に隣接せる高槻には高山友祥あり、熱心なる信仰を以て、之が布教に努めたれば、西教史にも
ジユードー右近殿ノ管轄ナル高槻ニハ師父一人法兄弟一人アリ此ニジユードー右近殿の允許を受け美麗ナル基督寺院ト師父ノ家ヲ建テ其創立費用ハ悉ク右近殿ヨリ之ヲ出シ高槻ヨリ三里ヲ隔テ若山飯森、嵯峨島ノ基督寺院アリ是皆高槻教区ノ所轄ナリ
とありて其盛決を察し得べく、殊にスタイヘンの「クリスチャン大名」には
天正九年の耶蘇昇天祭には高槻に会するもの一万五千人弥撤経を唄ひ音楽を奏し大行列を以て式を畢り午後は余興に移り黒奴をして舞はしめたるに一時遠近之を伝へて珍となせり。
とありて以て一時の盛を極めしを知るべし。然るに禁教漸く厳にして、夫等遺跡は全く破壊せられ、其会堂の址さへ知るべからざるに至れり。されど史学雑誌所載日本殉道者記に
P.Franciscus Carrionius 一五九〇年八月 Ikizuki にて死
P.Georgius Carvalhal 一五九一年五月五日同上
といふ記事あり。イキズキとは何地なるや不明なれども、もしIがTの誤字なりと認とむる時は、イキスキは高槻とも考へらるべく、一五九〇年は我天正十八年なり。而して周防国吉敷郡山口の切支丹寺を大道寺と称すると対比するときは、大道法師の名に似通いたるものあるを知るべく、且つ天に昇るといふ話には往々履の残さるることを説くことあれば、足跡といふは昇天の義にあらざるか。かく考ふるときは、天正十八年頃高槻に在りし宣教師が此地に死したるを葬りたる墓にして、名を大道法師に仮り昇天を殊更に足跡と称し、猶其の破壊を防ぐため祟を説て何人も触れざらしめしものと見ることを得るなり。
未だ巨人伝説にも西教史にも通ぜざる小生は、その決を留保すべく…と何か文語調になってしまいますが、村人=土人だったのですね(笑)。今なら、あちこち行って土地の人に話を聞いたことを「これを土人に聞く」などと書いたら怒られますね。塚近くの家のお爺さんの「何にも知りまへんねん」は土人の畏れかな?
それにしても、籔を焼き払っての調査というのもスゴイですね。今だったら絶対に不可能。
図書館から出たら当然「おかえりなさーい」の店。何か、ゴーヤの天麩羅て毎週食うてるような気もしますが、まあ季節ものだしと申す処。ビールは実は2杯目。
本日は50年以上も前に亡くなられた碩学の一端にも触れることが出来、まことに有意義な1日だったと思います。この本を読むために高槻の図書館に来ることが多くなりそうです(本丸っぽのコピーは禁止されている)。誰か古本屋で見つけたら教えてね。
野次馬門外漢としましては、師徒共々に一層のご精進を祈るのみです。
汗流しビールとゴーヤに明日を見る(道草)
文中でも記しましたが、都加母止塚については、「何なのか」ということが未だ分かりません。足跡塚につきましては、「だいだらぼっち」についても調べねばならず、長丁場になりそうです。
都加母止塚はほんの最近手入れがされたようで、ベースのコンクリートがすこし補強されたようです。私が高槻に引っ越してきた15年前は背後のお宅の塀ももう少し控えめで雰囲気も良かったのですが今ではすっかり寂れた雰囲気になってしまったようです。
釈迦に説法とは思いますが、「摂津名所図会」はここでいつも見ています。(高槻は第五巻)
http://libir.mukogawa-u.ac.jp/dspace/handle/10471/638
最近は本山寺の「虎石」の事を調べています。
摂津名所図会にも「臥虎(ぐわこ)の形にて大さ二尺ばかりなり。色薄黒し。」と書かれているのですが、由来はわからないそうです。実際に本堂脇に屋根付きで安置されており、何かの司祭に使われていたそうです。
都加母止塚の15年前の様子、ありがとうございました。この塚についてはみんなが情報を寄せ合って、最終的には「何」であるのかが解明されればうれしいですね。
摂津名所図会の見られるアドレスも感謝です。本山寺の虎石、昨年ウロウロしたのですが、見ているようで見ていません。何か、おもしろそうですね。摂津名所図会に載っているということは相当に昔からあるのですね。今度、行くことがあったら見てみます。
都加母止塚や足跡塚に関しても何かわかったら是非教えて下さいね、
2000年頃に本山寺で撮影した虎石の画像がありましたので、貼っておきますね。(公開/転載ご自由に)
http://digital-dokata.com/tora001.jpg
http://digital-dokata.com/tora002.jpg
http://digital-dokata.com/tora003.jpg
http://digital-dokata.com/tora004.jpg
http://digital-dokata.com/tora005.jpg
http://digital-dokata.com/tora006.jpg
この臥虎(ぐわこ)の雰囲気を見る限り、いわゆる「狛犬」「獅子」とは違う、中東やヒッタイトの獅子像と共通するなんともいえない艶めかしさを感るのは私だけでしょうか。それに錆御影製というのもちょっと興味をそそられます。
今日は生憎の曇りですが、十五夜なのでお月さんの話題を。
亀岡の出雲大神宮の裏山は古墳だらけで条里制の跡が発掘されたりと何やら曰く有りげな場所ですが、それのほど近くに小川月神社というのがあります。これは月読命を祭った祠なのですが、かつては丹波国桑田郡で一二を争う大社だったそうです。ま、それだけなんですが毎年この寒くなる時期にお月さんを眺めていると栄枯盛衰の侘しさを感じます。
やはり、本尊が毘沙門天ということで、虎なのでしょうね。天坊幸彦氏の「三島郡の史跡と名勝」には虎石の記載はありませんね。江戸時代の怪談に出てくる大入道を封じ込めている結界石だったりして。
出雲大神宮付近の小川月神社というのも初めて知りました。重ねてお礼申し上げます。大神宮の裏山は長年の宿題になっていて、未だ登れていません。ちょっと山に入っただけで古墳だらけというのは本当ですね。本来はこれらの古墳を祀るところだったのでしょうね。入り口の古墳だけざっと見て、駐車場の近くで「飴」を買って帰るといワンパターンがずっと続いています。
また色々とご教示願えたらうれしいです。
様々な資料とご考察に、子供の頃の謎が少し解けた気がして大変嬉しく、また、新たな謎も湧き、随分前の話題に恐縮ですが、コメントさせていただきます。
とはいうものの、何も書くことがないくらい、足塚については何も聞いていないのです。
あの前の道が通学路で、住宅地の真ん中にわざわざ囲ってあるという、子供心にもちょっと不思議な場所でしたので、何度か立ち寄ったというか敷地に入って眺めてみましたし、親にも質問したのですが、はっきりしたことは分からず終いのままでした。障りのある場所だということも、聞いたことはありません。
今から考えると、何も伝わっていないのは、足塚付近の住民は「代々住んでいる土地の人」ではないからではないかと思います。
藤の里町は分譲住宅地で、恐らく1960年代前半にできていますから、一番古い住民の方でも、他所から移り住まれた方々のはずです。
改めて調べてみましたが、大正時代以降の地図と戦後の航空写真を見る限りでは、あのあたり一帯は、藤の里町の東に府営天川住宅ができるまでは一面田んぼが広がっていて集落らしいものはないですし、江戸時代の村落名にも、相当しそうなものがありません。
ので、何か伝承されているとしたら、むしろ西天川村の方ではないかと思われます。
というわけで調べてみると、どうやら昔の西天川村は、城下の大塚口から枚方街道を辿るとすぐ春日神社がありますが、ここの少し東からその北のあたり、春日町1~6番地近辺が集落の中心に相当するのではないかと思われます。
子供の身としては、そのあたりはR170を挟んだ向こう側で小学校も別校区ですから、全く縁のない土地ということになりまして、実際、一度も行った記憶がありません。
ないない尽くしの書き込みで申し訳ありません。
何か伝承されているとしたら西天川村というご意見、大変貴重でありがたいです。春日町1~6が集落の中心と考えられるとのこと、今度訪ねる機会があればこの辺りで古老に会えないかどうか張ってみます(笑)。大昔のことになりますが、天坊先生の調査に同道したのもこの辺りの人かも知れませんね。都加母止塚とセットで摂津名所図会に記載があるというのもうなずけます。
それにしても、小生自身、知るのがちょっと遅かったかなあと思っています。子供のころに昔の話を聞かせてくれた人はほぼ全員亡くなっています。それだけに、こうしてお話を聞かせていただけることは大変貴重です。ありがとうございました。