前回、大雨によって撤退を余儀なくされた八十島めぐり、今回はその続きになります。距離的に大阪で野暮用を済ました後でも十分にウロウロできるのはありがたい。ところが、今回も亦地図のない徘徊になってしまいました。前回があまりに非効率に思われたので、今回は大ざっぱながら地図を用意していたのですが、しっかりと家に忘れました。必死で地図の内容を思い出しながら、前に進みます。
今回の出発点は阪急園田駅。駅の北側は歩いたことがありますが、南側は初めてです。少し歩いたら、藻川の堤防に出ました。園田のあるところも猪名川と藻川の中の島ですね、
はるかに六甲の山並み
堤防に沿ってしばらく行くと東園田橋、こやつを渡って広大な墓地地帯を抜けると、遊女塚のバス停です。バス停付近をウロウロしましたが、塚が見あたりません。ちょうど通りかかったオッサンに尋ねました。「あー、あそこに祠が見えてるやろ。あれや。」とオッサンは明快に教えてくれましたが、行ってみると普通のお地蔵さんで、遊女塚ではありませんでした。
けれども、その祠の先に公園があり、その公園の一角に遊女塚はありました。遊女塚から南方を眺めて思わず笑いました。前回撤退したバス停からは50メートルほどしか離れていません。やはり徘徊には地図というものが必要です。まあけれども、前回見逃しているから今こうして歩いている。これでいいのかも知れません。
1206年、弟子の安楽や住蓮による後鳥羽上皇の寵姫であった松虫・鈴虫の出家事件のとばっちりを受けて、法然は佐渡に流されることになりました。多分、自身はどこまでも比叡山の学僧であることを自認していたと思われる法然にとっては「ほんまに、何すんねん!わしがあれだけ慎重にことをかまえぬようにしてきたのにー、ブツブツブツブツ、ナンアミダブツウー。」というところだったでしょう。法然はこの時75歳、いたわしい限りです。安楽や住蓮は上皇の寵姫を出家させた罪を命で贖いました。アッ!親鸞もこれに連座して越後に流されています。
法然を乗せた舟が神崎の津に到着したときに5人の遊女がこれを出迎えました。法然に念仏を授けられた遊女たちは、その後に川に身を投げて極楽往生したということです。幸いにして九条兼実の庇護により法然の流罪は土佐から讃岐に変わり、まもなく許されて京都に帰ることができました。帰路、法然はこの地で遊女たちを弔ったということです。
この辺りは大江匡房の『遊女記』に「天下第一の楽地」と記されたところ(未だ原文にはあたっていません)、旅人を乗せた舟が近づくと岸辺からは遊女を乗せた舟が出て、嬌声を聞かせたところ。今は静まりかえっています。塚の碑は元禄期のものだそうで、その隣に碑文が刻まれた石柱が立っていましたが、写し取る根気はありませんでした。
そう言えば、もう少し後になりますが一遍智真などにも遊女が身を投げる話がありましたね。極楽浄土を固く信じている身には苦界の命などはそれこそ鴻毛よりも軽いものだったのでしょう。
わずかな記憶をたよりに藻川に沿って北上します。一部親水公園のようになっていますが、水質はまだまだ、それでも水鳥などはぼちぼちと帰ってきているようです。
猪名川と藻川の合流点まで来ました。二つの川が集めてきた土砂がたまって島ができています。よく見ると、水鳥たちの根拠地になっているようです。おーい、ええとこを見つけたなあと申す処。
右猪名川・左藻川
合流点に架かる橋、藻川を渡っている間は藻川橋、猪名川を渡る時は戸の内橋です。その中ほどに行基と鯉の説話を記した碑がありました。橋が流されて渡れなくなった行基をたくさんの鯉が集まってきて、その背に乗せて渡したという話が書かれています。その徳により、この地方では鯉を食べることを止めたともあります。小生の深く敬愛する行基菩薩、伊丹の昆陽池に残る話といい、魚鳥にまで深く慕われていたとのこと。さもありなん。小生ももう二度と鯉を食べません(もともと食べない[爆])。
ただ豊中には逆に行基が鯉を食べたという伝承や、素戔嗚尊が鯉に乗って猪名川を遡ってきたという伝承があるみたいです。豊中もこのすぐ近くなのですが、今日は大阪方向に歩きますので確認は次回のこととします。
水鳥のささやかな基地
橋の欄干
猪名川を渡った後はひたすらに南下します。戸の内と呼ばれるこの集落も何かと古いものがありそうです。この辺りは承久の乱のきっかけとなった椋橋庄の一部ということです(戸の内橋を渡ってすぐに南下せず真っ直ぐ行ってたら椋橋神社に行けたのに)。寵姫亀菊(江口の白拍子という)に与えられた荘園に置かれた地頭を罷免せよという後鳥羽上皇の要求を鎌倉幕府が蹴ったのが乱のきっかけ。なんか、後鳥羽上皇て、寵姫が絡むと冷静さを失うのですね。ほいで、承久の乱後に流された隠岐では「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」等といばっている。誠に愛すべき人物です。
戸の内
てなことでやってきたのが「もすりん大橋」、モスリンを造る工場がこの辺りにあったのですね。写真では名前がはっきりとは読み取れませんが。
名曲「十三の夜」に歌われた橋、今調べたらこの歌は作詞も作曲も「藤田まこと」なのですね。やはり一種の天才だったのですねぇ。てなもんやも仕置人も日々昔になっていきます。小生はNHKで放映された茂木草介原作の「けったいな人々」における長男与一郎役の演技が忘れられません[主人公のたか子ネエチャンは今や皇潤ババア]。あのような幅の広い芸人(敢えて芸人という)は今の大阪からは生まれないような気がします。どのチャンネルをつけてもテレビ局の御用芸人化したチンピラ漫才師ばかり。
この橋を渡ろうとしたら、左手に何やら閘門が見えます。あれ、ここでも川が流れ込んでいるなあと行ってみたら、猪名川閘門となっています。閘門は神崎川からの逆流を防ぐためのものです。アッタリマエといえば当たり前なのですが、この辺りでは川は幾筋にも分かれていたのでしょう。それらが近代になってどんどんと整理・統合されていく中で、辛うじて残った一筋なのでしょうね。或いは猪名川は以前は藻川と合流せず、この地点で神崎川と合流していたのかも知れません。
さて、もすりん大橋を渡ります。今日みたいなクソ暑い日は誰も一緒に渡ってくれないでしょうが、なかなかに大きな橋です。
橋を渡れば「加島」です。この近辺にも美津島とか竹島とか色々な地名がありますね。橋を渡って、少し行ったところに香具波志神社があります。お稲荷さんです。
静かな良いお宮さんです。参拝した後、社務所の壁に貼られてボロボロになっているパンフレットに「三好長慶寄進の鳥居の礎石」の写真が。「ナニー!」ということで、神社内を精査です。そのおかげで、「雨月物語」の作者である上田秋成寓居碑を見つけました。このおっさん、どこにでも住んどるなあ。
けれども、鳥居の礎石はどこにも見あたりません。社務所の前で「こんにちわー」を5回ぐらい言ってるときに参拝にこられた方にもうかがったのですが、「へえー、こんなんあったんや。」と逆に感心されているぐらい。本日は社務所は完全に閉まっていました。かなりウロウロしたのですが、結局は見つけることはできませんでした。師匠、宿題でっせー(爆)。
後で調べたところ、江口の戦い(1549)に向けた戦勝祈願とのこと、けれども時々刻々と変化する戦況の中でそんな悠長なことはしてられないでしょうから、或いは戦勝のお礼ではないかと思われます。
近くの公園では、遅い盆踊りの準備(徘徊した日は8月26日)、鳩が木陰で憩っています。えーところやなー。ここからは十三筋というのを歩きました。自然に十三に導いてくれるでしょう。
その十三が遠い遠い、十三の夜の歌詞の雰囲気だと店がはねた後アベックでブラブラしながら帰る距離という感じですが、今だったら「どこまで歩かすねん!」とネーチャンは怒ってしまうでしょう。途中にあったたこ焼き屋、「あほや」と言って今の小生の状況にピッタリ!生中があるというので入ったけど、コップがキャンプとかで使うビニールのヤツで残念。たこ焼きはまずまずでした。小生が店を出るときに小学生が買いに来ていました。曰く「おっちゃん、千円分。」と。なかなか豪快です。君は必ず立派な人物になれる(笑)。
途中にあった蕎麦の店
いよいよ十三に到着。商店街の看板がえらく貧乏くさいものに変わっています。あんまり、ションベン小僧なんぞに拘らない方がいいのでは。
朝から飲める十三、既に十三屋もその隣の吾菜場も満席で座れません。まあここから電車で20分ほどで、「おかえりなさーい」の店に行けますから、拘らずにさっと引き上げました。今回の御利益?今回はゴーヤの天麩羅の量がやけに多かったような感じが…。そら、もうこの夏だけで何回頼んだか分かりませんから、主食だと思ってくれているのかも知れません。今写真を見たら「あほや」のたこ焼きも1個サービスしてくれています。感謝。
今回の出発点は阪急園田駅。駅の北側は歩いたことがありますが、南側は初めてです。少し歩いたら、藻川の堤防に出ました。園田のあるところも猪名川と藻川の中の島ですね、
はるかに六甲の山並み
堤防に沿ってしばらく行くと東園田橋、こやつを渡って広大な墓地地帯を抜けると、遊女塚のバス停です。バス停付近をウロウロしましたが、塚が見あたりません。ちょうど通りかかったオッサンに尋ねました。「あー、あそこに祠が見えてるやろ。あれや。」とオッサンは明快に教えてくれましたが、行ってみると普通のお地蔵さんで、遊女塚ではありませんでした。
けれども、その祠の先に公園があり、その公園の一角に遊女塚はありました。遊女塚から南方を眺めて思わず笑いました。前回撤退したバス停からは50メートルほどしか離れていません。やはり徘徊には地図というものが必要です。まあけれども、前回見逃しているから今こうして歩いている。これでいいのかも知れません。
1206年、弟子の安楽や住蓮による後鳥羽上皇の寵姫であった松虫・鈴虫の出家事件のとばっちりを受けて、法然は佐渡に流されることになりました。多分、自身はどこまでも比叡山の学僧であることを自認していたと思われる法然にとっては「ほんまに、何すんねん!わしがあれだけ慎重にことをかまえぬようにしてきたのにー、ブツブツブツブツ、ナンアミダブツウー。」というところだったでしょう。法然はこの時75歳、いたわしい限りです。安楽や住蓮は上皇の寵姫を出家させた罪を命で贖いました。アッ!親鸞もこれに連座して越後に流されています。
法然を乗せた舟が神崎の津に到着したときに5人の遊女がこれを出迎えました。法然に念仏を授けられた遊女たちは、その後に川に身を投げて極楽往生したということです。幸いにして九条兼実の庇護により法然の流罪は土佐から讃岐に変わり、まもなく許されて京都に帰ることができました。帰路、法然はこの地で遊女たちを弔ったということです。
この辺りは大江匡房の『遊女記』に「天下第一の楽地」と記されたところ(未だ原文にはあたっていません)、旅人を乗せた舟が近づくと岸辺からは遊女を乗せた舟が出て、嬌声を聞かせたところ。今は静まりかえっています。塚の碑は元禄期のものだそうで、その隣に碑文が刻まれた石柱が立っていましたが、写し取る根気はありませんでした。
そう言えば、もう少し後になりますが一遍智真などにも遊女が身を投げる話がありましたね。極楽浄土を固く信じている身には苦界の命などはそれこそ鴻毛よりも軽いものだったのでしょう。
わずかな記憶をたよりに藻川に沿って北上します。一部親水公園のようになっていますが、水質はまだまだ、それでも水鳥などはぼちぼちと帰ってきているようです。
猪名川と藻川の合流点まで来ました。二つの川が集めてきた土砂がたまって島ができています。よく見ると、水鳥たちの根拠地になっているようです。おーい、ええとこを見つけたなあと申す処。
右猪名川・左藻川
合流点に架かる橋、藻川を渡っている間は藻川橋、猪名川を渡る時は戸の内橋です。その中ほどに行基と鯉の説話を記した碑がありました。橋が流されて渡れなくなった行基をたくさんの鯉が集まってきて、その背に乗せて渡したという話が書かれています。その徳により、この地方では鯉を食べることを止めたともあります。小生の深く敬愛する行基菩薩、伊丹の昆陽池に残る話といい、魚鳥にまで深く慕われていたとのこと。さもありなん。小生ももう二度と鯉を食べません(もともと食べない[爆])。
ただ豊中には逆に行基が鯉を食べたという伝承や、素戔嗚尊が鯉に乗って猪名川を遡ってきたという伝承があるみたいです。豊中もこのすぐ近くなのですが、今日は大阪方向に歩きますので確認は次回のこととします。
水鳥のささやかな基地
橋の欄干
猪名川を渡った後はひたすらに南下します。戸の内と呼ばれるこの集落も何かと古いものがありそうです。この辺りは承久の乱のきっかけとなった椋橋庄の一部ということです(戸の内橋を渡ってすぐに南下せず真っ直ぐ行ってたら椋橋神社に行けたのに)。寵姫亀菊(江口の白拍子という)に与えられた荘園に置かれた地頭を罷免せよという後鳥羽上皇の要求を鎌倉幕府が蹴ったのが乱のきっかけ。なんか、後鳥羽上皇て、寵姫が絡むと冷静さを失うのですね。ほいで、承久の乱後に流された隠岐では「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」等といばっている。誠に愛すべき人物です。
戸の内
てなことでやってきたのが「もすりん大橋」、モスリンを造る工場がこの辺りにあったのですね。写真では名前がはっきりとは読み取れませんが。
名曲「十三の夜」に歌われた橋、今調べたらこの歌は作詞も作曲も「藤田まこと」なのですね。やはり一種の天才だったのですねぇ。てなもんやも仕置人も日々昔になっていきます。小生はNHKで放映された茂木草介原作の「けったいな人々」における長男与一郎役の演技が忘れられません[主人公のたか子ネエチャンは今や皇潤ババア]。あのような幅の広い芸人(敢えて芸人という)は今の大阪からは生まれないような気がします。どのチャンネルをつけてもテレビ局の御用芸人化したチンピラ漫才師ばかり。
この橋を渡ろうとしたら、左手に何やら閘門が見えます。あれ、ここでも川が流れ込んでいるなあと行ってみたら、猪名川閘門となっています。閘門は神崎川からの逆流を防ぐためのものです。アッタリマエといえば当たり前なのですが、この辺りでは川は幾筋にも分かれていたのでしょう。それらが近代になってどんどんと整理・統合されていく中で、辛うじて残った一筋なのでしょうね。或いは猪名川は以前は藻川と合流せず、この地点で神崎川と合流していたのかも知れません。
さて、もすりん大橋を渡ります。今日みたいなクソ暑い日は誰も一緒に渡ってくれないでしょうが、なかなかに大きな橋です。
橋を渡れば「加島」です。この近辺にも美津島とか竹島とか色々な地名がありますね。橋を渡って、少し行ったところに香具波志神社があります。お稲荷さんです。
静かな良いお宮さんです。参拝した後、社務所の壁に貼られてボロボロになっているパンフレットに「三好長慶寄進の鳥居の礎石」の写真が。「ナニー!」ということで、神社内を精査です。そのおかげで、「雨月物語」の作者である上田秋成寓居碑を見つけました。このおっさん、どこにでも住んどるなあ。
けれども、鳥居の礎石はどこにも見あたりません。社務所の前で「こんにちわー」を5回ぐらい言ってるときに参拝にこられた方にもうかがったのですが、「へえー、こんなんあったんや。」と逆に感心されているぐらい。本日は社務所は完全に閉まっていました。かなりウロウロしたのですが、結局は見つけることはできませんでした。師匠、宿題でっせー(爆)。
後で調べたところ、江口の戦い(1549)に向けた戦勝祈願とのこと、けれども時々刻々と変化する戦況の中でそんな悠長なことはしてられないでしょうから、或いは戦勝のお礼ではないかと思われます。
近くの公園では、遅い盆踊りの準備(徘徊した日は8月26日)、鳩が木陰で憩っています。えーところやなー。ここからは十三筋というのを歩きました。自然に十三に導いてくれるでしょう。
その十三が遠い遠い、十三の夜の歌詞の雰囲気だと店がはねた後アベックでブラブラしながら帰る距離という感じですが、今だったら「どこまで歩かすねん!」とネーチャンは怒ってしまうでしょう。途中にあったたこ焼き屋、「あほや」と言って今の小生の状況にピッタリ!生中があるというので入ったけど、コップがキャンプとかで使うビニールのヤツで残念。たこ焼きはまずまずでした。小生が店を出るときに小学生が買いに来ていました。曰く「おっちゃん、千円分。」と。なかなか豪快です。君は必ず立派な人物になれる(笑)。
途中にあった蕎麦の店
いよいよ十三に到着。商店街の看板がえらく貧乏くさいものに変わっています。あんまり、ションベン小僧なんぞに拘らない方がいいのでは。
朝から飲める十三、既に十三屋もその隣の吾菜場も満席で座れません。まあここから電車で20分ほどで、「おかえりなさーい」の店に行けますから、拘らずにさっと引き上げました。今回の御利益?今回はゴーヤの天麩羅の量がやけに多かったような感じが…。そら、もうこの夏だけで何回頼んだか分かりませんから、主食だと思ってくれているのかも知れません。今写真を見たら「あほや」のたこ焼きも1個サービスしてくれています。感謝。
大阪での野暮用とは、朝の蛸焼と麦酒でしょうか。それとも、新地へ財布の忘れ物を取りに寄られたとか。地図は、ご自宅へ忘れられて様ですが・・・。
冗談はさて置き、藻川とは響きや印象は余り好くありませんが、却って自然に溢れている感じがして、蛍が飛び川魚が豊富な様にも思えます。
当然、どんな川でも昔はそうだったのでしょうけど、今はどうなのでしょう。確か、蓬川と言う名の川も聞いた気がしますが。
「遊女塚」は法然が建てたとのことですが、この「天下第一の楽地」は法然の入り浸りの場所だったのでしょうか。それとも、純粋な仏心から・・・?
それより、この猪名川と藻川の合流点は、魚や鯉が沢山棲んでいそうですが。晴れ晴れする写真です。
子供の頃の上桂川でも鯉は獲れましたが、子供には至難の業で垂涎(中々美味です)の的でした。
ただ、世間には鯉を食べない人も居られるようですし、この辺は鯉の安全地帯なのかも。後鳥羽上皇は、やはり大金持ちの脳天気のぼんぼん?
それにしましても、モスリンなんて懐かしい名前です。メリヤス、ネル、スフなんて物もありましたが。
藤田まことが、十三のネエちゃんと2人で渡った橋でしたネ。彼はコメディもシリアスも演じられた俳優(芸人ですか)でした。歌唱力も中々のものでした。やはり、悪妻をもらったから伸びたのではないですか。それに比べて私などは・・・冗談です。
「けったいな人々」は見てませんが、皇潤おばんと云えば八千草ですか。昔はファンでしたのに・・・。
ご指摘の如く、昨今の漫才界は人材が中々育ちません。面白いと思うと、直ぐ横道へ逸れてしまいます。
そんな中では「サンドゥイッチマン」は数少ない有望株と思うのですが、どうでしょうか。
次の香具波志神社は、名前通りの奧床しそうな神社とのこと。上田秋成が惹かれたのも宜なるかな、かも知れません。礎石は、師匠が執念で発見されることでしょう。
gunkanatagoさんには、十三に行きつけの(入り浸りの)店を設ける仕事が残っている様ですが。
十三と書いて、じゅうそうと読む、難読ですね。その由来は?、今、NHK大河『平清盛』を欠かさず観ています。その中でキレイすぎる松田翔太演じる、後白河天皇をイメージするのですが・・・実物はどうなんでしょうね。観ていられますか?
鯉が集まってその背中に乗って渡した。いい伝説ですね。わが市の並河地区も鯉のぼりもダメもちろん鯉は食べないようです。理由がちゃんとあるのでしょうが、私は知らないのです。
そうですか。藤田まことの奥さんは悪妻だったのですね。十三のキャバレーではあれだけもてていたのに、魔が差したのですね。
上田秋成はどうもあの近辺で死んでいるようです。あちこちに住んだおっさんですが、終の棲家となったようで、雨月物語もこの辺りで記したようです。
もすりん橋ツアー、実施しましょうか。師匠に相談したら、もう少し良いコース設定をしてくれると思います。
十三、その名の由来には色々とあるようです。未だ降車されたことがないとのこと、みたらし団子の喜八洲の本店もあります。ションベン横丁は女の人にはお勧めできませんが、商店街の中は意外に上品です(笑)。
平清盛は、見たり見なかったりです。平治の乱で誅された藤原信頼は、その時26歳です。キャスティングがちょっとおかしいように思っています。
行基さんと鯉、そして鯉を食べない風習、これは我が田舎にもナマズが祀られていてその氏子はナマズを食べないそうです(これって以前書いたかもしれません、、)。日本人の信心深さを垣間見る様な気がします。
十三で呑んだのは2回ほどしかありませんので十三の話はパス。
今回は地図ばっかし見てましたね、謝々(^_*)
京北の「なまず」、民間信仰調査で出てきたものですね。どのような話が伝わっているのか興味津々です。光厳上皇が絡んでいたりして。
伊丹の昆陽寺などの「行基伝説」、これはポツンとここだけの伝承ではなく、背景に大変広い行基信仰圏のようなものがあるようですね。
十三の居酒屋、飲むには良いところですが、ちょっとうるさすぎる感じはあります。おっさんの料理を注文する声がでかい。