本日は「山!」と堅く心に決めていたのですが、朝起きることが出来ませんでした。昼からのそーと出かけるなら二ノ瀬ゆりか、東山トレイルかというところ。おーそうぢゃ、今年は未だ桃源郷水尾の春を楽しんでいないぞ、ということでひとまずは水尾の里に行くことにしました。
京都駅はさすがに混んでいましたが、保津峡の駅に降り立ったのは5、6人でここから水尾に向かうのは小生一人です。
道の拡幅が少し進んで、一部広くなっているところはありますが、まだまだ車では走りたくない道です。馴れてはおられるでしょうが、水尾の人は毎日大変じゃ。
明智越えへの分岐を過ぎたらすぐに水尾の里です。
橋を渡れば明智越え
先ずは例によって清和天皇社に詣でます。我が惟喬親王のライバルにして、清和源氏の祖ですね。保津峡の駅からここまで誰も見ませんでしたが、神社で白人男性を見かけました。「コンニチワー」と機嫌良く挨拶をしてくれます。
清和天皇社の隣の円教寺は粟田口にあった寺が衰微したのを水尾で再興したもの。粟田口の円教寺で清和天皇が亡くなられていますから、その縁ですね。
水尾小学校も廃されてだいぶになります。近年の小中学生には二宮金次郎は通じないでしょう。
しばらく水尾の里をウロウロしましたが、柚子茶屋も柚子茶屋が閉まっていたときに開いていて柚子茶を恵んでくれた茶屋も閉まっています。里中で会ったのは柚子畑で作業をしているおっちゃんと先ほどの外国人だけでした。ここから愛宕山に登るのは時間的にしんどいので、米買い道を嵯峨まで歩くことにしました。水尾の人が嵯峨に買い物に行ったメインルートで、愛宕の中腹を行くユリ道です。
いつものように東の田んぼ跡と立派なシシ垣を見て、本日はこの道から愛宕頂上への道も確認しておきたいと思います。
東の田んぼ跡
シシ垣
上に登る道
いつものことながら、大岩では何が「大岩」なのかわかりません。
愛宕山が一番保津川の方にせり出しているところに来ました。ここを過ぎるとまもなく荒神峠です。荒神峠からは保津峡の方に下りる道もあります。この峠から愛宕頂上への途中になる水尾別れへ登る道がまあ本道でしょう。
水尾別れへ
荒神峠からは杉林の中を一気に下ることになります。途中には「椿の水」という湧き水。この道がメインルートであったころは嵯峨からの長い登り道を歩いてきた人には本当にありがたい水であったことでしょう。楽チンルートを歩いている小生が飲んでもなかなかに甘露であります。
ほどなく清滝川に出会います。前回は清滝方面に歩いたので本日は嵯峨方面に向かいます。
清滝川
落合で清滝川は保津川に合流します。一旦水尾に行って、それから歩いてきたのでなかなかの距離と言うことになりますが、保津峡の駅からだと落合までは近い近い。
落合橋
保津川に出会う
ここからは車道(といっても殆ど車は来ない)を歩いて六丁峠を越えることになります。若かりしころは車でよく通った道ですが、その時にはまさか未来の自分がここを歩くのだ等とは思いもしませんでした。川沿いに進む道もあるようですが、かなり危険な状態になっているとのことです。
六丁峠の手前で再び白人男性を含む5人組に出会いました。写真を撮ってくれとカメラを渡されました。山積みになっているゴミ袋を外して記念写真を撮ろうとしたら、そのゴミ袋ごと撮ってくれといいます。話を聞くと峠から落合までの道の清掃をしてくれたようです。ゴミ袋は15袋ほどありました。何てエライ連中だ。
ブルーシートの辺りに立派な連中がいる。
六丁峠は一部崩落していました。このように道が切り通しになる前にはお地蔵さんや道標があったのではと周辺をウロウロしましたが何も見つけることは出来ませんでした。
この峠から少しわきに入ったところに絶景スポットがあります。上には高雄パークウェイ。ちょうどトロッコ列車も進行を停めて、お客さんに景色を見てもらうところです。ボーと眺めていたらちょうど列車がやってきて、鉄橋の上で停まりました。
よーく見たら列車が停まっています。
嵯峨天皇陵にいたる道も崩落のため通行止めです。日本後紀であったか、毎晩目を通して字面を追っていたときにはお馴染みの人物でした。
鳥居本に出ました。既に観光客の波は退いたと見えて閑散としています。ラッキー、この時間を選んで正解!と思っていたら。
渡月橋への道を歩きます。写真の如くなかなかに快適です。よく歩いた道なのにここに勝軍地蔵がおられるということに初めて気が付きました。神仏習合では愛宕権現の本地になる仏さんです。「勝」という字が縁起がいいと多くの武将が崇敬しました。可児才蔵でしたか、自分はこの勝軍地蔵の生まれ変わりだと固く信じていたのは。
渡月橋に近づくに連れて人が少し増えてきました。桜は本日が満開かな。
徘徊の徒にとっては嵐山は魔境です。いろいろと有り過ぎて足が進まない。新田義貞の首塚まであるのですから。
亀山公園で思ってもいなかった馬酔木を見ることが出来ました。これを見ると桟敷ヶ岳に登らねばという気持ちになります。昔は大和を思ったものですが、今は鉄塔付近から祖父谷峠に下りるまでにある馬酔木の群落を思います。
角倉了意
ここから一気に渡月橋に赴くと「ヒェー」の世界。人だらけです。「なんじゃー?どこから現れたのか?」。人垣を乗り越えて大井神社。小さくなってしまっていますが式内社です。本来は川の神でしょうね。それにしても今日一日で過疎の村から大都会に出てきた人の気持ちを十二分に味わうことが出来ました。
その神社の隣にあるのが「嵐山のむら」です。本日はものすごくたくさんの人が入っています。甘味処にお前が何の用じゃといわれそうですが、小生は御手洗団子でも大福でも和菓子をアテに酒が飲めます。けど餡ころモチをビールで流し込むが如き様子は見ている人から「変人」扱いされることになりますから、ここではしません。
そう、今日はここの「ねぎ焼き」とビールで先ずは祝杯であります。ビールが何かミルクみたいに写っていますがエビスビールです。向こうの席のおっさんの尻が邪魔ですねえ。
小生はねぎ焼きについてはその考究は未だ緒についたばかりでありますが、工夫という点でも味でもここの「ねぎ焼き」がナンバー1です。牛すじ、こんにゃく、ちくわが具に使われています。本日は次から次に人が来るので素早く退散しました。
ということで、飲み足らん。結局はまたまた「するめの天麩羅」で一杯であります。
京都駅はさすがに混んでいましたが、保津峡の駅に降り立ったのは5、6人でここから水尾に向かうのは小生一人です。
道の拡幅が少し進んで、一部広くなっているところはありますが、まだまだ車では走りたくない道です。馴れてはおられるでしょうが、水尾の人は毎日大変じゃ。
明智越えへの分岐を過ぎたらすぐに水尾の里です。
橋を渡れば明智越え
先ずは例によって清和天皇社に詣でます。我が惟喬親王のライバルにして、清和源氏の祖ですね。保津峡の駅からここまで誰も見ませんでしたが、神社で白人男性を見かけました。「コンニチワー」と機嫌良く挨拶をしてくれます。
清和天皇社の隣の円教寺は粟田口にあった寺が衰微したのを水尾で再興したもの。粟田口の円教寺で清和天皇が亡くなられていますから、その縁ですね。
水尾小学校も廃されてだいぶになります。近年の小中学生には二宮金次郎は通じないでしょう。
しばらく水尾の里をウロウロしましたが、柚子茶屋も柚子茶屋が閉まっていたときに開いていて柚子茶を恵んでくれた茶屋も閉まっています。里中で会ったのは柚子畑で作業をしているおっちゃんと先ほどの外国人だけでした。ここから愛宕山に登るのは時間的にしんどいので、米買い道を嵯峨まで歩くことにしました。水尾の人が嵯峨に買い物に行ったメインルートで、愛宕の中腹を行くユリ道です。
いつものように東の田んぼ跡と立派なシシ垣を見て、本日はこの道から愛宕頂上への道も確認しておきたいと思います。
東の田んぼ跡
シシ垣
上に登る道
いつものことながら、大岩では何が「大岩」なのかわかりません。
愛宕山が一番保津川の方にせり出しているところに来ました。ここを過ぎるとまもなく荒神峠です。荒神峠からは保津峡の方に下りる道もあります。この峠から愛宕頂上への途中になる水尾別れへ登る道がまあ本道でしょう。
水尾別れへ
荒神峠からは杉林の中を一気に下ることになります。途中には「椿の水」という湧き水。この道がメインルートであったころは嵯峨からの長い登り道を歩いてきた人には本当にありがたい水であったことでしょう。楽チンルートを歩いている小生が飲んでもなかなかに甘露であります。
ほどなく清滝川に出会います。前回は清滝方面に歩いたので本日は嵯峨方面に向かいます。
清滝川
落合で清滝川は保津川に合流します。一旦水尾に行って、それから歩いてきたのでなかなかの距離と言うことになりますが、保津峡の駅からだと落合までは近い近い。
落合橋
保津川に出会う
ここからは車道(といっても殆ど車は来ない)を歩いて六丁峠を越えることになります。若かりしころは車でよく通った道ですが、その時にはまさか未来の自分がここを歩くのだ等とは思いもしませんでした。川沿いに進む道もあるようですが、かなり危険な状態になっているとのことです。
六丁峠の手前で再び白人男性を含む5人組に出会いました。写真を撮ってくれとカメラを渡されました。山積みになっているゴミ袋を外して記念写真を撮ろうとしたら、そのゴミ袋ごと撮ってくれといいます。話を聞くと峠から落合までの道の清掃をしてくれたようです。ゴミ袋は15袋ほどありました。何てエライ連中だ。
ブルーシートの辺りに立派な連中がいる。
六丁峠は一部崩落していました。このように道が切り通しになる前にはお地蔵さんや道標があったのではと周辺をウロウロしましたが何も見つけることは出来ませんでした。
この峠から少しわきに入ったところに絶景スポットがあります。上には高雄パークウェイ。ちょうどトロッコ列車も進行を停めて、お客さんに景色を見てもらうところです。ボーと眺めていたらちょうど列車がやってきて、鉄橋の上で停まりました。
よーく見たら列車が停まっています。
嵯峨天皇陵にいたる道も崩落のため通行止めです。日本後紀であったか、毎晩目を通して字面を追っていたときにはお馴染みの人物でした。
鳥居本に出ました。既に観光客の波は退いたと見えて閑散としています。ラッキー、この時間を選んで正解!と思っていたら。
渡月橋への道を歩きます。写真の如くなかなかに快適です。よく歩いた道なのにここに勝軍地蔵がおられるということに初めて気が付きました。神仏習合では愛宕権現の本地になる仏さんです。「勝」という字が縁起がいいと多くの武将が崇敬しました。可児才蔵でしたか、自分はこの勝軍地蔵の生まれ変わりだと固く信じていたのは。
渡月橋に近づくに連れて人が少し増えてきました。桜は本日が満開かな。
徘徊の徒にとっては嵐山は魔境です。いろいろと有り過ぎて足が進まない。新田義貞の首塚まであるのですから。
亀山公園で思ってもいなかった馬酔木を見ることが出来ました。これを見ると桟敷ヶ岳に登らねばという気持ちになります。昔は大和を思ったものですが、今は鉄塔付近から祖父谷峠に下りるまでにある馬酔木の群落を思います。
角倉了意
ここから一気に渡月橋に赴くと「ヒェー」の世界。人だらけです。「なんじゃー?どこから現れたのか?」。人垣を乗り越えて大井神社。小さくなってしまっていますが式内社です。本来は川の神でしょうね。それにしても今日一日で過疎の村から大都会に出てきた人の気持ちを十二分に味わうことが出来ました。
その神社の隣にあるのが「嵐山のむら」です。本日はものすごくたくさんの人が入っています。甘味処にお前が何の用じゃといわれそうですが、小生は御手洗団子でも大福でも和菓子をアテに酒が飲めます。けど餡ころモチをビールで流し込むが如き様子は見ている人から「変人」扱いされることになりますから、ここではしません。
そう、今日はここの「ねぎ焼き」とビールで先ずは祝杯であります。ビールが何かミルクみたいに写っていますがエビスビールです。向こうの席のおっさんの尻が邪魔ですねえ。
小生はねぎ焼きについてはその考究は未だ緒についたばかりでありますが、工夫という点でも味でもここの「ねぎ焼き」がナンバー1です。牛すじ、こんにゃく、ちくわが具に使われています。本日は次から次に人が来るので素早く退散しました。
ということで、飲み足らん。結局はまたまた「するめの天麩羅」で一杯であります。
水尾の佳人、これは是非とも発見しなくてはなりませんね。それでも昔、柚子茶屋でリュックに柚子を詰めてくれた小学生が今は立派なお父ちゃんということからするとちょっと時が経ちすぎたかも(笑)。
今回は鳥居本と渡月橋は観光地として別なのだということがよく分かりました。嵯峨嵐山も人がいない時しか経験していなかったのでちょっとビックリしました。
六丁峠付近は車で進入できますから、確信犯的不法投棄が多いようです。これは水尾~越畑間も同じですね。何も思わぬヤツは何も思わぬようで先だっても勝竜寺城の植え込みにゴミを捨てているおっさんがいましたので厳しく注意しました。当日、落合から峠に向けて歩いていて「何かきれいやな?」とは思っていたのですが、連中が一生懸命に掃除をしてくれていた訳です。
なぬなぬ、師匠の随筆?これは初聞きです。小生も楽しみにしておきます。今しばらくは花粉のために頭がボーとして書けないのでは、等とも思います。
嵐山のむらのねぎ焼きは甘辛い醤油ダレが塗ってあるように思います。ここのはかなり工夫されたねぎ焼きですから、世間一般のねぎ焼きのイメージとは異なるかも知れません。このルートの帰路に寄ってもいいし、師匠に嵐山をメインにした徘徊コースを考えてもらってもいいし、食べに行きましょう。観光シーズンを外すほうがいいですね。
水尾と言えばその静かな佇まいと共に、山陰線で通勤していた人(名前は知りません)が今でも印象に・・・と笑われながら書いております。
小さく見える鉄橋は、昔の山陰線です。今はトンネルばかりで景色も楽しめず(乗って来る人も無く)淋しい沿線となりました。私はそんなに頻繁に乗る訳ではありませんが・・・。
今回歩かれたコースは、人気(ひとけ)も少なく、謂わば徘徊の至宝の道なのでしょう。最後に渡月橋へ出られたのは、まあご愛嬌でしょうけど。まあ、大好物殿も待っていてくれましたし・・・。
大堰川昏れなむとして堤落つる水一筋のしろがねの櫛 中野照子
一つ質問があります。しかし途中の神社などの解説が入りますが、これらは既知のものを書かれているのでしょうか、それとも予習・復習も入っているのですか?まあ、そんな野暮な質問するなとお叱りを受けそうですが、自分の気持ちには率直になった方がよかろうと聞いてみました。ちなみに私めは予習と復習がなければとても徘徊録は書けません。時間にすれば調べ事にかける時間は徘徊時間を遙かに越えてしまいます(*_*)
ゴミを集めながら歩いていた5人組の話を読んで思い出すのは、ここでコメントを書いておられる鎌倉街道さんのことです。美山の河内谷を深見峠まで一緒に歩く機会があったのですが、彼女は小さなゴミ袋をもって途中見つけられたゴミを拾って歩いておられました。
これだけのゴミ袋を抱えなければならない程ゴミが多いのでしょうか。私も鎌倉街道さんに感化されたのか、旅行の途中で時々ゴミを拾いますが、この話には考えさせられました。今夕のテレビで見たのですが、かの釜ガ崎の一泊1,500円からの簡易宿泊所が外国人に人気だそうですね。安い宿に泊まり、自然を愛でながら、ゴミを拾って世界中を巡る人達などと勝手に結びつけて、この人達の心の豊かさに心打たれるものがありました。
今、馬酔木はあちこちで花を咲かせていますね。職場に新しい女性が入ってきました。いろいろ勉強しているのが分かりますし、美山のここにこんな遺蹟があるよ、とか山城のことも教えてくれて、硬くなりつつある我が脳をクチュクチュとマッサージしてくれます。
師匠が籠もられる時季、約束の随筆の執筆は進んでいるか、聞いておいて下さい。
ねぎ焼についてまたまた質問。焼きあがった上に何か塗ってあるのですか?
私が作るネギ焼はその都度違ってしまい、「まるでお好み焼きを食べているようだ。」と言われ、「多分お好み焼きなんでしょ。中に入っているものがネギが大量ということなんだと思うわよ。」と今は結論付けております。