今回は「『西陣しらみつぶし』やぁ」と師匠。勿論のことながら「西陣の虱潰し」ではなく、「西陣を虱潰し」であります。かねがね、上京区及びその周辺には見るべきものが多いと思っておりましたが、これをば片っ端から見ていこうとするものです。今回は、西陣で幼少期を過ごされた方も夫婦で御参加いただき、智恵光院や妙蓮寺などをご教示いただいたので、大切なスポットを見落とさずに済みました。
まだ、考古資料館前の碑等々、今回は通過していない処も多々ありますので、徹底的な虱潰しには未だ何回かの徘徊を必要とします。金閣銀閣・清水寺ばかりが京都に非ず、誠に京都は奥が深い。
地下鉄北大路駅を起点に北大路堀川まで西行します。北大路に面した和菓子屋の中に「右大徳寺 左光悦寺(原文は仮名)」の石標があります。場所的に移されたのは間違いがないのですが、もともとはどの辺りにあったものか。これに関しては師匠が翌日に歴史資料館に問い合わせたところ、資料館でも早速調べてみるということでした。色々な工事などで破壊されてしまうよりは遥かに良いのですが、道標は建立者の気持ちを考えるとできるだけ元々の位置に置くべきです。
堀川通の西側を少し下ったところに1小野篁・紫式部の墓であります。斯様な有名人が墓を並べているとは何とも興味深いのでありますが、本当に昔の墓を思わせる土饅頭が二つ、それぞれに小さな五輪塔が置かれています。また、それぞれの墓には立派な榮域碑と顕彰碑が立てられています。墓の主の真偽はともかく、往時はこのような土饅頭が延々と連なっていたのでしょう。現在は島津製作所が綺麗に管理しています。流石にノーベル賞企業。入り口の小野篁の墓を示す碑、加賀藩の横山某氏と多分小野氏の直系の小野某氏が名を連ねています。小野氏は分かりやすいが横山氏は?ということで調べてみると武蔵七党(武士団)の一つである横山党は小野篁の子孫を名乗っていたそうで、関東の武士団などは全て桓武平氏だと乱暴に思っていた身としては本当に勉強になりました。昼は平安京の朝廷に仕え、夜は閻魔の庁に出仕した小野篁、遣唐副使の職を放り出したことでも知られていますが、隣に紫式部の墓ができたときには喜んだでしょうか?
小野篁榮域碑
島津製作所の南の道を西に200mほど行けば2玄武神社、本来は平安宮の北方鎮護かと思われますが、現在の御祭神は我が惟喬親王です。疫病対策である「やすらい祭」は、この北方にある今宮神社の祭が有名ですが、このお社でも「玄武やすらい祭」が挙行されるとのことです。神社に隣接して今宮神社の御旅があります。平生は駐車場に使うほど広いところですから、もしかしたら今宮神社の御旅で行われるものをそのようにいうのかも知れません。この辺はもう少し調べてみようと言うところです。
今の今まで全く気づかなかったのが石灯籠に彫られた「玄武石鹸」、第一製薬工業の商標だったそうです。それにしても「モノゲン」の「ゲン」が玄武の玄であったとは本当に世の中知らないことだらけです。奇遇ですが、今回同行された奥様がこの会社に勤めておられたということで、玄武石鹸の名にも懐かしそうにされていました。これも師匠情報によりますと「モノ」の部分は創業者の一人であるM.ONOさん(小野茂平)から来ているそうで、再び小野氏が姿を顕しました。そう言えば惟喬親王も小野宮です。
玄武神社
今宮神社御旅所
玄武石鹸
現在、岩倉にある実相院は応仁の乱以前はこの付近にあったそうです。今は、一見したところ民家と間違えるような寺が残っています。それにしても、昔から今に至るまで寺はよう動いています。蘆山寺などももともとはこの辺りにあったようですが、移転した先が紫式部が住んでいた所だった(藤原為時邸)等は本当に坊主丸儲けですね。
3 実相院の名残
鞍馬口通から上御霊前通辺りまで下り、細い道をクネクネと歩き製材店の敷地ではないかと思われる中を過ぎ、出たところが4櫟谷七野春日神社です。我が師匠は何やら小路センサーのようなものを備えているようで、小生一人ならばよう見付けずに終わるところを的確に目的地に向かいます。
この神社の一画が5加茂斎院跡で、後鳥羽上皇の時に廃絶するまで上賀茂神社に仕える斎院(皇女から選ばれる)の屋敷があったところです。今は斎院が皇女から選ばれることはなくなっていますから、葵祭の際に選ばれるのは確かに「斎王代」な訳です。ここでは、現在でも葵祭の際には斎王代による献茶が行われます。確かにここを北に上がっていけば上賀茂ですが、社家の屋敷が神社のすぐ近くに列んでいることを考えると、肝心要の斎院の屋敷が「ちょっと遠いかな」と思われます。けれども伊勢神宮とその斎宮(斎王邸)の距離(これは随分離れている)から考えると別段遠くもない。神社とそれを祭る巫女王としての斎院や斎王の住まいの距離感、どのような意味があるのでしょうか。また、この斎院跡の地に限って言えば上賀茂神社よりも往時の死体処理場である蓮台野の方が近いように思われますので、「死穢」の問題はどうなのでしょうか。さらに、祇園祭の稚児は五位の位を朝廷からもらうそうですが、斎王代についてはどうなのでしょうか。と宿題ばかりが増えていきます。
ここで、鞍馬口智恵光院まで北に戻り、蕎麦の名店6「かね井」でちょっと一杯。11時30分に開店のところを45分に来ましたが、ちょうど営業中と看板を裏返したところで、待たずに座れました。雨が蕭々と降る中で坪庭を見ながら「琵琶の長寿」を飲む。なかなか贅沢な時間です。けれども、修学旅行の中学生たちがこの店に一番乗りしていたのには驚きました。「お前ら、渋すぎるやんけ。」と申す処。それにしても、小生がここに来るときには必ず雨が降っています。まだ先があるのでここでは焼き味噌をアテに一合ずつで我慢です。
「かね井」には看板も何もない。
この付近には、行列のできるワラビ餅屋の「茶洛」や風呂屋を改造したカフェー、そして全国銭湯ファン垂涎の船岡温泉などがならんでいます。
風呂屋カフェー
今宮神社参道
7 船岡温泉(最初から見学予定のものに番号)
今宮神社門前のあぶり餅、小生はその量に不満があるのですが、今回その店ですき焼きも食えると教えていただきました。何か特別なコネが要るのでしょうか。雨中の船岡山に登る提案は却下されました。
船岡山建勲神社参道
ここよりぐっと南下して8猫寺・称念寺 へ。この猫の恩返しの話、我が家の猫どもにもよくよく語り聞かせなければなりません。トップの写真はこの猫寺のクチナシです。改めて地図を見ると乾隆校のすぐ近く、よくウロウロしているところですが、全く知らんかったなあ(詠嘆)。本日は雨のためか主人公たる猫の姿は全く見られません。
猫寺・本堂、横の松は「猫松」と言われる。
西陣の町家見直しの気分の中で真っ先に整備された浄福寺通、小綺麗な道を上立売通まで来たら9岩上神社があります。普通の岩が祀られているだけに何やかやと因縁話が残ります。右京区京北井崎のチイワハンなる岩もこのように祀ってあげなくてはならないかな?何にしても京都盆地が鴨川の氾濫原だったころの名残、平安京建設のころにはこういった岩や大石がゴロゴロしていたのでしょう。手水場にあるように確かに「岩神」さんです。
浄福寺通
岩上神社のすぐ近くに10雨宝院、一般には西陣聖天といわれているそうですが、神仏混淆の象徴みたいなところで、神さん仏さん、もう何でも有りです。お堂に作られた方10㎝ほどの穴からそれぞれの神仏を拝観することができ、何やらのぞき絡繰りのようです。それでも一体一体の仏像神像は立派なものです。西陣織の糸を染めるために使った井戸、その名も「染殿井」も境内にあります。
八十四翁動潮之を建つ
岩上神社のすぐ南には日蓮宗の11本隆寺、近時所謂「鎌倉仏教」なるものが実際に爆発的に教勢を拡大したのは戦国時代であるので、「戦国仏教」なる概念が提起されていますが、日蓮宗もまた然りで、15世紀から16世紀にかけて京中に多くの信者を得ました。基本的には京都の町衆は「法華」だったのであります。本隆寺は日真(戦国時代に活躍した日蓮宗の僧の一人)によって始まった真門流の寺です。他の宗派ですと○○宗××派という言い方が多いのですが、日蓮宗では××流という言葉が定着しているようです。それにしても何故に仏教の宗派は分裂し分裂するのでしょうか、まあこれは仏教だけではありませんが、人間というものはある面で「もめる生き物」といえそうです。仏も坊主に「喧嘩するなよ」と注意すべきかと云々。
ただ日蓮宗としての団結は勿論あった訳で、1536年の法華一揆で壊滅的打撃を受けるまでは一向宗に対しては協力して戦っています。京都の町衆は勿論法華の信者ですから、この時期は西陣は武装寺家町であった訳です。寺内町という言葉でもいいかなと思いますが、この言葉は多くは一向宗の寺を中心とした集落に対して使いますので寺家町としましたが、これが妥当かどうかは分かりません。この状況を概括すれば応仁の乱後上京と下京だけになった京の町、上京は法華の中心で随所に釘貫などの防御施設を設置した武装独立都市、京都市周辺の農村地帯、例えば桂や向日、松ヶ崎などは一向宗が浸透、武装農民がジワジワと上京を取り囲むというところでしょう。
本隆寺
タカオカエデ
慶長年間の燈籠
西陣五井のうち千代井
今出川通に程近い12首途八幡宮まで来ました。源義経を奥州へと誘った金売り吉次の屋敷があったといわれていますが、右京区の妙心寺の近くに首途の井というのがあり、全く同じ話が伝わっています。首途と書いて「かどで」と読ませる。確かに義経は最後は酒に浸された首となって鎌倉に送られましたから、字面は合っています。八幡さんの社殿があるところは少し高くなっていますが、これは円墳の上に建てられているからということです。
西陣中央小学校は、この辺りの幾つかの小学校が統合されたものです。駐車場の向こうの木が見えている辺りに観世井があります。この小学校の統合、小学生というものは校区に縄張り意識を持っているので、OBたるものは全員が不満、けど「しゃーない」で為されています。常々、山間の廃校を巡るのが半分趣味のようになっていますが、街中でも同じことをしています。
今出川通に出ました。何の変哲もないところでありますが、この辺りを13千両ヶ辻と言ったそうで、かつての西陣の商いの中心地です。けれども一つだけ残っていた北東角の信用金庫が支店閉鎖のお知らせなどを貼っていますから、この辺りの金融機関は全て撤退となりました。
さて、ここでどうするのかなと思っておりますと、またもグッと北上して上御霊通まで。14妙蓮寺に向かいます。日蓮の直弟子の日像が開基でありますから、他のこの辺りの日蓮宗の名刹と比べても最も古い寺と言えるでしょう。現在の地に移ったのは秀吉の時だそうです。
再び、今出川通へと南下します。北へ南へ、これぞ徘徊です。途中の西陣小学校は既に廃校です。建物はなかなかに趣が深いものですから、何かに転用して残してもらいたいですね。
「西陣」の由来となった15山名宗全邸跡です。応仁の乱の西軍の中心、東軍の細川勝元の本営は相国寺、ともに丸焼けです。二人とも乱の最中に病死しますからちょっと無責任。応仁の乱後から信長の入京までの複雑怪奇な時代相が最も面白いのだと我々も無責任。実際に、その時代に生きるというのは現代のイラクやパレスチナに生きるようなもので、たまらんでしょうが。
ティータイムは16西陣織会館、着物のファッションショーなどもやっています。利用者、我々以外はほぼ100%支那からの客です。連中は声がデカイ。けれども、これはこれで現代京都を考察するに好材料を与えてくれますから、一見の価値ありです。コーヒーの味は「まあひとまず出しておこう」程度。横で見ていましたが、グリーンティちゅうやつはハッキリ粉末ですね。相手が如何にツァー客でも、やはり京都であるならばホンモノでもてなすべきでしょう。
晴明神社付近は桃山時代は聚楽第の城下(不適切かも知れませんが)にあたり、17千利休の屋敷もここにありました。「成る程、屋敷のすぐ前だから利休の首は戻り橋に晒されたのですね。」と言うと、師匠、「いや、戻り橋は時代によって動いていて、利休の首が晒されたときには中立売に架かっていたようだ。中立売こそ聚楽第があったころの京都のメインストリートだから、そこに晒したのだ。」ということ。真に奥が深い。今で言えば四条河原町に首を晒した(しかも利休自身の木像に首を踏ませる形で)みたいなものですから、当時の人は辟易としたでしょう。伏魔殿の如き観光寺院に比べると遥かにましですが、晴明神社は近年金儲けに忙しいと言うことで、通過点とします。我々などは五芒星を見るとF6Fヘルキャットなどを思い出し、神紋としてはどうも違和感がありますが。
晴明神社鳥居
秀吉時代の馴染みの武将もこのあたりに屋敷を構えました。黒田如水は小生の好きな武将の一人です。「犬オシッコお断り」が面白い。
18 黒田如水邸跡
もう一度行けと言われるとどこかわかりませんが、19聚楽第北辺の石垣が下に眠っている石垣。師匠、ようこんなところを見つけはりましたなあ。
と、ここから先もチンタラと書きつづっておったのですが、投稿したところ、「本文は1万文字以内」というシルシが出ました。ウー、ショックぢゃ。ということで是までを前編とし、大団円は後編にてということにします。
まだ、考古資料館前の碑等々、今回は通過していない処も多々ありますので、徹底的な虱潰しには未だ何回かの徘徊を必要とします。金閣銀閣・清水寺ばかりが京都に非ず、誠に京都は奥が深い。
地下鉄北大路駅を起点に北大路堀川まで西行します。北大路に面した和菓子屋の中に「右大徳寺 左光悦寺(原文は仮名)」の石標があります。場所的に移されたのは間違いがないのですが、もともとはどの辺りにあったものか。これに関しては師匠が翌日に歴史資料館に問い合わせたところ、資料館でも早速調べてみるということでした。色々な工事などで破壊されてしまうよりは遥かに良いのですが、道標は建立者の気持ちを考えるとできるだけ元々の位置に置くべきです。
堀川通の西側を少し下ったところに1小野篁・紫式部の墓であります。斯様な有名人が墓を並べているとは何とも興味深いのでありますが、本当に昔の墓を思わせる土饅頭が二つ、それぞれに小さな五輪塔が置かれています。また、それぞれの墓には立派な榮域碑と顕彰碑が立てられています。墓の主の真偽はともかく、往時はこのような土饅頭が延々と連なっていたのでしょう。現在は島津製作所が綺麗に管理しています。流石にノーベル賞企業。入り口の小野篁の墓を示す碑、加賀藩の横山某氏と多分小野氏の直系の小野某氏が名を連ねています。小野氏は分かりやすいが横山氏は?ということで調べてみると武蔵七党(武士団)の一つである横山党は小野篁の子孫を名乗っていたそうで、関東の武士団などは全て桓武平氏だと乱暴に思っていた身としては本当に勉強になりました。昼は平安京の朝廷に仕え、夜は閻魔の庁に出仕した小野篁、遣唐副使の職を放り出したことでも知られていますが、隣に紫式部の墓ができたときには喜んだでしょうか?
小野篁榮域碑
島津製作所の南の道を西に200mほど行けば2玄武神社、本来は平安宮の北方鎮護かと思われますが、現在の御祭神は我が惟喬親王です。疫病対策である「やすらい祭」は、この北方にある今宮神社の祭が有名ですが、このお社でも「玄武やすらい祭」が挙行されるとのことです。神社に隣接して今宮神社の御旅があります。平生は駐車場に使うほど広いところですから、もしかしたら今宮神社の御旅で行われるものをそのようにいうのかも知れません。この辺はもう少し調べてみようと言うところです。
今の今まで全く気づかなかったのが石灯籠に彫られた「玄武石鹸」、第一製薬工業の商標だったそうです。それにしても「モノゲン」の「ゲン」が玄武の玄であったとは本当に世の中知らないことだらけです。奇遇ですが、今回同行された奥様がこの会社に勤めておられたということで、玄武石鹸の名にも懐かしそうにされていました。これも師匠情報によりますと「モノ」の部分は創業者の一人であるM.ONOさん(小野茂平)から来ているそうで、再び小野氏が姿を顕しました。そう言えば惟喬親王も小野宮です。
玄武神社
今宮神社御旅所
玄武石鹸
現在、岩倉にある実相院は応仁の乱以前はこの付近にあったそうです。今は、一見したところ民家と間違えるような寺が残っています。それにしても、昔から今に至るまで寺はよう動いています。蘆山寺などももともとはこの辺りにあったようですが、移転した先が紫式部が住んでいた所だった(藤原為時邸)等は本当に坊主丸儲けですね。
3 実相院の名残
鞍馬口通から上御霊前通辺りまで下り、細い道をクネクネと歩き製材店の敷地ではないかと思われる中を過ぎ、出たところが4櫟谷七野春日神社です。我が師匠は何やら小路センサーのようなものを備えているようで、小生一人ならばよう見付けずに終わるところを的確に目的地に向かいます。
この神社の一画が5加茂斎院跡で、後鳥羽上皇の時に廃絶するまで上賀茂神社に仕える斎院(皇女から選ばれる)の屋敷があったところです。今は斎院が皇女から選ばれることはなくなっていますから、葵祭の際に選ばれるのは確かに「斎王代」な訳です。ここでは、現在でも葵祭の際には斎王代による献茶が行われます。確かにここを北に上がっていけば上賀茂ですが、社家の屋敷が神社のすぐ近くに列んでいることを考えると、肝心要の斎院の屋敷が「ちょっと遠いかな」と思われます。けれども伊勢神宮とその斎宮(斎王邸)の距離(これは随分離れている)から考えると別段遠くもない。神社とそれを祭る巫女王としての斎院や斎王の住まいの距離感、どのような意味があるのでしょうか。また、この斎院跡の地に限って言えば上賀茂神社よりも往時の死体処理場である蓮台野の方が近いように思われますので、「死穢」の問題はどうなのでしょうか。さらに、祇園祭の稚児は五位の位を朝廷からもらうそうですが、斎王代についてはどうなのでしょうか。と宿題ばかりが増えていきます。
ここで、鞍馬口智恵光院まで北に戻り、蕎麦の名店6「かね井」でちょっと一杯。11時30分に開店のところを45分に来ましたが、ちょうど営業中と看板を裏返したところで、待たずに座れました。雨が蕭々と降る中で坪庭を見ながら「琵琶の長寿」を飲む。なかなか贅沢な時間です。けれども、修学旅行の中学生たちがこの店に一番乗りしていたのには驚きました。「お前ら、渋すぎるやんけ。」と申す処。それにしても、小生がここに来るときには必ず雨が降っています。まだ先があるのでここでは焼き味噌をアテに一合ずつで我慢です。
「かね井」には看板も何もない。
この付近には、行列のできるワラビ餅屋の「茶洛」や風呂屋を改造したカフェー、そして全国銭湯ファン垂涎の船岡温泉などがならんでいます。
風呂屋カフェー
今宮神社参道
7 船岡温泉(最初から見学予定のものに番号)
今宮神社門前のあぶり餅、小生はその量に不満があるのですが、今回その店ですき焼きも食えると教えていただきました。何か特別なコネが要るのでしょうか。雨中の船岡山に登る提案は却下されました。
船岡山建勲神社参道
ここよりぐっと南下して8猫寺・称念寺 へ。この猫の恩返しの話、我が家の猫どもにもよくよく語り聞かせなければなりません。トップの写真はこの猫寺のクチナシです。改めて地図を見ると乾隆校のすぐ近く、よくウロウロしているところですが、全く知らんかったなあ(詠嘆)。本日は雨のためか主人公たる猫の姿は全く見られません。
猫寺・本堂、横の松は「猫松」と言われる。
西陣の町家見直しの気分の中で真っ先に整備された浄福寺通、小綺麗な道を上立売通まで来たら9岩上神社があります。普通の岩が祀られているだけに何やかやと因縁話が残ります。右京区京北井崎のチイワハンなる岩もこのように祀ってあげなくてはならないかな?何にしても京都盆地が鴨川の氾濫原だったころの名残、平安京建設のころにはこういった岩や大石がゴロゴロしていたのでしょう。手水場にあるように確かに「岩神」さんです。
浄福寺通
岩上神社のすぐ近くに10雨宝院、一般には西陣聖天といわれているそうですが、神仏混淆の象徴みたいなところで、神さん仏さん、もう何でも有りです。お堂に作られた方10㎝ほどの穴からそれぞれの神仏を拝観することができ、何やらのぞき絡繰りのようです。それでも一体一体の仏像神像は立派なものです。西陣織の糸を染めるために使った井戸、その名も「染殿井」も境内にあります。
八十四翁動潮之を建つ
岩上神社のすぐ南には日蓮宗の11本隆寺、近時所謂「鎌倉仏教」なるものが実際に爆発的に教勢を拡大したのは戦国時代であるので、「戦国仏教」なる概念が提起されていますが、日蓮宗もまた然りで、15世紀から16世紀にかけて京中に多くの信者を得ました。基本的には京都の町衆は「法華」だったのであります。本隆寺は日真(戦国時代に活躍した日蓮宗の僧の一人)によって始まった真門流の寺です。他の宗派ですと○○宗××派という言い方が多いのですが、日蓮宗では××流という言葉が定着しているようです。それにしても何故に仏教の宗派は分裂し分裂するのでしょうか、まあこれは仏教だけではありませんが、人間というものはある面で「もめる生き物」といえそうです。仏も坊主に「喧嘩するなよ」と注意すべきかと云々。
ただ日蓮宗としての団結は勿論あった訳で、1536年の法華一揆で壊滅的打撃を受けるまでは一向宗に対しては協力して戦っています。京都の町衆は勿論法華の信者ですから、この時期は西陣は武装寺家町であった訳です。寺内町という言葉でもいいかなと思いますが、この言葉は多くは一向宗の寺を中心とした集落に対して使いますので寺家町としましたが、これが妥当かどうかは分かりません。この状況を概括すれば応仁の乱後上京と下京だけになった京の町、上京は法華の中心で随所に釘貫などの防御施設を設置した武装独立都市、京都市周辺の農村地帯、例えば桂や向日、松ヶ崎などは一向宗が浸透、武装農民がジワジワと上京を取り囲むというところでしょう。
本隆寺
タカオカエデ
慶長年間の燈籠
西陣五井のうち千代井
今出川通に程近い12首途八幡宮まで来ました。源義経を奥州へと誘った金売り吉次の屋敷があったといわれていますが、右京区の妙心寺の近くに首途の井というのがあり、全く同じ話が伝わっています。首途と書いて「かどで」と読ませる。確かに義経は最後は酒に浸された首となって鎌倉に送られましたから、字面は合っています。八幡さんの社殿があるところは少し高くなっていますが、これは円墳の上に建てられているからということです。
西陣中央小学校は、この辺りの幾つかの小学校が統合されたものです。駐車場の向こうの木が見えている辺りに観世井があります。この小学校の統合、小学生というものは校区に縄張り意識を持っているので、OBたるものは全員が不満、けど「しゃーない」で為されています。常々、山間の廃校を巡るのが半分趣味のようになっていますが、街中でも同じことをしています。
今出川通に出ました。何の変哲もないところでありますが、この辺りを13千両ヶ辻と言ったそうで、かつての西陣の商いの中心地です。けれども一つだけ残っていた北東角の信用金庫が支店閉鎖のお知らせなどを貼っていますから、この辺りの金融機関は全て撤退となりました。
さて、ここでどうするのかなと思っておりますと、またもグッと北上して上御霊通まで。14妙蓮寺に向かいます。日蓮の直弟子の日像が開基でありますから、他のこの辺りの日蓮宗の名刹と比べても最も古い寺と言えるでしょう。現在の地に移ったのは秀吉の時だそうです。
再び、今出川通へと南下します。北へ南へ、これぞ徘徊です。途中の西陣小学校は既に廃校です。建物はなかなかに趣が深いものですから、何かに転用して残してもらいたいですね。
「西陣」の由来となった15山名宗全邸跡です。応仁の乱の西軍の中心、東軍の細川勝元の本営は相国寺、ともに丸焼けです。二人とも乱の最中に病死しますからちょっと無責任。応仁の乱後から信長の入京までの複雑怪奇な時代相が最も面白いのだと我々も無責任。実際に、その時代に生きるというのは現代のイラクやパレスチナに生きるようなもので、たまらんでしょうが。
ティータイムは16西陣織会館、着物のファッションショーなどもやっています。利用者、我々以外はほぼ100%支那からの客です。連中は声がデカイ。けれども、これはこれで現代京都を考察するに好材料を与えてくれますから、一見の価値ありです。コーヒーの味は「まあひとまず出しておこう」程度。横で見ていましたが、グリーンティちゅうやつはハッキリ粉末ですね。相手が如何にツァー客でも、やはり京都であるならばホンモノでもてなすべきでしょう。
晴明神社付近は桃山時代は聚楽第の城下(不適切かも知れませんが)にあたり、17千利休の屋敷もここにありました。「成る程、屋敷のすぐ前だから利休の首は戻り橋に晒されたのですね。」と言うと、師匠、「いや、戻り橋は時代によって動いていて、利休の首が晒されたときには中立売に架かっていたようだ。中立売こそ聚楽第があったころの京都のメインストリートだから、そこに晒したのだ。」ということ。真に奥が深い。今で言えば四条河原町に首を晒した(しかも利休自身の木像に首を踏ませる形で)みたいなものですから、当時の人は辟易としたでしょう。伏魔殿の如き観光寺院に比べると遥かにましですが、晴明神社は近年金儲けに忙しいと言うことで、通過点とします。我々などは五芒星を見るとF6Fヘルキャットなどを思い出し、神紋としてはどうも違和感がありますが。
晴明神社鳥居
秀吉時代の馴染みの武将もこのあたりに屋敷を構えました。黒田如水は小生の好きな武将の一人です。「犬オシッコお断り」が面白い。
18 黒田如水邸跡
もう一度行けと言われるとどこかわかりませんが、19聚楽第北辺の石垣が下に眠っている石垣。師匠、ようこんなところを見つけはりましたなあ。
と、ここから先もチンタラと書きつづっておったのですが、投稿したところ、「本文は1万文字以内」というシルシが出ました。ウー、ショックぢゃ。ということで是までを前編とし、大団円は後編にてということにします。
私は西陣生まれとは申せ、それも戦中(太平洋戦争です)の7年間を暮らしただけで、寺社や旧跡を巡る風潮は途絶えた時代でした。従いまして、今回の「西陣を虱(蚤も)潰し」企画の中では、未知の場所が殆んどで、興味の尽きないものがありました。
ただ、徘徊堂さんが冒頭で指摘されていますように、道標などの移設はやはり慎重と正確を期してほしいものです。と言うより、移設は基本的に厳禁として、元の位置付近(1~2メートル以内とか)に置かないと全く意味が無くなります。どうしても移設が必要な場合は、何らかの形で元の場所を明記して併設すべきではないですか。
今回の徘徊録を読んで、当日巡った場所が明確に蘇えります。歴史に疏い家内も、「玄武神社」には感慨深いものがあったみたいです。「妙蓮寺」の横塀の脇には従妹の家(機屋)があって、裏庭の木戸口から境内へ入れたものです。完全に近所の子供等の遊び場所でした。昔の寺は、名刹でもそれほど開放的だったのでしょう。
観光地の寺社でさえ、長い間に亘って拝観は無料でしたから。あの雨の日でも「晴明神社」は人気がありましたが、昔の閑散とした様子が信じられません。もちろん、一条戻り橋も狭くて粗末な物でした。
徘徊堂さんは、さすがに「猫寺」を最興の場所に見ておられるようですが、別宅の庭にも梔子の木を植えてください。猫が喜びます。「かね井」の蕎麦は清々しく引き締まった絶妙の口当たりでした。銘酒がいっそう効果的だったのかも。それにしても、中学生の団体は引率の先生の指導でしょう。なかなか人望のある教師かと。生徒共は各自で財布から札を出していましたが。
それにしても、興味の尽きない場所へのご案内を有難うございました。また、足手纏でしょうけど(もう少し遅歩で、とは家内の希望です)、続編を期待しています。
道標に関しても全く同感で、大阪の京橋にもそれは見事な道標があるのですが、惜しいかな方向を全く考えずに移設してあります。そのあたりに気が付くかどうかが、移設する側の見識だと思いますが、道標を買い求めて庭に置いたりするのはさらによくないと思います。
実はクチナシは1本植わっています。一昨年に芋虫にやられてまる裸になりましたが、今年は葉が復活しています。いつ花が咲くかはわかりません。
このところ、京都もさることながら大阪もかなりのネタを仕入れております(殆ど師匠があつめているのですが)。お時間が有れば、またご夫婦で御光来下さい。
西陣の範囲を調べだしたら切りがないかもしれませんがまあどの様な陣営だったかというのは大きなテーマだと思います。
京都自体も平安京造営前から戦乱の世、近世になってからといろいろ変遷しているのでしょう。その中で道標が大きなテーマになるのは道標師匠がご一緒であるので当然でしょう。ちゃんと記録にまとめておいて人様がその資料をコピーに来られる様に成果をまとめて頂きます様お伝え下さい。我が家への坂道の登り口にも古い石標があるのですがこれも近くから移されたそうです。こういったことは我が家の下にお住まいだった先生が書いておられるのですが、こうして記録に残して頂いているのは有り難いことです。ただ私が許せないのは出町柳商店街が平成になって「鯖街道口」なる石標を立てたことです。これは石標を移動せざるを得なかったという次元ではなく捏造という次元かもしれません。しかしこれも数十年も経てばそれを見た人は蘊蓄を語る対象になることでしょう。歴史史実に対して良心をもって対処しなければならないと思います。逆に我々も古いからと頭から信用しない方がいいのかもしれません。
史跡を訪ね歩くのは体のみならず頭の健康にも良し、締めは美味い酒となればこれ程の精神的健康に良いものはなく、ストレスとは無関係の世界ですな。しかし今までの徘徊をまとめて著作になんてプレッシャーを与えるとストレスになるかも(^_*)
大阪の時はご一緒したいですね。阿倍野や住吉、、、
道標は、あくまで旅人の便を図って建てられたものですから、その建立の精神は大切にすべきですね。三宅安兵衛さん父子のように全く無償の行いによるものも多々あると思われます。そこからいくと、商店街の宣伝目的のみという感じの出町の鯖街道口の碑はおっしゃっておられますように腹の立つことです。どうしても建てるならば、朽木街道の入り口、三宅八幡付近が妥当だったのではと思います。
まあ、ただ口承の力というものは強いものだと思いますから、今後多くの人が話題にはするでしょうが、「いやー、あれはウソや」という人も数多く出てくると思います。
大阪散歩、是非お行きになりたいというところがありましたら、またお知らせ下さい。宜しくお願い申し上げます。
西陣徘徊楽しく見せて頂きました。文中に触れられていられます、
>応仁の乱の西軍の中心、東軍の細川勝元の本営は相国寺・・・。このこと、何時だったか放送でちらっと聞いたような、定かで無いですが、西陣に対して東軍とは京都御所の北、相国寺門前町~上御霊辺りが東陣跡だとか。それが現代は西陣だけが残り東陣の名は消えた。これってホントかしら??何か其処だけが妙に頭に残っています。
こうして文章を見せて頂くと西陣も広いですね。ほんとに知らない所ばかりです。雨宝院の時雨の松や本隆寺の井戸(西陣五水一つ)など随分昔に行きました。私は食い気ばかりで、西陣へ行くとお酒でなく鶴屋吉信の2階でお抹茶セットを頂くのが楽しみなのですよ♪
そういえば、鶴屋吉信は雨の日であったにもかかわらず随分と栄えていました。何か入り口で立ち止まったような気もするのですが、結局西陣織会館に行ってしまいました。