本日は、師匠の案内で平安京の入り口付近からの徘徊であります。合わせてちょうど月の21日ということで、東寺の弘法市も冷やかそうという算段。好天下、たくさんの方々にご参加いただきました。ありがとうございます。
集合地点はJR西大路駅、そのまま西大路を北上して、若一神社。御祭神は若一王子ということですが、この王子は熊野三山への道筋に点々と存在する「~王子」と同様のものと思われます。光仁天皇(桓武天皇父)のころから祀られていたとありますが、途中で一度姿を隠されたというのがポイントで、熊野信仰が盛んになるのは院政期から平安末ですから、平清盛がここに西八条第を建設するに当たって熊野権現を勧請した神社であると考えられます。
現在では、境内の外になっていますが、平清盛手植えの楠や名水が飲めるところがあります。師匠によると本来は西大路通の半ば辺りまで神社の境内があったものが、道路拡幅の際に、社殿は移設できたが、楠は移すことができず、境内外にあるという現代の構図になったとのこと。
清盛手植えの楠
楠の横に御霊石なるものもありました。境内には妓王の歌碑もありました。狒々親父として知られる清盛ですが、ここではもう神様です。近年スケベ親父清盛というイメージを取り払おうという試みが為されていて、NHKの大河ドラマなどもそういう視点で作られていると思われますが、苦戦しているようですね。未だ未だ庶民は清盛に悪人であって欲しい?今思いついたのですが、常盤、妓王、妓女、仏御前などはメジャーですが、能勢の名月姫などメジャーではない各地の伝承も集め「清盛に泣かされた女」列伝を造ればおもしろいかも。全100巻になったりして。
御霊石
妓王歌碑
西塩小路通まで北上し、少し東に行くと「水薬師」。平清盛が熱病で亡くなったことはよく知られています。実は清盛というのはすぐに熱を出す体質であったらしく、最後の熱病になるまでも熱病に苦しめられたことがありました。その時に清盛の身体を冷やしたのがここの水と言われています。若一神社と同じく、地下の京都湖の水がやはり湧き出しているのでしょう。
入り口は幼稚園
水薬師
西塩小路御前を南下してすぐに西に入ると稲住神社です。この辺りは陰陽道から暦学の家となっていった土御門家の邸宅跡で、その祖である安倍晴明を祀ります。今映画で話題となっている渋川晴海(安井算哲でもあったとは知らなんだ)の遺跡がこの付近に残るのも土御門家との関係です。
稲住神社
御前通に出てすぐの角に梅林寺、渋川晴海が渾天儀を設置した台が残ります。この渾天儀なるもの、如何に解説書を見てもさっぱり分かりません。小生が如何に現代人だといっても300年も前に亡くなった渋川晴海の方が科学的知識は遥かに上です。この寺の門前でワイワイ言っていると寺の方が出てこられて、「予め言っておいて下されば、中に入ってもらえるのですが。」ということ。「とにかく寺は開いてんとあかん!」が持論の師匠、この寺も超閉鎖的ではなくてよかったですね。
梅林寺から南へ50メートルほどで円光寺、こちらの寺へは師匠が予め電話を入れておいて下さいました。庭に入れていただき、御住職が話を聞かせて下さいました。ありがとうございました。
円光寺渾天儀設置台石
台石ばかりに目を奪われていましたが、庭も素晴らしい。御住職によると鞍馬の石も鴨川の石も京都の名石は全部使われているとのことです。
そのまま御前通を南下、JRの線路下を通って、先ずは現在の西寺。かつかつに旧西寺の境内の中に入るかなというところです。その隣に道祖神社。
このすぐ東南に西寺公園、西寺跡の碑が立っているところです。ここの広場を利用して本日出席されている方々の顔合わせです。11名参加いただいているのですが、東は鎌倉(驚)から西は西宮まで全員住んでいる市が違うというのはなかなかにおもしろい。ちなみに北は亀岡、南は大阪の都島区であります。
西寺跡
空海に与えられた東寺が今も栄えているのに対し、守敏に与えられた西寺は早く滅びました。そのことを説明するために様々な説話が生み出されます。太平記に引かれている説話が、一つの完成形を示していると考えられますが、それによると空海を逆恨みした守敏が空海を殺そうとして、逆に自分が死ぬことになってしまう。富永仲基の「加上」などという難しい言葉を持ち出さなくてもこれらは西寺が滅びたため、その理由を説明するために説話が創られていったことは明らかです。
諸国に伝わる六部殺しや旅人殺しの伝承などもその地域でのある家の急速な富裕化を説明するために話が作られ、今度は逆に話が辺りの人を支配するようになって、殺された六部の霊が近隣の人に乗り移ったりするようになる(実際には六部が殺されたという事実はないのに)。ここは高僧でありながら、堕地獄の破戒僧に仕立て上げられた守敏に大いに同情すべきでしょう。
この公園の一角に鎌達稲荷、此処も亦陰陽道の土御門家等が祀っていた神社と言われているようです。
鎌達稲荷
土居のバス停が示すように、この辺りにも豊臣秀吉による御土居がありました。ということは、その時代にはこの辺りはなお洛中として意識されていたということです。但し、名が残るのみで実際の御土居や堀は跡形もありません。
さらに進んで羅城門跡、羅城門がここだということは千本丸太町上がるの大極殿跡と並んで、最初は文献によって決められたということ。その後の精査にも堪え、場所としてはほぼ正解だろうと言われています。その際の基準となったものが、つまり平安時代から動いていないだろうと考えられたのが東寺の南門、こういうのは師匠の説明を聞くまで全く知りませんでした。
イメージとしての羅城門は、やはり早くに寂れて一帯が死体捨て場になっていたこと。アッタリマエですが、今はそのような雰囲気はどこにもありません。
羅城門跡から国道171号線に出たところに矢取地蔵尊、先ほどの守敏の説話に絡むお地蔵さんです。空海を暗殺しようと守敏が放った矢を自ら受けて、空海に難を逃れさせたという話が伝わります。最初にこういうのを次々に語った人というのは、やはり近所の「おもろいおっさん」だったのでしょうか。
道標
東寺が見えてきました。平安京の建物配置を復元する基準となる南門です。
さすがに弘法市、エライ人出です。昔はとにかく「安い!」というイメージがあったのですが、さすがに百均などの隆盛もあり、今はそう安いという感じはしません。小生に骨董品を見る目があれば、それなりにおもしろいのでしょうが、そういう目もないので人に酔うばかりです。
じいさんが死んだ時に、葬斂に来ていた近くの骨董屋のおっさんがある鉢を「1万5千円で買うでー。」と言ったのを、我が叔父はキッパリと断りました。数年後、小生はその鉢が犬のえさ入れになっているのを見ました。叔父も叔母も骨董屋のおっさんが言ったことを忘れてしまっていたのです。「犬の食器が一番高いなー、ハハハ」と笑う一族。こういう間抜けな血は小生にもしっかりと流れています。お好み焼きは安かった。
八幡さんの辺りは人がいない
南門から入り東門を出て、東寺通を近鉄にぶつかるまで進み、北上すると綜芸種智院跡です。御存じ空海が開いた庶民の学校。ここにある福田寺が今は浄土宗の寺であることもおもしろい。
近鉄の高架下を抜けて東に進むと伏見稲荷の御旅所、広大です。大丸呉服店の石柱などが立っていました。
堀川通を進み、東海道線の高架の下を抜けます。その入り口付近に平重衡受戒地の碑、これは最近建立されたものです。壇ノ浦で囚われとなった重衡が鎌倉に護送される時に、ここで法然から戒を授けられたとのこと。鎌倉では比較的安穏な生活を送ったようですが、後に興福寺に引き渡され、木津川河畔で斬首されたことはよく知られています。松永久秀と並んで「大仏殿を焼いた悪いヤツ」と評価されていますが、小生は重衡にも久秀にも同情します。そもそも大仏殿に立て籠もった連中が悪い。おー、今日は敗れし者の弁護ばかりやってるな。
高架下を出たところに以前にも行きましたが新選組不動村屯所跡。近くにある不動堂が村の名のおこりです。
不動村屯所跡
不動堂
油小路通を北上して本光寺、新選組を抜けて御陵衛士となった伊東甲子太郎が暗殺されたところです。
寺の前の碑を見てワイワイ言ってると近くの理容店のご主人が「住職さんは3年前に亡くなられたけれど、あんたらみたいな人が来たら開けたってとカギを預かっている。」と言って境内に入れて下さいました。これは多人数で騒いでいたためご主人に気付いてもらえたのでしょう。「数の威力やなあ」と師匠。理容店のご主人も偉いし、亡くなった御住職も偉い。ありがとうございました。
中にも伊東に絡む碑が有りましたが、その横に寺の名を示した石柱。本来は寺の門前にあるものですが、寺の門を従来よりも外側に移築したために門の中に入ってしまったということです。墓と間違えて作られている花立てもおもしろいですね。
その少し北に西川油店。徘徊の土産としての評判は上々です。そのまま北西方向に進み、西本願寺に入りました。
西川油店
西本願寺大銀杏
太鼓楼
本願寺内でずっと親鸞の命日の名称「報恩講」が頭の中から出てこず「あー気持ち悪い。」という状態になりました。同行の方がかつて見られた本願寺に向かうバスの大群はその報恩講の時のものです。正面通は最も門前町らしい門前町。伝道院は既に閉まっています。
師匠の徘徊でしかも京都となれば仁丹の住所表示は外せません。下京に3枚という木製の住所表示。
風呂敷屋さん
趣のある風呂敷屋さんの前を通って、着いたところが五条烏丸の蕎麦屋。蕎麦は実に美味でありましたが、師匠が風邪っ引きということで酒量はごく少なく、極めてお上品な飲み会となりました。酒を期待して参加いただいた方にはちょっと物足りなかったかな。て、そんなことを考えているのは自分だけかも。
集合地点はJR西大路駅、そのまま西大路を北上して、若一神社。御祭神は若一王子ということですが、この王子は熊野三山への道筋に点々と存在する「~王子」と同様のものと思われます。光仁天皇(桓武天皇父)のころから祀られていたとありますが、途中で一度姿を隠されたというのがポイントで、熊野信仰が盛んになるのは院政期から平安末ですから、平清盛がここに西八条第を建設するに当たって熊野権現を勧請した神社であると考えられます。
現在では、境内の外になっていますが、平清盛手植えの楠や名水が飲めるところがあります。師匠によると本来は西大路通の半ば辺りまで神社の境内があったものが、道路拡幅の際に、社殿は移設できたが、楠は移すことができず、境内外にあるという現代の構図になったとのこと。
清盛手植えの楠
楠の横に御霊石なるものもありました。境内には妓王の歌碑もありました。狒々親父として知られる清盛ですが、ここではもう神様です。近年スケベ親父清盛というイメージを取り払おうという試みが為されていて、NHKの大河ドラマなどもそういう視点で作られていると思われますが、苦戦しているようですね。未だ未だ庶民は清盛に悪人であって欲しい?今思いついたのですが、常盤、妓王、妓女、仏御前などはメジャーですが、能勢の名月姫などメジャーではない各地の伝承も集め「清盛に泣かされた女」列伝を造ればおもしろいかも。全100巻になったりして。
御霊石
妓王歌碑
西塩小路通まで北上し、少し東に行くと「水薬師」。平清盛が熱病で亡くなったことはよく知られています。実は清盛というのはすぐに熱を出す体質であったらしく、最後の熱病になるまでも熱病に苦しめられたことがありました。その時に清盛の身体を冷やしたのがここの水と言われています。若一神社と同じく、地下の京都湖の水がやはり湧き出しているのでしょう。
入り口は幼稚園
水薬師
西塩小路御前を南下してすぐに西に入ると稲住神社です。この辺りは陰陽道から暦学の家となっていった土御門家の邸宅跡で、その祖である安倍晴明を祀ります。今映画で話題となっている渋川晴海(安井算哲でもあったとは知らなんだ)の遺跡がこの付近に残るのも土御門家との関係です。
稲住神社
御前通に出てすぐの角に梅林寺、渋川晴海が渾天儀を設置した台が残ります。この渾天儀なるもの、如何に解説書を見てもさっぱり分かりません。小生が如何に現代人だといっても300年も前に亡くなった渋川晴海の方が科学的知識は遥かに上です。この寺の門前でワイワイ言っていると寺の方が出てこられて、「予め言っておいて下されば、中に入ってもらえるのですが。」ということ。「とにかく寺は開いてんとあかん!」が持論の師匠、この寺も超閉鎖的ではなくてよかったですね。
梅林寺から南へ50メートルほどで円光寺、こちらの寺へは師匠が予め電話を入れておいて下さいました。庭に入れていただき、御住職が話を聞かせて下さいました。ありがとうございました。
円光寺渾天儀設置台石
台石ばかりに目を奪われていましたが、庭も素晴らしい。御住職によると鞍馬の石も鴨川の石も京都の名石は全部使われているとのことです。
そのまま御前通を南下、JRの線路下を通って、先ずは現在の西寺。かつかつに旧西寺の境内の中に入るかなというところです。その隣に道祖神社。
このすぐ東南に西寺公園、西寺跡の碑が立っているところです。ここの広場を利用して本日出席されている方々の顔合わせです。11名参加いただいているのですが、東は鎌倉(驚)から西は西宮まで全員住んでいる市が違うというのはなかなかにおもしろい。ちなみに北は亀岡、南は大阪の都島区であります。
西寺跡
空海に与えられた東寺が今も栄えているのに対し、守敏に与えられた西寺は早く滅びました。そのことを説明するために様々な説話が生み出されます。太平記に引かれている説話が、一つの完成形を示していると考えられますが、それによると空海を逆恨みした守敏が空海を殺そうとして、逆に自分が死ぬことになってしまう。富永仲基の「加上」などという難しい言葉を持ち出さなくてもこれらは西寺が滅びたため、その理由を説明するために説話が創られていったことは明らかです。
諸国に伝わる六部殺しや旅人殺しの伝承などもその地域でのある家の急速な富裕化を説明するために話が作られ、今度は逆に話が辺りの人を支配するようになって、殺された六部の霊が近隣の人に乗り移ったりするようになる(実際には六部が殺されたという事実はないのに)。ここは高僧でありながら、堕地獄の破戒僧に仕立て上げられた守敏に大いに同情すべきでしょう。
この公園の一角に鎌達稲荷、此処も亦陰陽道の土御門家等が祀っていた神社と言われているようです。
鎌達稲荷
土居のバス停が示すように、この辺りにも豊臣秀吉による御土居がありました。ということは、その時代にはこの辺りはなお洛中として意識されていたということです。但し、名が残るのみで実際の御土居や堀は跡形もありません。
さらに進んで羅城門跡、羅城門がここだということは千本丸太町上がるの大極殿跡と並んで、最初は文献によって決められたということ。その後の精査にも堪え、場所としてはほぼ正解だろうと言われています。その際の基準となったものが、つまり平安時代から動いていないだろうと考えられたのが東寺の南門、こういうのは師匠の説明を聞くまで全く知りませんでした。
イメージとしての羅城門は、やはり早くに寂れて一帯が死体捨て場になっていたこと。アッタリマエですが、今はそのような雰囲気はどこにもありません。
羅城門跡から国道171号線に出たところに矢取地蔵尊、先ほどの守敏の説話に絡むお地蔵さんです。空海を暗殺しようと守敏が放った矢を自ら受けて、空海に難を逃れさせたという話が伝わります。最初にこういうのを次々に語った人というのは、やはり近所の「おもろいおっさん」だったのでしょうか。
道標
東寺が見えてきました。平安京の建物配置を復元する基準となる南門です。
さすがに弘法市、エライ人出です。昔はとにかく「安い!」というイメージがあったのですが、さすがに百均などの隆盛もあり、今はそう安いという感じはしません。小生に骨董品を見る目があれば、それなりにおもしろいのでしょうが、そういう目もないので人に酔うばかりです。
じいさんが死んだ時に、葬斂に来ていた近くの骨董屋のおっさんがある鉢を「1万5千円で買うでー。」と言ったのを、我が叔父はキッパリと断りました。数年後、小生はその鉢が犬のえさ入れになっているのを見ました。叔父も叔母も骨董屋のおっさんが言ったことを忘れてしまっていたのです。「犬の食器が一番高いなー、ハハハ」と笑う一族。こういう間抜けな血は小生にもしっかりと流れています。お好み焼きは安かった。
八幡さんの辺りは人がいない
南門から入り東門を出て、東寺通を近鉄にぶつかるまで進み、北上すると綜芸種智院跡です。御存じ空海が開いた庶民の学校。ここにある福田寺が今は浄土宗の寺であることもおもしろい。
近鉄の高架下を抜けて東に進むと伏見稲荷の御旅所、広大です。大丸呉服店の石柱などが立っていました。
堀川通を進み、東海道線の高架の下を抜けます。その入り口付近に平重衡受戒地の碑、これは最近建立されたものです。壇ノ浦で囚われとなった重衡が鎌倉に護送される時に、ここで法然から戒を授けられたとのこと。鎌倉では比較的安穏な生活を送ったようですが、後に興福寺に引き渡され、木津川河畔で斬首されたことはよく知られています。松永久秀と並んで「大仏殿を焼いた悪いヤツ」と評価されていますが、小生は重衡にも久秀にも同情します。そもそも大仏殿に立て籠もった連中が悪い。おー、今日は敗れし者の弁護ばかりやってるな。
高架下を出たところに以前にも行きましたが新選組不動村屯所跡。近くにある不動堂が村の名のおこりです。
不動村屯所跡
不動堂
油小路通を北上して本光寺、新選組を抜けて御陵衛士となった伊東甲子太郎が暗殺されたところです。
寺の前の碑を見てワイワイ言ってると近くの理容店のご主人が「住職さんは3年前に亡くなられたけれど、あんたらみたいな人が来たら開けたってとカギを預かっている。」と言って境内に入れて下さいました。これは多人数で騒いでいたためご主人に気付いてもらえたのでしょう。「数の威力やなあ」と師匠。理容店のご主人も偉いし、亡くなった御住職も偉い。ありがとうございました。
中にも伊東に絡む碑が有りましたが、その横に寺の名を示した石柱。本来は寺の門前にあるものですが、寺の門を従来よりも外側に移築したために門の中に入ってしまったということです。墓と間違えて作られている花立てもおもしろいですね。
その少し北に西川油店。徘徊の土産としての評判は上々です。そのまま北西方向に進み、西本願寺に入りました。
西川油店
西本願寺大銀杏
太鼓楼
本願寺内でずっと親鸞の命日の名称「報恩講」が頭の中から出てこず「あー気持ち悪い。」という状態になりました。同行の方がかつて見られた本願寺に向かうバスの大群はその報恩講の時のものです。正面通は最も門前町らしい門前町。伝道院は既に閉まっています。
師匠の徘徊でしかも京都となれば仁丹の住所表示は外せません。下京に3枚という木製の住所表示。
風呂敷屋さん
趣のある風呂敷屋さんの前を通って、着いたところが五条烏丸の蕎麦屋。蕎麦は実に美味でありましたが、師匠が風邪っ引きということで酒量はごく少なく、極めてお上品な飲み会となりました。酒を期待して参加いただいた方にはちょっと物足りなかったかな。て、そんなことを考えているのは自分だけかも。
地元の人に土地を案内してもらって、今まで全然知らなかったことを知ったり、本来は見ることができないものを見せてもらったりした時は本当に得をしたなあという気分になります。ガイドさんもありがたいのですが、強い義務感を持って迫ってこられたら、こちらは引いてしまうところがあります。
各地から京都に来られたときは、まあ話の種として一通り観光寺院を巡ってもらい、「もうこれで観光寺院には一生行かなくても大丈夫です。」という状態になっていただいて、訳の解らない徘徊に付き合ってもらうというのがいい感じですね。
鎌倉街道様は京都の色々なことに通じておられるという点では小生なども遠く及びませんから、そらもう関東の普通の認識の人とはギャップが生じるでしょうね。この日も、午後からの徘徊の前に将軍塚まで登ってきたとおっしゃっておられて大いにビックリしました。
入口と言えば羅城門。しかし今は碑がのこるのみですが、まあこういった所を徘徊して古の平城京に思いを馳せさせて貰えるのが師匠のええとこなんですね。昔の平安京地図でも開けて貰えば更に想像の世界が広がったかも。思うに平安京を設計した人のスケールは今の人よりは大きかったのではないでしょうか。まあ土地代の心配はなかったでしょうけど。新都を建設出来ない今の政治家とはえらい違いだとも思わないでもない。
鎌倉街道さんが、京都へ行って変わったことをしていると関東の人に思われている、とかいておられますが、逆に我々が関東などへ行ったとき、いわゆる有名どころしか訪れていないか考えさせられます。私は最近現地ガイドさんがおられるときは出来るだけ案内をお願いする様にし始めています。しかしこれも当たり外れがあり、ガイドブックに載っている様なことばかり喋る人もあるのですが、地元の人ならではのスポットを見せて頂ける時があり、こういった時は、ラッキー!とルンルン気分になります。福井の平泉寺白山神社では発掘現場を案内して貰い良い思いをしました。我が知り合いの方が、竹田城を訪れられたとき、自慢ばっかし聞かされたと言っておられたのも思い出します。以前大阪城へ行ったとき、そこに常駐されるボランティアガイドさんについて話したのですが、師匠は上手く活用されているようですね。師匠の謙虚な姿勢はいいっすね。
「師匠、それだけ下見や事前調査をされるだから、そういったことをまとめて発表して下さいよ、」と持ちかけたら、それは徘徊堂に任してる、との返事だった様な。責任重大ですよっとプレッシャーを与えておきましょう(^_・)。
床屋さんの親切、ありがたいですね。「これは見せたらんとあかん」と言う感じの良心が身体からにじみでていました。また、次回訪れることがあれば今度はどうすれば入れるかが分かりましたし。
蕎麦屋はなかなかでしたね。嵐山の有名な蕎麦屋の支店ということですが、そういえば松茸も出ていましたね。小生は細い麺にしなかったので、今になって「細い麺にすればよかった」と毎日思っています。そのうちにリベンジに行くつもりです(笑)。あ、勿論普通の麺もうまかったです。
この辺りは安倍晴明の住まいではなく、晴明の子孫の土御門家の屋敷があったところです。確かあの若狭の名田庄の方に戦乱を避けて疎開した一族ですね。
西寺が残らなかった理由の基本的なところは伝説が正しいように思います。東寺を拝領した空海は、その建設にものすごい努力をしていますから。西寺跡のご婦人、エッ、会われたことがあるのですか(笑)。
15000円の茶わん、小生の家にはありません。茶わんのオーナーであった犬は既に亡くなりましたから、今や叔父の遊び場と化している叔父宅の物置のどこかに転がっているはずです。猫の食器は勿論百均ですよ。
以前からそれとなく気になっていた東寺に対する西寺のことが今回の徘徊でわかり、一つ自分のなかで解決し嬉しく思いました。東寺と西本願寺以外は、若一神社から木製仁丹看板まですべて初めてのところばかりで、目を凝らし関心を持てばこんなに歴史が散らばっているんだなとこれまた感心しました。
T先生のオプションのBコースなかなか良かったです。親切な床屋のおじさんのガイドぶりも板についていたようで(笑)結構でした。
お蕎麦私は細めんをいただきました、歯ごたえがあって美味しかったです、蕎麦湯も濃厚でした。突き出しに松茸が、やっぱり目が輝きましたねぇ(笑)
他に市内から徴集の方も、コーヒー位(100円で販売)出ればいいのに、とのご意見でした。そんな次第で、徘徊には参加できませんでした。その方も行きたかったのに、と残念そうでした。
ナニはともあれ、当日は快晴で(紅葉は青葉でしたが)東西南北から多数のご参集。大賑わいで何よりでした。
それにしましても、若一神社の楠は見事な大木。悪名消えやらぬ清盛に、この場所は聖(政?性?)地だったのでしょうか。ただ、〝王子〟の言葉との関係はどうなるのか知りませんが。
まあ、千年の定評は簡単には覆らないでしょう。後千年先は知りませんが。それに、熱を出す体質とは何だったのでしょう。浴びるほどの酒飲家だったとか・・・。
それより、こんな所に安倍晴明の神社があるのですか。私は堀川一条しか知りませんでした。渋川晴海は関孝和に能力では負けていた、との説がありますがどうでしょうか。
西寺が残っていれば東寺と比べてどうなのでしょう。史跡碑の前に写っておられるご婦人は、お見掛けした様な御方ですが・・・。
続く羅城門跡は、やはり芥川の「羅生門」より黒澤の「羅生門」の方が強烈な印象に残っています。
東寺の弘法市は相変わらずの人気ですか。それにしても、gunkanatago家にもかなりの遺物があったとか。犬の茶碗になった骨董品は、今は猫の茶碗でしょうか。〝持てる者は騒がず〟です。
木製の仁丹標識の在るのは油小路ですか。下京区には3枚あるとか。上京区では琺瑯製しか見たことがありません。
市内では10枚程度は木製があるとか聞いた気がしますが・・・。最近、復活の運動があるとのこと。木製にしてほしいですネ。
最後は落ち着く所へ落ち着かれて、ただ師匠は風邪気味で残念でしたが、御酒嫌いの皆様は御安堵されたかも。愛弟子には御氣の毒でしたが・・・。
確かに、鎌倉や関東のお知り合いは「京都まで行って変わったことをしている」と思われるでしょうね。今回の徘徊などはもはやマニアの世界かと思われます。京都一周トレイルなども「知る人ぞ知る」コースですね。小生などは今の季節は嵐山などには絶対に行きたくないと思うのですが。
仁丹の住所表示、木製のものは小生も未だ見ていないところがあります。ホーロのものは目に付きますが、木製のものは指摘されないと分からないですね。
師匠、ほうっておくと初めての方なら二度と参加したくなくなるような、ものすごい計画を立てるので、如何にその計画を全うさせないようにするかがコーディネーターの仕事です(笑)。
西寺に関しては、ずーっと以前西寺址を探してウロウロしたことがありまして、ここは見つけることが出来ましたが、羅城門は、探し当てることができませんでした。まさか小さな公園の中にあるとは。帰宅して我が家の添乗員に報告しました。
木製の仁丹の住居表示が未だに残っていることに驚きましたが、それを「みつけてやるぞ!」という気力に敬服します。何気なく通り過ぎてしまう人のほうが圧倒的に多いと思いますので。
観光客として訪れる京都を今回は違う視点から見ることを教えていただきました。鎌倉で「京都へ行ってきた。」と言いますと、「どこのお寺(誰でもが知っている有名寺院)、嵯峨野?」と聞いてくる人がほとんどです。「京都一周トレイル」とか「大文字の送り火の大の字の山」と申しますと、「そういうところへ登れるの?」と言われます。どちらかと申しますと、京都まで行って変わったことをしていると知人たちから思われてます。
今回歩いたところを地図上でたどってみました。細かい道は正確に解りませんが、ほぼたどれました。しかしもう一度同じように歩くことはできそうにありません。師匠はすごい方ですね。