本日は夕刻から四条烏丸で飲み会。飲む準備運動が大切です。出発点は西大路通のわら天神です。寺之内通は西大路につながる直前に消滅しますので、西から歩く場合は、盧山寺通に入ります。しばらく行くと分岐点があり、左の細道が盧山寺通、右の大きな方の道がここから寺之内通になります。
紙屋川を渡るこの辺りは西陣の機業地帯の一番端っこと言っていいでしょう。昔はたくさんの織子たちが暮らしたであろう家が今も多く残ります。仁丹の住所表示もこの辺りに2枚ほど残っています。ちなみに、この表示がある町家は現在貸家になっています。
紙屋川
七本松通まで来ると道が広がります。ここから千本通までの200メートルほどの距離だけが広くなっているのは何故なのでしょう。今まで漫然と歩いていましたが、宿題ができました。千本通を渡ると道はぐっと狭くなります。この辺りの酒屋の娘さんでしたか、小生が酒飲みであることを言うと「うっとこ、いっぱいいっぱいあるえー」と言ってくれたのは。ウー、川端の小説みたい。もうン十年も昔の話です。
千本通との交差点
千本通りを渡るとすぐに淨光寺、池大雅の墓がある寺として知られています。以前に師匠案内の散策で訪れたことがあります。今日は師匠がおられないのを幸い、墓場グルグルはパスして前に進みます。
この辺りから東を見る景色は下の写真の通りです。京都では使用した天ぷら油を市バスの燃料とする社会実験も行われており、所々にある回収ステーションが生活のニオイを教えてくれます。北に上がれば猫寺称念寺も近い。
浄福寺通はきれいな石畳で舗装されました。しゃれた飯屋もあります。このまま右折して岩上さんの方に行くべえかとも思いましたが、いやいや初心貫徹、このまま東に進みます。
浄福寺通
大宮通との交差点に「たんきり飴」、何と直截的な命名。「痰切り」と漢字で書かないところがポイントですね。漢字で書くと口に入れる時に痰そのものを入れるような雰囲気が漂います。通りを渡ると妙蓮寺です。
妙蓮寺
京都の町衆は基本的には法華の信者、これは日蓮の弟子の日像の布教が大いに成功したからですが、室町時代中期以後は周辺の農村部に信者を得た一向宗と対立するようになります。
これにつけ込んだのが細川晴元(でたー)、有力な家臣であった三好元長を一向宗の協力で滅ぼし、今度はその一向宗を倒すために町衆と手を組みます。そうしておこったのが山科本願寺焼き討ち(1532)です。この成功に自信を付けた町衆、もうわしらに逆らえる者はいないということで、税の支払いを拒んだりして守護や幕府と対立するようになります。
そこに登場するのが延暦寺、六角氏の援軍を得て法華一揆を攻撃し、二十一箇寺といわれた法華宗の有力寺院全てに放火し、逃げ遅れた町衆を虐殺します。こやつが天文法華の乱。
この辺りは後の応仁の乱(1467)でも焼け野原となるのですが、むしろダメージはこの時の方が大きかったということです。その延暦寺も1571年には織田信長によって壊滅させられますね。まさに因果は巡るというやつで、真宗、法華、天台と錚々たる宗派がこれに気付かなかったのは滑稽千万。
話がくどくなりました。妙蓮寺はその二十一箇寺の一つです。本日は全面修理の真っ直中、有名な「金剛組」が工事をしていました。
堀川通を渡ると有名な人形寺寶鏡寺、皇族の娘さんが入られる尼門跡寺院です。今も殆どの尼門跡寺院が拝観を謝絶していますが、この寺もその例に漏れません。
今も小川通という通り名に名を残すのが昭和30年代の中ごろまでこの付近を流れていた小川(こがわ)、この付近でこの川に架かっていたのが百々橋(どどばし)です。その橋脚の礎石が寺の南東角に置かれています。応仁の乱ではこの百々橋を挟んで東軍と西軍がにらみ合ったということです。南に行けば報恩寺ですが、このまま東進です。
百々橋礎石
この一画はやはり千家の縄張り、妙顕寺の通用口では着物を着たお兄ちゃんとお姉ちゃんが立っていました。同志社大学の茶道部のお茶会が行われているそうです。殊勝である。
妙顕寺は後醍醐天皇から勅額を賜った日蓮宗ではただ一つの寺です。豊臣秀吉によって現在地に移されましたが、秀吉は寺が移転した跡地に城を建てています。堀川御池辺りに城跡の碑が立っていますから、あの付近からここに移転したのですね。ここも本堂は解体修理中、日蓮宗、金もー。
新町通のバイパスを越えるとまたまた道が広くなります。そのまま烏丸通にぶつかって寺之内通はおしまい。
この付近では同志社大学が延々と拡張工事をしています。もしかして、田辺学舎の放棄、または縮小を狙っている?
本日は室町小学校で区民体育祭が開かれており校内に入ることができました。ロータリーに百々橋礎石の片割れがあります。
烏丸通を南下し大聖寺から眺める同志社の校舎、寺とバテレンが仲良く写ります。
今出川通を越え、少し行って西に曲がると春日潜庵の寓居跡。久我家の家臣で陽明学者、水戸藩への密勅降下に連座し、安政の大獄で罰せられますが、ほどなく赦免されます。仲の良かった頼三樹三郎なんか斬首されていますから、なかなかに運の強いオッサンです。西郷隆盛も師事したことで知られています。墓は宇多野にあります。
室町通に出ると福長神社。本来は宮中の水神を祀ったものでしょうね。福井・綱長井神は大阪の座摩神社にも祀られている神ですが、かなりマイナー、神社の廃絶を防ぐ意味でもお稲荷さんも合祀しています。
このまま室町通りを下りかけましたが、前にいっぺん通して歩いているぞーということで一旦北上、今出川通で飯を食います。後一時間足らずで宴会なのに、この辛抱のできないたちは何とかならんもんでしょうか。ビールだけは何とか我慢しました。
室町第跡碑
後はひたすらに御所を突き抜けて四条烏丸に向かいます。御所のすまんだもまた通して歩かないといけませんね。今日はその一端。
縣井
蛤御門
中立売門
蛤御門、よく知られているのかも知れませんが開かずの門だった門が天明年間の火事の時に非常時ということで開けられ、「焼けて開く蛤」というシャレで現在の名になったということです。ほんまに昔も今も…。
飲み会は大学のミニ同窓会。おっさん2名に婦人6名という、まことに上品な集まりでおました。こりゃ、男ども!次回は来るように。
紙屋川を渡るこの辺りは西陣の機業地帯の一番端っこと言っていいでしょう。昔はたくさんの織子たちが暮らしたであろう家が今も多く残ります。仁丹の住所表示もこの辺りに2枚ほど残っています。ちなみに、この表示がある町家は現在貸家になっています。
紙屋川
七本松通まで来ると道が広がります。ここから千本通までの200メートルほどの距離だけが広くなっているのは何故なのでしょう。今まで漫然と歩いていましたが、宿題ができました。千本通を渡ると道はぐっと狭くなります。この辺りの酒屋の娘さんでしたか、小生が酒飲みであることを言うと「うっとこ、いっぱいいっぱいあるえー」と言ってくれたのは。ウー、川端の小説みたい。もうン十年も昔の話です。
千本通との交差点
千本通りを渡るとすぐに淨光寺、池大雅の墓がある寺として知られています。以前に師匠案内の散策で訪れたことがあります。今日は師匠がおられないのを幸い、墓場グルグルはパスして前に進みます。
この辺りから東を見る景色は下の写真の通りです。京都では使用した天ぷら油を市バスの燃料とする社会実験も行われており、所々にある回収ステーションが生活のニオイを教えてくれます。北に上がれば猫寺称念寺も近い。
浄福寺通はきれいな石畳で舗装されました。しゃれた飯屋もあります。このまま右折して岩上さんの方に行くべえかとも思いましたが、いやいや初心貫徹、このまま東に進みます。
浄福寺通
大宮通との交差点に「たんきり飴」、何と直截的な命名。「痰切り」と漢字で書かないところがポイントですね。漢字で書くと口に入れる時に痰そのものを入れるような雰囲気が漂います。通りを渡ると妙蓮寺です。
妙蓮寺
京都の町衆は基本的には法華の信者、これは日蓮の弟子の日像の布教が大いに成功したからですが、室町時代中期以後は周辺の農村部に信者を得た一向宗と対立するようになります。
これにつけ込んだのが細川晴元(でたー)、有力な家臣であった三好元長を一向宗の協力で滅ぼし、今度はその一向宗を倒すために町衆と手を組みます。そうしておこったのが山科本願寺焼き討ち(1532)です。この成功に自信を付けた町衆、もうわしらに逆らえる者はいないということで、税の支払いを拒んだりして守護や幕府と対立するようになります。
そこに登場するのが延暦寺、六角氏の援軍を得て法華一揆を攻撃し、二十一箇寺といわれた法華宗の有力寺院全てに放火し、逃げ遅れた町衆を虐殺します。こやつが天文法華の乱。
この辺りは後の応仁の乱(1467)でも焼け野原となるのですが、むしろダメージはこの時の方が大きかったということです。その延暦寺も1571年には織田信長によって壊滅させられますね。まさに因果は巡るというやつで、真宗、法華、天台と錚々たる宗派がこれに気付かなかったのは滑稽千万。
話がくどくなりました。妙蓮寺はその二十一箇寺の一つです。本日は全面修理の真っ直中、有名な「金剛組」が工事をしていました。
堀川通を渡ると有名な人形寺寶鏡寺、皇族の娘さんが入られる尼門跡寺院です。今も殆どの尼門跡寺院が拝観を謝絶していますが、この寺もその例に漏れません。
今も小川通という通り名に名を残すのが昭和30年代の中ごろまでこの付近を流れていた小川(こがわ)、この付近でこの川に架かっていたのが百々橋(どどばし)です。その橋脚の礎石が寺の南東角に置かれています。応仁の乱ではこの百々橋を挟んで東軍と西軍がにらみ合ったということです。南に行けば報恩寺ですが、このまま東進です。
百々橋礎石
この一画はやはり千家の縄張り、妙顕寺の通用口では着物を着たお兄ちゃんとお姉ちゃんが立っていました。同志社大学の茶道部のお茶会が行われているそうです。殊勝である。
妙顕寺は後醍醐天皇から勅額を賜った日蓮宗ではただ一つの寺です。豊臣秀吉によって現在地に移されましたが、秀吉は寺が移転した跡地に城を建てています。堀川御池辺りに城跡の碑が立っていますから、あの付近からここに移転したのですね。ここも本堂は解体修理中、日蓮宗、金もー。
新町通のバイパスを越えるとまたまた道が広くなります。そのまま烏丸通にぶつかって寺之内通はおしまい。
この付近では同志社大学が延々と拡張工事をしています。もしかして、田辺学舎の放棄、または縮小を狙っている?
本日は室町小学校で区民体育祭が開かれており校内に入ることができました。ロータリーに百々橋礎石の片割れがあります。
烏丸通を南下し大聖寺から眺める同志社の校舎、寺とバテレンが仲良く写ります。
今出川通を越え、少し行って西に曲がると春日潜庵の寓居跡。久我家の家臣で陽明学者、水戸藩への密勅降下に連座し、安政の大獄で罰せられますが、ほどなく赦免されます。仲の良かった頼三樹三郎なんか斬首されていますから、なかなかに運の強いオッサンです。西郷隆盛も師事したことで知られています。墓は宇多野にあります。
室町通に出ると福長神社。本来は宮中の水神を祀ったものでしょうね。福井・綱長井神は大阪の座摩神社にも祀られている神ですが、かなりマイナー、神社の廃絶を防ぐ意味でもお稲荷さんも合祀しています。
このまま室町通りを下りかけましたが、前にいっぺん通して歩いているぞーということで一旦北上、今出川通で飯を食います。後一時間足らずで宴会なのに、この辛抱のできないたちは何とかならんもんでしょうか。ビールだけは何とか我慢しました。
室町第跡碑
後はひたすらに御所を突き抜けて四条烏丸に向かいます。御所のすまんだもまた通して歩かないといけませんね。今日はその一端。
縣井
蛤御門
中立売門
蛤御門、よく知られているのかも知れませんが開かずの門だった門が天明年間の火事の時に非常時ということで開けられ、「焼けて開く蛤」というシャレで現在の名になったということです。ほんまに昔も今も…。
飲み会は大学のミニ同窓会。おっさん2名に婦人6名という、まことに上品な集まりでおました。こりゃ、男ども!次回は来るように。
それにしても、gunkanatagoさんの行きつけの飲み屋がこの辺りにもあるのですか。やはり準縄張りを誇っておられるのかも。
紙屋川から千本までが広くなっていますが、新町から烏丸も確か広くなっていると思います。理由は分かりません。堀川の近くには千家がありますが。
妙蓮寺の裏通りに引っ付いて(猪熊ですか)従姉妹の家があり、裏庭の木戸を潜ると寺の境内へ出られました。昔は、準縄張り見たいな所でした。
寺之内は寺と茶道の町ですが、織屋の町でもありました。紅殻格子の中から、いつも機を織る音が聞こえていました。御所の蛤御門も準縄張りでした。焼き蛤は食べたことはありませんが。
室町小学校は何年か前に100周年を迎えたとか。母の母校でもあります。思えば、歴史的な謂れや遺跡の多い所で暮らしていたものです。当時(今もですが)はナニも知らずに、縄張りみたいに走り回っていただけですが。
この辺り、飲み屋は殆ど知りませんよー。うれしい言葉を言ってくれたのは酒店の娘さんでした。もしかしたら立ち飲みぐらいはやっていたかも知れませんが。
そうですか。室町小学校が御母堂の卒業された学校とは。当日はちょうど区民体育祭が開かれていました。これにものすごい労力をかけるのも京都の特色ですね。
いっぺん淨福寺通も通しで歩いてみたいと思っています。
本日もまさに天高く馬肥ゆる秋でございます。
今回は廬山寺通りですか、妙蓮寺は花の寺といわれるように、ツバキ、オエシキザクラ(御会式桜)、ハクモクレンにシモクレン(紫木蓮)フヨウなどが咲き誇ります。今年も4月に見事な桜と木蓮を見てきました。あの辺りの昔を余り知りませんが、今でも機の音が聞こえるようです。お寺の真ん前の名前がでてこないのですが、昔からありそうな古い食堂で麦ご飯定食をいただきました。それが美味しくてまた花の頃に行こうと思います。
京都は忙しいですね、東西にまた南北に歩きたし・・・。
御所の縣井付近は一重の山吹が多くありますね。
蛤御門西の護王神社で頂いた足形のお守りをリュックにつけていたのですが最近落としてしまって? またいただきに行かなあかんのですよ(笑)
妙蓮寺は「花の寺」だったのですね。4月に足を運んでおられるとはさすがです。御所の懸井付近の一重のヤマブキ、これもまた季節には注意してみたいと思います。
護王神社のお守りを落とされたのですか。足の方が完治されたので必要なくなったと神さんが判断されたのでは?
白洲正子は「千年のすれっからし」と言ったというのを聞いたような気がしますが、庶民は政争の狭間で苦労されたのでしょう。まあそれぞれ何らかの由緒があるのは当然でしょうが、面白ろい坊主がでてこないのも京都ではないでしょうか。
私は京都の住人ですが不幸なことに大阪の食文化に慣れてしまい、京都で美味いなあという食堂に出逢ったことはありません。東京についても同じ事が言える様な気がします。その話をするとそんなことはない、ちゃんと金さえ惜しまなければ良い店はいっぱいあると反論されましたが、普通の値段で美味いもんを食わせてくれる浪華の食文化には及ばないでしょう。
阪大などのコンクリートの雰囲気ばかりのキャンパスはどうもいただけません。立ちゃんのキャンパスも魅力がない。その点、同やんの建物は赤レンガ調でいいですね。
今日は京都への愚痴コメントとしました。読み流して下さい(^_・)
京都の食い物、同意です。滅多に行かない高級店はともかく、くだらぬスィーツとやらで何という値をつけてんねんというのは多いですね。もう観光客が可哀想で可哀想で。そういうのを取り上げるマスコミもいけませんね。
どーんと庶民的になりますが、大力餅食堂という店が各所にあり、一概には言えませんが、中に大当たりの店もありますよ。基本は定食屋ですが、名の通り「おはぎ」を置いている店が多いです。イカ天麩羅定食でビールを飲んで、〆はおはぎ、なかなか幸せな気分になれます。
大阪は確かに安いです。梅田の一等地でも探せば安くてウマイ店がわんさかありますね。小生はそう言う意味では難波や天王寺ではまだまだ努力不足です。