本日(といっても未だ平成23年の末)はちょこっとだけ時間がありましたので、下鴨神社から上御霊神社まで散歩しました。休みでも何でもない日に、思いつきでブラブラする。いよいよ病膏肓にいるの境地、このまま仕事もサボったりして。
下鴨神社は正式名の賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)が示すように賀茂(鴨・加茂)氏の祖神を祀る社でしょう。本来は葛城山麓の高鴨神社周辺にいた一族が漸次北上して現在の上賀茂や下鴨一帯に住みついた(ヤタガラスの伝説からいけばその先は熊野山中にいたかも知れません)。最初は、現在の木津川市加茂町、さらに久我(京都市南部)に定住圏をこしらえ、分派した一族がさらに北上を続けたものと考えられます。京都盆地の最北部まで達したのですが、山間地域にまで浸透しなかったのは既に小野氏が或いは原・小野氏が近江から丹波までを横断する勢力圏を創り上げていたからでしょうか。
ここで、「ん?」と思ったのは、境内の立て札に「斎院御所跡」とあったこと。皇女が任じられた賀茂斎院がここに住んでおられたとしたら櫟谷の七野神社にある斎院跡はどうなるのかな?まだ、この両者の関係について合理的な説明は得ていません。思わぬところで宿題が出てきます。
御手洗川
何か漢字で書くと、「トイレ」を連想してしまいますね。「みたらし」と仮名で書くと団子を思ってしまいますが、まあその団子の名はこれに由来しているそうです。あー喜八洲(本店は十三にあり)のみたらし団子が食いたい。名物の焼き餅は本日はパスします。
森の中にある祭祀遺跡、これは本当に面白い。一度この神社の境内も徹底的に歩かねばなりません。ここで、観光客の方が声をかけてこられました。「すみません、葵祭の斎王代の方が手を洗っているところってどこですか。」と。ふにゃふにゃふにゃ、「わかりません。」またまた宿題です。冬の糺の森、多くの人がまだまだ紅葉にカメラを向けられています。風はやや冷たいのですが、皆々さわやかな感じで散策されています。
祭祀遺跡
神社を横に出て西に行くと賀茂川、出雲路橋が架かっています。橋の向こうに比叡山が見えますが、ここはけったいな場所で出雲路橋を渡って西に行けば行くほど東にある比叡山が大きく見えます。対比の問題かと思われますが、これもよく分かりません。
浄土宗の寺西光寺の境内には雲井弁財天、何か謂われがあるはずですが、今は調べるすべがありません。単に出雲郷にあった井戸のことをいうのでしょうか。とすると本来はその井戸にまつわる水の神が祀られていて、弁天さんと習合したものかも知れませか。このあたりには新しい石敢當(せきがんとう)がありました。境内にはこれを造っているから買ってねという石屋の宣伝も。新しい名物になっていくのかな。しかし食えんしなあ。
上善寺のお地蔵さんは有名な鞍馬口地蔵、小さな穴から覗くと本当に美しい地蔵さんが立っておられます。小野篁が造ったことになっていますが、正確には「造らせた」或いは後世に小野篁説話と結びついたというところでしょう。門前には風呂屋があります。「銀杏散る寺を出づれば風呂屋かな・羅休」。
閑臥庵は後水尾天皇が、貴船の奥の院より鎮宅霊符神をこの地に歓請したところを寺にしたみたいですが、さすがに天皇の座から下りられてから50年も院政を敷いておられると「いろいろやってますね」という感じです。鎮宅霊符神というのは陰陽道のニオイがプンプンしますが、黄檗宗の寺ですから支那風にアレンジされているのかも知れません。貴船の奥の院にまた行って調べねばなりません。なんぢゃー?宿題、宿題ばかり出てくるぞい。自慢ではありませんが、中学・高校時代に宿題というものを全くやらなかったツケが回ってきているようです。
寺自体は本日は何やら庭先に坊主像を設置する工事をやっていて、入り込めません。ここで普茶料理が食えるとは知らなんだ。宗門の親分、万福寺の前の普茶料理はよく知られていますが。
少し南に下ると上御霊神社、ここの御祭神については愚見を述べさせていただいたこともあります。本日は新村出博士の歌碑をば一つ。「千早振る 神のみめぐみ ふかくして 八十ぢに満つる 幸を得にけり」、謙虚な方だったのでしょうね。広辞苑、有り難く使わせてもらっていますよー。上御霊神社の西門あたりも何やら工事をしています。そういえば、西光寺にもペンキ屋さんが来ていました。正月前の一斉工事ですね。
西門を出て、烏丸通に達するところには猿田彦神社、道祖神とも習合されている神様ですから、徘徊の徒としては特に丁寧にお参りしておきましょう。
ここから北大路に上がって、たこ焼きで一杯やりたいところですが、もう15分後には車を運転することになるのであきません。チョロチョロとした散歩でも結構楽しめる京都でありました。
下鴨神社は正式名の賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)が示すように賀茂(鴨・加茂)氏の祖神を祀る社でしょう。本来は葛城山麓の高鴨神社周辺にいた一族が漸次北上して現在の上賀茂や下鴨一帯に住みついた(ヤタガラスの伝説からいけばその先は熊野山中にいたかも知れません)。最初は、現在の木津川市加茂町、さらに久我(京都市南部)に定住圏をこしらえ、分派した一族がさらに北上を続けたものと考えられます。京都盆地の最北部まで達したのですが、山間地域にまで浸透しなかったのは既に小野氏が或いは原・小野氏が近江から丹波までを横断する勢力圏を創り上げていたからでしょうか。
ここで、「ん?」と思ったのは、境内の立て札に「斎院御所跡」とあったこと。皇女が任じられた賀茂斎院がここに住んでおられたとしたら櫟谷の七野神社にある斎院跡はどうなるのかな?まだ、この両者の関係について合理的な説明は得ていません。思わぬところで宿題が出てきます。
御手洗川
何か漢字で書くと、「トイレ」を連想してしまいますね。「みたらし」と仮名で書くと団子を思ってしまいますが、まあその団子の名はこれに由来しているそうです。あー喜八洲(本店は十三にあり)のみたらし団子が食いたい。名物の焼き餅は本日はパスします。
森の中にある祭祀遺跡、これは本当に面白い。一度この神社の境内も徹底的に歩かねばなりません。ここで、観光客の方が声をかけてこられました。「すみません、葵祭の斎王代の方が手を洗っているところってどこですか。」と。ふにゃふにゃふにゃ、「わかりません。」またまた宿題です。冬の糺の森、多くの人がまだまだ紅葉にカメラを向けられています。風はやや冷たいのですが、皆々さわやかな感じで散策されています。
祭祀遺跡
神社を横に出て西に行くと賀茂川、出雲路橋が架かっています。橋の向こうに比叡山が見えますが、ここはけったいな場所で出雲路橋を渡って西に行けば行くほど東にある比叡山が大きく見えます。対比の問題かと思われますが、これもよく分かりません。
浄土宗の寺西光寺の境内には雲井弁財天、何か謂われがあるはずですが、今は調べるすべがありません。単に出雲郷にあった井戸のことをいうのでしょうか。とすると本来はその井戸にまつわる水の神が祀られていて、弁天さんと習合したものかも知れませか。このあたりには新しい石敢當(せきがんとう)がありました。境内にはこれを造っているから買ってねという石屋の宣伝も。新しい名物になっていくのかな。しかし食えんしなあ。
上善寺のお地蔵さんは有名な鞍馬口地蔵、小さな穴から覗くと本当に美しい地蔵さんが立っておられます。小野篁が造ったことになっていますが、正確には「造らせた」或いは後世に小野篁説話と結びついたというところでしょう。門前には風呂屋があります。「銀杏散る寺を出づれば風呂屋かな・羅休」。
閑臥庵は後水尾天皇が、貴船の奥の院より鎮宅霊符神をこの地に歓請したところを寺にしたみたいですが、さすがに天皇の座から下りられてから50年も院政を敷いておられると「いろいろやってますね」という感じです。鎮宅霊符神というのは陰陽道のニオイがプンプンしますが、黄檗宗の寺ですから支那風にアレンジされているのかも知れません。貴船の奥の院にまた行って調べねばなりません。なんぢゃー?宿題、宿題ばかり出てくるぞい。自慢ではありませんが、中学・高校時代に宿題というものを全くやらなかったツケが回ってきているようです。
寺自体は本日は何やら庭先に坊主像を設置する工事をやっていて、入り込めません。ここで普茶料理が食えるとは知らなんだ。宗門の親分、万福寺の前の普茶料理はよく知られていますが。
少し南に下ると上御霊神社、ここの御祭神については愚見を述べさせていただいたこともあります。本日は新村出博士の歌碑をば一つ。「千早振る 神のみめぐみ ふかくして 八十ぢに満つる 幸を得にけり」、謙虚な方だったのでしょうね。広辞苑、有り難く使わせてもらっていますよー。上御霊神社の西門あたりも何やら工事をしています。そういえば、西光寺にもペンキ屋さんが来ていました。正月前の一斉工事ですね。
西門を出て、烏丸通に達するところには猿田彦神社、道祖神とも習合されている神様ですから、徘徊の徒としては特に丁寧にお参りしておきましょう。
ここから北大路に上がって、たこ焼きで一杯やりたいところですが、もう15分後には車を運転することになるのであきません。チョロチョロとした散歩でも結構楽しめる京都でありました。
小野篁も、少し親近感があります(一方的に)。家内の友達が小野氏の子孫と同級生で、その広大な屋敷の大文字会などに何度か招かれているみたいです。また、小野氏(造園家)は古武道の師範でもあり、娘が懇意にさせてもらっております。
私が生まれた町の智恵光院には篁作の仏像がありますし、小学校(宇津)の元先生が書道の「篁会」の重鎮で、今も年に一度は展示会が開催されております・・・と何だかこじつけの縁話になってしまいました。
斎王が手を洗ったのは、やはり御手洗川ではないのでしょうか。そう言えば(?)、以前の会社に御手洗(みたらい)姓の社員がおりました。話は益々飛躍しますが、団子もさりながら、この川には君が代の「細石(さざれ)」があったと思います。どうなのでしょうか。
上善寺は六地蔵寺の一つだったと思います。我が家の近くが大善寺です。元朝の初詣は、この寺へ行きました。誰も見掛けませんでしたが。ちなみにささ舟さんは、何度か六地蔵巡りをされているようです。我々とは、日頃のオコナイが違います。
ところで、閑臥庵は、昔から普茶料理を食べさせてくれます。以前の会社で時々ここで宴会をしました。新会社でも社員を招待して喜ばれたものです。美人で有名な女将(尼さん(?)でしたが、今はどうしていますか。静謐でとても風情がありました。
上御霊神社は訪れたことはあるはずですが、それほど記憶に残っておりません。ここの御霊祭は京都で最も古い祭りとか。今回の徘徊は、年末の締め括りに相応しく、かなり渋目で終わられ何よりでした。「団子より道祖神様崇む暮れ」道草。
閑臥庵を利用しておられたとは流石(詠嘆)です。小生は全く知りませんでした。普茶料理といえば万福寺門前と思い込んでいました。
上御霊神社、実は昨日も熊沢蕃山がこの神社辺りに住んでいたということを改めて知り、うー奥が深い、けどもうどこら辺かは分からんのやろなあと思ったところです。
小野氏は名族ですね。かねてから造園家の小野氏のことは道草様のブログでご教示いただいていました。その家には、その家独自の言い伝えのようなものも残っているでしょうから、また耳にされたら教えて下さいね。惟喬親王や北山の歴史を知る上でも小野氏は外せません。
極めて私事なのですが、この賀茂社界隈は、京北町誌によると、北からの出雲族と南からの賀茂族が融和した地と書かれています。上賀茂神社の藤木権禰宜に質問する機会があったのですが、上賀茂神社に関する限りはどうもそれらしき記録は分からんという話でした。久保功さんという京野菜の歴史や長屋王の木簡を調べておられる方の話を聞く機会がありました。山国から長屋王家に米を献上した記録たる木簡が縁での付き合いなのですが、(上)御霊神社から相国寺界隈はやはり出雲族の地らしいですね。
この事についてはしっかりと勉強しないといけないのですが、京北在住の私めとしましては、この出雲族や小野氏などと中央から派遣された人達(山国荘の名主階級の祖?)、それと秦氏、こういった人達が右往左往していたのではないかという気がし始めているのです。神社の祭神を調べたりしてこのあたりについて勉強できたら、この京北の地をより理解できるのではと考えています。これすなわち鯖街道といわれる京北を通る街道を研究する原点なりであります。ついこの間の現象たる鯖なんかに拘った考察で済ませられる様な地ではありませぬ。
てな事を考えさせられる徘徊録を読ませて頂き、新年早々ありがとうございました。
賀茂氏は全国の賀茂神社の分布を見ても広く分布していたことが分かりますが、出雲族については、今はその上に小野氏がどっかりと乗っている感じで、その埋まっている部分を掘り起こすにはオオクニヌシやオオモノヌシ、カンムスビ等を祭神とする神社の分布を考える必要があるように思います。
それも明治時代の神社の合祀などもあり、なかなか大変な作業ですね。我々は、この辺りから賀茂川を遡り、雲ヶ畑から祖父谷、そして山国へと往来をしていた出雲族や賀茂氏、秦氏や小野氏の人々の幻影を峠に追うばかりですね。
御霊神社の見学に来て、東陣を探し当てたことになります。
西陣から東陣に来ましたが、上があれば下があり、下御霊神社もありますから、それは京都御所の南南東
で行願寺の北に位置しています。
関連の神社仏閣をたどるのも面白く、また切りもありません。
「関連の神社仏閣をたどるのも面白く、また切りもありません。」→全く同感です。1つこなすと次の宿題が必ず現れますね。