本日も夕刻より京都で飲み会。少しだけ歩きます。出発点は京阪電車の枚方市駅です。駅の少し北側を流れているのが天野川で淀川の支流です。
この辺り一帯はいにしえの交野ヶ原の南縁部にあたると思われますが、平安貴族の七夕(乞巧奠)趣味から付いた名なのか、それとも天野川という名称から平安貴族たちが想像を膨らませていったのか分かりませんが、この界隈には「七夕」に関する伝承が多く伝わっています。天野川が淀川に流れ込む直前に架かる橋はかささぎ橋、京阪電車の交野線の駅には星ヶ丘などというのもあります。
川の土手から少し下ったところに藤原俊成の歌碑、平安貴族の最盛期から考えると随分時代は下ります。
天野川を離れ、少し坂を登ったところには百済寺址。百済王(くだらのこにきし)敬福が朝廷よりこの地を賜り、建立した氏寺です。
7世紀の半ばまでは、豪族のステイタスシンボルは何と言っても前方後円墳だったと思われますが、大化の薄葬令の影響もあってか、以後は造寺・造仏に一族の力を結集するようになります。
百済王敬福が陸奥守在任中に黄金が出て、これを造営中の大仏の塗金の用に資することができたために年号も天平感宝などと改められたことはよく知られています。
しかし、これがために敬福をして何か詐欺師の親玉であったかのように言う論もありますが、ちょっと気の毒な感じがします。
金堂・西塔跡
寺の横には百済神社。百済寺の規模から考えても、もともとは寺の鎮守だったお宮さんでしょうね。
その百済王氏との関わりはちょいと調べねばなりませんが、本日はそれは省略して話を進めますと、この交野ヶ原は朝廷の猟場でもありました。枚方市駅近くには「禁野」などという地名が残っています。禁裏、禁苑などの禁と同義でしょうね。
文徳天皇の皇子で、京都の北部の山岳地帯や滋賀の鈴鹿山系などにも伝承が強く残る人物に惟喬(これたか)親王がおられます。この親王の御殿(渚院)もこり近辺にあり、京阪電車の「御殿山」駅などはこれに由来するそうです。在原業平なども親王のお供をしてこの近辺をウロウロしたことがあるようです。
後の世では、皇位に即けなかったということで、皇子の心を忖度して様々な話や伝説が生まれましたが、小生は親王がそんな不平家としての人生を送られたのだろうかと甚だ怪しんでおります。話というのはいったん世に出るとどんどんと成長していきますから、親王が藤原氏から何か命をねらわれていたかのような言い伝えまで残っています。
ライバル(?)であった清和天皇が31歳で亡くなられているのに対して、親王は50歳以上まで生きておられますから、まあ話は面白ければよいということでどんどんと継ぎ足されていくのですね。それにしても若干31歳で崩御された清和天皇のDNAは、今日の大半の日本人の中に受けつがれているというのも何かすごい感じがします。
今は「野」の雰囲気などは微塵も無くなっていて、多くの施設や家屋が建ち並ぶ中を歩いて御殿山神社に。渚院辺りにあった神社が明治時代に今の場所に移った様子を描いた絵馬、以前は間近に見られたのですが、本日は鍵がかかっていて内陣というか、そこへ入ることが出来なかったので、斜めからチラリと見ました。
京阪電車に乗っていて、御殿山付近から東を眺めたときに、緑の壁のように見える森がありますが、それがこのお社の木々です。
渚院跡も久しぶりに訪ねようとしましたが、住宅地の中に完全に埋没しているし、正確な場所も覚えていないので、次の機会にしました。このところ毎週続いた飲み会も本日が一応のキリ、また徘徊に時間が割けそうです。というか、飲むこと自体は飲み会のあるなしに拘わらず、毎週のことなのですが。
この辺り一帯はいにしえの交野ヶ原の南縁部にあたると思われますが、平安貴族の七夕(乞巧奠)趣味から付いた名なのか、それとも天野川という名称から平安貴族たちが想像を膨らませていったのか分かりませんが、この界隈には「七夕」に関する伝承が多く伝わっています。天野川が淀川に流れ込む直前に架かる橋はかささぎ橋、京阪電車の交野線の駅には星ヶ丘などというのもあります。
川の土手から少し下ったところに藤原俊成の歌碑、平安貴族の最盛期から考えると随分時代は下ります。
天野川を離れ、少し坂を登ったところには百済寺址。百済王(くだらのこにきし)敬福が朝廷よりこの地を賜り、建立した氏寺です。
7世紀の半ばまでは、豪族のステイタスシンボルは何と言っても前方後円墳だったと思われますが、大化の薄葬令の影響もあってか、以後は造寺・造仏に一族の力を結集するようになります。
百済王敬福が陸奥守在任中に黄金が出て、これを造営中の大仏の塗金の用に資することができたために年号も天平感宝などと改められたことはよく知られています。
しかし、これがために敬福をして何か詐欺師の親玉であったかのように言う論もありますが、ちょっと気の毒な感じがします。
金堂・西塔跡
寺の横には百済神社。百済寺の規模から考えても、もともとは寺の鎮守だったお宮さんでしょうね。
その百済王氏との関わりはちょいと調べねばなりませんが、本日はそれは省略して話を進めますと、この交野ヶ原は朝廷の猟場でもありました。枚方市駅近くには「禁野」などという地名が残っています。禁裏、禁苑などの禁と同義でしょうね。
文徳天皇の皇子で、京都の北部の山岳地帯や滋賀の鈴鹿山系などにも伝承が強く残る人物に惟喬(これたか)親王がおられます。この親王の御殿(渚院)もこり近辺にあり、京阪電車の「御殿山」駅などはこれに由来するそうです。在原業平なども親王のお供をしてこの近辺をウロウロしたことがあるようです。
後の世では、皇位に即けなかったということで、皇子の心を忖度して様々な話や伝説が生まれましたが、小生は親王がそんな不平家としての人生を送られたのだろうかと甚だ怪しんでおります。話というのはいったん世に出るとどんどんと成長していきますから、親王が藤原氏から何か命をねらわれていたかのような言い伝えまで残っています。
ライバル(?)であった清和天皇が31歳で亡くなられているのに対して、親王は50歳以上まで生きておられますから、まあ話は面白ければよいということでどんどんと継ぎ足されていくのですね。それにしても若干31歳で崩御された清和天皇のDNAは、今日の大半の日本人の中に受けつがれているというのも何かすごい感じがします。
今は「野」の雰囲気などは微塵も無くなっていて、多くの施設や家屋が建ち並ぶ中を歩いて御殿山神社に。渚院辺りにあった神社が明治時代に今の場所に移った様子を描いた絵馬、以前は間近に見られたのですが、本日は鍵がかかっていて内陣というか、そこへ入ることが出来なかったので、斜めからチラリと見ました。
京阪電車に乗っていて、御殿山付近から東を眺めたときに、緑の壁のように見える森がありますが、それがこのお社の木々です。
渚院跡も久しぶりに訪ねようとしましたが、住宅地の中に完全に埋没しているし、正確な場所も覚えていないので、次の機会にしました。このところ毎週続いた飲み会も本日が一応のキリ、また徘徊に時間が割けそうです。というか、飲むこと自体は飲み会のあるなしに拘わらず、毎週のことなのですが。
弟が枚方に住んでいますが、京阪の駅は、はじめて見ます。イズミヤと天野川との対比がいいですね、聖と俗とまではいかないてすが、自然の川と人間の欲丸出しの建物、、こういうコントラストは好きです。
千字文を伝えた王仁の墓も、百済寺跡も枚方にあるというのですから、朝鮮文化の影響をうけた土地ですね。七夕伝説の土地であるのも優雅です。
いつもながら、ちょっと散歩、いい味でてますね。
王仁の墓は確か長尾の方にあり、辺りの石碑にハングルが刻まれまくっていたので、しらけて帰ってきたことがあります。王仁自身はハングルなど毛頭知らないだろうし、子孫でも何でもない韓国人がなぜ厚かましく碑を建てたりするのでしょうね。百済王氏にせよ、王仁博士にせよDNAを受けついでいるのは現代の日本人ですね。
山頂で、ウォッカ?何ともたくましいです。熱燗ができるのは持っていったことがありますが、ウォッカとなると少し自信がないです。町で飲んでも、お猪口みたいなのに湯気というか冷気というかそういうのがユラーとしているのをみると「大丈夫かいな?」と思ってしまいます。
昔、尼崎が職場の時、隠れ家的、沖縄料理の店があって
「どなん」という泡盛、(アルコール60度でライターでもえます)があって、水割りと言ったら主人(沖縄の人)に叱られましたこんなきつい酒こそストレートでいただくのが礼儀、作った人に対する敬意です」といわれ、その教えを遵守してきました。まあその店で2杯、3杯、小さいグラスで、ロックでいただいたら、しょっちゅう西明石まで寝過ごしました。上りの終電車はすでになく、垂水の家まで、タクシーで4500円くらいかけて帰りました。馬鹿な思い出です。
別件:以前の高瀬川の散歩のレポートの最後の焼きそばの写真、すばらしい。今度日本に行ったら食べたいなと思っています。こちらは米粉の麺ばかり、とにかく小麦粉の麺が食べたいですね。
なるほど、テントなどで泊まって縦走するときには、いいかも知れませんね。もう、長いことテントをかついで山に行くということをしなくなったので、ついつい頂上で飲むと帰りが…等と考えるようになってしまいました。
ビーフンですね。たまに食べるとおいしいと思うのですが、そればかりだったらちょっと嫌というところですね。一昨日はそこそこ有名なチェーン店で焼きそばを食いましたが、写真を見て頂いた店には及びませんでした。
天野川、水がきれいな川ですね。 文字で見るとき、天野の野が「の」ですともっときれいなのに。 声に出しますとどちらでも同じですが。
空の色もきれい。 カメラ替えましたか?
カメラは、修理中なので、携帯で撮った写真です。もうじき返ってくると思うので、次回の記事からは今まで通りの写真でいけると思います。
天野川の上流は生駒の高山です。今は随分と開けたのですが、何か水はきれいですね。
20日、よろしくお願いします。
国道1号線、昔枚方バイパスと言われていたところを走っていて、ちょっとした峠部分から見渡したとき、あ、この一瞥で目に入る家の数は京北の家の何倍やろ、なんて言いながら話したことがあります。家々家ですね。まあこうして密集する都会で生活されている方々ご苦労様です、その分我々田舎人はゆったりと生活させて頂きます、と同情しないでもない。
こんな今の姿ですけど昔は猟場とのことさぞかし都の外れも外れ、ど田舎だったことでしょう。ただ昔の人の行動範囲って広いものだったんだなあとは感じます。でも考えたら一日歩けば京から難波まで行けますので昔の時間感覚ではどうってことはなかったかも。天の川や星ヶ丘といった風流な名前は残して欲しいですね。
かの惟喬親王さんについてですが、何で彼が木地師の祖として神様に祭り上げられたんでしょうね。各地に残るいろんな伝説、これは歴史を考えるに大切なことであると思いますが、まあ最近は全て眉唾もの?という観点を持っていないといけんかなあと考え初めております。話はどんどん膨らんでいくもんだというのを実感していますので。
考えてみたら、人口も増えたというものの、それだけ大阪周辺への集住も進んだということでしょうね。さて、これをいかに地方に散らばらせるかというところですが、今の経済構造のままだと厳しいでしょうね。
惟喬親王は外戚が紀氏ですね。中流豪族であった紀氏にとっては掌中の玉も玉、宝玉だったでしょうね。その紀氏の本拠である紀伊はもともとは「木」の国だったと言います。「木」に携わる多くの人々が惟喬親王を「わしらの皇子」と崇めたのではないでしょうか。外戚が佐伯氏だったら今頃は漁師の神様になっておられたりして。この親父ギャグ的な発想を排除したら全国の神社など成り立たなくなりますし(爆)。
天野川は名に恥じないきれいな流れで、先月の台風の影響もなかったようで、(源流が生駒山系だとか)何となく頷けます。
高校の歴史の選択、今に思えば間違いでした。世界史の先生の顔で選んでしまいました。日本史のお爺さん先生を毛嫌いしたのです。若気の至りでございます。
百済王氏も読めない情けなさです。
飲み会のお酒は何酒かな?
天野川ではこの日は中学生たちが川に入って水遊びをしていました。けれどもここ数日で完全に秋が来たという感じですね。
このところの飲み会はビールばかりです。この日は京都駅に近いお好み焼き屋でした。一軒の店で腰を据えてというのもいいですが、このところはひばりでたこ焼きをあてに飲んだ後、しばらく歩いてうどん研究所で英国ビールという形も定着しつつあります。今のところ、歩かせて文句も出ていません(笑)。