本日は師匠の案内で宇治市の徘徊であります。寒波が到来して最も寒い時の徘徊に多くの人が参加して下さいました。ありがとうございます。
集合は京阪電車宇治線の黄檗駅、先ず最初に陸上自衛隊の宇治駐屯地、中部方面隊の補給を担当している基地です。ここには戦前には陸軍の砲兵工廠火薬製造所が置かれていました。後日師匠に教わったことによると、先ず最初に火薬庫があって、他の施設は後から増やされていったとのことです。本日は日曜日ということで、中には入れませんでしたが、現在は望楼として使用されている反応塔(師匠曰く多分反応塔であろう)がそびえています。
基地の正門から少し北上したところの交差点に「宇治村道路元標」、この蒲鉾型のものは概ね大正9年のものであるそうです。その横にはかなり摩耗した役行者像が中に埋め込まれた道標がありました(写真取り忘れ)。
この道は「奈良街道」であると同行の方に教えていただきました。
これを北西方向に進み、京阪の宇治線とJRの奈良線を渡ったところにあるのが、新生市塲、随分と長い市塲なのですが、もはや開いている店は1軒だけでした。
そのまま鉄眼禅師一切経版木収蔵庫へ。後ほど黄檗山万福寺の前も通るのですが、この寺を開いた隠元禅師のお弟子さんが鉄眼禅師、隠元禅師から与えられた一切経の印刷(そう言ってしまったら軽い感じですが)を志し、完成したのが鉄眼一切経。その版木が収められているところです。その間も2度にわたり飢饉救済のために集めた浄財を惜しげもなく差し出したというから、本当に立派です。キッタナイ字を人目にさらして金もうけをしてきた坊主は特に反省しろよー。マスコミもあんなものを一々ニュースとして取り上げるなよー。
確か大阪に鉄眼寺という寺があり、ウロウロしたことがありますね。そこでも、一切経の印刷について何か説明が為されていたように覚えています。確か、この版木が明朝体のもとになっているとか。この収蔵庫の裏山の墓地に鉄眼禅師のお墓もありました。
そのまま万福寺の前を通ります。明末清初の動乱を逃れ日本に来られた隠元禅師が開いたお寺です。確か麻田藩の殿様が渡来後の禅師の面倒を見たことや、一旦摂津富田の清普寺に入られたことなどを覚えています。この寺の前にも何やかやと碑が並んでいます。駒蹄影園碑(こまのあしかげえんひ)は鎌倉時代に明恵上人がこの宇治の地に茶の栽培を伝えたという話にちなむ碑で、龍目井は万福寺全体を龍の姿になぞらえ、その目に当たるところに井戸を掘ったものとされています。
駒蹄影園碑
さすがに隠元禅師、風水にも通じておられたのでしょうね。日本に茶の種を伝えたのは栄西禅師、それをもらい受けたのが明恵上人で、上人は最初は高雄の奥の栂尾に茶を植えました。これが栂尾茶といわれるものですね。
龍目井
万福寺山門
万福寺の前をそのまま通り、寺の敷地が切れるところで左折します。そのまま寺の敷地に沿って進み、さらに左折したところに万福寺の境界碑と並んで砲兵工廠の境界碑が立っています。
これを見た後、万福寺の敷地から出て、さらに東進すると黄檗公園、かつては地下に火薬を貯蔵したところです。出入り口のトンネルがそのまま残っていました。現在の陸自伊丹駐屯地の火薬庫も地下になっていて、その上は何か古墳みたいになっていますね。万が一のことを考えるとこの貯蔵方法が一番いいみたいです。トンネルと名付けられていますが、厳密に言うとこれは入り口が残っているだけで、向こう側はありません。
トンネルの前の道をずっと南下します。隼上りというところまできたら、隼上り瓦窯跡、ここで焼かれた瓦が明日香の豊浦寺跡から出土したということですから、これは古い。ここでは登り窯の跡が分かるように低灌木が植えられています。
その近くに隼上り2号墳、移設されたものですが、玄室と羨道がよく分かります。さらに進んで、厳島神社ですが、安養寺に一人で入って本隊と分かれた小生は、厳島神社の入り口の祠だけを見て、神社の境内には入りそびれました。近くには道標が2つ。
遅い昼食はこの辺りではただ一軒開いている浮舟亭、おっ!早速出てきましたね。源氏物語。最近ちょくちょくとコメントを下さる浮舟様も是非一度!同行の方はねぎ焼き大好物でしたので小生もねぎ焼きを食べました。小生はちょっとこれから「ねぎ焼き」なるものを真剣に追求しようと思います(笑)。たこ焼き、串カツ、スルメの天ぷら等々に続く新たなる食い物研究の始まりです。
昼食後も、この店の前の道を直進すると何時の間にやら「観光」宇治に入り込んでいました。但し、文化遺産とやらで喜んでいる平等院には行きません(ただ今工事中)。思うにユネスコの文化遺産等々は、どこぞの国のタイヤ屋の☆☆☆などと同じで、それに指定されたからどうのとか外されたから残念とかいうのは下らぬことです。こういうものが非常に恣意的な運営が為されているということは、今回のオリンピック競技からレスリングを外す騒動でよくわかりましたね。第一ユネスコの如きが日本の景勝地や名所の評価をする等とは1000年早い!自然遺産の方は気に食わぬけれど指定されることが自然の保全にも多少はつながりますが、文化遺産の方は政治的な胡散臭さがありますし、金もうけ、金もうけで逆に人心を荒廃させる弊害も大きい。オット、神風連が出てしまいました。
宇治上神社の社殿は神社建築では日本最古、ぼちぼちと修理の準備が始まっています。御祭神の菟道稚郎子皇子がこの地にやって来られた時にうさぎが先導したということで、このお社のシンボルになっています。仁徳天皇と菟道稚郎子皇子の説話について語るには小生はまだまだ勉強不足ですが、莵道の名を負っている以上は本来はこの地域の有力豪族であったものが、大和朝廷の成立過程で系譜の中に取り込まれていったものと考えることもできます。オオササギ(仁徳)とワキイラツコが皇位を譲り合ったという話を裏返せば、大王位をめぐる争いが続いたと取ることもできそうです。
拝殿
拝殿・横からー
修理もぼちぼち
この辺りには源氏物語の宇治十帖にちなむ石碑が多く建てられています。もちろん源氏物語はフィクションですから、現代版「お宮の松」のようなものです。今現在、各地で「事実」として語られていることで、実はフィクションが根っこにあるというものは多くあります。今はそのようなことがおこることはないだろうと考えるのは甘い。この国が隣国であることが日本の不幸とも言えるバ韓国がウダウダいっている慰安婦問題などは、まさにそれに当たります。最近も関東大震災における吉原の遊女の焼死体が並ぶ写真をして虐殺された朝鮮人の写真だと鬼の首を取ったように発表していましたね。ヤツラはどうしても日本の普通の人々を鬼畜であるかのように言わねば気が済まないようです。まあ、それとは次元が違いますが、将来、源氏物語の世界が史実になっていったりして、そしてその論拠に「現に宇治市には物語の登場人物の住まいであったところがしっかりと残っている」等と書かれたりしてということがおこるかも知れません。
宇治川沿いの道に入ります。本日は向かいの塔の島に渡らないところが、普通の観光旅行と違うところ。
関西電力の宇治発電所、近づけませんが奥にはなにやら優美な建物が建っているのが見えます。横には記念碑。
宇治川電気の碑
この近くの興聖寺は禅寺らしい清潔な寺でした。同行の方はかつて立木の観音さんから歩いてここに出てこられたそうです。
興聖寺の守り神秋葉明神
参道
この興聖寺にデンをして、宇治橋の方に引き返します。途中の茶業会館の建物、なかなかのものです。玄関がアルミサッシになっているのが惜しい。
放生院には宇治橋の断碑、古いものです。以前はむき出しで置いてありましたが、今は覆い堂ができています。それはいいのですが、拝観(拝観するものかなあ?)は冬場はダメで3月からねとかいうのはいただけぬ話です。どのみち出土したままの姿ではないし、たまたま寺になっているところから出土したというだけだから管理がうっとおしければ府か市に寄託すればいいのにと思います。
宇治橋たもとの茶団子屋の前にまたまた道標。位置的にも、以前からここにあったものです。
一旦信号を渡り、京阪電車宇治駅側の道を北西に進むと東屋観音、何と鎌倉時代の石仏だそうです。さらに彼方神社、式内社だそうですが、今はものすごく小さくなってしまいました。駅の向こうに菟道稚郎子皇子の御陵。勿論宮内庁が勝手に指定しているものです。ひょっとして前方後円墳ですら無いのではと思われます。今現在の認識では前方後円墳というのは大和政権への帰属を示すものですから、いやしくも大王の弟であるならば、しかも記紀に言うような仁徳天皇即位の事情があるならば、この墓はもっと広大な前方後円墳でなければなりません。
宴席の予約時刻まで未だ少し間があるので、宇治橋を渡り商店街をウロウロしました。上林の販売店ではオバチャンが大声で入っていけと呼びかけています。茶を飲ましたるという声に負けて中に入りました。同行の方々はその後で何やかやと買い求めておられましたから声をかけたおばちゃんの勝ち。その先に宇治代官家であった上林家の屋敷があります。
上林家にとっては迷惑な話でしょうが、小生の高祖母はこの家からお嫁入りをしてきました。その時の嫁入り道具のうち鉄奬入れ?は小生が預かっています。小生は嫁入りの際の守り刀とやらを狙っているのですが、これは叔父が秘蔵して放しません。あるいは叔父のことですから、餅を切ったりするのに使っていて、切れなくなったら研いだりして既に刀身は哀れなことになっているかも知れません。上林家は遠く遡ると綾部の上林川流域にたどり着くようです。まあ、それを理由にお茶をせびったりしないから、安心してね。
そのことがあって、しばらくは上林家ともおつき合いをしていたらしいのですが、季節の挨拶などを持って上林家にお使いに行く者がいつも「あそこにお使いしたら、お茶は出してくりゃはるけれど、ご飯をよんで(出して)くりゃはれへんから帰ってくるまで腹が減るわぁ。」といつもぼやいていたので、上林家の人が来た時に「わるいけど、使いの者にごはんをよんだってもらえませんか。いつもぼやいて帰ってくるしー。」と頼んだそうです。すると、上林家の人は「はよ言わはったらよろしいのに、いつも飲んでもおてるお茶に比べたら、ご飯ぐらい安いこっちゃ。」と返事したとか。さっすがー。
上林家
宇治の代官所跡
他にも立派な御茶屋さんがありました。サントリー=福寿園(伊右衛門)、コカコーラ=上林(綾鷹)てな具合につるんでいますから、ここはどうする?アサヒ飲料とつるむかえ?
商店街を抜けたところにまたまた道標があり、道路を渡ったところには宇治上神社の御旅所がありました。
川を越えて、宇治上神社がここまで来ている。県神社との関係は?等と言う疑問も湧いてきます。社格はともに村社だし。やはり、式内社の方がオシが効くのかな、それでも衰微した式内社などはさっき見たばかりだし。境内には地元の人よりも大阪の人が残したものが多くありました。
ちゃんと角がある狛犬。師匠によると本来は唐獅子と狛犬でセットだったということです。
古い散髪屋さんがありました。何か懐かしいですね。同行の方も同じ思いで、散髪の後でお菓子をもらった話などをされています。そうやった。そうやった。小生がガキンチョの時に、散髪屋さんで一番多くもらった菓子の種類は「ぽんせん」でした。あー、思い出した!小生は昔綿屋のネエチャンに惚れて、それまでポンセンをくれた散髪屋を裏切って、綿屋の3軒ほど隣の散髪屋に店を変えました。けど、その時のド本命は本屋のネエチャンでしたよ。綿屋もその散髪屋も今はありません。そして本屋も…。これを反省して、この30年間は1軒の散髪屋一筋です。親方や他の常連客の髪の毛が無くなっていく様子をつぶさに観察してきました。
今一度宇治橋を渡ろうとするところに宇治町道路元標、これは師匠も初お目見えということで驚喜されていました。ということは、大正9年の段階では「宇治村」と「宇治町」が併存していたことになりますね。ちょっとややこしかったのでは。
さてさて、宇治橋を渡れば、後30分ほどで酒が飲めます。本日は中書島の黄桜カッパカントリーが宴席の場です。吉村のおっさんが監修したというエジプトビールは飲んだれへんねん。
宇治橋から上流を眺めます。何か琵琶湖の上を吹いていた冷たい風が集まって吹き下ろしているような感じです。夏は涼しいでしょうね。平安時代に貴族が別荘を建てたのも宜なるかな。
宇治からは電車で中書島に。黄桜で一杯やった後、立ち呑み屋に「伏見正宗」(これはその店にしか無い、油長にも無い。)を飲みに行きましたが、本日は閉まっています。その隣、昔に店の主人の陰々滅々とした話を聞きながらお好み焼きを食べた店も別の店に変わっていました。やむなく、中書島での解散と相成りました。
集合は京阪電車宇治線の黄檗駅、先ず最初に陸上自衛隊の宇治駐屯地、中部方面隊の補給を担当している基地です。ここには戦前には陸軍の砲兵工廠火薬製造所が置かれていました。後日師匠に教わったことによると、先ず最初に火薬庫があって、他の施設は後から増やされていったとのことです。本日は日曜日ということで、中には入れませんでしたが、現在は望楼として使用されている反応塔(師匠曰く多分反応塔であろう)がそびえています。
基地の正門から少し北上したところの交差点に「宇治村道路元標」、この蒲鉾型のものは概ね大正9年のものであるそうです。その横にはかなり摩耗した役行者像が中に埋め込まれた道標がありました(写真取り忘れ)。
この道は「奈良街道」であると同行の方に教えていただきました。
これを北西方向に進み、京阪の宇治線とJRの奈良線を渡ったところにあるのが、新生市塲、随分と長い市塲なのですが、もはや開いている店は1軒だけでした。
そのまま鉄眼禅師一切経版木収蔵庫へ。後ほど黄檗山万福寺の前も通るのですが、この寺を開いた隠元禅師のお弟子さんが鉄眼禅師、隠元禅師から与えられた一切経の印刷(そう言ってしまったら軽い感じですが)を志し、完成したのが鉄眼一切経。その版木が収められているところです。その間も2度にわたり飢饉救済のために集めた浄財を惜しげもなく差し出したというから、本当に立派です。キッタナイ字を人目にさらして金もうけをしてきた坊主は特に反省しろよー。マスコミもあんなものを一々ニュースとして取り上げるなよー。
確か大阪に鉄眼寺という寺があり、ウロウロしたことがありますね。そこでも、一切経の印刷について何か説明が為されていたように覚えています。確か、この版木が明朝体のもとになっているとか。この収蔵庫の裏山の墓地に鉄眼禅師のお墓もありました。
そのまま万福寺の前を通ります。明末清初の動乱を逃れ日本に来られた隠元禅師が開いたお寺です。確か麻田藩の殿様が渡来後の禅師の面倒を見たことや、一旦摂津富田の清普寺に入られたことなどを覚えています。この寺の前にも何やかやと碑が並んでいます。駒蹄影園碑(こまのあしかげえんひ)は鎌倉時代に明恵上人がこの宇治の地に茶の栽培を伝えたという話にちなむ碑で、龍目井は万福寺全体を龍の姿になぞらえ、その目に当たるところに井戸を掘ったものとされています。
駒蹄影園碑
さすがに隠元禅師、風水にも通じておられたのでしょうね。日本に茶の種を伝えたのは栄西禅師、それをもらい受けたのが明恵上人で、上人は最初は高雄の奥の栂尾に茶を植えました。これが栂尾茶といわれるものですね。
龍目井
万福寺山門
万福寺の前をそのまま通り、寺の敷地が切れるところで左折します。そのまま寺の敷地に沿って進み、さらに左折したところに万福寺の境界碑と並んで砲兵工廠の境界碑が立っています。
これを見た後、万福寺の敷地から出て、さらに東進すると黄檗公園、かつては地下に火薬を貯蔵したところです。出入り口のトンネルがそのまま残っていました。現在の陸自伊丹駐屯地の火薬庫も地下になっていて、その上は何か古墳みたいになっていますね。万が一のことを考えるとこの貯蔵方法が一番いいみたいです。トンネルと名付けられていますが、厳密に言うとこれは入り口が残っているだけで、向こう側はありません。
トンネルの前の道をずっと南下します。隼上りというところまできたら、隼上り瓦窯跡、ここで焼かれた瓦が明日香の豊浦寺跡から出土したということですから、これは古い。ここでは登り窯の跡が分かるように低灌木が植えられています。
その近くに隼上り2号墳、移設されたものですが、玄室と羨道がよく分かります。さらに進んで、厳島神社ですが、安養寺に一人で入って本隊と分かれた小生は、厳島神社の入り口の祠だけを見て、神社の境内には入りそびれました。近くには道標が2つ。
遅い昼食はこの辺りではただ一軒開いている浮舟亭、おっ!早速出てきましたね。源氏物語。最近ちょくちょくとコメントを下さる浮舟様も是非一度!同行の方はねぎ焼き大好物でしたので小生もねぎ焼きを食べました。小生はちょっとこれから「ねぎ焼き」なるものを真剣に追求しようと思います(笑)。たこ焼き、串カツ、スルメの天ぷら等々に続く新たなる食い物研究の始まりです。
昼食後も、この店の前の道を直進すると何時の間にやら「観光」宇治に入り込んでいました。但し、文化遺産とやらで喜んでいる平等院には行きません(ただ今工事中)。思うにユネスコの文化遺産等々は、どこぞの国のタイヤ屋の☆☆☆などと同じで、それに指定されたからどうのとか外されたから残念とかいうのは下らぬことです。こういうものが非常に恣意的な運営が為されているということは、今回のオリンピック競技からレスリングを外す騒動でよくわかりましたね。第一ユネスコの如きが日本の景勝地や名所の評価をする等とは1000年早い!自然遺産の方は気に食わぬけれど指定されることが自然の保全にも多少はつながりますが、文化遺産の方は政治的な胡散臭さがありますし、金もうけ、金もうけで逆に人心を荒廃させる弊害も大きい。オット、神風連が出てしまいました。
宇治上神社の社殿は神社建築では日本最古、ぼちぼちと修理の準備が始まっています。御祭神の菟道稚郎子皇子がこの地にやって来られた時にうさぎが先導したということで、このお社のシンボルになっています。仁徳天皇と菟道稚郎子皇子の説話について語るには小生はまだまだ勉強不足ですが、莵道の名を負っている以上は本来はこの地域の有力豪族であったものが、大和朝廷の成立過程で系譜の中に取り込まれていったものと考えることもできます。オオササギ(仁徳)とワキイラツコが皇位を譲り合ったという話を裏返せば、大王位をめぐる争いが続いたと取ることもできそうです。
拝殿
拝殿・横からー
修理もぼちぼち
この辺りには源氏物語の宇治十帖にちなむ石碑が多く建てられています。もちろん源氏物語はフィクションですから、現代版「お宮の松」のようなものです。今現在、各地で「事実」として語られていることで、実はフィクションが根っこにあるというものは多くあります。今はそのようなことがおこることはないだろうと考えるのは甘い。この国が隣国であることが日本の不幸とも言えるバ韓国がウダウダいっている慰安婦問題などは、まさにそれに当たります。最近も関東大震災における吉原の遊女の焼死体が並ぶ写真をして虐殺された朝鮮人の写真だと鬼の首を取ったように発表していましたね。ヤツラはどうしても日本の普通の人々を鬼畜であるかのように言わねば気が済まないようです。まあ、それとは次元が違いますが、将来、源氏物語の世界が史実になっていったりして、そしてその論拠に「現に宇治市には物語の登場人物の住まいであったところがしっかりと残っている」等と書かれたりしてということがおこるかも知れません。
宇治川沿いの道に入ります。本日は向かいの塔の島に渡らないところが、普通の観光旅行と違うところ。
関西電力の宇治発電所、近づけませんが奥にはなにやら優美な建物が建っているのが見えます。横には記念碑。
宇治川電気の碑
この近くの興聖寺は禅寺らしい清潔な寺でした。同行の方はかつて立木の観音さんから歩いてここに出てこられたそうです。
興聖寺の守り神秋葉明神
参道
この興聖寺にデンをして、宇治橋の方に引き返します。途中の茶業会館の建物、なかなかのものです。玄関がアルミサッシになっているのが惜しい。
放生院には宇治橋の断碑、古いものです。以前はむき出しで置いてありましたが、今は覆い堂ができています。それはいいのですが、拝観(拝観するものかなあ?)は冬場はダメで3月からねとかいうのはいただけぬ話です。どのみち出土したままの姿ではないし、たまたま寺になっているところから出土したというだけだから管理がうっとおしければ府か市に寄託すればいいのにと思います。
宇治橋たもとの茶団子屋の前にまたまた道標。位置的にも、以前からここにあったものです。
一旦信号を渡り、京阪電車宇治駅側の道を北西に進むと東屋観音、何と鎌倉時代の石仏だそうです。さらに彼方神社、式内社だそうですが、今はものすごく小さくなってしまいました。駅の向こうに菟道稚郎子皇子の御陵。勿論宮内庁が勝手に指定しているものです。ひょっとして前方後円墳ですら無いのではと思われます。今現在の認識では前方後円墳というのは大和政権への帰属を示すものですから、いやしくも大王の弟であるならば、しかも記紀に言うような仁徳天皇即位の事情があるならば、この墓はもっと広大な前方後円墳でなければなりません。
宴席の予約時刻まで未だ少し間があるので、宇治橋を渡り商店街をウロウロしました。上林の販売店ではオバチャンが大声で入っていけと呼びかけています。茶を飲ましたるという声に負けて中に入りました。同行の方々はその後で何やかやと買い求めておられましたから声をかけたおばちゃんの勝ち。その先に宇治代官家であった上林家の屋敷があります。
上林家にとっては迷惑な話でしょうが、小生の高祖母はこの家からお嫁入りをしてきました。その時の嫁入り道具のうち鉄奬入れ?は小生が預かっています。小生は嫁入りの際の守り刀とやらを狙っているのですが、これは叔父が秘蔵して放しません。あるいは叔父のことですから、餅を切ったりするのに使っていて、切れなくなったら研いだりして既に刀身は哀れなことになっているかも知れません。上林家は遠く遡ると綾部の上林川流域にたどり着くようです。まあ、それを理由にお茶をせびったりしないから、安心してね。
そのことがあって、しばらくは上林家ともおつき合いをしていたらしいのですが、季節の挨拶などを持って上林家にお使いに行く者がいつも「あそこにお使いしたら、お茶は出してくりゃはるけれど、ご飯をよんで(出して)くりゃはれへんから帰ってくるまで腹が減るわぁ。」といつもぼやいていたので、上林家の人が来た時に「わるいけど、使いの者にごはんをよんだってもらえませんか。いつもぼやいて帰ってくるしー。」と頼んだそうです。すると、上林家の人は「はよ言わはったらよろしいのに、いつも飲んでもおてるお茶に比べたら、ご飯ぐらい安いこっちゃ。」と返事したとか。さっすがー。
上林家
宇治の代官所跡
他にも立派な御茶屋さんがありました。サントリー=福寿園(伊右衛門)、コカコーラ=上林(綾鷹)てな具合につるんでいますから、ここはどうする?アサヒ飲料とつるむかえ?
商店街を抜けたところにまたまた道標があり、道路を渡ったところには宇治上神社の御旅所がありました。
川を越えて、宇治上神社がここまで来ている。県神社との関係は?等と言う疑問も湧いてきます。社格はともに村社だし。やはり、式内社の方がオシが効くのかな、それでも衰微した式内社などはさっき見たばかりだし。境内には地元の人よりも大阪の人が残したものが多くありました。
ちゃんと角がある狛犬。師匠によると本来は唐獅子と狛犬でセットだったということです。
古い散髪屋さんがありました。何か懐かしいですね。同行の方も同じ思いで、散髪の後でお菓子をもらった話などをされています。そうやった。そうやった。小生がガキンチョの時に、散髪屋さんで一番多くもらった菓子の種類は「ぽんせん」でした。あー、思い出した!小生は昔綿屋のネエチャンに惚れて、それまでポンセンをくれた散髪屋を裏切って、綿屋の3軒ほど隣の散髪屋に店を変えました。けど、その時のド本命は本屋のネエチャンでしたよ。綿屋もその散髪屋も今はありません。そして本屋も…。これを反省して、この30年間は1軒の散髪屋一筋です。親方や他の常連客の髪の毛が無くなっていく様子をつぶさに観察してきました。
今一度宇治橋を渡ろうとするところに宇治町道路元標、これは師匠も初お目見えということで驚喜されていました。ということは、大正9年の段階では「宇治村」と「宇治町」が併存していたことになりますね。ちょっとややこしかったのでは。
さてさて、宇治橋を渡れば、後30分ほどで酒が飲めます。本日は中書島の黄桜カッパカントリーが宴席の場です。吉村のおっさんが監修したというエジプトビールは飲んだれへんねん。
宇治橋から上流を眺めます。何か琵琶湖の上を吹いていた冷たい風が集まって吹き下ろしているような感じです。夏は涼しいでしょうね。平安時代に貴族が別荘を建てたのも宜なるかな。
宇治からは電車で中書島に。黄桜で一杯やった後、立ち呑み屋に「伏見正宗」(これはその店にしか無い、油長にも無い。)を飲みに行きましたが、本日は閉まっています。その隣、昔に店の主人の陰々滅々とした話を聞きながらお好み焼きを食べた店も別の店に変わっていました。やむなく、中書島での解散と相成りました。
京都では九条ねぎを使っているということが一つのブランドになりますが、大阪だと普通の青ネギでしょうね。今のところ、京都でねぎ焼きがウマイという店を3つ発見済みです。そのうちの2つは小生との関わりも深く、ねぎ焼きの追求は神仏から与えられた使命かな等とも思っています(爆)。
それにしても、山のお仲間、ますます「この人は何をしているのだろう」と思われるかも知れませんね。それでも工夫されたねぎ焼きを食べることが出来るのは幸せだと思います。さらに得体の知れぬ世界にお仲間を引きずり込み、目を白黒させてあげましょう(笑)。
「鎌倉野菜」という特定の野菜はありませんが、鎌倉と隣接している横浜市の鎌倉市農協に加入している農家の方たちが、苦労して「鎌倉野菜」というブランドを立ち上げました。努力していると思います。
この辺りのねぎは、九条ネギのように葉の部分は長くありません。本来九条ネギは、九条で栽培されたものだけが九条ネギなのでしょ。
ねぎ焼はお酒にも合うのでしょ。また来月山の友が集まりますので、ねぎ焼練習します。
楽しい食べ物を教えていただき、ありがとうございます。
来週から太陽の下を歩く生活を再開します。 京街道楽しみにしております。
最近は全国区になっているかも知れませんが、「コナモン」という言葉がありますね。やはりその中心は大阪でしょうね。けれども焼きそばは有名なところが全国各地にありますね。
次は「ネギ焼き」ですね。鎌倉は近年「野菜」で随分と有名になっていると誰かに聞いた覚えがあります。九条ネギの代わりになるような良いネギがあるのではないでしょうか。小生は最近冷凍のねぎ焼きを見つけ、真夜中に食べています(爆)。レンジでチンした後でフライパンで少し焼くのですが、やはりホットケーキみたいです。また、ねぎ焼きレポートを待っております。
あの饅頭、おいしかったですね。ああいう感じのものは小生も初めてでした。癖になるから癖にしてねといっておきますね(笑)。さすが!木幡のだということをしっかり見ておられますね。あれからずっと宇治のどこに売ってるんやろーと思っていました。名前も覚えていませんでしたし。
ささ舟様に持参いただいた金柑のラム酒漬けもおいしかったです。欠食児童達によって見ている間になくなりました。あれからラム酒を再認識、大昔に買ったものが2本も出てきましたので、ボチボチお湯割りで飲んでいます。
「魔性の彼女」の話、またお聞かせ下さい。楽しみにしております。
イカ焼きは少しお出汁を入れて味をつけておきました。インターネットで調べた方法ですが、やっぱり小麦粉焼きというほうが正しいような。大阪は小麦粉文化が発達した土地なのですか。
毎日家の中に居りますので、次はネギ焼に挑戦してみます。ただ、この手のものは、外食が一番のように思いますが、口をそこまで持って行かないとならないということが最大の難関です。
帰宅時で2万5千歩という近年最高記録でしたが、後何の痛みもなく今日に至っています。こちらの徘徊は何かが分散されるようないい歩き方なのかなと(随所で止まりながら)常々思っています。誠にありがとうございます。
厳島神社近くでN様から頂いた木幡の「宇治紫」の美味しかったこと。パリッとした皮に甘みをおさえた小倉餡がたまりませんでした。徘徊堂さまのご縁続きの上林さんのお茶も喉越しがよく体がしゃんとしましたね。私は迷わず羊羹を買いました。すぐ先の上林記念館は門から覗いただけで勿体無いことをしました。入ればよかったな、と。
宇治には学生時代、遊びの師がいまして、ずい分彼女に引きずられてあちこち廻ったものです。(魔性の彼女のことはまた聞いて貰いたいです)。でも先日の徘徊地の山沿いの地は初めてでした。このような未知がこの会の魅力なのですね。
、
宇治には学生時代
黄檗新生市塲、おっしゃるように真ん中の辺りにただ一軒だけ店が開いているというのが、昔のロールプレインゲームのダンジョンの中をさまよい歩いているような感じで凄まじかったですね。案外話しかけたら何か宝物をくれたかも知れません。
神社は伊勢神宮に代表されるように普通は新しいお社に立て直していくのですが、あそこまで古くなると、もう立て直しということは出来ないから修理をするのでしょうね。拝殿の中がちょっと見えにくかったのは残念ですが、まあそちらの方が神さんがいたはるという感じがしていいのかも知れません。
黄桜は行けば必ずモタモタがありますね。以前に来た時には注文をとったバイトのネエチャンが、それを厨房に伝えずに上がってしまい、そのお詫びということで熱燗をプレゼントしてくれたこともありました。今回もビールがそろわずモタモタしていましたね。飲み屋では一番あってはならぬこと(笑)。
小生も上林では何も買っていませんよー。お茶を買うのは池田の「やまひろ茶園」と決めています。有名どころの半額程度で同レベルの茶が買えますし、まあささやかな地域振興ということで。
ねぎ焼き、うまいですね。2013年ねぎ焼きの旅を嵐山の渡月橋辺りから始めましょうか?
集合前に、私も黄檗新生市場の佇まいに惹かれて入って行き、全く驚愕したことでした。真ん中辺りにたった1軒だけ開いていた雑貨屋の、老婆の侘びしそうな姿が忘れられません。もはや「死精市場」ではないですか。
横の入り口から師匠に着いて忍び込んだ「鉄眼禅師一切経版木収蔵庫」は凄いの一言でした。明朝体の元になった字体ですか。和尚は、物凄い集中力のある人物だったのでしょう。数分足らずで書き飛ばすK寺の「今年の文字」とは、それこそ格調が雲泥の差ではないですか。
万福寺は素通りになりましたけど、丹念に徘徊しようと思えば、ここだけで一日を費やす必要があるかも知れません。ついでに坐禅を組んで深く反省したりして・・・。
この徘徊の醍醐味の一つは、埋もれた道標に遭遇し得ることです。私らがふらりと行く場合は、ほとんど脇目だけで通り過ぎておりますので、こうして丹念に読んで歴史的な背景の解説を聞くと、まさに目から鱗です。
それにしても、石の道標が至る所にありますが、これは日本だけの状況ですか?それもそうとして、「浮舟亭」のねぎ焼きは中々のモノでした。私も病み付きになりそうです。大名所がある、と仰っていましたけど一度ご一緒せねばなりません。
世界遺産の宇治上神社へは、時々初詣で行きますが、拝殿の屋根がいよいよ修繕に入るとか。やむを得ないのでしょうけど、修復の度に値打ちは下がることでしょう。金ピカの金閣寺なども、まるで行きたくもありませんし・・・。
それと、この辺りは、源氏物語で食べているのでしょう。歴史とフィクションが、いつの間にか混線してしまうのは世の習いですか。
「宇治十帖」は、紫式部とは別の作者とするの定説ですが、いずれにしましても、“夢の浮き橋”の夢物語と思えば腹も立たないのかも。
そんなこんなで、上林家の煎茶は中々の味でした。私は何も買わなくて、g家のご先祖様に申し訳ありません。それより、「飯が欲しかったら早う言わはったらよろしいのに…」は、本心からの言葉でしょうか?京女は中々にコワイと思いますが・・・(私はです)。
最後は黄桜で締めて戴き有り難う御座いました。最初の「飲分け麦酒」が揃うのが遅かったキライはありますが、初対面の方々とも話題が弾み、結構な雰囲気でした。駅前の立ち飲み屋へは、またいつかお伴いたしましょう。
間も無くこんな季節になるでしょう。
そよ風は赤い襷の茶摘み女の口ずさむ唄乗せて伝へ来―池田博一
消え去ったお好み焼き屋、実は大将は「二等兵」クラスの若い人でした。1週間前にお母さんが亡くなったということで「……」という感じ。境涯に同情は出来ますが、楽しく飲もうと思って入った者には不幸でした。
会津屋、もともとは天下茶屋なのですが、神戸方面からだとJRの大阪駅を福島の方に抜けたところにあるのが近いです。箕面ビールが飲めます。ただし、ここは時間帯によっては大変混んでいます。全く混まない店、ここで書いて混むようになると(そんな影響力は無いけれど)嫌なので、いよいよ行くどーとお決めになった時に密かにお教えしますね(爆)。
お好み焼き屋の対面食い、おっしゃるとおりです。京都でも、海坊主みたいなおっさんが目の前で焼いている店など、視覚的なものから不味さを感じてしまいます。2階のテーブル席がある時は山帰りによく寄ったのですが、対面席になってから行くのをやめました。
1.私はお好み焼きは家で作って、ほとんど店には行きません。焼き場の主人と1対1の対面の雰囲気がいやでねー。カミシモ外して、おのれを解放せんとする時に、なんで焼き場の主人との会話の段取りする神経つかわないかんのや、というのがあります。気まずい沈黙もいやですが、場違いな愛想よさもつらいですね。それにできるまでの待ち時間が長く、不本意ながらおでんなどをたのんでしまい腹がふくれてしまいます。(笑)
2.たこ焼きはその点、早い。持ち帰りにして近くの公園で食べるのもまた喜ばしからずやです。「会津屋」という醤油、ソースなしで美味しいという店へ一度行きたいのですが、わざわざそこまで地下鉄のりかえて行くのも気合がいりますね。たかがたこ焼き、されどたこ焼きですね。
3、立ち飲み屋がベスト。完全に匿名性の中におのれをうずめて飲める喜び。「お兄さん」「お客さん」とよばれ名前など不要という、その距離感がたまらんですね。会社の社長も昨日の刑務所出所者同じ扱い。常連さんと主人のたあいもないやりとりを聞くともなく聞きながら、時に引き込まれて笑うこともある。「たあいもないやりとり」「聞くともなく聞く」がポイントです(笑)。先日、立ち飲み屋で、お客の話を聞いていたら愛媛の人らしく、私が「石鎚山へ登りましたが、いい山ですね~」と言ったら、相好をくずして私の横へ移動して、名刺までくれて、小企業の社長だけれど、最近不景気の風がきついという話までいきました。やっぱり立ち飲みはおもしろいですね。誇るべき日本文化ですよ。文化功労賞などは老舗の立ち飲み屋の主人に贈ったらいいとおもいます。
上林家、先祖だ等と言うとお茶屋さんから怒られると思います。32人いる高祖父母のうちの一人がそうだというだけです。後は、一人は鳥取の大山寺の坊主だったということで、さらに一人は上林家から嫁をもらった人で、残りの29人は何者であるのか分かりません。一人ぐらいアラブ人とかがいてたら面白いのになあと思っています(爆)。
ねぎ焼きは、こんにゃくの甘辛く炊いたのが入っています。後は牛すじ、イカなどを好みで入れます。ネギはこれでもかというぐらい大量に。といいながら自分では焼いたことがないので詳しいレシピは分かりません。昨日冷凍のねぎ焼きを食べましたが、ホットケーキみたいでした。
いか焼きに挑戦されるとのこと。鉄板にのせた食材を上からギューと押しつける鉄の塊のようなのが要ります。昔は本当に鉄の塊を押しつけていたようですが、今はてこを利用したものに変わっているようです。
宇治は六地蔵から近いのでよく行きました。 どうしたらよいのかわからなくなった時、川の流れを見ているのが一番心が休まったものですから。
鎌倉にいるときは海がすぐ近くですので、今月も2週間ほど自分で家事などができなくなり、気分転換は海でしたね。 富士山から箱根連山、伊豆半島と連なり、大島が見える景色は最高です。
ネギ焼なるものは、粉とネギだけで作ればよろしいのでしょうか?
イカ焼きにも挑戦しようと調べてはいるのですが、まだ体力が回復していなくて。
風邪にお気をつけてください。
永平寺の近くに宝慶寺というのがあるのですね。『街道を行く』は全巻を読んだのですが、すっかり忘れていました。ありがとうございます。なかなか越前まで足を伸ばすこともありませんが、何かの折には訪ねてみたいです。
今回、IOCの委員の中に、かの悪名高きサマランチの息子がおるということに小生も何かウンザリした気持ちになりました。招致をめぐっても以前から黒い噂が絶えません。我々はあんなものに喜んでいていいのだろうかという気分にもなりますね。選手の多くは真摯な努力を続けているだけに可哀想です。いしいひさいち風になりますが、もう参加選手を70歳以上に限定して「オジンピック」でええやんけという感じです(笑)。
mfujino様のおっしゃるように出町の石標はちょっと恥ずかしいですね。マスコミが何らの考慮もなく取り上げるというのも問題です。マスコミが無批判に取り上げすぎるという点では例の「今年の漢字」等と同じだと思います。あの石柱の下で大量の開けた傘の下に潜り込んで暮らしていたホームレス、自称「歌を詠む老女」はどうなったのでしょうね。
観光寺院の坊主は美術品の収集に忙しいのか、最も活躍すべき「東日本大震災」における人々の救済に何か動いたと言うことも聞きませんね。通り一遍の寄付なら我々普通人にも出来ますね。
上林家の茶の話、なるほど、そういう解釈もおもしろいですね。昔のしきたりは結構厳しくて、ある宿場町の問屋役人だった家などは、玄関から座敷に上げてもらうこと自体が大変なことだったそうです。上林家にしてみれば「安物でも茶まで出してやっているのに」といった気分だったかも知れませんね。小生はこれを祖母に聞きました。浮舟様の言われるように結構その吝嗇が有名だったのかも知れませんね(笑)。
浮舟様、お気に入りの寺田屋なのですが、その子孫の方が細々と旅館を続けておられた時は良かったのですが(多分浮舟様が行っておられたころはそうだったと思います)、近年、事業会社が旅館を買い受けてからは「坂本龍馬」の表札を上げたりして、ちょっと恥ずかしくなっています。おまけに建物自体が明治末年の再建で、幕末当時のものではないこともはっきりしました。「そしたらあの柱の傷は何やねん」というところです。昔の建物は今坂本龍馬像が立っている辺りにあったみたいです。また御案内できる機会がありましたら、寺田屋はパスして「油長」等に行きましょう。
宇治の道路元標を見つけられた時の師匠の反応、その表情が目に浮かびますね。実際に現物を初見して驚喜する、興味のない人には理解出来ないでしょうけど。我が郷里の山国隊のことを、大金の借金を残してまで出兵したあほな先祖、と曰う女性には男の心意気や生き甲斐は理解出来ひんやろうなあ、と思ったことでした。
文化遺産の論評もいいっすね。平等院をパスして、ってところは、かの司馬遼太郎が観光客うようよの永平寺をパスして更にその奥の宝慶寺を訪れていることを思い出させて貰いました。私も宝慶寺へ行きましたが、境内を清掃されている雲水や彫り半ばの仏像など心清められました。日本は他から学ぶ謙虚さがありますが、欧米人は、俺が俺がと主張しないと生きていけない世界です。西洋は凄惨な殺し合いの歴史から学んだのでしょうヒューマニズムたらが生まれていますが、我が隣国にはその他者に思いを馳せる文化はないのだろうかとさえ思ってしまいます。まあこれを他山の石と学ぶ姿勢を忘れない様にしないと言い聞かせています。IOCという公的な機関で世襲がまかり通っていることは文化の低さではないでしょうかね。学ぶてき点やおかしな日本など、一昨日、海外経験豊富な友人と外務省は何やってんねん等々長~い長~い電話で語り合ったことでした。
以前私が小野郷の日下部家の話を書いたときおねだりした上林家とお使いの女中さんの話もでてましたね(^^)
フィクションの話も興味有り。私が今怒っているのは出町柳の橋のたもとに建てられた鯖街道口という石碑です。商店街の人が京の七口とテレビ取材で説明しているのは何をか言わんやであります。鯖街道を知って貰う手段としてもっと他の方法があろうにという思いです。
神戸の住人である私が利用するのは、JR東海道線ばかりで、京阪電車はほとんど乗らずじまいでした。感覚的には乗り換えなしでいける大津・彦根のほうが、宇治・伏見よりむしろ近い感じでした。乗り換えはおっくうです。ですから、京阪沿線なら石清水八幡宮、万福寺、平等院、それぞれ1回、(伏見・寺田屋は気に入って3回ですが)行っただけです。良い所が多いのに残念です。
最初の、さびれきった黄檗市場、最後の、頑張りつづけている散髪屋さんのふたつの話は、歴史散歩に花を添えるよい話ですね。うつろい易い世の中というか、速すぎる歳月の流れ、それこそ、この半世紀の歴史も考えさせてくれます。散髪屋さんの建物が、全面板枠のガラス張りになっていて、なんとも渋い雰囲気ですね。
お茶は、私としては「綾鷹」は「伊右衛門」より美味しかったと思いますが、いわれてみれば「綾鷹」には上林家と書いてあった記憶があります。宣伝力はサントリーの「伊右衛門」が大きかったですね。上林家と使いの小者とのやりとりもおもしろい。じっさい高級なお茶でも、舌が肥えてないとわからない。猫に小判というやつです。この話にあえて異説を唱えます。(使いっぱしりの小者に、わざわざ高級なお茶をだすだろうか?という疑問から出発して)本当は吝嗇でご飯もなし、粗茶で応対したが、苦情が出たので、番頭かだれか、智慧者がいて機転をきかして高級なお茶だったのに、わからなかったのと、とっさに言い返したと考えられますが、どうでしょうか。なにか、とんち話のような気がしますね。
鉄眼禅師は、(名前が怖ろしすぎますが)、一切経を世に広めるという大変な仕事をする一方で、貧民救済もやったというお坊さんですか、、、はじめて知りました。昔からひどいお坊さんが多いから、鉄眼をはじめ、行基、空海など民衆に尽くした僧が、より大きく讃えられるのではないかとも思います。坊さんが最近、劣化したと言うより、もともと坊主なんてそんなものじゃないかと思うわけです。有料道路をバイクで通るのにお金を払わずに、2年ほどズルをした京都の僧侶がいましたね。先日、敗訴して200万円の支払いが確定しました。ズルをするのはまあ笑えるけど、最高裁まで争う厚顔さに思わず心中で叫びました。「あんたには、地獄すらなまぬるい!」(パクリです)
最後の写真、宇治の大橋の上から京都方面をながめた風景ですが、重なった山のすぐ向こうに、都があって近いながらも、鄙びた川のほとりに来たという感じが伝わる写真ですね。おっしゃるとおり別荘地にぴったりという雰囲気がします。