写真は能勢街道と勝尾寺街道の分岐にある道標です。阪急電車の車窓から見える「服部」、「曽根」、「岡町」、「豊中」、「蛍池」と言った駅の周辺、延々と住宅が建ち並ぶばかりで「何も無いで。」と完全に決めつけておったのでありますが、それはどうも豊中には刀根山という丘程度の山しかないし、その刀根山も北側は中央環状線に削られているしといったあたりが理由になっていたようです。
ところが今回、恩師の誘いにより桃山台の蕎麦の店「木田」の酒と豆腐がうまいという言葉を杖にして稍徘徊をしたところ、文化財は丁寧に保存されているし、懇切丁寧な地図は作製しているし、ということで「豊中市教育委員会はエライ!」と思いました。山が無くて緑が少ない分は公園を充実させ、僅かに残った文化財は大切に保存する。この精神が至る所に充満している感じです。今までの予断を恥じるとともに「この分だと今まで無視していた寝屋川や門真や守口、尼崎なども…、豊中も究めねばならぬし…。」と徘徊するべきところがぐっと広がり、身は一つのままなので少し焦燥感のようなものも生じています。
今回は、ナビを恩師に任せきりであったため、何処をどう歩いたかは解らぬのでルートに沿ったご案内はまた何れのこととして、回ったところを簡単に述べます。阪急曽根駅を起点に国道176号を北に超すとすぐに能勢街道に出ます。能勢街道などは176号の下に成り果てているものと思い込んでいましたが、国道に並行して随分と残っています。ここをすこし北上しますと「桜塚古墳群」に到着します。
南天平塚(みなみてんびんづか)古墳は墳丘部が大きく削られ、「まあ、残っていたところでこんなもんだ。」と勝手に納得していると御獅子塚古墳は半分が葺石を敷いた形に復元されていて、古墳築造当時の景観が良く理解できます。こういう保存法には異見もあるでしょうが、いずこの古墳であれ現在の森林状態はできたときの景色でないことは確かですからかなりテクノなこの状態は想像力をかき立てます。
この御獅子塚古墳は5世紀中葉の前方後円墳なのですが、そのすぐ横に5世紀初めの円墳である大塚古墳があります。この古墳からは「方格規矩獣文鏡」や単甲が出土しています。
この近くの大石塚古墳と小石塚古墳は4世紀中葉で、この近辺では最も古い古墳と言われていますが、これは柵越しに眺めるだけです。これらの古墳だけでも良く残ったなあと感嘆しておりますと、「いやー、潰されたものの方がはるかに多いでぇ。」、それにしてもかつて墳墓であったところに家を建てて住んでいる人の気持ちや如何にと申すところ、大部分は善意の第三者として住宅を買っておられるのですから、これは開発業者を責めるべきでしょう。
桜塚古墳群より岡町駅前に出ますと原田神社、岡町の商店街は今日なおシャッター通りにならずに栄えているめでたき市場なのですが、その賑わいと好対照に静まりかえった空間がこのお宮さんです。写真は摂社を撮ったものですが、何と尼崎市の富松までこの界隈72ヶ村の鎮守であったというから驚きます。貞享年間の鳥居もよく知られているようです。前後は逆になるかも知れませんが、この界隈には極めて珍しい道標もあります。
旧能勢街道は、この辺りから刀根山の方に延びていたようで、その途中には麻田藩陣屋門が移築されています。麻田藩は豊中市の前身の一つである麻田村に陣屋を置いた1万2千石の藩で、青木氏が江戸時代を通じてこの地域を治めました。2代目の重兼という人は、妙心寺にも仁和寺にも関係の深い殿様なのですが、かつて申し述べた富田の普門寺に隠元禅師を訪ねて以来、わが国に黄檗宗が根付くように力を注いだといいます。万福寺もこの陣屋しか持たない小藩が財力を傾けて創建したものだと言われています。この近辺に「存覺上人」に関係の深い刀根山御坊が今も健在ですが、完全にコンクリの寺となってしまっています。
さて旧能勢街道はこのあたりで中央環状線にブチっと断ち切られていますので、このまま桃山台の方に進みます。豊中市の前身の一つ熊野田村を越えてしばらく行くと明治33年建築の旧新田小学校校舎が迎えてくれます。写真が呆けていて残念なのですが、鬼瓦には「學」の文字が輝いています。府下最古の木造校舎と言うことです。
この近辺も道標銀座ともいうべきで、天明年間のものがいくつか見られます。箕面の勝尾寺は本来「かちおうじ」つまり勝王寺、金光明最勝王経あたりから付けられた名ではと思われますが、小生などは近年の勝尾寺のていたらくを思い、これは「かつおじはさいてい」と書いてあるのだと力説しましたが、正しくは「左 かちおじ 右 さいでら(吹田市佐井寺)」と読むそうです。
今回の徘徊はここらでお開きなのですが、この地域を初めて歩いて気づいたことは「愛宕」の信仰が殆ど見られず、道標なども全て大峰講関係が多く、至る所に役行者像があることです。江戸期の為政者が関係するものかどうかこれから調べようと思うのですが、隣町の池田などでは濃厚に残る愛宕信仰が全く影を潜め大峰信仰に取って代わられているようです。このあたりも歩いてみて初めて解る。やはり至る所に出没せねばならぬと反省しきりの徘徊でありました。
(09年6月記)
ところが今回、恩師の誘いにより桃山台の蕎麦の店「木田」の酒と豆腐がうまいという言葉を杖にして稍徘徊をしたところ、文化財は丁寧に保存されているし、懇切丁寧な地図は作製しているし、ということで「豊中市教育委員会はエライ!」と思いました。山が無くて緑が少ない分は公園を充実させ、僅かに残った文化財は大切に保存する。この精神が至る所に充満している感じです。今までの予断を恥じるとともに「この分だと今まで無視していた寝屋川や門真や守口、尼崎なども…、豊中も究めねばならぬし…。」と徘徊するべきところがぐっと広がり、身は一つのままなので少し焦燥感のようなものも生じています。
今回は、ナビを恩師に任せきりであったため、何処をどう歩いたかは解らぬのでルートに沿ったご案内はまた何れのこととして、回ったところを簡単に述べます。阪急曽根駅を起点に国道176号を北に超すとすぐに能勢街道に出ます。能勢街道などは176号の下に成り果てているものと思い込んでいましたが、国道に並行して随分と残っています。ここをすこし北上しますと「桜塚古墳群」に到着します。
南天平塚(みなみてんびんづか)古墳は墳丘部が大きく削られ、「まあ、残っていたところでこんなもんだ。」と勝手に納得していると御獅子塚古墳は半分が葺石を敷いた形に復元されていて、古墳築造当時の景観が良く理解できます。こういう保存法には異見もあるでしょうが、いずこの古墳であれ現在の森林状態はできたときの景色でないことは確かですからかなりテクノなこの状態は想像力をかき立てます。
この御獅子塚古墳は5世紀中葉の前方後円墳なのですが、そのすぐ横に5世紀初めの円墳である大塚古墳があります。この古墳からは「方格規矩獣文鏡」や単甲が出土しています。
この近くの大石塚古墳と小石塚古墳は4世紀中葉で、この近辺では最も古い古墳と言われていますが、これは柵越しに眺めるだけです。これらの古墳だけでも良く残ったなあと感嘆しておりますと、「いやー、潰されたものの方がはるかに多いでぇ。」、それにしてもかつて墳墓であったところに家を建てて住んでいる人の気持ちや如何にと申すところ、大部分は善意の第三者として住宅を買っておられるのですから、これは開発業者を責めるべきでしょう。
桜塚古墳群より岡町駅前に出ますと原田神社、岡町の商店街は今日なおシャッター通りにならずに栄えているめでたき市場なのですが、その賑わいと好対照に静まりかえった空間がこのお宮さんです。写真は摂社を撮ったものですが、何と尼崎市の富松までこの界隈72ヶ村の鎮守であったというから驚きます。貞享年間の鳥居もよく知られているようです。前後は逆になるかも知れませんが、この界隈には極めて珍しい道標もあります。
旧能勢街道は、この辺りから刀根山の方に延びていたようで、その途中には麻田藩陣屋門が移築されています。麻田藩は豊中市の前身の一つである麻田村に陣屋を置いた1万2千石の藩で、青木氏が江戸時代を通じてこの地域を治めました。2代目の重兼という人は、妙心寺にも仁和寺にも関係の深い殿様なのですが、かつて申し述べた富田の普門寺に隠元禅師を訪ねて以来、わが国に黄檗宗が根付くように力を注いだといいます。万福寺もこの陣屋しか持たない小藩が財力を傾けて創建したものだと言われています。この近辺に「存覺上人」に関係の深い刀根山御坊が今も健在ですが、完全にコンクリの寺となってしまっています。
さて旧能勢街道はこのあたりで中央環状線にブチっと断ち切られていますので、このまま桃山台の方に進みます。豊中市の前身の一つ熊野田村を越えてしばらく行くと明治33年建築の旧新田小学校校舎が迎えてくれます。写真が呆けていて残念なのですが、鬼瓦には「學」の文字が輝いています。府下最古の木造校舎と言うことです。
この近辺も道標銀座ともいうべきで、天明年間のものがいくつか見られます。箕面の勝尾寺は本来「かちおうじ」つまり勝王寺、金光明最勝王経あたりから付けられた名ではと思われますが、小生などは近年の勝尾寺のていたらくを思い、これは「かつおじはさいてい」と書いてあるのだと力説しましたが、正しくは「左 かちおじ 右 さいでら(吹田市佐井寺)」と読むそうです。
今回の徘徊はここらでお開きなのですが、この地域を初めて歩いて気づいたことは「愛宕」の信仰が殆ど見られず、道標なども全て大峰講関係が多く、至る所に役行者像があることです。江戸期の為政者が関係するものかどうかこれから調べようと思うのですが、隣町の池田などでは濃厚に残る愛宕信仰が全く影を潜め大峰信仰に取って代わられているようです。このあたりも歩いてみて初めて解る。やはり至る所に出没せねばならぬと反省しきりの徘徊でありました。
(09年6月記)
古墳跡が開発されたのは、業者の責任でも無いでしょう。許可を与えた管理者側に、それだけの資料が残っていないからではないですか。こうした小遺跡はなるべくしてその運命を辿るのでしようが、一方では大古墳群れなどは採掘さえ頑として許可されない矛盾があります。宮内庁はナニが判明するのを畏れているのか知りませんけれど、もうそんな時代でもないのにと思うのですが。それを思えば、下記の詩などに快哉を贈りたい思いさえします。
「盗掘」 井上 靖
天子が即位すると、盗掘団は直ちに、その日から、その天子が将来葬られるであろう想定の墓所に向かって秘密の地下の道を掘り始めるという。もちろん
古い中国の話だ。作り話にしても、私はこの話が好きだ。この話を思い出すと、いつも勇気を感ずる。
私もまた掘り始めなければならぬと思う。死者の静けさと、王冠の照りの華やぎを持つ何ものかに向かって。たとえば、私の死後五十何年目かにやってくる、とある日の故里の落日の如きものに向かって。
昭和天皇は確か掘るべきだというお考えを持っておられたと思います。徳川将軍家の墓の改葬、伊達政宗や石田三成の墓も発掘されていますが、それで御霊の尊厳が失われたとは思えません。掘ればわかることがいっぱいあるのに歯がゆいことですね。
>箕面の勝尾寺は本来「かちおうじ」つまり勝王寺、金光明最勝王経あたりか付けられた名ではと思われますが、小生などは近年の勝尾寺のていたらくを思い、これは「かつおじはさいてい」と書いてあるのだと力説しましたが
勝尾寺を訪れた時、拝観料を払うのはまあ致し方ないとしても、地下鉄や動物園に入る時の様なあのゲートというかカウンターというか、一人一人が入るのに機械が管理していました。これには腹が立つ以前に唖然としました。古くは立派なお寺だったのでしょう。しかし今のこの姿は何たる姿でありましょう。悲しくなります。ここの金亡者坊主は托鉢はするのでしょうか?
この寺のゲートを体験すると信長出でよ!の気分になります。
豊中市が地図を作ったり保存に力を入れているとのお話、嬉しく読ませて頂きました。
もはやどんな場合にも、あの寺には入らないことが日本仏教のため(と大きく出ましたが)と思います。
豊中市は、文化面はなかなかすごいのではと思います。小生は行ったことがないのですが、図書館などもかなり充実しているそうです。