さて、この釣鐘山、何処をどう登っても頂上に達することはできますが(西側は崖で、そのすぐ下にあった住宅は土砂崩れで壊れ犠牲者も出ました。)、正式なルートは3つで、それぞれ感謝坂、懺悔坂、精進坂という名前が付いています。中腹の白いドームは完全に封印され、中に入ることはできませんが、内部の仏像が相対しているという池田市のある一点、木々が遮ってうまく見ることはできないのですが、確かにその地点を望むことができるようです。行者が終焉を迎えた場所はここらかなと思われるところはあるのですが、確証はありません。
中腹より少し西に外れたところに旭丸竜王の碑があり、かつては碑の後ろにずっと洞穴が続いていました。今は怪しからぬ者どもが入るのを防ぐために穴は塞がれていますが、上の方に少しすき間があり、根性を出せば入れぬことはありませんが、ちょっと気味が悪い。
懺悔坂を下りきったところには慈光会講堂があります。ここにはきっと100歳ぐらいの尼がいて、空覚尼さんのことを懐かしく語ってくれるに違いないと思いながら、声をかけますが、誰も出てきません。周囲はきれいに掃き清められていて、すがすがしい雰囲気が漂っています。これは、山全体についても言えることです。誰かがいることは確かですが、「こんにちわー」とかなり大きな声で呼んでも出てきません。100歳ならば、仕方あるまいと勝手に納得をしてさらに坂を下ります。
この釣鐘山の麓とは言えないかも知れませんが、釣鐘山から阪急の雲雀丘花屋敷駅または川西能勢口駅に戻る途中に栄根寺跡があり、この寺跡に写真の像があります。台座には「救苦観世音」とありますが、正しくフローレンス=ナイチンゲールであります。クリミア戦役の野戦病院で、夜、燭台を掲げて病室を見回る姿です。この像を初めて見たときには無住とはいえ、まだ寺がありました。ただその頃はこちらが文盲であったために、「なんで、寺にナイチンゲールなんぢゃ。アホとちがうか?」と思っていましたが、成程観音さんだったら寺にあることも自然であった訳で、本当はこちらがアホであった訳です。
確かに、観世音菩薩は、困っている人のもとへ現れ、その人を救う働きが象徴化されたものでありますから、ナイチンゲールもまた、観音の化身のひとつであると考えることができます。それにしても原理主義者には考えられぬ広がり、包容力を持つのが日本の宗教の特色の一つとも言えるのではないでしょうか。勿論、バラモンやヒンズーの神々をそのパンティオンに取り込んでいった仏教そのものの柔軟性も考えねばなりませんが。
この像は昭和11年(1936)の建立、二・二六事件がおこった年ですね。国体の変革をたくらんでいた共産主義者たちにとっては、まさに暗黒時代でありましょうが、普通の人々、僻みも悪意もない、一般国民にとっては戦前=悪という図式が成り立つ訳ではないということを、この像は語ってくれます。「鬼畜米英」などという標語がとびかった時でさえ、このイギリス人看護婦の像は供出されることもなかったし、誰もそれを強制しようともしなかった。NHKあたりが作る戦前を舞台にした三流ドラマなら、怖いオッサンが出てきて「毛唐女の像なんかは撤去すべきだ。」と叫びまくるところでしょうが。実際はそうはならない。
「平和」を唱える人には意外に原理主義的な人が多く、例えば教科書裁判で悪名を高くした家永三郎などはバリバリの右から、戦後は一転極左の道を歩みました。戦後一転して「右」と言われ、指弾された保田輿重郎氏の戦前も戦後も一貫した穏やかな心事と比べて、その心は荒れ果てていたようですね。原理主義者は当然の事ながら視野狭窄に陥りますから、あちらでゴツン、こちらでゴツン。「お金」のありがたさはみんな身にしみていますが、あまりに「金」「金」というと守銭奴と呼ばれます。「平和」のありがたさも普通の人ならみんな身にしみています。そこへ「平和」「平和」といいまくる人は何と呼べばよろしいでしょうか?やはり宗教ですね。
日本でも、室町後期は宗教的な原理主義がぶつかったところがあり、門徒と法華の争いなどまさにそうでした(但し、門徒の行動原理は阿弥陀仏を絶対視する教学面だけでは割り切れぬところもあります。浄土真宗高田派などは寧ろ本願寺を攻撃していました。法華は、今でも一番戦闘的ですね。)。イラクのイスラム教スンニ派だとかシーア派だとかの争いなども、原理主義的な立場の表れでしょう。
「やはり相対主義がええで、人間グニュグニュの性格が一番!」などと思いつつ、この像を後にすると、この界隈は芦屋と並ぶ屈指のお屋敷街です。名前は阪急の駅にもありますように「花屋敷」で、宝塚側では「花屋敷荘園」などと名乗っています。サントリーの名物社長だった佐治敬三さんの家もこのあたりで、ステテコ姿で裏庭に出ておられたことなども懐かしいですね。
さて、ここより雲雀丘花屋敷に出るべきか、川西能勢口に出るべきかというところでありますが、酒のつまみをナイフやフォークで食うようなことは避けるべきでありますから、やはり川西能勢口にしましょう。呉春を飲ませる串カツ屋が阪急の高架下にあります。
(08年5月の記事を書き改めて再録)
中腹より少し西に外れたところに旭丸竜王の碑があり、かつては碑の後ろにずっと洞穴が続いていました。今は怪しからぬ者どもが入るのを防ぐために穴は塞がれていますが、上の方に少しすき間があり、根性を出せば入れぬことはありませんが、ちょっと気味が悪い。
懺悔坂を下りきったところには慈光会講堂があります。ここにはきっと100歳ぐらいの尼がいて、空覚尼さんのことを懐かしく語ってくれるに違いないと思いながら、声をかけますが、誰も出てきません。周囲はきれいに掃き清められていて、すがすがしい雰囲気が漂っています。これは、山全体についても言えることです。誰かがいることは確かですが、「こんにちわー」とかなり大きな声で呼んでも出てきません。100歳ならば、仕方あるまいと勝手に納得をしてさらに坂を下ります。
この釣鐘山の麓とは言えないかも知れませんが、釣鐘山から阪急の雲雀丘花屋敷駅または川西能勢口駅に戻る途中に栄根寺跡があり、この寺跡に写真の像があります。台座には「救苦観世音」とありますが、正しくフローレンス=ナイチンゲールであります。クリミア戦役の野戦病院で、夜、燭台を掲げて病室を見回る姿です。この像を初めて見たときには無住とはいえ、まだ寺がありました。ただその頃はこちらが文盲であったために、「なんで、寺にナイチンゲールなんぢゃ。アホとちがうか?」と思っていましたが、成程観音さんだったら寺にあることも自然であった訳で、本当はこちらがアホであった訳です。
確かに、観世音菩薩は、困っている人のもとへ現れ、その人を救う働きが象徴化されたものでありますから、ナイチンゲールもまた、観音の化身のひとつであると考えることができます。それにしても原理主義者には考えられぬ広がり、包容力を持つのが日本の宗教の特色の一つとも言えるのではないでしょうか。勿論、バラモンやヒンズーの神々をそのパンティオンに取り込んでいった仏教そのものの柔軟性も考えねばなりませんが。
この像は昭和11年(1936)の建立、二・二六事件がおこった年ですね。国体の変革をたくらんでいた共産主義者たちにとっては、まさに暗黒時代でありましょうが、普通の人々、僻みも悪意もない、一般国民にとっては戦前=悪という図式が成り立つ訳ではないということを、この像は語ってくれます。「鬼畜米英」などという標語がとびかった時でさえ、このイギリス人看護婦の像は供出されることもなかったし、誰もそれを強制しようともしなかった。NHKあたりが作る戦前を舞台にした三流ドラマなら、怖いオッサンが出てきて「毛唐女の像なんかは撤去すべきだ。」と叫びまくるところでしょうが。実際はそうはならない。
「平和」を唱える人には意外に原理主義的な人が多く、例えば教科書裁判で悪名を高くした家永三郎などはバリバリの右から、戦後は一転極左の道を歩みました。戦後一転して「右」と言われ、指弾された保田輿重郎氏の戦前も戦後も一貫した穏やかな心事と比べて、その心は荒れ果てていたようですね。原理主義者は当然の事ながら視野狭窄に陥りますから、あちらでゴツン、こちらでゴツン。「お金」のありがたさはみんな身にしみていますが、あまりに「金」「金」というと守銭奴と呼ばれます。「平和」のありがたさも普通の人ならみんな身にしみています。そこへ「平和」「平和」といいまくる人は何と呼べばよろしいでしょうか?やはり宗教ですね。
日本でも、室町後期は宗教的な原理主義がぶつかったところがあり、門徒と法華の争いなどまさにそうでした(但し、門徒の行動原理は阿弥陀仏を絶対視する教学面だけでは割り切れぬところもあります。浄土真宗高田派などは寧ろ本願寺を攻撃していました。法華は、今でも一番戦闘的ですね。)。イラクのイスラム教スンニ派だとかシーア派だとかの争いなども、原理主義的な立場の表れでしょう。
「やはり相対主義がええで、人間グニュグニュの性格が一番!」などと思いつつ、この像を後にすると、この界隈は芦屋と並ぶ屈指のお屋敷街です。名前は阪急の駅にもありますように「花屋敷」で、宝塚側では「花屋敷荘園」などと名乗っています。サントリーの名物社長だった佐治敬三さんの家もこのあたりで、ステテコ姿で裏庭に出ておられたことなども懐かしいですね。
さて、ここより雲雀丘花屋敷に出るべきか、川西能勢口に出るべきかというところでありますが、酒のつまみをナイフやフォークで食うようなことは避けるべきでありますから、やはり川西能勢口にしましょう。呉春を飲ませる串カツ屋が阪急の高架下にあります。
(08年5月の記事を書き改めて再録)
>「平和」のありがたさも普通の人ならみんな身にしみています。そこへ「平和」「平和」といいまくる人は何と呼べばよろしいでしょうか?
とか、
>「やはり相対主義がええで、人間グニュグニュの性格が一番!」などと思いつつ、
などのgunkanatago節、いいっすね。ふむふむと感じ入りながら読ませていただきました。気に入りました(^.^)共産主義はハシカみたいなものだから早くかかった方が良い。いい年をして共産主義者のままでいるのも見苦しいと説く本を読んだことを思い出しますが、今はその意味が分かるような歳になりました。教条主義に陥っておれば気は楽でしょうが、世の中そんなに明快なものではないですよね。護憲護憲で憲法残って国滅ぶ。まあ、判断基準は人の話に耳を傾ける謙虚さではないかなあと思っているのですが。こんな事を酒の肴に呉春の杯をかたむけるもおつなものでしょうね。大阪で過ごした一時期、私は立ち呑み屋にこだわった事があります。車社会の田舎住まいの唯一の不満はぶらり赤提灯へ、と行けないことです。
それにしても、以前は(もう10年近く前になりますか)呉春を正価(確か)で飲ませる飲み屋がありましたのに、今では高値のハナですか。それはそうとして、大堰川の鮎と初日の出で一献傾ける時期が間もなくです。mfujinoさんもその計画だと思うのですが。