浪速の橋・橋跡をできるだけたくさん渡ろうとする八百八橋計画、昔で言う大坂三郷内(北・南・天満)については、蜆川の川跡を除いて概ね終了した等と呑気なことを考えておりました。而るにmfujino様に教えて頂いた今昔マップを「暇ぢゃー」とまたまた眺めていたときにアリャリャ!という発見がありました。
既に埋め立てられた西横堀川から木津川方面に向かって、たくさんの川が伸びているのです。考えてみれば、江戸堀、京町堀、立売堀(いたちぼり)等の地名は前々から知っているのですから、そこに堀川があったということはとうに気が付いていないとならないのですが、改めて此等の川が記載されている地図を見るまでは、それが実感され得なかった訳です。
何か八百八橋計画がスタートラインに戻った感もありますが、まあ橋の数が増えるのは良いことだと甘く考えてそれらの川跡を辿ってきました。けれども状況はかなり悲惨でありましたので、先ず八百八橋計画の大原則を確認しておかなくてはなりません。
例えば江戸堀川の場合、今はウィキペディア等でもどこにどういう橋が架かっていたかを簡単に調べることが出来ます。今回も四ツ橋を始め多くの通りを横切った訳ですから、これらの橋を全部渡ったと言うことも出来るのですが、それでは面白くない。
ということで、橋が架かっていたことが分かっているところでも、地名表示板などを含めて何らかの痕跡が見られるところだけを渡橋した数とします。となると橋の数はグッと減ってしまいますが、まあやむを得まいと申す処であります。橋の横の(数字)はこの遊びを始めてからそういうふうに渡った橋の数を表しています。
先ずは北から攻めて、江戸堀川の跡らしきところを辿ります。ただ、辿ると言っても埋め立てられた川の跡には既に建物も建っているようですから、厳密に言うと河畔であったであろう通りを行くと言うことになります。
西横堀川沿いに先ずは橦木橋(86)-トップの写真。この時点では探せばこのように各通りの橋も確認できるものと考えていました。
ここが江戸堀川の跡であろうというところを辿って西に向かいます。何せ緻密に調べている訳でもありませんから、ひょっとしたら大間抜けで全く関係のない通りを歩いていることもあるかも知れません。
江戸堀川跡か
肥後橋の商店街に入って荒光稲荷に参拝します。この神社が今昔地図に載っていたら川の位置関係もよく分かるのですが、残念ながら載っていません。
川跡に復帰します。少し西に行くと頼山陽生誕地、親父の春水がこの辺りで塾を開いていました。
西船場小学校の跡がありました。今昔マップの1954~の地図では、この小学校が江戸堀川河畔にあることが確認できますから、今歩いているところは確かに江戸堀川跡です。
大阪教会の前を通ります。これがヴォーリズ建築であることを初めて知りました。中に入ることも出来たのですが、この時は「これから橋の跡が見つかりまくってメッチャ忙しくなる」等と考えていましたので、残念ながら中には入りませんでした。
さらに西に行くと大村益次郎寓居碑、緒方洪庵の適塾に通っていたころのものですね。大村と大坂は関係が深くて、最後も京都で遭難した大村益次郎は大坂の病院で手術を受け、そのまま敗血症で亡くなっています。
薩摩藩蔵屋敷跡、薩摩藩のは薩摩堀かな等と漠然と考えていましたが、薩摩堀の薩摩は薩摩屋の薩摩と知って納得です。
さらに進んで宮武外骨ゆかりの地の碑。一種の怪物ですね。外骨の滑稽新聞は大阪で発刊されています。
薩摩藩中屋敷跡、この辺りが薩摩の縄張りだったのですね。と何やかんやとあるやおまへんか、今日は忙しわいと思っていたのですが、これは江戸堀川跡だけのことでした。
非常に新しい花の井の石標、風呂屋が営業中です。
そうこうしているうちに木津川の近くにやって来ました。その昔は木津川と並行して百間堀川が流れていました。府庁のあった江之子島や麗しの松島は文字通りの島であった訳です。
江戸堀川跡
川跡の碑
雑喉場は百間堀川に面していました。この川の跡は一部マンションの敷地になっていますが、何となく辿ることが出来ます。
江之子島に渡るところに雑喉場橋(87)。左側の広いとおりが川跡でなくて、右側の建物が建っている方が川跡です。
ここまできたら、ということで木津川に架かる木津川橋(88)。橋の上からは昭和橋が見えます。
木津川橋
向こうに昭和橋
百間堀川跡を少し歩いて京町堀川跡、いきなり大きな碑がありましたから随分と期待しました。この川跡を西横堀川跡まで東に進みます。
百間堀川跡
京町堀川の碑
ところが進めど進めど見事に何もありません。以前、靫公園は川の跡と書いたことがありますが、正確には靫公園の北縁が京町堀川跡で、南縁のなにわ筋以西が海部堀川跡になります。その間の現在の靫公園になっているところは、海産物問屋が建ち並ぶ町域でしたが、大東亜戦争時の空襲で壊滅、戦後は飛行場として使われていました。
結局、西横堀川跡に辿り着くまで、京町堀川跡には何等めぼしい跡もありませんでした。少し南下して今度は靫公園南縁部を西に向かいます。
靫公園
靫小学校跡
海部堀川はさらに南にある阿波堀川からなにわ筋のところで分岐北上して、現在の靫公園の南縁を西に流れ、最後は京町堀川に合流していました。今回は、その合流点を確認することは出来ませんでした。
なにわ筋
海部堀川が流れていたであろうところの近くには楠永神社。ここは御霊神社の故地であるとのことです。
公園内の川跡であろうと思われるところをたどります。途中に靫海産物市場跡の碑、海部堀川の名が確認できたのはこれだけでした。
海部堀川跡
海部堀川跡
またまた、百間堀川跡に戻ってきました。右翼の街宣があるということで、ポリさんだらけです。そんな中を何度もウロチョロしているのですから、小生なども立派な不審者。
百間堀川跡
今度は木津川大橋(89)
百間堀川跡
しばらく木津川に沿って南下し大渉橋(90)を渉ります。もう少し南に下がれば、百間堀川と立売堀川が木津川に流れ込んでいたところが確認できます。
右側の広くなっているところが合流点
やや南に下がりすぎたようです。廣教小学校跡近くの公園に薩摩堀川跡の碑。薩摩堀川と立売堀川は次回にと思っています。
北上して阿波堀川跡と思わしき所を東に進みます。途中に岡崎橋(90)の地名。
阿波堀川跡
江戸堀跡には何やかんやとありましたから、大いに期待したのですが、その他の川跡は悲惨なものでした。西横堀川が近づいても阿波堀川などは何の痕跡も見つけることが出来ませんでした。特に阿波堀川跡が西横堀川跡にぶつかる辺りは高速の出口になっているために、ものが残しにくかったのかも知れません。
もうあと一往復やれば、薩摩堀川も立売堀川もできてしまうのですが、本日はここまで。本町の駅から京橋に向かいます。信濃橋近くには洋画研究所跡の碑がありました。
それにしても、これほど橋の痕跡が消えているとは思いませんでした。最初に申し述べた原則に従えば、今日は渡れた橋は5つしかありませんでした。自分で立てた原則を自分で捨てようかという気持ちにもなりますね。
既に埋め立てられた西横堀川から木津川方面に向かって、たくさんの川が伸びているのです。考えてみれば、江戸堀、京町堀、立売堀(いたちぼり)等の地名は前々から知っているのですから、そこに堀川があったということはとうに気が付いていないとならないのですが、改めて此等の川が記載されている地図を見るまでは、それが実感され得なかった訳です。
何か八百八橋計画がスタートラインに戻った感もありますが、まあ橋の数が増えるのは良いことだと甘く考えてそれらの川跡を辿ってきました。けれども状況はかなり悲惨でありましたので、先ず八百八橋計画の大原則を確認しておかなくてはなりません。
例えば江戸堀川の場合、今はウィキペディア等でもどこにどういう橋が架かっていたかを簡単に調べることが出来ます。今回も四ツ橋を始め多くの通りを横切った訳ですから、これらの橋を全部渡ったと言うことも出来るのですが、それでは面白くない。
ということで、橋が架かっていたことが分かっているところでも、地名表示板などを含めて何らかの痕跡が見られるところだけを渡橋した数とします。となると橋の数はグッと減ってしまいますが、まあやむを得まいと申す処であります。橋の横の(数字)はこの遊びを始めてからそういうふうに渡った橋の数を表しています。
先ずは北から攻めて、江戸堀川の跡らしきところを辿ります。ただ、辿ると言っても埋め立てられた川の跡には既に建物も建っているようですから、厳密に言うと河畔であったであろう通りを行くと言うことになります。
西横堀川沿いに先ずは橦木橋(86)-トップの写真。この時点では探せばこのように各通りの橋も確認できるものと考えていました。
ここが江戸堀川の跡であろうというところを辿って西に向かいます。何せ緻密に調べている訳でもありませんから、ひょっとしたら大間抜けで全く関係のない通りを歩いていることもあるかも知れません。
江戸堀川跡か
肥後橋の商店街に入って荒光稲荷に参拝します。この神社が今昔地図に載っていたら川の位置関係もよく分かるのですが、残念ながら載っていません。
川跡に復帰します。少し西に行くと頼山陽生誕地、親父の春水がこの辺りで塾を開いていました。
西船場小学校の跡がありました。今昔マップの1954~の地図では、この小学校が江戸堀川河畔にあることが確認できますから、今歩いているところは確かに江戸堀川跡です。
大阪教会の前を通ります。これがヴォーリズ建築であることを初めて知りました。中に入ることも出来たのですが、この時は「これから橋の跡が見つかりまくってメッチャ忙しくなる」等と考えていましたので、残念ながら中には入りませんでした。
さらに西に行くと大村益次郎寓居碑、緒方洪庵の適塾に通っていたころのものですね。大村と大坂は関係が深くて、最後も京都で遭難した大村益次郎は大坂の病院で手術を受け、そのまま敗血症で亡くなっています。
薩摩藩蔵屋敷跡、薩摩藩のは薩摩堀かな等と漠然と考えていましたが、薩摩堀の薩摩は薩摩屋の薩摩と知って納得です。
さらに進んで宮武外骨ゆかりの地の碑。一種の怪物ですね。外骨の滑稽新聞は大阪で発刊されています。
薩摩藩中屋敷跡、この辺りが薩摩の縄張りだったのですね。と何やかんやとあるやおまへんか、今日は忙しわいと思っていたのですが、これは江戸堀川跡だけのことでした。
非常に新しい花の井の石標、風呂屋が営業中です。
そうこうしているうちに木津川の近くにやって来ました。その昔は木津川と並行して百間堀川が流れていました。府庁のあった江之子島や麗しの松島は文字通りの島であった訳です。
江戸堀川跡
川跡の碑
雑喉場は百間堀川に面していました。この川の跡は一部マンションの敷地になっていますが、何となく辿ることが出来ます。
江之子島に渡るところに雑喉場橋(87)。左側の広いとおりが川跡でなくて、右側の建物が建っている方が川跡です。
ここまできたら、ということで木津川に架かる木津川橋(88)。橋の上からは昭和橋が見えます。
木津川橋
向こうに昭和橋
百間堀川跡を少し歩いて京町堀川跡、いきなり大きな碑がありましたから随分と期待しました。この川跡を西横堀川跡まで東に進みます。
百間堀川跡
京町堀川の碑
ところが進めど進めど見事に何もありません。以前、靫公園は川の跡と書いたことがありますが、正確には靫公園の北縁が京町堀川跡で、南縁のなにわ筋以西が海部堀川跡になります。その間の現在の靫公園になっているところは、海産物問屋が建ち並ぶ町域でしたが、大東亜戦争時の空襲で壊滅、戦後は飛行場として使われていました。
結局、西横堀川跡に辿り着くまで、京町堀川跡には何等めぼしい跡もありませんでした。少し南下して今度は靫公園南縁部を西に向かいます。
靫公園
靫小学校跡
海部堀川はさらに南にある阿波堀川からなにわ筋のところで分岐北上して、現在の靫公園の南縁を西に流れ、最後は京町堀川に合流していました。今回は、その合流点を確認することは出来ませんでした。
なにわ筋
海部堀川が流れていたであろうところの近くには楠永神社。ここは御霊神社の故地であるとのことです。
公園内の川跡であろうと思われるところをたどります。途中に靫海産物市場跡の碑、海部堀川の名が確認できたのはこれだけでした。
海部堀川跡
海部堀川跡
またまた、百間堀川跡に戻ってきました。右翼の街宣があるということで、ポリさんだらけです。そんな中を何度もウロチョロしているのですから、小生なども立派な不審者。
百間堀川跡
今度は木津川大橋(89)
百間堀川跡
しばらく木津川に沿って南下し大渉橋(90)を渉ります。もう少し南に下がれば、百間堀川と立売堀川が木津川に流れ込んでいたところが確認できます。
右側の広くなっているところが合流点
やや南に下がりすぎたようです。廣教小学校跡近くの公園に薩摩堀川跡の碑。薩摩堀川と立売堀川は次回にと思っています。
北上して阿波堀川跡と思わしき所を東に進みます。途中に岡崎橋(90)の地名。
阿波堀川跡
江戸堀跡には何やかんやとありましたから、大いに期待したのですが、その他の川跡は悲惨なものでした。西横堀川が近づいても阿波堀川などは何の痕跡も見つけることが出来ませんでした。特に阿波堀川跡が西横堀川跡にぶつかる辺りは高速の出口になっているために、ものが残しにくかったのかも知れません。
もうあと一往復やれば、薩摩堀川も立売堀川もできてしまうのですが、本日はここまで。本町の駅から京橋に向かいます。信濃橋近くには洋画研究所跡の碑がありました。
それにしても、これほど橋の痕跡が消えているとは思いませんでした。最初に申し述べた原則に従えば、今日は渡れた橋は5つしかありませんでした。自分で立てた原則を自分で捨てようかという気持ちにもなりますね。
どうか教えて頂きたいことがあります。
大阪の木津川は笠置の方から流れてきている同名の川とは別の川です。旧淀川が堂島川、土佐堀川と分れたあと、再び合流するところで安治川、木津川となります。どうも地名からきているようです。ややこしいですよね。
大阪の街中は、観光地ではないので、御堂筋など一部の通りを除いて、休日は車もスカスカです。京都でも思いますが、鎌倉の街に車で行こうとは思いませんね。以前に鶴岡八幡宮、長谷の大仏や円覚寺(ここで生まれて初めて酢醤油のところてんを食いました)など一部江ノ電を利用しましたが、ずーっと歩いて回ってなかなか面白かったです。あっ、鎌倉宮も行きましたよ。
立売堀、読めませんね。 振り仮名があったので「アーそう読むの」と驚きました。 地名は難しいです。
木津川は、三川合流地点を流れている川ですよね、確か笠置山から眺めると下を流れていた川ですね。 その川が大阪の街中を流れているのですか? 本当に川はかっては自由に流れ動いていたのですね。
大阪には沢山の橋が架かり、道路も広く立派ですが、車は少ないのでしょうか? 今回の道路にはほとんど車が写ってません。 鎌倉は、車が旧市内に流れ込み過ぎるので、市内に入るための料金を徴収するようになるようです。
値の張る寿司屋と北新地、でエライ目に遭われたのですね。救急車で運ばれ、帰りは2㎞を歩く、mfujino様もいろいろやっておられますね。小生は京都で一度だけ「時価」という寿司屋でおごってもらったことがありますが、魚類を一切口にしなかったので、「エライ安くついたわ」と褒められました(爆)。友人の息子で寿司屋に行くと玉子焼きがずーーーっと列ぶ人もいます(玉子焼きしか食べない)。
上高地や富士山など人が多くいくところの水はだめでしょうね。北山のおいしい水なら上流域を良く知っているので安心ですね。樋ノ水谷で夏に飲んだ水は本当にうまかったです。
小生も以前は何で松島が松島やねんと思っていました。その時は突っ込んで調べてみたりはしませんでした。もう少し早くから、こういうことをやっていたら、面白かったのにと今は思います。以前は大阪に出ると言えば、梅田ばかりのワンパターン、十三の飲み屋ですら友人に誘われるまでは暖簾をくぐったこともありませんでした。これからどんどんと取り戻します(笑)。
顕彰碑が出てきますが大阪市の橋梁顕彰碑というサイトを発見しました。
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000030527.html
まあ大阪市も頑張っているようですが、ここのリストもっと増やす様にデータでアドバイスしてあげて下さいませ。
さて「雑喉場」という言葉を読ませて貰いました。私は「雑魚場」で記憶していたのですが...昔職場の大阪国際ビル地下に「ざこばすし」というちょっと値のはる寿司屋がありました。上司に連れて貰いご馳走になったのですが、二次会は北の新地というおまけ付きでご機嫌で帰宅したのですが、さてその朝猛烈な腹痛に襲われ人生初めて救急車のお世話になりました。でも医者はなかなか出て来ない。そのうち痛みも少し治まり、タクシーもなかったのでテクテク2km程を歩いて帰り、出勤後医者に見て貰ったのですが原因不明でした。常にない高いもんを食ったからだろうと同僚にからかわれたことを思い出したことです。
まあ大阪の水を見ているとそこの雑魚など食する気にはなりませんが、十三の蜆は食べられるそうですね。ただ見た目の水のきれいさはあてにならないのは、かの上高地の梓川の水を飲んだらいけんよ、上流の山小屋のトイレの大腸菌ですぐ下痢をするから、と教えられたことでしたが、今はどうなのでしょう。
今回は仕上げのたこ焼きや酒の話が無いのが不思議であります(^_・)
前にも書いたことですが、日本の道路、そして川面にゴミが無い!!すばらしい日本、そして大阪です。インドなんかメチャクチャ、中国もベトナムも・・誇らしい日本人のメンタリティーです。