本日は、師匠案内による伏見徘徊であります。前半のメインは今に残る第16師団の司令部、後半は山崎の敗戦の後、勝竜寺城から坂本城を目指した明智光秀が、ここら辺りで殺られたといわれる明智籔であります。集合は京阪電車の伏見稲荷駅。もうぼちぼち観光シーズンも終わろうかという時期ですが、まだまだ名残の観光客も多いと見えて、この伏見稲荷門前も随分と賑わっています(その割に駅の写真では閑散としていますが)。
伏見に師団司令部が置かれていた名残は随所に見いだすことができますが、一番分かりやすいのは道路の名です。京阪電車の線路の一本西の大きい道は、その名も師団街道。
伏見稲荷辺りでは(藤森と墨染の間まで)、琵琶湖疎水は京阪の線路の東側を流れています。
先ず、京阪の改札口を出ていきなりに稲荷公園。ここは市電の線路跡であります。
ここから西に勧進橋の所まで支線が来ていたようで、勧進橋の所で中書島の方から来る線路と合流して、川を越えて北上していたようです。
等々の説明を師匠に伺っていると、懐かしさの感に堪えざるにやというところでしょうか、通りすがりのおばちゃんも話に入ってきてあれやこれやと説明してくれました。
駅跡は橋の上
疎水を越えてすぐの道を北上します。七味屋や伏見人形の店、稲荷内のあの膨大な量の鳥居を制作している店を見るためです。伏見人形は、遡れば土師器にまで至るといいますから古いものです。伏見稲荷は豊穣を約束する神ですから、この人形を持ち帰って田畑に埋めることによって豊作を願うということも行われた由、何かで読んだのですが、何に載っていたかは忘れてしまいました。かつては多くの人形屋があったとのことですが、今はこの店だけになりました。
伏見人形
同じ道を引き返して、JRの稲荷駅に。ここではかつての東海道線の説明がされている看板の近くにJR最古のランプ小屋が残されています。この間、山科から伏見へと京街道を歩きましたが、かつての東海道線はほぼそのルートで建設されたとのこと。師匠の説明では、これは勾配というか傾斜というか、そういうものが関係していて、最初に東海道線が建設されたときは、東山を越えることが出来なかったので、山科から伏見に下りてきて、伏見から京都駅に北上したそうです。今は名神高速道路が、その跡の大部分を走っています。
鉄道唱歌の碑 赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山
最初にも申し述べましたように伏見稲荷大社は本日も盛況です。本殿の参拝はご遠慮して、摂社の東丸神社に。
神社は江戸時代の国学者である荷田春満(かだのあづままろ)を祀り、その隣が春満の邸宅跡になります。
この後は、師匠お得意のハカマイラー、春満とその一門の墓に行きました。春満が神官であったこともあり、墓は珍しい神道墓でした。以前、藤樹書院で儒教式の位牌を見たことがありますが、神道では位牌はどんなんなんでしょうね。
石峰寺の門前を通り、茶碗子の水と言われる井戸を見て、宝塔寺へ。まだまだ、京都も知らないところだらけです。そしてまた、ちょっと観光スポットを離れると広がる贅沢なる静寂境。人の多いところでワイワイ言いたい人は別にして、なかなかお勧めのゾーンです。
石峰寺門前
茶碗子の水 墓の下だしミネラルたっぷり
宝塔寺四足門
宝塔寺は藤原基経の死後に時平が建立した極楽寺を起源とするとありましたから、古い寺です。時平は御存じ菅公流罪の立役者ですね。菅原道真の死後、その威名が上がるにつれて時平の方は貶せられていきます。しかも若死にをしたために、その度合いは益々強くなりました。ある意味、気の毒な人です。後に栄える藤原氏は、時平の弟の忠平の子孫です。
先日、飲み屋で柳田国男の「妹の力」を読み返していたら、この宝塔寺に「虎が石」があって、日蓮がその上で説法をした等と言うことが雍州府志に出ているとありました。敵討ちの曾我兄弟の兄貴の方の愛人が虎御前で、この人が石となったのが虎が石、この虎が石の話は小野小町の伝説のように全国にあるもののようです。奇妙なのは、この石は男前が持ち上げるとすぐに上がるが、ブ男が持ち上げようとしても絶対に上がらないと言われていることで、今宮神社のアホカシコ石などと同じように条件によって重さが変わるというところです。境内には、そういう伝承があるという掲示は一切ありませんでした。
京都における法華宗の隆盛に関わりが深いのが日像上人です。後光厳天皇より日像菩薩という諡号も賜っている人ですが、この上人はこの寺で荼毘に付されたということで立派な石碑も建っていました。そういえば、もう少し後の人に日親上人でしたか、ものすごい坊さんがいましたね。これらの坊さんの布教によって京都の町衆=法華宗ということになっていくのですね。
名号碑
さてさて、日露戦争の末期、新たに設置された第16師団は伏見に置かれました。その司令部が聖母女学院に残されています。師匠が予め見学の許可を取っておいて下さいました。
今まで、門の外から瞬間的に(車で前を通るときに)見たことはありましたが、じっくりと見るのは初めてです。大体、この前の道路は狭くて一通ですから、車を停めてじっくりと言う訳にはいきません。この建物をきれいに保存し、立派なパンフレットまで作っている聖母女学院、あっぱれです(確か聖母学院と記憶していたのですが、いつの間にか聖母女学院になっていました。(追記)今でも高校と中学校は京都聖母学院というようです)。家に帰ってパンフをじっくりと読んだら、ガードマンのいた歩哨舎も復元されたものでしたが、写真は撮りませんでした。ミッション校らしく、クリスマスにはイルミネーションで飾られるとのこと。
ドーマ窓と暖炉の煙突
古い地図を見ると、今現在にこの辺りで公共施設などが建っているところは概ね陸軍用地であったことが分かります。今までは、何となくというか、おぼろげにイメージしていたものが伏見は軍都であったという明確な知識に変わります。
九条兼実ゆかりの西岸寺を右に見て、伏見街道を南下します。この寺にある玉日姫(親鸞の正妻と言われる)の墓所が最近発掘されたことはニュースになりました。玉日姫は九条兼実の子と言われています。七瀬川を渡る橋には「伏見街道第四橋」の文字。
西岸寺
墨染の交差点までやって来ました。山崎の合戦に敗れ、向日市の勝竜寺城に入った明智光秀は、包囲を突破して主城の一つである滋賀の坂本城を目指しました。もう一つの拠点は丹波の亀山(亀岡)城です。勝竜寺城の包囲を甘くして光秀が逃げ出すように仕組んだのは黒田官兵衛だと伝えられていますが、これは後講釈のような気がします。城を出たところで討ち取っていたならば、官兵衛の知謀も冴えたと言えるのですが、結局は逃しているのですから、もし光秀が生き延びて坂本になり亀山になり辿り着いていたら、それはそれで厄介だろうし、ここで討ち取っておくのが一番です。
墨染の交差点
どこかで桂川を渡り、小来栖に抜けたのなら、ここを通った可能性が強いと師匠の意見。この交差点で、東に曲がり、後は真っ直ぐに明智籔に向かいます。
明智籔へ
途中には陸軍の境界碑、これより南は演習場だったそうです。
御香宮の御旅でちょっと休憩。同行の方から、伏見稲荷門前に売っていたセンベエをいただきました。なかなか凝った造りで、鈴形になっている中には大豆が入っています。また、おみくじがひとつひとつに挟んでありました。ありがとうございます。
豊臣秀吉は御香宮を伏見城内であるこの地に移し、徳川家康がもともとの社地であった現在地に戻したそうです。東の森(鳥居の右側)は桓武天皇陵に比定されたところで、現在も陵墓参考地として宮内庁が管理しています。
盃状穴
一旦、八科峠まで行き、車石で固められた石垣を見ました。これだけかたまって車石があるところは他にはありません。
少し引き返して、竹藪の中を小来栖に向かいます。光秀が落ちて行った道という感じがしてきます。
途中にある弘法大師の水
小来栖八幡宮は、石清水八幡宮が宇佐から勧請されたときに同時に創建されたという古いお社です。
師匠にうかがうまで、全く知らなかったことですが、この辺りの豪族であった飯田氏が光秀の最後に深い関わりがあるとのことです。室町時代初期からこの地に勢力を張った飯田氏は、織田信長の近臣としてその一族の者が仕え、本能寺の変では当然その人物は戦死しています。
光秀が、山崎で敗れたとの知らせを受けた飯田一族は、今こそ仇を討つべきと光秀の敗走路を予測して網を張っていたものとも思われ、思った通りにここを通りがかった光秀を討ち取ったという次第です。
ただ、疑問点としては、光秀がここから逃れたとするならば、ある種戦闘のプロとも言える武士達が光秀を襲っておいて、大けがを負わせながら討ち漏らしたことになっているのはおかしいではないかということです。
したがって基本的には、光秀はここで討ち取られていて、だからこそ首級もつつがなく秀吉に届けられたと考える方が自然なのではと思われます。となると前にたずねた光秀の自害の地の話は、これまた創作ということになりますね。或いは粟田口に晒されたのが光秀の首だけであったとすると胴塚の伝承との間に整合性も出てきます。
江戸時代の小説や歌舞伎の台本の類が、年を経てそのまま「史実」と認識されるようになることは多くありますから、より劇的に劇的にと創作された話すなわち「光秀は小来栖で土民の竹槍にかけられた」がいかにも本当のように広まっていったものと考えられます。
となると、この明智籔のご近所の家は、飯田さんがやたらに多かったのですが、いずれも大手柄の子孫です。飯田一族が秀吉からこれという恩賞をもらっていないなど疑問点もありますが、今の今まで土民に殺されたという話しか知らなかった身としては大いに興味深い話であります。
何にしても『太閤記』などのいわば文学的作品が、光秀が土民に殺されたという話の根拠になっているとしたら、まあそれは創作ということになると思われます。
明智籔
明智籔から先、光秀が落ちて行ったルートと思われる道は全く残っていないとのことで、本日は非常に日が高いうちに全行程終了です。そのまま、石田駅前で一杯であります。
伏見に師団司令部が置かれていた名残は随所に見いだすことができますが、一番分かりやすいのは道路の名です。京阪電車の線路の一本西の大きい道は、その名も師団街道。
伏見稲荷辺りでは(藤森と墨染の間まで)、琵琶湖疎水は京阪の線路の東側を流れています。
先ず、京阪の改札口を出ていきなりに稲荷公園。ここは市電の線路跡であります。
ここから西に勧進橋の所まで支線が来ていたようで、勧進橋の所で中書島の方から来る線路と合流して、川を越えて北上していたようです。
等々の説明を師匠に伺っていると、懐かしさの感に堪えざるにやというところでしょうか、通りすがりのおばちゃんも話に入ってきてあれやこれやと説明してくれました。
駅跡は橋の上
疎水を越えてすぐの道を北上します。七味屋や伏見人形の店、稲荷内のあの膨大な量の鳥居を制作している店を見るためです。伏見人形は、遡れば土師器にまで至るといいますから古いものです。伏見稲荷は豊穣を約束する神ですから、この人形を持ち帰って田畑に埋めることによって豊作を願うということも行われた由、何かで読んだのですが、何に載っていたかは忘れてしまいました。かつては多くの人形屋があったとのことですが、今はこの店だけになりました。
伏見人形
同じ道を引き返して、JRの稲荷駅に。ここではかつての東海道線の説明がされている看板の近くにJR最古のランプ小屋が残されています。この間、山科から伏見へと京街道を歩きましたが、かつての東海道線はほぼそのルートで建設されたとのこと。師匠の説明では、これは勾配というか傾斜というか、そういうものが関係していて、最初に東海道線が建設されたときは、東山を越えることが出来なかったので、山科から伏見に下りてきて、伏見から京都駅に北上したそうです。今は名神高速道路が、その跡の大部分を走っています。
鉄道唱歌の碑 赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山
最初にも申し述べましたように伏見稲荷大社は本日も盛況です。本殿の参拝はご遠慮して、摂社の東丸神社に。
神社は江戸時代の国学者である荷田春満(かだのあづままろ)を祀り、その隣が春満の邸宅跡になります。
この後は、師匠お得意のハカマイラー、春満とその一門の墓に行きました。春満が神官であったこともあり、墓は珍しい神道墓でした。以前、藤樹書院で儒教式の位牌を見たことがありますが、神道では位牌はどんなんなんでしょうね。
石峰寺の門前を通り、茶碗子の水と言われる井戸を見て、宝塔寺へ。まだまだ、京都も知らないところだらけです。そしてまた、ちょっと観光スポットを離れると広がる贅沢なる静寂境。人の多いところでワイワイ言いたい人は別にして、なかなかお勧めのゾーンです。
石峰寺門前
茶碗子の水 墓の下だしミネラルたっぷり
宝塔寺四足門
宝塔寺は藤原基経の死後に時平が建立した極楽寺を起源とするとありましたから、古い寺です。時平は御存じ菅公流罪の立役者ですね。菅原道真の死後、その威名が上がるにつれて時平の方は貶せられていきます。しかも若死にをしたために、その度合いは益々強くなりました。ある意味、気の毒な人です。後に栄える藤原氏は、時平の弟の忠平の子孫です。
先日、飲み屋で柳田国男の「妹の力」を読み返していたら、この宝塔寺に「虎が石」があって、日蓮がその上で説法をした等と言うことが雍州府志に出ているとありました。敵討ちの曾我兄弟の兄貴の方の愛人が虎御前で、この人が石となったのが虎が石、この虎が石の話は小野小町の伝説のように全国にあるもののようです。奇妙なのは、この石は男前が持ち上げるとすぐに上がるが、ブ男が持ち上げようとしても絶対に上がらないと言われていることで、今宮神社のアホカシコ石などと同じように条件によって重さが変わるというところです。境内には、そういう伝承があるという掲示は一切ありませんでした。
京都における法華宗の隆盛に関わりが深いのが日像上人です。後光厳天皇より日像菩薩という諡号も賜っている人ですが、この上人はこの寺で荼毘に付されたということで立派な石碑も建っていました。そういえば、もう少し後の人に日親上人でしたか、ものすごい坊さんがいましたね。これらの坊さんの布教によって京都の町衆=法華宗ということになっていくのですね。
名号碑
さてさて、日露戦争の末期、新たに設置された第16師団は伏見に置かれました。その司令部が聖母女学院に残されています。師匠が予め見学の許可を取っておいて下さいました。
今まで、門の外から瞬間的に(車で前を通るときに)見たことはありましたが、じっくりと見るのは初めてです。大体、この前の道路は狭くて一通ですから、車を停めてじっくりと言う訳にはいきません。この建物をきれいに保存し、立派なパンフレットまで作っている聖母女学院、あっぱれです(確か聖母学院と記憶していたのですが、いつの間にか聖母女学院になっていました。(追記)今でも高校と中学校は京都聖母学院というようです)。家に帰ってパンフをじっくりと読んだら、ガードマンのいた歩哨舎も復元されたものでしたが、写真は撮りませんでした。ミッション校らしく、クリスマスにはイルミネーションで飾られるとのこと。
ドーマ窓と暖炉の煙突
古い地図を見ると、今現在にこの辺りで公共施設などが建っているところは概ね陸軍用地であったことが分かります。今までは、何となくというか、おぼろげにイメージしていたものが伏見は軍都であったという明確な知識に変わります。
九条兼実ゆかりの西岸寺を右に見て、伏見街道を南下します。この寺にある玉日姫(親鸞の正妻と言われる)の墓所が最近発掘されたことはニュースになりました。玉日姫は九条兼実の子と言われています。七瀬川を渡る橋には「伏見街道第四橋」の文字。
西岸寺
墨染の交差点までやって来ました。山崎の合戦に敗れ、向日市の勝竜寺城に入った明智光秀は、包囲を突破して主城の一つである滋賀の坂本城を目指しました。もう一つの拠点は丹波の亀山(亀岡)城です。勝竜寺城の包囲を甘くして光秀が逃げ出すように仕組んだのは黒田官兵衛だと伝えられていますが、これは後講釈のような気がします。城を出たところで討ち取っていたならば、官兵衛の知謀も冴えたと言えるのですが、結局は逃しているのですから、もし光秀が生き延びて坂本になり亀山になり辿り着いていたら、それはそれで厄介だろうし、ここで討ち取っておくのが一番です。
墨染の交差点
どこかで桂川を渡り、小来栖に抜けたのなら、ここを通った可能性が強いと師匠の意見。この交差点で、東に曲がり、後は真っ直ぐに明智籔に向かいます。
明智籔へ
途中には陸軍の境界碑、これより南は演習場だったそうです。
御香宮の御旅でちょっと休憩。同行の方から、伏見稲荷門前に売っていたセンベエをいただきました。なかなか凝った造りで、鈴形になっている中には大豆が入っています。また、おみくじがひとつひとつに挟んでありました。ありがとうございます。
豊臣秀吉は御香宮を伏見城内であるこの地に移し、徳川家康がもともとの社地であった現在地に戻したそうです。東の森(鳥居の右側)は桓武天皇陵に比定されたところで、現在も陵墓参考地として宮内庁が管理しています。
盃状穴
一旦、八科峠まで行き、車石で固められた石垣を見ました。これだけかたまって車石があるところは他にはありません。
少し引き返して、竹藪の中を小来栖に向かいます。光秀が落ちて行った道という感じがしてきます。
途中にある弘法大師の水
小来栖八幡宮は、石清水八幡宮が宇佐から勧請されたときに同時に創建されたという古いお社です。
師匠にうかがうまで、全く知らなかったことですが、この辺りの豪族であった飯田氏が光秀の最後に深い関わりがあるとのことです。室町時代初期からこの地に勢力を張った飯田氏は、織田信長の近臣としてその一族の者が仕え、本能寺の変では当然その人物は戦死しています。
光秀が、山崎で敗れたとの知らせを受けた飯田一族は、今こそ仇を討つべきと光秀の敗走路を予測して網を張っていたものとも思われ、思った通りにここを通りがかった光秀を討ち取ったという次第です。
ただ、疑問点としては、光秀がここから逃れたとするならば、ある種戦闘のプロとも言える武士達が光秀を襲っておいて、大けがを負わせながら討ち漏らしたことになっているのはおかしいではないかということです。
したがって基本的には、光秀はここで討ち取られていて、だからこそ首級もつつがなく秀吉に届けられたと考える方が自然なのではと思われます。となると前にたずねた光秀の自害の地の話は、これまた創作ということになりますね。或いは粟田口に晒されたのが光秀の首だけであったとすると胴塚の伝承との間に整合性も出てきます。
江戸時代の小説や歌舞伎の台本の類が、年を経てそのまま「史実」と認識されるようになることは多くありますから、より劇的に劇的にと創作された話すなわち「光秀は小来栖で土民の竹槍にかけられた」がいかにも本当のように広まっていったものと考えられます。
となると、この明智籔のご近所の家は、飯田さんがやたらに多かったのですが、いずれも大手柄の子孫です。飯田一族が秀吉からこれという恩賞をもらっていないなど疑問点もありますが、今の今まで土民に殺されたという話しか知らなかった身としては大いに興味深い話であります。
何にしても『太閤記』などのいわば文学的作品が、光秀が土民に殺されたという話の根拠になっているとしたら、まあそれは創作ということになると思われます。
明智籔
明智籔から先、光秀が落ちて行ったルートと思われる道は全く残っていないとのことで、本日は非常に日が高いうちに全行程終了です。そのまま、石田駅前で一杯であります。
以前にささ舟様がいらっしゃるということで、ねぎ増量特別サービスをお願いしたのですが、名乗られなかったので結局は召し上がっていただいていませんね。次回行かれたときは「これこれこう」と言って下さい。ねぎ増量を頼んでおきます。
毎回、「いいなあ~」とちょっぴり羨ましく見せて頂いています。
今年は、冬の宇治、夏の送り火、秋雨の枚方、毎回お誘いいただいているのにたった3度しか参加できませんでした。加えて11月ごろから体調を崩し、ひとり遊びもままならずでしけております。あとひとつ検査が終われば気も晴れるかと・・・。
嵯峨、のむらさんには大方月いち位でねぎ焼を食べに行っています。欲を言えばもう少しお葱が入っていればいいんだけどな~と、ひとりごとを云っています(笑)
お世話になりました。来年は一度でも多く皆さまとご一緒できたらなと。よろしくお願いします。
ありがとうございました。
「石碑が歴史を作る」、本当ですね。それは「物語が歴史を作る」などと同様だと思います。あちこちの石碑には、誤字があったり、天王寺の真田山由来の碑のように思いきり珍妙なものもありますから、刻んである内容も、その石碑を建てた人たちの一般的常識が刻まれているぐらいに考えておいた方がいいようですね。
飯田氏に恩賞が無かったようであるのは不思議ですが、山崎の合戦直後の段階では誰が恩賞を与える側であるのかかがはっきりしなかったこともあるのかも知れませんね。この段階では光秀を討った主体というか誰が中心なのかがはっきりとしなかったことも関係しているかも知れませんね(盟主は織田信孝だったと思いますが)。
さらに、この後、豊臣大名が各地に置かれるようになったときに所謂地侍は壊滅させられていることも何か関係があるのかも知れませんね。
今まで、単に「土民に殺された」ということで、何となく納得していましたが、その「土民」というのがそもそも何なのか、なかなかくせ者ですね。穴山梅雪などについても、何か「土民に殺された」て゜納得していたところがありましたが、考えてみれば刀を振ったことがないような者が武器を持つ相手に竹槍一本で「さあ、落ち武者狩りだ!」などと出ていくものなのか甚だ疑問ですね。豊臣氏の鉢植え大名達によって各地の国人層はほぼ壊滅させられましたが、やはり「土民」の実体というものは「地侍」とするのがいいのではと思います。
ところで、gunkanatagoさんは、《八科の「科」なんかは単純に山科のそれだと思っていましたが、そうなると伏見側に「八」のつく地名がないとあきませんね。》と書かれていますが、<伏見側に「八」のつく地名がないとあきませんね>というのが気になりました。教えて頂けませんでしょうか?
話は別ですが、光秀の首を取ったものへの恩賞という視点で見るのは大切なことでしょうね。飯田一族がそれなりの恩賞を貰っていたらそういった話が飯田家文書や伝説として残っている可能性もあるでしょうに。あれだけきっぱりと石碑に書くにはライオンズクラブさんは何を根拠に書かれたのか聞いてみたい気もしています。石碑が歴史を作るという側面もあるからです(^_・)
それから、もと武田の遺臣・穴山梅雪も本能寺の変の混乱で土民の手にかかり死んだと聞きますので、土民殺害説は捨てがたいです。
その他感銘したところ。聖母女学院に保存されている「伏見師団司令部」、立派です。以前、札幌で見た北海道開拓使の建物を思い出しました。
「ドーマ窓」、この窓の名称、知りませんでした。
「軍人湯」。最高!B級センスというか・・
「伏見稲荷駅」、いまだ降りたことなしですが、スズメの焼き鳥が名物とか聞きました。一杯やりたいです。
電車の平面交差、以前は阪急の西宮北口駅の神戸線と今津線が有名でした。言われてみたら、本当、どのように交差しているのでしょうね。テッチャンでない小生は、阪急の平面交差もじっくりとは見ませんでした。今はテッチャンでなくても見てみたい気持ちがします(後の祭り)。
診療報酬が1%引き上げられるみたいですが、今や田舎の駅の広告看板は医者とか病院の宣伝ばかり、鎌倉でも徳洲会が出てくるのですね。関西では徳洲会の病院は医師も看護師も絶対に心付けを取らないということでは評判はいいです。
ねぎ焼き、行っていただき、ありがとうございました。確かにお好み焼き専門店のねぎ焼きよりもおいしいですね。成る程、パンケーキ、言われてみたらそうですね。
粟田口で光秀の遺骸も首とともに晒されたというのは家来の斉藤利三の情報が交錯したのかも知れませんね。何となくですが、光秀はここで飯田一族によって首をあげられているように思えます。にしては、これという恩賞が与えられていない感じなのは不思議なのですが。
知らなかったと言えば、八科峠もそうで、ちょっと「ずらして」歩くことは大切ですね。八科の「科」なんかは単純に山科のそれだと思っていましたが、そうなると伏見側に「八」のつく地名がないとあきませんね。
本当、平和な日本で幸せです。戦争が起きる戦争が起きると煽ってきた連中もまぬけに平和に暮らしていますものね。
今回は最初から面白いところをご案内いただきました。 でも、未だによく解らないのは電車が十文字に交差していたということです。 平面での交差はどのようにやっていたのでしょうね。 地元の方が話の中に入って来られたのがとても楽しかったです。
第16師団の建物(きれいに保存していて有難いことですね。)を学校法人が残してくれているということは素晴らしいことですが、我が住まいする近辺で、広い土地が売りに出されるときは、学校か徳洲会が買い取るように感じます。
明智藪はタケノコが採れるところなのでしょうか。 柑橘類もたくさんあり、良いところですね。
嵯峨野の「のむら」のねぎ焼き美味しかったです。 あのモチモチとフワッツとした感じを出したくて、市販のお好み焼きの粉を使って作ってみましたが、出ませんでした。 もう少し研究しないと。 お好み焼きも日本のパンケーキなのだそうですね。 今日のNHK第一ラジオで話していました。
伏見はまさに軍都でしたね、師団司令部の建物は立派なものですしきれいに保存されているのには感心しました。様々なところを思い出すのですが、とても書ききれない。
八科峠でみた車石群はなかなかのものでしたが、この名前が気になりちょっとネットをあちこち見てたら日本書紀の秦大津父の説話に目が駐まりました。八科という名の由来はまだわからないのですが、(科の木が八本あったのかしら?)そこに出てくる狼の話が、師匠が付近の大亀谷という地名は、おおかみが訛ったはずといっておられたのを思いだし、師匠さすが、と思ったものであります。
さて光秀の進んだルートですが、師匠の考えられるルートを辿って歩けたのもよかったすね。光秀を討ち取ったのが飯田氏であることを今回初めて知りました。まあこれについての真相はなかなか分からないでしょうけど、明智藪の碑の隣りにある説明板にはライオンズクラブさんがきっぱりと書いておられるからにはそれなりの根拠に依っておられるのでしょうね。光秀は藪で討たれ、胴塚付近で息を引きとり、首は粟田口へ、という流れは、それはそれで一応さもありなんというところですが、各々の過程では疑問だらけですよね。まあそれを進めていくと、光秀天海上人説まで出てくるのですが、光秀さんも判官贔屓の対象にされることにはあの世で喜んでいるのかも知れません。逆に、戦国の世から太平の世に導いた家康ですが、家康は堺で死んだという話もこのブログで読ませて頂いたことがありますね。
光秀は主君を討った逆臣というだけの世界から、本能寺の変の影武者は誰だなど、疑問や仮設を持っていろいろと研究されている人には敬意を表しますし、そういう事がどんどん発表出来る今の日本は何と幸せな国だわいと思いを馳せてしまいます。
明智藪への道を実際に歩けたことに非常に満足しています。実際に歩かずに街道を論じている人が街道を語ったりしている記事をある歴史研究会の誌で読んだりするにつけ、今回は師匠が考えられる光秀逃避ルートを自分の足で辿ることが出来て大満足であります。今回の企画に改めて感謝感謝です。
※墨染交叉点の写真がダブってまっせ(^_・)