蓮如上人ゆかりの光善寺が本日の出発点であります。上人に関係する文書などに「出口殿」として登場する寺で、現在でもこの辺りの在所名は「出口」です。この近辺では屈指の名刹で、何かの折には賑わうのでしょうが、本日は参拝する人もありません。蓮如上人の頃には、この寺の背後から直接に淀川を行き来する舟に乗ることができたということで、本堂の背後には、往時のものではないかと思われる堤防跡が残っています。
この寺で、上人の虫歯が抜けた時があったようで、その歯が大切に保管されているとのことですが、本日は、どこもかしこもガッチリと鍵がかかっていて何も見ることができません。現在では仏舎利以上の扱いを受けているのでしょう。境内には、蓮如上人直筆を写した碑が建てられています。曰く「出口にて七月一日に日ごろいたみぬるむし歯のおちけるは、夏はきのふけふは秋きりのひと葉おちて身にしみてこそ南無阿弥陀仏」と。
光善寺から枚方大橋までの京街道はたどって辿れぬことはないのですが、出口の集落を抜けてしまうと新興の住宅地の何もないところをデレデレと歩くことになり妙味も何もありません。枚方宿の西の見附に入る手前が桜新地、宿の郊外に作られた「新地」という意味が本当によく解るところです。この新地には少しだけ昔の遊郭を偲ばせる建物が残っていますが、もはや風前の灯です。新地には、三味線屋から発展した楽器店(といっても見た目は三味線屋そのまま)、桜湯などという銭湯の跡が残されています。30年以上も前でしょうか、民家の床下から女性の遺体が発見され、「桜新地殺人事件」などと騒がれたのは。
奥の橋の上が新地の中を通る道。
その橋の上から見た桜新地。
いよいよ西の見附より枚方宿に入ります。入ってすぐに有名な「鍵屋」、現在は枚方市の資料館です。隣に残っている「ニュー鍵屋」なるコンクリの建物が、鍵屋を手放した経営者の山っ気と失敗を物語っていますが、そのままにしていれば、古い建物も壊していたでしょうから、これはこれでいい、しかも入館者もそこそこいて、菊人形なども飾ってあります。資料館の2階ではゴンボ汁を食うことができるのですが、酒は飲めないのでパス。
このあたりは木南家を初めとして見るべきものがたくさんあるのですが、どうも雲行きが怪しい、物見遊山の町人旅はひかえて、飛脚旅に切り替えます。
と言っておいて浄念寺付近ではあっちの寺へふらふら、こっちの寺へふらふら。
浄念寺
この辺りが、宿場として発展する以前の「枚方寺内町」の中心です。西御坊が浄念寺、東御坊が願成坊、織田信長の畿内進出によって一向宗の勢力は後退し(何せこの位置ですから)、江戸初期にいたって宿場町として発展し始めるのですが、伊加賀村を始めとして、周辺の村々では助郷役がなかなか大変であったようです。この近辺には以上の2寺の他に浄土宗の台鏡寺(枚方宿の飯盛り女に信仰された地蔵あり)、日蓮宗の大隆寺があります。また、片山珍古堂なる骨董屋では淀川の川底より出土した「くらわんか茶わん」等を求めることもできます。
台鏡寺
台鏡寺の石灯籠
街中では随所に菊が。
京阪電車枚方市駅付近にやって参りました。本日の目的の一つは、有名な蕎麦屋「天笑」であります。といっても、その蕎麦を食べるというのが目的ではなく、以前にこの店に来た時に蕎麦の味が今ひとつであった(と師匠達)。蕎麦の香りは全くしないし、蕎麦もダレダレで良いところが一つもない。有名店といえども、常に精進せねば、味は落ちるもののようだ。等と同行者もボロクソでした。そこで、本当にダメなのかどうかを確かめようというハラです。ところが、ちょうど昼時であったために、やはり並んでいる人がいる。並んでまで「まずいかどうか」確かめる必要もないと早くも目的を捨て、この界隈で空いている「おらがそば」に入りました。グルメ杵屋系のチェーン店ですが、こやつがなかなかの当たり、「おらがそば」という日本酒は信州の「真澄」を彷彿とさせる味わいで、なかなか結構。天笑の蕎麦一枚分の値段で大盛りに近い蕎麦と日本酒たっぷり一合で釣りが来る。もはや天笑に入ることは一生無いでしょう。
さて、日本酒を燃料に出発です。枚方市駅から天の川を越えます。雨がきつくなってきましたが、「広重の絵にもあるで、酔狂や!」と平気です。酒が入っているので本当に酔狂です。
このドン突きが天の川の堤防、東見附です。
淀川支流の天の川に架かるかささぎ橋を越えると京都守口線(旧1号)に沿って進み、時々脇に街道が分かれるという形が続きます。京阪電車の牧野と御殿山間の三栗(めぐり)からしばらくは旧街道をたどることができます。
左が京街道、入っていくと古い家なども残る。
黄金野という集落を過ぎ、少し街道から外れて片埜(かたの)神社に立ち寄ります。
享和元年(1801)
枚岡神社と並んで「河内一宮」を名乗るこのお社、そういう詰まらぬ拘りはいただけませんが、今となっては住宅地の中にポツリと取り残された感がある中で、神職3名、巫女1名がきちんと社務所に待機しているというのはなかなかで、近辺の崇敬を集めていることがわかります。
片埜神社を出て、京阪電車牧野駅近辺に近づくと駅と線路と京都守口線で仲良く京街道を押しつぶしたらしく、駅周辺は道標が僅かに残るのみです。
穂谷川に沿って牧野駅に向かう。
高槻の前島へ向かう分岐でしょうか?
牧野を越えて舟橋川の堤防にぶつかるまで。
やはり淀川の支流である舟橋川の堤防には八幡宮道の道標とお地蔵さん、それにどう見ても墓石やでというものが仲良く並んでいます。舟橋川を越えたところで進行方向とは逆、つまり振り返って撮ったものがその下の写真ですが、こういう入り方をしている道は概ね旧街道ですね。東海道の坂下水口間もこんな感じのところが多くあります。
ここより樟葉の駅を越えるまでは道は完全に破壊されています。晴れていたら対岸に鵜殿の葭原の広がりも望めるのでしょうが、雨にけぶり何も見えません。河川敷を歩けたらよいのですが、ゴルフ場になってしまっています。楠葉を越えるとしばらくは元の道をたどることができます。大阪府の浄水場辺りから先は、どうも京阪の線路が京街道であるようで、ここを歩いたら怒られますから農道を歩きます。
近年の道標。
このところ、しよっちゅう見ている感のある「楠葉砲台跡」、石標は三宅安兵衛さんの遺志によるものです。安兵衛さんも偉いし、その息子さんも偉い。この安兵衛さん遺志碑を訪ねていく徘徊も面白そうです。
本日のゴールは、橋本遊郭址、址といっても現実には住居として使用されています。遊郭の建物はすごい勢いで失われつつあります。桜新地のようになる前に保護をと思うのですが、遊郭址などは忌々しいものでしかないのでしょうか。本日は、若いお姉ちゃんが一人、声をかけていますといいたいところですが、そういうのは全く無くて、写真を撮っています。この楠葉~橋本間に於いて吾が師匠は「京街道(山科~高麗橋)」を完歩であります。
ところがこころが、ゴールのはずなのに、この間の京街道歩きで伏見の橦木町跡を見逃しているから、今から第2回戦だ。ということで京阪電車で墨染駅へ。墨染の語源たる墨染寺に寄って、少し歩いたところが橦木町です。
墨染の桜の由来を記す壽碑
橦木町郭之碑
遊郭址としての橦木町は正しく壊滅状態でした。入り口の碑と郭碑、大石某が遊んだとやら言う胡散臭い碑の3つが残るのみで遊郭を偲ばせる建物は何もありません。橦木町と言えば大石となるのでしょうが、大石一味など義士でも何でもない。思い込みや逆恨みで老人虐待をやっただけの連中です。近年に至り吉良への同情を深めている小生には忠臣蔵は最も不愉快な作り話、ウソがマコトとなるのは、伊藤公暗殺のくだらぬテロリストを国を挙げて英雄視している韓国の歴史捏造に通じるものがあるようです。大衆の狂気というか何というか。忠臣蔵に関しては、世の人、浅野の狂疾を知るべしと申す処。
それよりも何という寺でしたでしょうか、道を隔てて「おれとこは小野篁作の仏像があるどー!」、「何ゆうてんねん、おれとこなんか閻魔大王が作って、織田信長にもらった仏像があるどー。」等と向かい合わせに看板を掛けているの(小学生の言い合いみたい)を始め、この辺りの知られざる寺が面白い。写真の源空寺なども一寸変わった山門に、太閤遺愛の大黒天が安置されています。
源空寺
さて、伏見桃山、中書島まで来ればもうやりたい放題、酒はなんぼでもあるどー。本日の趣向は中書島の立ち呑み屋ですが、さすがに日本酒は充実しています。けれども立ち飲みはやはりしんどいということで、その後に入ったお好み焼きの店、若い店主もよい人でしたが、クライ。陰々滅々たる雰囲気とはこうゆうことをいうのかと初めて味わったのでありました。小皿を叩いてチャンチキオケサ等を歌えば良かったかな。
(09年11月記)
この寺で、上人の虫歯が抜けた時があったようで、その歯が大切に保管されているとのことですが、本日は、どこもかしこもガッチリと鍵がかかっていて何も見ることができません。現在では仏舎利以上の扱いを受けているのでしょう。境内には、蓮如上人直筆を写した碑が建てられています。曰く「出口にて七月一日に日ごろいたみぬるむし歯のおちけるは、夏はきのふけふは秋きりのひと葉おちて身にしみてこそ南無阿弥陀仏」と。
光善寺から枚方大橋までの京街道はたどって辿れぬことはないのですが、出口の集落を抜けてしまうと新興の住宅地の何もないところをデレデレと歩くことになり妙味も何もありません。枚方宿の西の見附に入る手前が桜新地、宿の郊外に作られた「新地」という意味が本当によく解るところです。この新地には少しだけ昔の遊郭を偲ばせる建物が残っていますが、もはや風前の灯です。新地には、三味線屋から発展した楽器店(といっても見た目は三味線屋そのまま)、桜湯などという銭湯の跡が残されています。30年以上も前でしょうか、民家の床下から女性の遺体が発見され、「桜新地殺人事件」などと騒がれたのは。
奥の橋の上が新地の中を通る道。
その橋の上から見た桜新地。
いよいよ西の見附より枚方宿に入ります。入ってすぐに有名な「鍵屋」、現在は枚方市の資料館です。隣に残っている「ニュー鍵屋」なるコンクリの建物が、鍵屋を手放した経営者の山っ気と失敗を物語っていますが、そのままにしていれば、古い建物も壊していたでしょうから、これはこれでいい、しかも入館者もそこそこいて、菊人形なども飾ってあります。資料館の2階ではゴンボ汁を食うことができるのですが、酒は飲めないのでパス。
このあたりは木南家を初めとして見るべきものがたくさんあるのですが、どうも雲行きが怪しい、物見遊山の町人旅はひかえて、飛脚旅に切り替えます。
と言っておいて浄念寺付近ではあっちの寺へふらふら、こっちの寺へふらふら。
浄念寺
この辺りが、宿場として発展する以前の「枚方寺内町」の中心です。西御坊が浄念寺、東御坊が願成坊、織田信長の畿内進出によって一向宗の勢力は後退し(何せこの位置ですから)、江戸初期にいたって宿場町として発展し始めるのですが、伊加賀村を始めとして、周辺の村々では助郷役がなかなか大変であったようです。この近辺には以上の2寺の他に浄土宗の台鏡寺(枚方宿の飯盛り女に信仰された地蔵あり)、日蓮宗の大隆寺があります。また、片山珍古堂なる骨董屋では淀川の川底より出土した「くらわんか茶わん」等を求めることもできます。
台鏡寺
台鏡寺の石灯籠
街中では随所に菊が。
京阪電車枚方市駅付近にやって参りました。本日の目的の一つは、有名な蕎麦屋「天笑」であります。といっても、その蕎麦を食べるというのが目的ではなく、以前にこの店に来た時に蕎麦の味が今ひとつであった(と師匠達)。蕎麦の香りは全くしないし、蕎麦もダレダレで良いところが一つもない。有名店といえども、常に精進せねば、味は落ちるもののようだ。等と同行者もボロクソでした。そこで、本当にダメなのかどうかを確かめようというハラです。ところが、ちょうど昼時であったために、やはり並んでいる人がいる。並んでまで「まずいかどうか」確かめる必要もないと早くも目的を捨て、この界隈で空いている「おらがそば」に入りました。グルメ杵屋系のチェーン店ですが、こやつがなかなかの当たり、「おらがそば」という日本酒は信州の「真澄」を彷彿とさせる味わいで、なかなか結構。天笑の蕎麦一枚分の値段で大盛りに近い蕎麦と日本酒たっぷり一合で釣りが来る。もはや天笑に入ることは一生無いでしょう。
さて、日本酒を燃料に出発です。枚方市駅から天の川を越えます。雨がきつくなってきましたが、「広重の絵にもあるで、酔狂や!」と平気です。酒が入っているので本当に酔狂です。
このドン突きが天の川の堤防、東見附です。
淀川支流の天の川に架かるかささぎ橋を越えると京都守口線(旧1号)に沿って進み、時々脇に街道が分かれるという形が続きます。京阪電車の牧野と御殿山間の三栗(めぐり)からしばらくは旧街道をたどることができます。
左が京街道、入っていくと古い家なども残る。
黄金野という集落を過ぎ、少し街道から外れて片埜(かたの)神社に立ち寄ります。
享和元年(1801)
枚岡神社と並んで「河内一宮」を名乗るこのお社、そういう詰まらぬ拘りはいただけませんが、今となっては住宅地の中にポツリと取り残された感がある中で、神職3名、巫女1名がきちんと社務所に待機しているというのはなかなかで、近辺の崇敬を集めていることがわかります。
片埜神社を出て、京阪電車牧野駅近辺に近づくと駅と線路と京都守口線で仲良く京街道を押しつぶしたらしく、駅周辺は道標が僅かに残るのみです。
穂谷川に沿って牧野駅に向かう。
高槻の前島へ向かう分岐でしょうか?
牧野を越えて舟橋川の堤防にぶつかるまで。
やはり淀川の支流である舟橋川の堤防には八幡宮道の道標とお地蔵さん、それにどう見ても墓石やでというものが仲良く並んでいます。舟橋川を越えたところで進行方向とは逆、つまり振り返って撮ったものがその下の写真ですが、こういう入り方をしている道は概ね旧街道ですね。東海道の坂下水口間もこんな感じのところが多くあります。
ここより樟葉の駅を越えるまでは道は完全に破壊されています。晴れていたら対岸に鵜殿の葭原の広がりも望めるのでしょうが、雨にけぶり何も見えません。河川敷を歩けたらよいのですが、ゴルフ場になってしまっています。楠葉を越えるとしばらくは元の道をたどることができます。大阪府の浄水場辺りから先は、どうも京阪の線路が京街道であるようで、ここを歩いたら怒られますから農道を歩きます。
近年の道標。
このところ、しよっちゅう見ている感のある「楠葉砲台跡」、石標は三宅安兵衛さんの遺志によるものです。安兵衛さんも偉いし、その息子さんも偉い。この安兵衛さん遺志碑を訪ねていく徘徊も面白そうです。
本日のゴールは、橋本遊郭址、址といっても現実には住居として使用されています。遊郭の建物はすごい勢いで失われつつあります。桜新地のようになる前に保護をと思うのですが、遊郭址などは忌々しいものでしかないのでしょうか。本日は、若いお姉ちゃんが一人、声をかけていますといいたいところですが、そういうのは全く無くて、写真を撮っています。この楠葉~橋本間に於いて吾が師匠は「京街道(山科~高麗橋)」を完歩であります。
ところがこころが、ゴールのはずなのに、この間の京街道歩きで伏見の橦木町跡を見逃しているから、今から第2回戦だ。ということで京阪電車で墨染駅へ。墨染の語源たる墨染寺に寄って、少し歩いたところが橦木町です。
墨染の桜の由来を記す壽碑
橦木町郭之碑
遊郭址としての橦木町は正しく壊滅状態でした。入り口の碑と郭碑、大石某が遊んだとやら言う胡散臭い碑の3つが残るのみで遊郭を偲ばせる建物は何もありません。橦木町と言えば大石となるのでしょうが、大石一味など義士でも何でもない。思い込みや逆恨みで老人虐待をやっただけの連中です。近年に至り吉良への同情を深めている小生には忠臣蔵は最も不愉快な作り話、ウソがマコトとなるのは、伊藤公暗殺のくだらぬテロリストを国を挙げて英雄視している韓国の歴史捏造に通じるものがあるようです。大衆の狂気というか何というか。忠臣蔵に関しては、世の人、浅野の狂疾を知るべしと申す処。
それよりも何という寺でしたでしょうか、道を隔てて「おれとこは小野篁作の仏像があるどー!」、「何ゆうてんねん、おれとこなんか閻魔大王が作って、織田信長にもらった仏像があるどー。」等と向かい合わせに看板を掛けているの(小学生の言い合いみたい)を始め、この辺りの知られざる寺が面白い。写真の源空寺なども一寸変わった山門に、太閤遺愛の大黒天が安置されています。
源空寺
さて、伏見桃山、中書島まで来ればもうやりたい放題、酒はなんぼでもあるどー。本日の趣向は中書島の立ち呑み屋ですが、さすがに日本酒は充実しています。けれども立ち飲みはやはりしんどいということで、その後に入ったお好み焼きの店、若い店主もよい人でしたが、クライ。陰々滅々たる雰囲気とはこうゆうことをいうのかと初めて味わったのでありました。小皿を叩いてチャンチキオケサ等を歌えば良かったかな。
(09年11月記)
行列の店では私は苦い経験が何度かあります。私めの舌が万人とは違う為でしょうか。かの有名な日吉大社傍の鶴喜蕎麦に入ったのですが、う~んこれが皆さん美味しいと仰る蕎麦なのかしら、と悩んだ経験があります。大阪市内に知る人ぞ知る蕎麦屋があるのですが、やっと探し当てて待合室で待つこと半時間弱、ようやく憧れの蕎麦にありつけたのですがこれにも我が舌の力に悩みました。鶴橋のラーメン屋でもがっかり。我が舌ではとても店の星印をつけるなどは出来ないことを自覚しました。
最後はたこ焼き屋かお好み焼き屋さんというのには慣らされてきましたが、これがどうも酒呑み屋さんのイメージとは違いまだしっくりときません。これも舌の問題なのでしょうか。暗い店はいけませんね。ただ梅田で本を買い、この本をチビチビやりながら早く覗きたい気持ちでおでん屋に入りました。少しすると旦那が話しかけてくる。客の気持ちが分からん店にはもう二度と入りませんでした。うるせい!と黙っていたらよかったのでしょうが、声を掛けられてそれを無視できる心臓の持ち主でもありませんでした。この旦那の頭には、酒屋で本なんか読むなよ、明るく呑もうよ、という思考回路が働いたのでしょう。ここで比較文明論。フランス人の旦那なら、黙って注文の品をだし、話しかけたら愛想よく答えてくれるでしょう。まあこれだけで文明を論じるのはちょっと大げさというものかもしれません。どっちが良いかではなく、どちらが好きかということでしょうし、私はフランスの方が好きです。
京街道完歩に我が乾杯の気持ちを恩師様へお伝え下さい。
酒をチビチビ飲みながら本を読む、これは人生の最大の楽しみの一つですね。状況も見ずに話しかけてくる店主は、多分読書などしたことがないのでしょう。おしゃべりしたい客とはおしゃべりする、本を読みたい客は本が読める、勝手ですが、そういう時でもこちらが酒のことなどを質問したらしっかりと答えてくれる、そのような店がありがたいですね。
京街道完歩のご祝辞、必ず伝えます。この勢いで西の鯖街道も完歩と行きたいところですが、これは前途遼遠ですね。小生は中書島~淀間のうっとおしさがあって完歩は遥か先かなと思いますが、mfujino様が歩かれる時は、日にちが合えば必ずお供します。
いずれにしましても、酒の力を借りられたとは申せ、雨模様の中を完歩され結構でした。私は居ながらにして、酒の力に酔いながら読破を楽しませて戴きました。
作者読者共に蕎麦のウラミが強い様ですが、味覚は千差万別憶種兆様ですから店舗側も大変でしょう。思いますに、お二人共自宅(別宅?)の周囲に空地は豊富でしょうから、蕎麦実の栽培から始められれば、自分好みの美味なる手打ち蕎麦が自由自在だと思うのですが。そこへ私が押し掛けてお相伴に預かる筋書きは・・・やはり駄目でしょうねぇ。
何だ観だと申しましても、大阪は水都と言われています。秋の酒雨の中の酒都を、酒気を帯びながらとは申せ酒徒の名に恥じず酒狗々々と酒尾よく燗歩され、酒玉の酒記をものにされましたことに酒九盃を上げさせて戴きます。
コメント投稿、ご迷惑をおかけしています。数字を打ち込んで、「投稿する」をクリックしたら「終わった」と思いますよね。けれども、時にもう一度数字を聞いてくることがあり、これに気づかないとコメントも消えてしまいます。
蕎麦打ち、蕎麦の方は小生は味が判りませんからダメですが、ゆくゆくは「うどん」打ちはやってみたいなあと思っています。花背蕎麦、最初に日本酒がお猪口で出て、日本手ぬぐいは持って帰ってねと趣向もなかなかです。一度ご賞味願います。
毎回、小気味で塩梅のいい散策文章を楽しませて頂き、ありがとうございます。
枚方は菊人形の頃に園児を連れて遠足に行ったくらいでお蕎麦もお酒も縁がございませんでした^^
お蕎麦で「しまった!」と思ったのは、妻籠で、兎に角お腹が空いてて飛び込み、お品書きもろくに見ないで注文したら、山菜蕎麦1杯が2000円以上だったことです。別に高価な山菜が入っていた訳でもないのに・・・一元さんが多い所だからでしょうか?これ、何時までも忘れないです^^すみません、横道でした。
枚方は枚方パークの菊人形は無くなってしまいましたが、随所に菊や菊人形が展示されているようです。