弓矢に関しては京都市京北にも魅力的な話が伝わりますが、摂津源氏のお膝元であった阪急山本駅近くの神社にもちょっとした話が伝わっています。本日はその神社を訪ね、境内に何らかの痕跡が残っているかどうかを確かめに行きます。
本日は朝から大雨、しかし「わしらの徘徊に雨天中止は無い」というモットーにしたがい元気に家を出ます。けれども師匠の言われる「徘徊の神さん」が祝福して下さっているのでしょう。電車が山本駅に着く直前には雨はやみ、日が差してきました。駅を降りてすぐ西に向かい、最明寺川を渡ります。トップの写真がそれです。この川についても最明寺という寺は無いのに何故最明寺川なのか、また、最明寺入道北条時頼の伝承も伝わるようですが、その詳細は如何というような宿題があるのですが、まだ果たせてはいません。
駅のすぐ西には「木接太夫」の碑。豊臣秀吉の家来であった山本荘司頼泰が接ぎ木で植木を育てる研究をし、カラタチの木にミカンを接ぎ木することに成功、秀吉から「木接太夫(きつぎたゆう)」の称号を得たという話が伝わっています。以後山本家はこの地の植木商として栄え、今もこの山本は植木の町として知られています。
木接太夫彰徳碑(明治45年建碑)
この碑の周りを見てもらっても分かるように、町全体が大変きれいに整備されています。荒れたところが全く見られませんが、これは植木職の人がたくさんおられて、ちょっと気になったらすぐに整備されているからでしょう。本当にきれいな町です。
すぐ西に楊林禅寺、ここの庭もきれいです。庭の中に九重の石塔が建っていましたが、寺の略歴を含め、何の掲示もありません。
西国三十三所を巡る巡礼街道に出ました。ここから第24番中山寺は目えつむってケンケンでも行ける距離です。
すぐに目指す松尾神社が見えてきました。祭神は坂上田村麻呂と大山咋神(松尾さん)で、田村麻呂が松尾大社の申し子というような伝承もあるようです。ならば本来松尾さんが祀られていたところに田村麻呂が合祀されたのかというと話は逆のようです。
この辺りは田村麻呂の子孫である坂上氏が支配していた地で、もともとは田村麻呂の幼名を採って「松尾丸社」といい、坂上氏の祖神として田村麻呂を祀っていたものが後に「松尾さん」なら松尾大社の祭神たる大山咋神(おおやまくいのかみ)も祀らんといかんやろということになったようです。別名を田村将軍宮と云いました。伝承では田村麻呂の子孫である坂上季武が安和年間(968~970)創建したということです。
社前に薬師堂
この坂上季武はこの地では頼光四天王の一人とされています。一般には頼光四天王といえば渡辺綱、坂田金時(金太郎さん)、碓井貞光、卜部季武を指しますが、この地では卜部季武に代わって坂上季武が入るようです。ならば両者は同一人物かというと卜部季武の正式な名乗りは「平季武」ですし、坂上季武は記述の如く東漢氏(田村麻呂は帰化人の子孫)ですから別人です。まあ昔の人のおおらかさで、名前が同じだったらまあよかろうというところでしょう。
この季武が弓矢の名人だったのでしょうね。しかも坂上田村麻呂は知らぬ人のない武人です。以後はこの神社は弓矢の神様、坂上家は弓矢の家として代々知られてきました。また山本の地は弓矢造りでも知られるようになり、鎌倉将軍の代替わりごとに弓矢を奉呈したということです。坂上季武の弓矢の道は頼光から伝えられたもので、頼光の技は支那の養由基から脈々と伝えられたものであるというのは起こりを古くするために加上に加上を重ねて遂に支那の伝説上の英雄まで達したものでしょう。
ですから明治初年まで通し矢も行われてきたと言うことから、逆にこの地で弓矢が盛んな理由としてこれらの話が形成されていった可能性もありますが、今の神社にはそういうものを示す跡が何一つありません。
拝殿
最近の神戸新聞の記事が拝殿に掲示されていましたが、これもそういう弓矢のことについては触れていません。記事を書いた人は50年ほど前に神戸新聞の先輩が書いたものを読んでいないのでしょう。
Web上でも以下の話は未だ誰も記していないようですから、小生が知るこの神社についての伝承を簡単に記しておきます。
江戸時代末期安政年間、この地の植木職に牛九郎という人がいました。武士ではないのですが、弓矢の名人で狙った的は必ず最初の矢で射当てて、二の矢を放たないことから「牛九郎の一筋矢」という評判が立つほどでした。
ある日、この牛九郎が神社のそばの射場を通りかかったところ紀州藩の武士が矢を放っています。牛九郎は足を止めてしばらく見物することにしました。他にも村の人たちが集まっています。この村の人たちはここに通りかかったら、しばらく弓の稽古を見物し、それから植木市を冷やかすのを楽しみにしているのです。
そんな時にある武士が放った矢が的を外れ、牛九郎は思わず「黒星!」と叫んでしまいました。その声を聞いた武士は馬鹿にされたと思ったのでしょう、ものすごく怒って牛九郎のところに駆け寄ります。
「なんらー、お前。ほんならお前が射てみい。外してみい、切るろー。」てな感じでしょうか。あまり怖くありませんねぇ。牛九郎は直ちに弓を取り、思いきり引き絞って矢を放ち、みごとに的を射抜いたという次第。見物の人々はヤンヤヤンヤと大喜びしました。
この後、神社の周囲をぐるーと一周しました。100メートル四方はあるでしょうか。境内の大部分は森になっています。この辺りには弓場垣内の地名も残っていたということで、そこに弓を練習するところがあったのでしょう。今回はその地名を確認することはできませんでした。まだまだ見落としもあるでしょうが、この神社における「弓矢」の伝承は表面上は完全に消え失せているようでした。
さて、どうすべえ。山本駅に戻って最明寺川の流れを伝って川西市の加茂の方に行ってみるか、等とも考えましたがもう少し巡礼街道を歩いてみることにしました。少し西に行くと地蔵堂があり、交差点には道標がありました。
山本郷の東の鎮守が松尾神社なら西の鎮守は天満宮です。このお宮さんも落ち着いたよい神社です。
等々とふらついているうちに中山寺までやってきました。さすがに参拝の人が多くいます。中に入ってビックリしました。本堂までエスカレーターができています。昔、この寺の境内には傷痍軍人がたくさんいました。そのころにこやつがあれば片足の傷痍軍人などは随分と助かっただろうに等と思います。
この中山寺も伝承に富んだ寺です。嫉妬深い女性は思いきり注意しなくてはなりませんし、7月のある日には極楽への道が開けるそうです。これらの伝承については次の機会とさせていただきます。
ちょうど寺では七五三が行われていました。この七五三は寺でも神社でもOKですね。原理主義者は目くじらを立てるかも知れませんが、これこそが明治に至るまでの日本の普通の信仰形態でした。何でもええでということ。まあ、それがこの七五三に続いているということです。この寺の山門も表側には仁王さんがおられますが、裏側には狛犬が鎮座しています。
ただ、今は子供が7つまで生きるというのは極めて普通で特に目出度いことでもありませんし、子供は育ってみないと本当に目出度いかどうか分からない、とんでもない犯罪者に育つヤツもいるし、子に殺される親もいるのでここは一番目出度いかどうかの判断を留保して七五三ではなくて七十・五十・三十にしてもいいかも知れませんね。となると十三参りは百三十参り?(爆)。
エスカレーターは人に任せ、小生は昔の如く階段を上ります。上から境内を眺めるともっと広大だった記憶があるのですが、何となくこぢんまりとまとまっている感じです。小生の先祖も何名かここに分骨されているのですが、お参りは実に30年ぶりです(爆)。どこに行けばいいか分からないので、さしあたり本堂にお参りしました。心なしかどこからかは分からぬ冷たい視線を感じます。参道の両側には綺麗な花が咲いていました。
駅に戻り、そのまま電車に乗って50分ばかり、久しぶりに「おかえりなさーい」の店に行きました。アッタリ前なのでしょうが、ゴーヤの天麩羅は既に終了していました(涙)。まあいい、するめの天麩羅がある限り幸せでおれる。師匠お奨めのアサヒの黒生を初めて飲みました。この黒ビールというのはなかなかいけますねえ(感嘆)、秋にピッタリという感じであります。
本日は朝から大雨、しかし「わしらの徘徊に雨天中止は無い」というモットーにしたがい元気に家を出ます。けれども師匠の言われる「徘徊の神さん」が祝福して下さっているのでしょう。電車が山本駅に着く直前には雨はやみ、日が差してきました。駅を降りてすぐ西に向かい、最明寺川を渡ります。トップの写真がそれです。この川についても最明寺という寺は無いのに何故最明寺川なのか、また、最明寺入道北条時頼の伝承も伝わるようですが、その詳細は如何というような宿題があるのですが、まだ果たせてはいません。
駅のすぐ西には「木接太夫」の碑。豊臣秀吉の家来であった山本荘司頼泰が接ぎ木で植木を育てる研究をし、カラタチの木にミカンを接ぎ木することに成功、秀吉から「木接太夫(きつぎたゆう)」の称号を得たという話が伝わっています。以後山本家はこの地の植木商として栄え、今もこの山本は植木の町として知られています。
木接太夫彰徳碑(明治45年建碑)
この碑の周りを見てもらっても分かるように、町全体が大変きれいに整備されています。荒れたところが全く見られませんが、これは植木職の人がたくさんおられて、ちょっと気になったらすぐに整備されているからでしょう。本当にきれいな町です。
すぐ西に楊林禅寺、ここの庭もきれいです。庭の中に九重の石塔が建っていましたが、寺の略歴を含め、何の掲示もありません。
西国三十三所を巡る巡礼街道に出ました。ここから第24番中山寺は目えつむってケンケンでも行ける距離です。
すぐに目指す松尾神社が見えてきました。祭神は坂上田村麻呂と大山咋神(松尾さん)で、田村麻呂が松尾大社の申し子というような伝承もあるようです。ならば本来松尾さんが祀られていたところに田村麻呂が合祀されたのかというと話は逆のようです。
この辺りは田村麻呂の子孫である坂上氏が支配していた地で、もともとは田村麻呂の幼名を採って「松尾丸社」といい、坂上氏の祖神として田村麻呂を祀っていたものが後に「松尾さん」なら松尾大社の祭神たる大山咋神(おおやまくいのかみ)も祀らんといかんやろということになったようです。別名を田村将軍宮と云いました。伝承では田村麻呂の子孫である坂上季武が安和年間(968~970)創建したということです。
社前に薬師堂
この坂上季武はこの地では頼光四天王の一人とされています。一般には頼光四天王といえば渡辺綱、坂田金時(金太郎さん)、碓井貞光、卜部季武を指しますが、この地では卜部季武に代わって坂上季武が入るようです。ならば両者は同一人物かというと卜部季武の正式な名乗りは「平季武」ですし、坂上季武は記述の如く東漢氏(田村麻呂は帰化人の子孫)ですから別人です。まあ昔の人のおおらかさで、名前が同じだったらまあよかろうというところでしょう。
この季武が弓矢の名人だったのでしょうね。しかも坂上田村麻呂は知らぬ人のない武人です。以後はこの神社は弓矢の神様、坂上家は弓矢の家として代々知られてきました。また山本の地は弓矢造りでも知られるようになり、鎌倉将軍の代替わりごとに弓矢を奉呈したということです。坂上季武の弓矢の道は頼光から伝えられたもので、頼光の技は支那の養由基から脈々と伝えられたものであるというのは起こりを古くするために加上に加上を重ねて遂に支那の伝説上の英雄まで達したものでしょう。
ですから明治初年まで通し矢も行われてきたと言うことから、逆にこの地で弓矢が盛んな理由としてこれらの話が形成されていった可能性もありますが、今の神社にはそういうものを示す跡が何一つありません。
拝殿
最近の神戸新聞の記事が拝殿に掲示されていましたが、これもそういう弓矢のことについては触れていません。記事を書いた人は50年ほど前に神戸新聞の先輩が書いたものを読んでいないのでしょう。
Web上でも以下の話は未だ誰も記していないようですから、小生が知るこの神社についての伝承を簡単に記しておきます。
江戸時代末期安政年間、この地の植木職に牛九郎という人がいました。武士ではないのですが、弓矢の名人で狙った的は必ず最初の矢で射当てて、二の矢を放たないことから「牛九郎の一筋矢」という評判が立つほどでした。
ある日、この牛九郎が神社のそばの射場を通りかかったところ紀州藩の武士が矢を放っています。牛九郎は足を止めてしばらく見物することにしました。他にも村の人たちが集まっています。この村の人たちはここに通りかかったら、しばらく弓の稽古を見物し、それから植木市を冷やかすのを楽しみにしているのです。
そんな時にある武士が放った矢が的を外れ、牛九郎は思わず「黒星!」と叫んでしまいました。その声を聞いた武士は馬鹿にされたと思ったのでしょう、ものすごく怒って牛九郎のところに駆け寄ります。
「なんらー、お前。ほんならお前が射てみい。外してみい、切るろー。」てな感じでしょうか。あまり怖くありませんねぇ。牛九郎は直ちに弓を取り、思いきり引き絞って矢を放ち、みごとに的を射抜いたという次第。見物の人々はヤンヤヤンヤと大喜びしました。
この後、神社の周囲をぐるーと一周しました。100メートル四方はあるでしょうか。境内の大部分は森になっています。この辺りには弓場垣内の地名も残っていたということで、そこに弓を練習するところがあったのでしょう。今回はその地名を確認することはできませんでした。まだまだ見落としもあるでしょうが、この神社における「弓矢」の伝承は表面上は完全に消え失せているようでした。
さて、どうすべえ。山本駅に戻って最明寺川の流れを伝って川西市の加茂の方に行ってみるか、等とも考えましたがもう少し巡礼街道を歩いてみることにしました。少し西に行くと地蔵堂があり、交差点には道標がありました。
山本郷の東の鎮守が松尾神社なら西の鎮守は天満宮です。このお宮さんも落ち着いたよい神社です。
等々とふらついているうちに中山寺までやってきました。さすがに参拝の人が多くいます。中に入ってビックリしました。本堂までエスカレーターができています。昔、この寺の境内には傷痍軍人がたくさんいました。そのころにこやつがあれば片足の傷痍軍人などは随分と助かっただろうに等と思います。
この中山寺も伝承に富んだ寺です。嫉妬深い女性は思いきり注意しなくてはなりませんし、7月のある日には極楽への道が開けるそうです。これらの伝承については次の機会とさせていただきます。
ちょうど寺では七五三が行われていました。この七五三は寺でも神社でもOKですね。原理主義者は目くじらを立てるかも知れませんが、これこそが明治に至るまでの日本の普通の信仰形態でした。何でもええでということ。まあ、それがこの七五三に続いているということです。この寺の山門も表側には仁王さんがおられますが、裏側には狛犬が鎮座しています。
ただ、今は子供が7つまで生きるというのは極めて普通で特に目出度いことでもありませんし、子供は育ってみないと本当に目出度いかどうか分からない、とんでもない犯罪者に育つヤツもいるし、子に殺される親もいるのでここは一番目出度いかどうかの判断を留保して七五三ではなくて七十・五十・三十にしてもいいかも知れませんね。となると十三参りは百三十参り?(爆)。
エスカレーターは人に任せ、小生は昔の如く階段を上ります。上から境内を眺めるともっと広大だった記憶があるのですが、何となくこぢんまりとまとまっている感じです。小生の先祖も何名かここに分骨されているのですが、お参りは実に30年ぶりです(爆)。どこに行けばいいか分からないので、さしあたり本堂にお参りしました。心なしかどこからかは分からぬ冷たい視線を感じます。参道の両側には綺麗な花が咲いていました。
駅に戻り、そのまま電車に乗って50分ばかり、久しぶりに「おかえりなさーい」の店に行きました。アッタリ前なのでしょうが、ゴーヤの天麩羅は既に終了していました(涙)。まあいい、するめの天麩羅がある限り幸せでおれる。師匠お奨めのアサヒの黒生を初めて飲みました。この黒ビールというのはなかなかいけますねえ(感嘆)、秋にピッタリという感じであります。
本当ですね。あの巡礼街道を梅の季節に歩いたら素晴らしいだろうなと思います。小生も山本周辺がここまで小綺麗なことには今回初めて気が付きました。
なるほど、あの辺りの名物は蓮ご飯ですね。しっかりと心の中に入れました(笑)。昔から駅前に少しだけ食堂などがありましたが、お好み焼きの店ができているとは知りませんでした。昔はお参りすると栗の焼いたヤツが買ってもらえるので食い意地で人に付いていきました。
親もさることながら、近所のオバチャンが中山寺や清荒神、また生駒さんや石切さんにお参りする時はよく付いていきましたが、全部食い物目当てでした。
阪急山本駅、ずい分前のなりますが一度だけ降りました。
中山寺の観音参りは(白衣を着て)二度まいりましたが、それとは別に山本駅から中山さんまでひとりで歩きました。(目をあけてケンケンでなくても)なかなか着かなかったですが(笑)目的は梅林です。ところがどこのお家(お屋敷)も香りのいい梅が咲いていたので梅見をしながら歩き、もう充分満足で梅園に入らず観音さんだけお参りして、名物蓮ごはんを頂いて帰りました。
そうですか植木の町でしたか。おぼろげにいま思い返すと、確かに美しい佇まいの住宅街を通ったように思います。
植木職人、牛九郎のお話も楽しく読ませていただきました。
中山寺門前にはもんじゃ焼きやお好み焼き屋さんが多いですね。
本当に町の風景も、ちょっと人の手が入っているのとほったらかしでは随分と違いますね。大野でのご同行の方の話をうかがい、少し自信が持てました。この時に「眠り観音」の伝承のある寺に行き損ねたので、また近いうちにこの辺りをウロウロしようと思っています。
坂上田村麻呂、何年か前に墓が見つかりましたが、そこに行こうと思いながら未だ行けていません。征夷大将軍としての活躍もさることながら薬子の変における対応など、貴族としてもなかなかの人物であったと思います。
ホントは池田でも十三でもよかったのですが、そろそろ「おかえりなさーい」でのゴーヤの天麩羅も食べ納めと思って行ったら、既に終わっていました。
観光四天王は初めて聞きました。弓矢の話など、こういった伝承は残して欲しいですね。弓矢と田村麻呂さんとくればこれはやはり北山の真弓ですよね。話は飛びますが、信州の燕への合戦尾根、安曇野、さらに東北でも田村麻呂さんが登場しますね。gunkanatagoさんの徘徊録は今は面で進行していますが、これからテーマ別での徘徊録というのは読める様になるのでしょうか。
お、これは「おかえりなさーい店」へ行きたい、それならこの辺りを歩いてみるべえか、のコース選定かなとも思いましたが(怒らないでね(^_*) )いろいろ含蓄ある記述にあい感心しながら読ませて頂きました。
松尾さんは秦氏の氏神さんであったようで、その絡みで東漢氏も崇敬したのかも知れません。この秦氏と東漢氏の事績は習合しているというか被っているというかそんな感じですね。ですから田村麻呂が松尾大社を大いに崇敬したということは十分にありそうです。
山本は本当にきれいな町です。小生もこの近辺を歩くのは随分と久しぶりでした。中山寺の山茶花(ありがとうございます)は、参道の横にずっと植えられていました。この近くの寺には眠り観音の言い伝えが残っていますが、その時には思い出せず。その寺に行くことはできていません。
それもそうですけど「木接」の名称は、もう少し何とかならなかったのかと。昔は「骨接」の名称がありましたので、ちょっと痛そうなイメージですが。
京都の松尾大社は酒の神様で田村麻呂とは無関係みたいですが、やはり関係は無いのですか。酒の神様ならgunkanatago家に関係深いのかも・・・。
頼光の筆頭四天王の渡辺綱は京都の一条戻り橋関係で、幼児の頃によく話を聞かされました。
夜中に戻橋の畔を通りかかると美しい女性がいて、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。彼はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。すると女はたちまち鬼に姿を変え、彼の髪を掴んで愛宕山の方向へ飛んだ。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることが出来た・・・。確か、こんな逸話だったと思います。昔は、本気で怖かったものです。
さすがに四天王です。gunkanatagoさんも、酔眼の節は美女に用心されますように。ただ、植木職人でも弓矢の達人が居るのですから、空手の達人の徘徊師が居てもオカシクはありませんが。
それと、七五三の格上げ(?)ですか。面白そうですが、百三十詣りはせめて百十三詣りにしないとやはりムリかも。
由緒ある中山寺はgunkanatago家の菩提寺ですか。さすがです。門前の花は山茶花です。この花が咲くと、そろそろ冬近しの感があります黒生の旨いのも今の内かも知れません。