USで問題視されているという前評は、見出しを読むくらいに留めて、
あまり読まないようにして観ました。
あまり読まないようにして観ました。
なるほど。
問題作。…なんて言い方、客観的に、上から、言ってるように見えるかな。
問題作。…なんて言い方、客観的に、上から、言ってるように見えるかな。
そういうことではないです。
前評にちらっと見た、"貧困層"に関する視点もたぶんあるのだろうと
おもうけれど、もっと根本的なところで、いまの私も含めた幅広い大衆に
おもうけれど、もっと根本的なところで、いまの私も含めた幅広い大衆に
普遍な、ある種のネグレクト感もけっこう問題なんだろうと思う。
忘れたふり、見ないふりしてるそれを、顕在化させている。
自分ゴトな部分が、痛みが、非常に巧妙に織り込まれていて、
自分ゴトな部分が、痛みが、非常に巧妙に織り込まれていて、
でもその自分ゴトに重なる体験や感情が引き金となって至る事象は、
あまりにも反社会で。
あまりにも反社会で。
憶えのある痛みと、許されるべきでない行為とが、地続きになってしまう。
それが、この映画の、価値であるし危うさでもある。
「道で死んでいたら、踏みつけていくんだろう?」
ホアキン・フェニックスが踊る(舞う)場面はいずれとてもとても
底深いのだけれど、事件後に飛び込んだあの場所での、
アーサーのパフォーマンスに顕れる精神性がすごくて。
崇高な何かが、あそこで提示されることの重さ。
アーサーはそういう、"誤った"自己浄化力みたいなのが備わっているのかな。
それが彼を、ジョーカーたらしめているかもしれない。
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公式サイト:http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/about.html
記憶は、都合よく変わるもの。
都合よく変えたことを、変えた本人は自覚が薄い。あるいは、ない。
脳は、そういうもの。
行為の理由はあとから整合されるもの。自覚なく。
だから、アーサーの行為とその理由の推察は、注意深く行う必要がある。
なぜなら、本作は、アーサーの記憶を描いていると思われるから。
(2019.10.13)