城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

夏子さん

2022-06-14 17:14:17 | 私小説


 もう三十年以上も前のことである。私は池袋にあった外国語専門学校に夜間通っていた。
 私は当時小さな製薬会社に嘱託作業員として勤めていた。元々は臨時従業員を募集していたところに入ったものであった。その会社に入ったとき、私は弱冠二十五歳であった。
 実は私は高校を卒業していなかったので、学歴・経験不問という臨時工の募集に応募しがちだった。高校の期末試験をボイコットし、留年になるかと思っていたところ、校長から反省を求められ、拒否した。すると、退学処分となってしまった。校長からあなたのために余分な税金を使わせるわけにはいかないと言われた。担任の教師からは、今の教育に不満があるのなら、試験をボイコットするのではなくて、学校を卒業して、社会に出てから政治家になって世の中を変えたらいいじゃないかと言われた。今考えると、その通りだと思うが、その時の私は意固地になっていて、聞く耳を持たなかった。その時私が何をどういうふうに変えたかったかというと、色々あるが、一番大きなものを一つだけ言うと、一点を争う大学の入学試験の合否判定のやり方を変えてほしかった。ある程度のレベル以上に達した人には入学資格を与え、志願者多数のため入学定員を超過する場合は、入学試験の点数順や客観性の疑われる方法ではなく、公平公正な抽選による選抜にしてほしいと考えた。便利に使われているが、相当あいまいな日本の法律用語に翻訳すると、「相当程度の知識と学力を有する者の中から抽選で入学者を選抜する方式」とでもいうことになろうかと推測する。
 高校を退学処分になった後、私は二年ほどパートタイムや臨時作業員やアルバイトの仕事を転々と働いてみて、賃金の格差の面で正社員として働かないと損かなと思うところがあり、池袋の職安に行って相談した。その後、その職安で紹介された会社に面接に行き、高校卒業の資格はなかったが、高卒と同じ条件で、ある印刷会社の正社員として採用された。その会社はある大会社の下請けのような会社で、従業員数は五十人くらいだった。工場長は私に「うちは学歴差別はしないよ」と私に言った。確かに高校の勉強が会社の作業に直接役に立っているわけでは全くなかった。私はその印刷会社で製版という工程に配属され、水銀灯で写真のネガの影をアルミの原版に焼き付ける作業をおこなった。排気扇の能力が弱く、作業部屋にはアンモニアの臭いが漂っていた。毎日トルエンでガラスを拭いたりするので、シンナー遊びをする人のように脳が委縮するのではないかと心配になった。そういう心配なことに加え、残業が多いのも嫌だった。週刊誌などのグラビアの製版を作成していた関係で、多いときは二校、三校、深夜まで校了にならず、待機させられることもあった。残業の時は、出前のラーメンを会社持ちで食べられるし、割り増し賃金も貰えるので、悪いことばかりではないが、早く帰って自分の時間を持ちたい私には辛かった。その会社には労働組合がなかった。私は労働組合をつくって自分たちの労働条件を改善したいと思った。要求すればこの工場長ならすぐに改善に着手するような気がした。だが、一年や二年で労働組合を組織することは難しかった。それに、私はそこで三年は働こうと思っていたのだが、残業の多さにたまらず、たったの一年で辞めてしまった。面接の時、「長く働くつもりです」と言ったことが気になった。嘘はつきたくないと思ってはいたが、実際にはむずかしかった。三年で辞めるつもりですと言ったら採用されないに違いなかった。
 私が工場長に「アンモニアの臭いがきつい」と言うと、彼は私の作業場にやってきて、「これはひどいな。換気扇を変えなければいかんな」と言って出て行った。というわけで、私は労働組合を組織することはできなかったが、実際は職場環境改善の要求を個人的にしていたのだった。
 会社には社長室というのがあった。そこに社長がいるのかどうかはわからなかった。私は社長の姿をほとんど見たことがなかった。彼に会う時は、ボーナスを渡されるときだった。一年に二回、六月と十二月にボーナスが出て、従業員は一人ずつ社長室に入って行き、にこにことした社長からボーナスを渡されるのだった。従業員は「ありがとうございます」と社長に頭を下げるのだった。
 私はその印刷会社を辞めてから、あるスーパーのパートタイム店員をしながら、自由時間には図書館に行き、本を読む毎日を過ごした。私は図書館で、日本語に訳された分厚いモラエスの全集を読み、静かに感動した。私が昔の人の精神を受け継いだのと同じように、私の肉体はほろんで太平洋に帰ったとしても、私の精神は、血のつながりはなくとも、人種を超え、時代を超えて、後世の人につながるであろうと夢想した。でも、それには私は何かを後世に残さなければならなかった。私にとって、それは絵画だった。自分のことはさて置き、モラエスを読んで思ったことは、昔の人の経験を知ることによって、自分が長く生きているのと同じ、あるいはそれ以上の記憶の蓄積が得られるということだった。そういう楽しい毎日を過ごした後、残業がほとんどないというその製薬会社の門を叩いたのだった。
 その会社は製薬会社といってもさほど大きな会社ではなく、従業員数百人程度の会社だった。いくつかの工場が東京周辺にあり、販売促進のための営業所がいくつか地方にも置かれていた。
 臨時従業員として入ったその製薬会社も私はそんなに長く働く気はなかったのであるが、一年、二年と働いている内に、正社員とほとんど同じ仕事をしているのに、ベースアップは正社員と比べると全く少ないし、ボーナスは雀の涙で、ほとんど出なかったので、不当だと思うようになった。そこで、ぼくは係長の武田さんに正社員にしてほしいと頼んでみた。武田さんは東北地方の水産高校の出身だった。体が大きく、がっしりとしていた。色も白く、髪をリーゼントでオールバックにしていた。無口な人で、休憩室に置いてある係長用の机の前に座っていることが多かった。無駄口はたたかなかった。家に帰っても奥さんと必要なこと以外一言も話さないのではないかと思われた。奥さんに「オイ」「フロ」「メシ」くらいしかしゃべらず、髪を気にするあまり、夜はポマードをつけて頭にヘアキャップをかぶって寝ているのではないかと思われた。
 武田さんは源さんと相談してみると言った。気安く源さんと呼ばれていたが、源さんは課長だった。
 その会社には労働組合があり、正社員はすべて組合員であった。組合員にならないと正社員になれない制度だった。ただ、組合員は正社員だけで、臨時従業員や嘱託作業員は組合員にはなれなかった。というか、組合員として組織する対象ではなかったのだろう。私にはだれからも組合加入の声がかからなかった。
 組合の役員になった人は夕方になると組合の会議だと言って職場から離れて行くことがあった。同じ仕事を一人少ない人数ですることになるので、あとに残った人はその分仕事がきつくなった。私はその組合の役員をちょっとうらやましく思わないでもなかった。その時の組合役員をしていたのは高木さんだった。世話好きな感じの人で、よくしゃべった。「大丈夫か」とか「疲れてないか」とかなにくれとなく私に声をかけた。高木さんの話では、臨時従業員から正社員になった女性がその同じ職場にいるというのであった。中途採用と言っていた。つまり、その会社は御多分に漏れず、日本の他の会社と同じように、学校を卒業した新卒者を四月に一括して採用していたのだった。地方の水産高校の出身者が多かった。また、中学校を卒業して入った人たちもいた。私が武田さんに正社員になることを頼んだと高木さんに言うと、高木さんは、「源さんはあんたや武田さんみたいな無口で不言実行タイプの人が好きだから、大丈夫だよ。正社員になれるよ。おれも源さんに言っとくよ」と言った。私は昔からたまにボーっとするところがあり、いつかなどは、ドロップの原料のキャラメルと水飴五十キロくらいを入れたタンクのドレインバルブを閉め忘れ、原料をすべて下水に流してしまったことがあった。こんなことをやった人は前代未聞だったが、私は会社に相当な損害を与えてしまった。ひょっとすると、正社員に推薦されない理由があるとすれば、そんなことも理由のひとつにはなりえるかなと私は思った。我ながら、信じられないミスをしたものだった。とても重要な仕事は任せられないに違いない。
 昔は魚の肝臓からビタミンを抽出して製品を作っていたので、工場から魚の腐ったような臭いが発生して、近隣の住民から苦情が寄せられたと高木さんは言っていた。そんなこともあって、昔は魚に関係する水産高校の新卒者を採用したとのことであった。水産高校出身者は魚の臭いを嫌がらないということがあったらしい。私が入ったころには魚の肝臓は使わなくなっていた。だれだったか忘れたが、スイスから化学的に合成されたビタミンAを輸入していると言っていた。私はなぜ遠くのスイスから輸入するのだろうかと思った。日本ではできないのだろうか。特許の関係だろうか。日本でもできるようになればいいのにと私は思った。
 結局、私は正社員にならなかった。なぜかというと、私が正社員になった場合、かえって給料が臨時作業員の時より下がってしまうのだった。十八歳の新卒者の給料体系から始まるのだった。日本のたいていの会社は日本型経営と言って、新卒者採用、終身雇用、年功序列を特徴としていた。一年ごとに給料が高くなるのだが、定年近くの人と新卒者の給料の違いは三倍くらいの違いがあった。年配者が少なく、若年者が多かったそのころは会社にとって都合のいい制度と思われた。若い人は給料が少ないことが不満ではあったが、自分が年を取れば給料が増えるという期待もあり、それが楽しみでもあった。実際は、年を取るとともに、終身雇用や年功序列賃金制度が崩れていき、欧米の制度に近づいていった。また、パートタイム、アルバイト、臨時作業員、期間工、派遣社員など、同じような労働をしていても正規社員より賃金がかなり低く、身分が不安定な非正規と言われる新しい日本型経営と思われる労働者の形態が増えて行った。
 あまり長く働く気のなかった私は正社員にならず、臨時従業員よりは給料の高い嘱託作業員になったのだった。もっとも、組合の役員をやっていた高木さんが、正社員になって何年かすれば給料の調整があるから年齢相応の給料に補正されていくというようなことを私に教えてくれたが、私はそれほど長く勤める気がなかったのだった。
 コンベアベルトの上に木のトレーを載せたり、コンベアーで流れてきたトレーをパレットの上に積み上げたりする作業を人の力でやっていた。比較的軽い作業を六十五歳以上の高齢者や女の人がやっていた。力のいる作業を男の正社員や臨時の作業員がローテーションを組んで交代しながら作業を行っていた。私は根が怠け者なのか、もっと楽にできる方法はないだろうかとよく考えた。私のアイデアを実行するには機械の設計を変えることになり、大きな投資が必要になりそうだった。売上が下がっている状況で大きな投資をしても見合うだけの資金の回収ができるだろうか。戦争直後の食糧難時代と違って、右肩上がりのバブル時代であり、食生活も豊かになり、栄養不足の子どもも少なくなっているのではないかと思われた。かなり難しそうな気がした。だが、その後、私がその会社をやめてからだったが、その会社はアジアの途上国に輸出をするという方向で、生産を継続していった。
 夕方になるとくたくたに疲れ、家に帰ると、一、二時間は横になって休まないと疲れがとれなかった。肩の筋肉がカチカチになった。常に肩が凝った状態で、疲労感がとれなかった。夏休みや正月休みで一週間ほど休む時は、肩がスーとしたが、芯のところの筋肉の硬さはほぐれずに残ったままだった。そしてまた仕事が始まり、疲労が蓄積していった。何年も同じ職場で働いているうちに、同じ指の個所にトレーの圧力がかかるために、私の指が変形し始めた。タコができるくらいはよくある話だが、骨が変形してきた。まっすぐな指ではなくなってしまった。機械の騒音にも悩まされた。特に周波数の高い、金属のこすれるキーキーという音には閉口した。耳が痛くなってきたのだった。聴覚がやられそうだった。私は耳栓をつけて作業するようにしたが、そのことで高木さんから文句を言われるようになった。機械の小さな異常音を察知するには耳栓をつけていては察知できないというのだった。必要な話もききとれないのでは困るということで、最終的には会社指定の病院で耳の検査を受けさせられた。そこは会社に都合のいいような検査結果を出す病院ではないかという疑いを私は持っていたが、検査を受けに私はその病院に行った。ヘッドホーンから音を流し、聞こえるか聞こえないかを口頭で答える検査だった。ヘッドホーンをはめてみて、私は聞こえても聞こえないと言うこともできると思った。嘘をつくことができるのだ。医者のほうもそのことを十分心得ていて、疑い深そうな目で私を見ていた。「本当にきこえないんですね」と念を押した。私は聞こえるときは聞こえる、聞こえないときは聞こえないと正直に答えた。医者は私が嘘をついていると思ったらしく、「異常なし」と言った。すぐに一緒にいた看護婦が医者の間違いを指摘し、もう一度検査をやり直した。結果、私の耳の聴力が低下していることが判明したのだった。そのことが直接のきっかけで、いつか私はその会社をやめることにしたのだった。
 いずれにしても、私はその会社に長く勤める気はなかったのであるが、嘱託作業員になり、臨時従業員よりは高い給料となり、指は曲がってはきたが、注意して見なければわからない程度の曲がり具合であり、仕事にも慣れていき、生活は安定していった。月日の経つのは早いもので、私がその製薬会社に臨時従業員として入ってからあっというまに五年が過ぎ、六年が過ぎていった。これだったら、正社員になっていた方が収入は多くなっていただろうと思われた。ところが、肝油ドロップの生産量が年々縮小してきた。三日に一日は機械を止めるようになった。戦後の食料難と違って、日本人の栄養状態も改善してくると、肝油ドロップの必要性がなくなってきているように思われた。そこで、私はその頃にはもう少しスキルの必要な仕事に転職することを考えていた。ここの仕事だったら、二、三日すればおおよそのことができるようになってしまう。もっとも、機械が故障することも多々あり、ベルトコンベヤーを止めたり、故障個所を修理して生産を復帰させるのも自分たちで行っていた。それらのことが一通りできるようになるには、故障が起きるたびに先輩のやることを見て、修理のしかたを覚えていくので、もう少し時間がかかった。係長でも直せないような故障が起きると、事務所にいる源さんという課長が呼ばれて、二人で話しながら直した。課長も元々はこの現場で働いていた人だった。機械の図面を出してきて二人で考えていることもあった。また、私は他の工程の部門に配置転換になることもあった。ドロップを作る工程と、そのドロップに砂糖をコーティングする工程があり、砂糖をコーティングする工程は多少の熟練を要し、二、三ヵ月かからないと上手くできないようなところであった。が、いずれにしても、どの会社でも通用するようなスキルと言えるものとは思えなかった。
 というわけで、私は外国人向けの観光ガイド業を目指すことにした。観光客がくるのは主に春・秋の気候のいい時期、夏・冬は観光ガイドの仕事はない。あまり実入りのいい仕事ではなさそうだが、仕事のない時期にはたくさんの自由時間が得られる。私は絵を描くことをお金になるかならないかは別として私の生涯の一番大切な仕事と考えていたため、この観光ガイドという仕事は理想的な仕事のように思えた。問題は、私がこのような実入りの少ない仕事をしたとして、私と結婚をしてくれる女性がいるだろうかということだった。かなり探し当てるのはむずかしそうであった、かといって、自分の方向を変える気にはならなかった。もともと意固地な性格で、そのために高校も退学処分になったくらいであったので、わが道を行くことに変わることはなかった。
 池袋にあった外国語専門学校の夜間部に行くことにした。学歴不問であり、レベルに応じたクラスに振り分けるための英語による簡単な問答はあったが、入るのに試験もなかった。だれでも受け入れてくれるところだった。入学資格が高校卒業以上とあったら私は最初からあきらめて行かなかっただろう。
 最初の講義に行ってみると、周りから「おい、見ろよ、先公みたいなやつがきたぞ」という声が聞こえた。私はもう三十歳を超えていた。十代後半か二十代前半の彼らからすると私は完全に場違いなおじさんであった。
 最初に学長から入学者全員が集まった講堂で学校の説明を受けた。学長は東大卒で、自らもかなり難しい国家資格である通訳ガイド試験に受かった人とのことだった。堅苦しい感じの英語で説明した。当時はインターネットという便利なものがまだなかったが、私はこの専門学校の夜間部に入る前の何ヵ月か、歩きながらウォークマンで英語のテープを聞いて、英語の話を理解できるように準備していた。その成果があって、ゆっくりした簡単な英語を理解できるようになっていた。学長の話はわかりにくかったが、大体のことが少しでも分かればよしとした。習うより慣れろだった。
 学生にはけっこういろんな人がいた。資格不問なので、中学生の女の子もいた。大学生のダブルスクール、インドネシア人の若者、家庭の主婦等々いろいろだった。有名私立大学を卒業したという私と同じくらいの年配の男性もいた。何回も通訳ガイドの試験を受けるものの、落ちてばかりいるとのことだった。家が裕福なため、働かずに勉強をする毎日なのに受からない。大卒でたっぷり勉強する時間のある人でも受からないような試験であるらしい。逆に、受かってしまえば、供給が少ない分だけ需要が多いとも言えた。ただ、バスのガイドなどは朝が早いので、けっこう大変みたいだった。就職に有利となるように資格だけ取って実際はガイドとして働かない人も多いらしかった。
 クラスの講師は外国人がほとんどだった。中には串野さんのように日本人の講師もいたが、子どものころからインターナショナルスクールに通っていて英語はペラペラだった。自宅では英字新聞しかとってないらしい。漢字が読めないのかもしれない。
 私はある時、その学校の階段をのぼっていくと、廊下のベンチに黒縁の眼鏡をかけた背の高そうなやせた感じの若い女性が一人ですわっているのに気が付いた。その人のレンズの奥の目が私に出合った。自然と「こんばんわ」という挨拶の言葉が私の口から出ていた。私から先に挨拶をすることなど誰に対しても未だかつてなかっただろうに、私の口が勝手に話していた。それほど私は無口で通していた。
 なんとその女性と私は帰りの電車の方角が同じで、一緒に帰ることもあった。ある時、隣同士で電車のつり革を持っていると、彼女は「私はひのえうまの生まれで、結婚できない運命なのよ」と言い出した。
「そんなの迷信だよ。だれも信じないよ」と私は言った。
「私、最近、彼氏に振られちゃったの。やっぱり結婚できない運命なのよ」
 こんなかわいい子を振ってしまう男もいるもんなのか。相当もてる男に違いないと私は嫉妬した。でも、私にとってはチャンスかもしれなかった。
 そのころ、世間では三高という言葉がはやっていた。だれがはやらしたものかわからないが、新聞やテレビで盛んに言われていた。高学歴、高収入、高身長で三高と言った。私はこのどれにもあてはまらなかった。歌は世につれ、世は歌につれ、というが、つい十数年前には「ついて来いとは言わぬのにだまってあとからついて来た。俺が二十でお前が十九、さげた手鍋のその中にゃ、明日のめしさえなかったなぁ、お前」という歌がはやっていたものだったが、今やバブルの絶頂期に近づきつつあるころでテレビやラジオや新聞が勧める価値観がお金持ちにシフトしてきているように思われた。
 ちょうどその頃は、円・ドル為替レートに変動相場制が導入されて十年ほど経った頃だった。一九八五年のプラザ合意のころで、為替は一ドル二百円から二百五十円の間を行ったり来たりしていた。日本の労働者の賃金はまだ先進諸国に比べて低い状態と私は思っていた。国内に天然資源はないし、日本は貧乏な国だと思っていた。もっとも、それはそのうち一ドルが百円を切るようになり、日本の労働者の賃金も為替相場が変わることによってドル換算では急に倍以上の収入を得ていることになり、名目上は日本人の賃金が欧米に近づくことになったのではある。
 ところが、その頃はまだまだ欧米に比べて日本の労働者の賃金は低かったのだったが、オーストラリアの大学を卒業したというイラン人の若い女性の講師から、「日本人はよく日本は貧乏な国だと言いますが、日本は貧乏な国ではありませんよ。こんなに自動車が多い国は貧乏な国ではありませんよ。お金持ちの国ですよ」と言われて、国の発展段階によって見方がずいぶん変わるものだとその時私は思った。イランでは一九七九年に革命が起き、イランの皇帝が国外に逃亡し、ホメイニを指導者とするイスラム共和国が樹立された。このイラン人講師はアメリカが世界中で悪いことをやっていると非難したが、ホメイニは嫌いだと言っていた。その逃亡した皇帝がアメリカに入国すると、イランの学生がアメリカ大使館の塀を乗り越え、大使館員を人質に取り、元皇帝の引き渡しをアメリカに要求した。そのことによって、アメリカはイランと国交を断絶し、イランに経済制裁を課した。
 私はその頃、英語の青春小説を読んでいて、その中に出てくる「VD」という語の意味がわからず、その女性講師に聞いたところ、その女性講師もわからず、「あとで同僚にきいてみる」と言われた。彼女は本人の言うところによると二十九歳で、小柄だった。西洋人のように鼻が高く、唇が薄かったが、髪の毛や目の色は黒く、肌の色も浅黒かった。
 その後、嘉手納で米軍の軍属だったという背の比較的低い(と言っても私よりは高かったが)ヒスパニック系の感じの男性講師が私のところにやってきて、やや興奮した口調で、「本当に知らなくてきいているのか。女性だからってからかっているんじゃないだろうな」と日本語で言った。結局、意味は教えてもらえなかった。
 その頃、そのクラスの学生の中では、「ソース顔、しょーゆ顔」という人間観察がはやっていた。テレビで明石家さんまという芸人がはやらせたものだったが、日本人の顔を二つのタイプに分類し、どちらのタイプに属するか当てるゲームだった。最初は意味がわからないので、当たらないのだが、聞いてみると、ソース顔は丸顔、彫が深く、目が大きいタイプ、しょーゆ顔は細面で平べったく目が細いタイプであることがわかった。ソース顔は外国人、しょーゆ顔は日本人ということではなくて、日本人の中の二つのタイプということであった。どうもこれは日本列島に先に住んでいた人のタイプの人と、あとから朝鮮半島から稲作とともにやってきた人たちのタイプ、特徴を表していることが想像できた。上野の森にいる西郷さんのようなタイプとさんまさんのようなタイプとも言える。日本人は、一般的に言って、この二つのタイプの混血であり、個々人によってどちらのタイプの特徴が強く表れているかを見ることができるのだった。
「太郎さんはソース顔よ。夏子さんは、そうね、どちらとも言えないわね。中間かな」
 ロサンゼルスに親戚がいて、夏休みに長期間よくそこに泊まりに行くというダブルスクールの女子学生が、私とあのひのえうまの女性に向かって言った。あの黒縁眼鏡の女性はもう眼鏡をかけていなかった。コンタクトレンズに変えていた。最初に会った時は黒縁眼鏡をかけていたためよくわからなかったが、彼女は目の大きな女性だった。だが、彫は浅く、丸顔とも言えなかった。
 夏子さんは休み時間によく廊下でタバコを吸っていた。私はタバコを吸わなかったし、もともと無口で通しているため、自分から無駄口を話かけることはなかったのに、私はなぜか夏子さんの方に引き寄せられて行き、「何を吸っているんですか」と声をかけていた。
「マイルドセブンよ」と夏子さんは言った。マイルドなタバコなのかと私は思った。
「ぼくもタバコを吸おうかな」と私が言うと、夏子さんは、
「やめときなさいよ。からだに悪いのよ」と言いながら、平然とタバコを吸っていた。他人の健康を心配しているのに、自分はしたいことをするという一見矛盾した態度に私はますます興味をそそられた。また、私はだめと言われると興味を引かれ、やりなさいと言われるとやらなくなるというへそ曲がりの性格だったので、私に子どものころのいまわしい思い出がなければ、多分私はタバコを吸うことにしていただろう。実は私は最初からタバコを吸う気はなく、ただ夏子さんの反応が見たくて言ってみただけなのだった。
 ある日、学校からの帰りに、池袋の山手線のホームで、夏子さんは通行人の男に絡まれていた。夏子さんは仲のいい女のクラスメートと一緒だった。私は近くにいたのだが、関わり合いになりたくなかったので、遠巻きにしていた。
 夏子さんの友達が私のところにきて、「夏子さんが男の人にしつこくからまれているのよ。『おれの彼女に手を出すな』って言ってあげてよ」と言った。
 私は他人に言われるとやりたくなくなるタイプの人間で、かつ、今で言う草食系男子のはしりだったので、啖呵を切れないのだった。単に臆病なだけとも言える。どこかに駅員はいないかとキョロキョロしてみたが、見当たらなかった。そのうち夏子さんは「逃げろ」と言って、閉まる寸前の山手線のドアの内に駆け込んだ。夏子さんはけっこう逃げ足が速いなと私は思った。
 日本人の英語講師である串野さんは、見たところ三十過ぎの女性であった。小柄な人で、パーマで縮れた髪がパサパサした印象を受けた。彼女は独身で、北海道が好きで、夏休みは北海道で過ごすという話であった。日本では年齢を聞くのは割と一般的だが、英語圏の人たちはまず年齢を聞かない。私がイラン人の講師の年齢を知っているのは本人が自分から言ったためである。見た目よりは実際は若いということを言いたかったようだった。英語圏の文化は年上も年下も対等に扱う文化であった。先輩後輩によって敬語を使うということもない。丁寧語はあるにしても、日常的には敬語そのものをほとんどきいたことがない。日本では女性に年齢を聞くのは失礼だという常識もあり、私が串野さんに年齢をきくことははばかられた。ところが、独身かどうかは、割と平気できくことができた。独身であることは隠す理由はないようだった。各クラスは七、八名の少人数であったが、よく全体で集まって、ゲームをしたり、劇をしたり、遠足に行ったりした。全体で集まっても、四、五十人だったが、ある時、串野さんは、講堂に集まった四、五十人の学生に「将来子どもは何人ほしいか」と質問したことがあった。
 結婚もしていない串野さんが、まだ独身であろう若者たちになぜそういう質問をしたのだろうか、本人に聞いてみなければ、よくわからない。その当時は今のように少子化問題は発生していなくて、世の中の景気はバブル崩壊の前で、ジュリアナ東京が流行っているころだった。私は他人から「若く見えるからまだ大丈夫だよ」とはげまされる年齢になっていたが、結婚して子どもができることは当たり前のことで、自分もそのうち親となっているに違いないと思っていた。子どもも三人ぐらいほしいと思っていた。
 串野さんは男の人と女の人を分けて質問した。最初は男の人に手を上げてもらった。「五人以上ほしい人。四人ぐらいほしい人。三人くらいほしい人」などと質問し、そのつど手を上げさせた。私は三人に手を上げた。男の人の中では三人に手を上げる人が一番多かった。
 私の隣には夏子さんが座っていた。私が夏子さんのそばに行ってしまうのだった。なぜか気になってしかたがなかった。下手をするとストーカーのようだったが、いまのところ私は彼女に特に避けられてはいないようだった。私は女の人も三人くらいが一番多いだろうと思っていたが、違っていたので、意外だった。なんと、一人が一番多かったのだ。夏子さんもほしい子どもの数は一人に手を上げていた。
 私はまだ結婚もしていなかったし、なんの切実感もなかったが、子どもは三人くらいが適当かなと思っていた。子どもを育てていくときの困難とか苦労とかには考えが及ばなかった。多いほうが楽しいくらいの考えだった。子どもを出産するのは女性であって、育児も女性の担う割合が大きいのが世間では一般的である。女性の方が現実的に考えているに違いないと私は思った。私は、もしかすると、将来、東京の子どもの数が減るのではないかと漠然と思った。
                      (初出2019年「城北文芸」52号)


坂の下の沼地に咲いた花

2022-05-31 14:12:47 | 私小説

 私たちが住んでいたのは二階建て木造長屋の二階だった。部屋の間取りは六畳か四畳半一間と小さな台所だったと思う。母の話では戦争中は兵舎だったらしい。くすんだ色の古い建物で、大雨が降ると、ところどころに雨漏りがして、たらいやバケツを置いてしのいでいた。台風がくると倒れる恐れがあったので、急遽つっかえ棒がいくつか長屋の側面に施された。水道はなく、長屋の敷地の中に共同の井戸があって、手押しポンプを使って、井戸水を汲み上げた。後年、母は手押しポンプを使用中に手を滑らせ、反動で上昇した鉄の柄の部分が前歯に当たり、口が血だらけになってしまった。急いで医者に行ったが、歯が欠け、母のきれいだった歯並びはバンパイアのようになってしまった。
 多分、私がまだ保育園に通うようになる前のこと、父が部屋で新聞を読んでいた。私が父の膝に手をかけ、あぐらの上によじのぼろうとしたところ、父に頭を叩かれた。私は泣きながら廊下の共同炊事場で鍋釜を洗っている母のところへ行った。私は母の「どうしたの」という問いに答えて、私が泣いている原因を訴えた。すると、母は炊事の手を休めて私の頭を撫で、笑っていた。
「ああ、よしよし、どうしたの」
「お父さんにぶたれた?どこを」
「ああ、ここかい。痛かったろう。かわいそうにねえ」
「おお、泣くんじゃないよ。強い子だねえ。強い強い」
 と言って母は私を慰め、打たれた頭をさすってくれたが、私が母の顔を見ると母は笑っていた。
 私は母に父をとっちめてほしいとたのんだが、母はただ笑って、「困ったわねえ」と言ったきりだった。私は不満で、駄々をこねた。私は母の割烹着に顔を埋め、母を揺さぶった。母は腰をかがめて私の肩に両手を伸ばし、小さい私を母のからだから引き離し、
「あとでお父さんに言ってやるから大丈夫よ。こわくないから。外へ行って遊んでらっしゃい」と言ってまた炊事のしたくを始めたのだった。
 これが私が憶えている父との最初の思い出だった。三つ子の魂百までとはこういうことかなと思うくらい今でも忘れることのできない出来事だった。
 私の父との最初の思い出はたたかれたことだったが、私は母には一度もぶたれたことがなかった。つねられたこともなかった。もっとも、母は後にリウマチを患い、つねる力もなくなったのではあったが。近所の同年輩のお母さんは「言うことをきかない時はぶってやりなさい」と母にすすめるのだったが、母はあいまいに言葉をにごしていた。
「言うことをきかなければ、あたしがかわりにぶってやるから、連れてきなさい」とその人は私の目の前で母に言って聞かせ、私を牽制した。私は相当悪そうに見えたらしかった。
 私の父と母は見合い結婚だった。というか、母の話では写真を見ただけで、会うこともなく、結婚を決めたそうである。その当時は今と違って見合い結婚が多かった。それに、戦争があって、戦死した男性が多く、女性の方が余っていた。結婚できない可能性もあったが、今と違って世話焼きも多く、結婚話も舞い込んできた。母の話では田舎の立派な人の紹介だったそうである。立派な人というのは、職業は何をしているかわからないが、立派な身なりをしていて、村の学校に多額のお金を寄附するので、村人に尊敬の念を抱かしめる存在だったとのことだった。どうも、後で知ったことのようだったが、村のうわさでは、軍の闇ブローカーか何か、いかがわしいもうけをしていた詐欺師ということだったそうだ。窮乏物資がその男の家に行くと、ふんだんにあったという話である。その男が、東京にいる彼の甥にあたる人物と母との結婚話を持ち込んだのだった。
 私の母は、自分の背の低さや年齢にコンプレックスを感じていたらしく、自分などだれも貰い手がないと悲観していたので、見合いもせずに結婚を承諾してしまったのだった。 
 仲人口というのはいいことしか言わないのだが、そんなことも知らなかったのか、母はその立派な人の言うことを信用して結婚を決めたそうである。
 私の父は腕のいい旋盤工だった。とはいえ、私は父の旋盤工としての評判を私の同級生以外のだれからもきいたことはないのだ。ただ、旋盤工というのはかなりの熟練が必要と聞いていた。その意味では腕のいい旋盤工と考えても多分それほど大きな間違えとも言えないに違いない。
 私が中学校の時、同級生に中小企業の社長の子がいた。その会社に私の父が勤めていた。いろいろな会社を渡り歩いてきたらしい。その同級生が、ある時、私の父にあわせてやろうと言った。私は即座に断った。なので、私はいまだに私の父に会ったことがない。顔を憶えていない。
 同級生が言うには私の父は仕事の腕はいいらしいが、かなりの変人とのことだった。どのように変人かは聞かなかった。女性と住んでいるらしい。私は父に全然関心がなかった。ただ、ひとつ関心があったのは、私の父の背の高さだった。というのも、私の母は子どものように背が低かったので、自分も背が低くなるのではないかと心配していたからだった。普通の体格と聞き、一安心したのを憶えている。
 私の両親が結婚式をしたのかどうかはわからない。結婚式の写真がないのである。もっとも、そのころの東京は焼け跡の時代であり、ホテルで披露宴をすることもなかったろうが、どこかの家の中で祝言を挙げたのかどうかも定かではない。今となってはもう母に聞くこともできない。
 結婚した二人は、戦前兵舎として使用されていたという古びた木造長屋の一室に居を構えた。都営住宅の空家抽選に当選したのだった。そこは元々は湿地帯の沼地だったところで、近所の空き地は雨が降ると水浸しになり、夜になるとカエルの声が聞こえるのだった。家賃はその頃のお金で一ヶ月百円から百五十円だったという。労働者の平均月収が八千円ほどだったとしても、民間の貸間と比べるとかなり安かったものと思われる。普通に生活していれば民間の貸間に暮らしている人と比べれば楽に暮らせたものと思われる。
 私の父は、ある中小企業の旋盤工として働いていた。
 私は、一度、母に連れられて、父の働いている工場へ行ったことを憶えている。そこは、工場というより、民家の仕事場を大きくしたようなところだった。土間に旋盤の機械を入れたような零細な企業だった。
 垣根のある石段を登って行った。そこが工場だった。母はその家のおじさんに、何度も頭を下げていた。私の母は生まれつき歯並びが良く、隠す必要はないとおもうのだが、なぜか口に手を当てて、話をしていた。どうもこの人が社長さんらしかった。
 母が困ったことには、私の父は外でどういう生活をしているのか、家に寄りつかなかった。家に給料を入れないばかりか、家の物を質に入れ、遊ぶ金につかってしまうありさまだった。
 私の母は子どもができれば夫も家庭に落ち着いてくれるだろうと赤子の誕生を期待していた。
 私がその長屋の一室で産婆さんの助けで生まれてから、しばらくの間は平穏な日々が続いた。母は父の会社の社長にかけあい、父の賃金を直接母に渡すようにしてもらった。父は母からお小遣いをもらうようになったのだった。
 そのうち、父は母から自分の働いた金を盗むようになった。また、当時の労働者の月給と同じくらいかそれ以上の値段だったがっちりした自転車を月賦で買って、すぐさま売り飛ばし、遊びに使ってしまうということも起こった。借金だけが残った。
 私には父の自転車に乗せられて、繁華街を通った記憶がある。私の父の思い出はたたかれたことと、自転車に乗った思い出の二つしか思い出せないのだった。
 やがて、弟が生まれたが、私の父は全く家に帰ってこなくなった。私がそのことを疑問に思って母に尋ねてみると、母は父が亡くなったというのだった。父の乗船していた船が沈没して海に沈み、突然亡くなってしまったというのだった。私は母が嘘をつくとは思わず、父を哀れに思ったものだったが、それにしても、父の写真がひとつも飾られていなかったのだった。これも母にきいてみると、昔は写真なんぞ撮らなかったというのであった。私は母が父の話をしたがらないことがわかったので、以降、父の死についてきくことはしなかった。幼い私の中では、そのことは触れてはいけないタブーになっていた。
 その頃、近所に創価学会に入っている人がたくさんいた。母が友達になるのはたいていそういう人が多かった。今考えると、彼らは創価学会員を増やそうという運動の一環で母に近づいてきていたのではないかと思われる。そのうち母は私を連れて、畳を敷き詰めただだっぴろい道場のようなところに話をききにいくようになった。母は創価学会の会員になってしまった。
 そのうち、その創価学会員の知り合いの女性から、「あんたはまだ三十代で若いんだから、独りじゃもったいないよ」と言われ、同じ創価学会員の男性を紹介された。その再婚相手の男性は池袋の近くで古道具屋を営んでいた子どものいない中年男だった。
 その男は、スクーターに乗って、私たちの前にあらわれた。ベレー帽をかぶっていた。
 後でわかったことだが、この男がベレー帽をかぶっていたのにはわけがあった。彼はスクーターの後ろにリヤカーをつけて商品の仕入れや配送を行なっていた。
 ある時、彼は、そのスクーターに乗っていて、交通事故に遭遇してしまった。どういう事情でその事故に会ったのかは、彼の話を忘れてしまったので再現できないのだが、頭蓋骨から脳みそが飛び出るほどの重体となったそうである。長いこと昏睡状態が続いたのだったが、幸い、奇跡的に一命を取りとめ、その後機能障害も発症せずに完治した。ただし、頭の皮が剥がれ、頭蓋骨が露出するという醜い痕跡が残った。
 彼がなぜ常にベレー帽をかぶっているのか、一時たりとも頭の上からそれを離そうとしないのかはそういう理由があったのだった。
 彼は、この奇跡的な治癒を彼の信仰心の賜物と熱心に私たちに語ったのだった。とりわけ彼の熱心な「南無妙法蓮華経」という念仏祈禱が彼を救ったと信じていた。
 私の母とこの男は内縁の夫婦となった。私は、多分チョコレートをもらったからだと思うが、この男をすぐに好きになった。私の母は子どもがなついているからという理由で結婚を決めたと言っていた。
 この男の家で内縁の結婚披露のようなものが行われた。狭い部屋の中に何人もの人が車座になり、酒を飲んだり、物を食べたり、しゃべったりしていた。母はあの男の隣に黙って座っていた。母はとりすました様子ですわっていた。細いひだのある緑色のスカートが、足をくずしてすわっている母のまわりにふんわりと円を描いていた。
 私は陽気になって、車座になった人から人へと走り回ったり抱きついたりしていた。母が笑いながら注意しても私はやめなかった。母は最後に少々こわい顔をしてみせたが、私はおかまいなしだった。
 私はここで男の人にぶたれてしまった。私をぶった人は、子どものいたずらには厳しく対処するという主義の人で、アパートの管理人だった。この人は、私の父となる人と、自分のアパートを増築した自慢話をしていた。私の二番目の父に、不動産屋を共同で始めようという誘いをしていた。
 私は涙で母の膝をぬらしながら、腹立たしい思いで彼らの自慢話やもうけ話を聞いていた。
 私はこの二番目の父から色々なことを教わった。まず、彼は、私たち兄弟に、子どもの手より大きなU字型の磁石を与えた。それを使ってできるだけたくさんの鉄やニッケルを集めるようにというのだった。古くぎでも砂鉄でも、手箱一杯になるまで集めたら、それをクズ鉄商に売って、その代金を私たちにくれるというのだった。
 この義父はまた、スクーターなどに乗っている時に警察に出合った時はどうするかということを私に教えた。というより、彼は私をすでにそういうことを承知しているものと考えているふしがあり、彼に叱られることで、わかるようになったのだった。
 一つのスクーターに一度に四人が乗って走ることもあった。うしろの荷台に弟を抱いた母がすわり、運転する義父の前に私が立ち、ハンドルの中ほどを持って自分のからだをささえた。母は荷台をまたいですわるということはしなかったので、弟が荷台をまたいですわったうしろに横すわりにすわった。また、ある時は、スクーターのうしろにつけたリヤカーの上に私が乗って走ったりしたが、そいう時に警察に出合った時は、すばやくリヤカーから降りて隠れなければいけなかったが、最初のころは私にはその理由がわからなかった。
 実際にやったことはなかったが、彼は映画館に無料で入る方法も教えてくれた。
 彼は私にタバコの吸い方も教えようとした。この時は、例のアパートの管理人も古道具屋の店内にいて、彼の講習を止めようとした。
「今から吸わせては子どものからだに良くない」と言って、彼は止めようとした。
 七輪を中にアパートの管理人と椅子に座って対面していた私の義父は、
「一度吸わせてみれば、懲りて吸わなくなる」と言った。
「そりゃ、そうかもしらんわ」
 とアパートの管理人は、細長い痩せた土色の顔を大きく縦に振って感心してみせた。
「おれも小さい時分、ご幼少の時によ、おやじに無理に吸わされて、それで懲りたもんな」
 義父は、タバコを一服大きく吸い込んだ。そして、青白い煙を少し鼻から出して止め、口をゆっくり開くと、口を小さく開けたそのままの格好で、顔を三十度ほど上向きに倒し、突き出した唇の間から煙の輪を続けざまにポッポッポと吐き出した。
 煙の輪は、渦を巻きながらも、輪の形を崩さず、上に昇っていくのだった。そして、徐々に輪の形が崩れていくと、偽物の大判小判のぶらさげてあるあたりで雲散霧消してしまった。
 義父は、
「どれ、吸ってみろ」
 と言うと、彼が今まで吸っていたタバコを私に手渡した。私はその手渡されたタバコを吸ってみたが、煙が喉を通らないうちに、目がくらくらして、咳き込んしまった。私はそれ以来タバコを吸う気にならなかった。
 私は、小学二年生の二学期の時に板橋区の小学校から池袋の小学校に転校した。
 私がその転校先の小学校に最初に行ったのは、九月の初め、二学期の始まる初日だった。
 私は、役所の戸籍には入っていない義理の父だったが、彼に連れられてその小学校の門をくぐった。校舎の中央に高い時計台のある小学校だった。決まった時間になるとその時計台からオルゴールが鳴り響いた。
 義父は教室に入ると、担任の若い女教師の勧めに従い、隅の椅子に腰を降ろし、教室の子どもたちと向き合った。義父は短い足をつっぱね、大股を広げ、大きな尻を椅子の前方の角ギリギリのところに置き、ふんぞり返ってビール腹を突き出していた。背広はちゃんとしたものを着ていたのだが、私は彼の格好を恥ずかしく思ったものだった。私たちの前には、いずまいを正した四、五十人の小さな者らが私たちの一挙手一投足を見守っているのだった。私の義父には私はそういう格好をしてもらいたくなかったのだった。
 しばらくすると、椅子の角に座っているのが疲れてきたのか、義父はいずまいを正した。両手を腹の前に当て、顎を引き締めて笑顔をつくっていた。だが、腹は隠しようもなく出っ張っていたから、やはり見た目にいいものではなかった。顔の造作も不細工な感じで、唇が厚く、しまりのない印象だった。色が黒く、頬はシミだらけだった。鼻は削ぎ落されたような格好をしていた。何度も交通事故に遭っていたため、顔は傷だらけだった。白いものの混じった無精ひげが、彼の粗野さ加減をさらに印象づけていた。
 その時、私の他にもう一人転校生がいた。私たちは並んで紹介された。私たち二人はそれぞれ自己紹介をさせられた。最初に自己紹介をしたその転校生はなぜか緊張のあまり泣き出してしまった。私もそれを見て涙が出そうになったが、泣くまいとこらえた。
 そんなことがあって、家に帰ってから私は義父に褒められた。義父が賞賛する行為と母のいいと思う行為は違っていることがままあるのだった。母がむしろ良くないと思うことを義父は褒めることがあった。私が同級生とけんかした時も褒められた。けんかするくらい元気なほうがいいというのだった。もちろん、私には私なりの「正当な」理由があったのだが、義父は理由については考えに入れなかった。子どものけんかに親が口を出すなというのが彼のモットーだった。いずれにしても、勝てば喜んでいた。
 私の母は、学校の成績を大変気にする人だった。私がまだ低学年のころから、成績を気にしていた。母が再婚してからは、古道具屋の仕事は夜が遅く、私は母に勉強を見てもらうことができなかった。それで、私の学校の成績はかなり悪くなった。母はそれを悲しんでいたが、義父は逆にそれを褒めるのだった。義父の考えでは、学業は不必要などころか、返って害になるものだった。
 私が義父の家にきて、一番いやだったことは、水汲みと朝の祈禱だった。義父は毎日一日も欠かさず仏壇の前に座った。私たち家族も全員義父の後ろで正座した。私はこの正座がいやだった。
 食事の時も母は私たち子どもに正座をさせようとした。長屋にいた時は正座をしたことも、仏壇の前で長時間題目を唱えることもなかった。
 義父は私たちが正座をいやがると、食事の時にあぐらをすることは許したが、お経の時はがんこで、あぐらは許さなかった。
「なんみょうほうれんげえきょう。なんみょうほうれんげえきょう」
 義父は、仏壇の前にどっかりと腰を据え、一心不乱にお経を唱えた。同じ言葉の繰り返しだったが、独特のリズムがあった。
 母は義父の隣で手を合わせ、祈りの姿勢をしていた。私は、母の後で、やはり手を合わせ、黙想した。弟も同様だった。
 義父や母の鳴らす数珠の音がジャラジャラと聞こえ、一通りの祈禱が終わると朝食となるのだった。
 冬になって、母に子どもができたらしかった。私はそれを大人同士の話の様子で知ったのだった。私は妹が生まれることを期待した。しかし、妹も弟も生まれることはなかった。
 その内母は義父から暴力をふるわれるようになった。私にはその理由がわからなかった。私は義父の剣幕と母のくずおれる様子を見ていた。ただただ恐ろしかった。この頃の暴力で母の左耳の鼓膜にひびが入り、以降聞こえが悪くなった。
 そんなことが度重なったある日、母は義父に別れ話をもちかけた。
 それを聞いた私の義父は、最初の内は別れないでくれとか、反省すると言っていた。が、いよいよどうにもならないと見て取ると、
「おまえの始末をだれがみてやったというんだ。相当金が掛かったんだ。おまえの持ってきた家財道具などいくらの値打ちにもなりゃしなかったんだ。出ていくんなら出ていけ。おれはな、おまえがいなくたって生活していけるんだぞ。おどかしたってだめだ。今までだって、そうしてやってきたんだ。このまえの女とおんなじような口をききやがって。おれはおまえが欲しくて一緒になったんじゃない。子どもが可愛いから一緒になったんだ。どうしても出ていくんなら、子どもを置いていけ」
 と激昂した口調で言ったが、私のほうを振り向くと、やさしい口調で、
「裕一郎、おまえ、おかあちゃんと一緒に行くか。おとうちゃんと一緒にいたほうがいいだろう。今度また映画に連れて行ってやるからな。どうだ裕一郎、おかあちゃんと一緒に行くか。行くんなら行ってもいいんだぞ」
 私は義父を嫌いではなかったし、突き放した言い方が私のようなあまのじゃくな性格のものには逆の効果を生むらしく、私は義父と一緒にいると言ったのだった。
「さあ、裕一郎はおれと一緒にいると言ったぞ。出ていくんなら早く出ていけ」
 と義父は母に言った。母は本当に家を出て行ってしまった。
 義父はあわてて私をスクータの荷台にのせ、母を追いかけた。
「おかあちゃんはどこへ行っちまったんだろうなあ」と義父が言いながらスクータを走らせると、母が、着物のすそを左手で押さえ、右手で襟首を合わせて、うつむき加減に歩道を小走りに走っている姿が見えた。
 義父が母に追いつこうとスクータのスピードをあげた。母は足を速めた。うつむき加減の母が、一層うつむき加減になった。
 スクータは母に追いつくと、並んで走った。
「はははは、おかあちゃんが走ってる。いくら走ったって、こっちのほうが速いよな、裕一郎」と義父は元気な声で私に言った。
 スクータの後ろの荷台に乗っていた私は「うん」と生返事を返したのだった。 
 そんなことがあってから、母は逃亡の機会をうかがっていた。ほどなくして、私たちは母に連れられて、義父の家を出ることになった。
 私は母と一緒に行きたくなかった。義父とはいえ、子ども心に別れてほしくなかったのだった。母は、説得が無理だとわかると、「それじゃ、映画に行こう」と私をだまし、電車に乗って、大宮にあった親戚の家に行った。義父は私たちを大宮に迎えにきたが、結局、別れることになった。
 このようにして、母は義父と半年も暮らさずに別れることになったが、母は都営住宅を出てしまっていたために、住むところがなくなってしまった。親戚の家も大家族であったし、長く居候をするわけにもいかなかった。
 今まで住んでいた都営住宅にもう一度戻れないかと母は希望した。母は「あなたが不幸になるのは信心が足りないせいだ」と言われるのがいやになったのか、創価学会をやめようとしていた。ご本尊を返還することになった。母は創価学会の人に相談しても力になってもらえなかったためか、住宅の改善でよく先頭に立って東京都に要請に行っていた伊藤さんに相談した。伊藤さんはその界隈では共産党員と思われていた。母はもともと共産党が嫌いで、「口角泡を飛ばして話す人たち」という印象を持っていたのだった。でも、こうなったら、好きも嫌いも言ってられなかった。
 伊藤さんの部屋は長屋の一階の中ほどにあった。伊藤さんのところだけ庭に向かって一部屋建て増しされていた。小学生の娘がいて、そこでよくオルガンを弾いていた。母は伊藤さんから神野さやさんという共産党の区議会議員を訪ねて行くようにと紹介された。
 神野さやさんは、千九百五十年の朝鮮戦争の前夜まで板橋区清水町の米軍基地施設の中に開設されていた東京自由病院の看護婦で、その病院には「人民による人民のための人民の病院」という看板がかかげられていたそうである。東京自由病院は朝鮮戦争の始まる前日、カービン銃を持った米兵に包囲され、医師や看護婦は退去させられた。彼らが米兵にカービン銃を突きつけられて退去する際には、くやしい思いをしながら、インターナショナルを歌って退去したそうである。その後、その医師や看護婦たちは近くに別々の診療所を開設し、発展を遂げていった。二つに分かれた一方のグループは小豆沢の地に診療所を開設した。当時は医師と看護婦数人だけのようなスタートだった。その草分けの看護婦の神野さやさんが共産党の区議会議員になっていた。
 神野さやさんは住民の要望をただ請負うということはしないようにしていた。母は神野さやさんと一緒に何度も都庁に足を運んだ。そのかいあって、たまたま空き部屋になっていた別の棟の一室に入居が許されることになったのだった。
                     (2017年「城北文芸」50号)


風穴の里

2022-05-13 11:25:48 | 私小説

 私の母は大正十二年の生まれであった。七人兄弟姉妹の次女として生まれている。日本が敗戦したときには母は二十二歳ということになる。東京にまで空襲がされるようになる寸前に長野の山奥の実家に疎開していたようである。私は私が中学校三年生の時まで、毎年、学校が夏休みになると、弟と一緒に実家のある長野県に母に連れられて泊まりに行っていた。
 母はそのころ学校の給食調理員をしていたようである。たまに、給食の残り物らしいパンの耳にバターをつけて食べた憶えがある。母の兄弟は多かったので一週間ぐらいずつ実家や兄弟の家を泊まり歩いて夏休みを過ごした。
 まず、最初に行くのが母の実家である。そこには祖父と後妻の祖母、私の叔父にあたる長男夫婦が住んでいた。その昔は新宿から蒸気機関車の旅であった。新宿から中央本線経由で松本まで約六時間の旅であった。夏のことゆえ、母はノースリーブで胸元の開いた服を着ていて、子どもながら多少嫌な思いがしたことを覚えている。窓を開けて風に吹かれていると汚水が顔にかかってきたり、トンネルに入ると窓を閉めて煙が入るのを防がなければならなかった。塩尻のあたりでスイッチバックがあったような気がする。汽車がゆっくりと後ろにバックして、また走り出すのであった。
 松本駅に着くと、男の駅員の声で「まーつもと、まーつもと」という構内アナウンスが聞こえてくるのだった。当時は国鉄で、駅員は男ばかりであった。
 松本駅で松本電鉄の単線電車に乗り換え、終点の島々まで行き、上高地方面行きの登山バスに乗り換えるのだった。島々駅ではプラットホームの端で地面に降りてレールを横切り駅舎に着いたような気がする。駅前に降り立ってみると、そこは山々に囲まれ、三角屋根の駅舎のそばには自分たちの身体よりも重そうな大きなリュックを背負った山男たちが集っていた。厚い登山靴と長い靴下を履いていた。
 古い満員のボンネットバスに乗り込み、二十分ほどすると私の祖父の待つ安曇村稲核(いねこき)に到着するのだが、そこまでの道は大変な道であった。一九九一年に大規模な崖崩れがあり猿なぎ洞門が崩落した後三本松トンネルが建設されて現在はすっかり変わっているが、当時はバス一台がようやく通れる道で、片側は山壁、片側は断崖絶壁であった。谷底までは百メートルはありそうな気がした。怖いので窓から下を一瞥するだけで長くは見ていられない。谷底には梓川が流れていた。ガードレールもついていない未舗装のでこぼこ道をいくつもの急カーブを曲がりながら登って行った。カーブで対向車が見えないところでは警笛を鳴らす。対向車と鉢合わせすると、どちらかの自動車がバックをして岩を削って広くした待避所まで戻り、すれ違うのだった。
 私は調子に乗って「田舎のバスはオンボロ車、デコボコ道をガタゴト走る」と中村メイコがラジオで歌っていた歌を大きな声で歌い、母に小声で「これ、やめなさい。周りの人が気を悪くするじゃないの」と叱られた。いつだか、新しい稲核橋が開通してからだと思うが、「ほら、下に小さな橋が見えるでしょう。あれはおじいさんがつくった橋なのよ。今ではつかわれていないのよ」と登山バスが大きな橋を通ったときに母が指差したことがある。私の祖父は大工の棟梁をしていたという話であった。祖父が一人で橋をつくれるはずもないし、橋をつくるに当たってどのくらい重要な役割をしたのかもわからないが、今は使われていないとはいえ、自分の祖父のつくった橋が残っていることに私は若干誇らしさを感じたことがある。
 稲核のバス停に着くと、降りたのが私たちだけだった。バス停に祖父母が待っていて手を振っていた。一日に何本も通らないバスだったので時刻表を見て迎えに出たものらしい。ここいらのバスは停留所でなくても手を挙げると止まって乗せてくれる。
 祖父は頭が禿げていて、さびしいのかよく自分の頭に手を当てて撫でていた。祖父の家はバス停のすぐそばにあった。間口が狭く、奥に長かった。隣はガソリンスタンドだった。あとで聞いた話では元々そこも祖父の土地で、庭だったそうである。
 玄関を入ると土間になっていた。二階には蚕が飼われていて蚕が桑の葉を食べるパリパリという音がしていた。途中から板で仕切られ、行き止まりになっていて、そこから先は祖父の息子夫婦が住んでいた。屋根には瓦がなく、大きな猫ぐらいの丸い石がいくつも載っていた。母に聞くと、母の生まれる前に稲核には集落中の大半の家を焼失させる大火が二度あって、それ以後ちゃんとした屋根のある家をつくらなくなったそうである。梓川と裏山との間に二百メーターほどの狭い平地が国道に沿って六百メーターほど続いていた。そこに人々がびっしりと家を建てていた。
 家の前の国道は野麦街道と呼ばれる街道でもあり、野麦峠を越えて飛騨高山に通じていた。その昔、飛騨の貧しい農家の娘たちが紡績女工となって諏訪の製糸工場で住み込みで働き、工場の冬期休業前の年末に故郷に帰るときに通るのがこの街道であった。昔はバス道路も開通してなく、徒歩であるくしかなかったので娘たちは寒さと疲労で大変だったに違いない。年末の払いの足しにする給金を親に渡すためにここを必ず通らなければならなかったはずである。いったん帰れば、諏訪の工場は二月二十日ごろまで休みだったらしいので、しばらくは実家で過ごしたみたいである。
 あとになって何かの本で読んだ記憶があるが、具体的なことは書かれていなかったが、相当腹に据えかねることがあったのだろう、稲核はその娘たちの恨みを買ったらしく、彼女らが稲核を通過する時は「稲核は三度焼けろ」と言って通ったそうである。
 私の母は十七歳で東京に出てきた。何かの時に母から聞いた憶えがある。東京では最初に大きなお屋敷の住み込みのお手伝いさんをしていたこともあるようで、田舎言葉を笑われたそうである。母が下町には似合わないやけに丁寧な言葉づかいなのもその時に直されたからかもしれない。
 母はもう亡くなってしまったので今となってはいつのことかわからないが、夜間の教員養成所にも通ったようである。小学校の教員になりたかったそうだが、試験に受からず、小学校の教員にはなれなかった。それでも幼稚園の教員の資格は得たようであった。私の家には、母が自分でつくったものかも知れないが、実際の折り紙がいくつも張り付いた分厚い折り紙の教本があった。また、板橋区の私立幼稚園で若々しい私の母が二、三十人の園児と並んで写っている記念写真があった。肩下まで伸びた黒髪が先のほうで細かく波打っていた。こんな髪の長い母は見たことがなかった。その他、母は看護婦試験を受けて受かり、看護婦にもなっていた。どちらが先だったか、今となってはわからない。県レベルごとに試験があり、受かりやすそうな県を択んで受験したそうである。十七歳で一人で東京に行くのはかなり勇気がいっただろうと私は思った。東京には戦死した母の兄がいたので心強かったものと思われる。「叩けよさらば開かれん」と母はよく言っていた。
 祖父が「わんだー」と言っていたのを憶えている。「おまえたち」という意味らしい。「こわかねーか」というのは「疲れてないか」という意味であったり、「ズクがないもんでのー」というのは「エネルギーが沸かなくなったもので」とか「根性なしなもので」というような意味であった。母は実家に帰ると自然にその土地の言葉を話していた。稲核には周りの地域ではつかわれない稲核でしかつかわれない言葉もあったようである。母は稲核言葉と言っていた。
 小学校の分校の近くのお寺の本堂には稲核出身で戦死した多くの若者の写真が飾られていた。その中に私の母の兄の姿もあった。彼は東京に出て、昼間働きながら物理学校の夜間部に進み、旧制中学校の教員になった期待の星であった。小学校の先生が私の叔父を上の学校に進ませるよう、わざわざ祖父のところに勧めにきたそうである。彼は昼間部の学生と互角の成績であったというから、相当努力をしたに違いない。徴兵され、南太平洋の海に沈んだきり、戻ってこなかったそうである。船で沈んだといえば、私の父も私が三歳ごろ、船に乗っていて遭難し、亡くなったことになっていた。離婚したということを知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
 親戚の人が集まると、必ずお互いを褒めあっていた。褒められた相手は必ずそんなことはありませんと謙遜していた。これはひとつの表向きの規則のようだった。本人のいないところではまた違う打ち明け話をしていた。
 母は一時期、村の分校で代用教員をしていたらしい。教員養成学所に行っていたんだからできるだろうということのようだった。村に帰ると教え子から「先生」と言われて遭遇することがあるので気恥ずかしくて嫌だと言っていた。ボロを着ていられないというのであった。
 伝説のその兄に私がそっくりだと親戚の人によく言われた。「生まれ変わりに違いない」と言う人もいた。家にあった名刺判の大きさのセピア色の白黒写真には学生帽を被った眉毛の吊り上った一重まぶたのテル叔父の姿が写っていた。私がテル叔父に似ているということを聞いて、祖父はうれしそうにしていた。
 しかし、ある時、どんな悪いことをしたか今はすっかり忘れてしまったが、私は祖父に怒られて、離れにある土蔵の中に入れられ、鍵を掛けられてしまった。私は土蔵の中で長いことわんわん泣いていた。そのうち目が暗闇に慣れてくると、私は土蔵の中に興味が湧き、薄暗い階段を登って二階に行き、行李を開けて見た。塵にまみれた分厚い書物といくつかの古いノートブックを見つけた。あとで聞いたところでは、それは私の伝説の叔父の形見の品で、分厚い書物は聖書だったらしかった。私の叔父はクリスチャンだったそうで、「兄はへぃ、クリスチャンだでな、人殺しができないでな、軍隊に入ってえろう苦労したんでねぇかのう」という人もいた。
 泣き声がしなくなったのを心配して、祖父は土蔵を開けに来た。祖父は禿げた頭に手をやりながら、「われはテルでねぇ、テルでねぇ」と呪文のように唱えていた。
 私は今、テル叔父がどのような気持ちで軍隊に行っていたのだろうかと考えてみる。叔父は伍長という下士官であったそうである。敬虔なるクリスチャンであったらしい。「テル兄はのう、学があるだで将校になれるとこさ自分で伍長にしたっさだ」と親戚のだれかが言った。もう一つの伝説である。伍長という階級は海軍にはなかったようなので、陸軍の乙種幹部候補に振り分けられたものと思われる。甲種、乙種は適正によって振り分けられるようなので、自分から択ぶものでもないようである。幹部候補に志願したものの中から試験の結果で将校や下士官になるらしい。伍長という階級は海軍にはないようなので、彼は陸軍に召集され、輸送船で南方に渡る途中で消息を断ったのではないかと思われる。未だに遺骨も帰ってこないそうである。戦死したことにはなっていたが、母は「まだどこかで生きているのではないか」と言っていた。
 私は、子どものころはよく知らなかったが、大人になると、キリスト教は人を殺してはいけないと説き、悪人が右の頬を叩けば左の頬を差し出せとすら教えていることを知った。けれども、どうして世の中から戦争がなくならないのか、多くの罪も無い子どもたちが殺されてしまうのか、ベトナム戦争の無差別爆撃の報道を見るにつけ、長い間疑問に思っていた。アメリカの議員も大統領も多くはキリスト教徒ではないか。
 だが、最近、「聖書の名言集」という本を読んでいて、ようやくその疑問が解けた。つまりその本によれば、頬を叩かれる程度の軽いものではなく、戦争という重大な事態の時には、国の指導者が神は我らの側にあると言えば人殺しも許されると大方は解釈されているということのようである。日本の神は天皇だったから、明らかにキリスト教が言う唯一の神ではない。確かに、これではテル叔父は人殺しを正当化できなかったはずである。共産主義者のように兵役を拒否して牢獄に入っていれば、日本の敗戦後彼は生きて出てこられたかもしれない。しかし、それをするには大変な勇気がいったに違いないと私は思う。非国民の汚名を着せられ、家族にも大変な迷惑がかかったに違いない。そして、戦後、私の祖父が遺族の代表として九段会館に宿泊し、靖国神社にお参りすることもなかっただろう。
 私たちが祖父の家に行くと、必ず川村屋にあいさつに行く。この集落で一番の金持ちとのことだった。「大草原の小さな家」のドラマに出てくるネリーの家のようなもので、村で唯一の商店なのであった。母はそこと親戚同様のつきあいをしていた。子どもたちを連れて行くと中でも川村屋のおばさんが大歓迎をしてくれた。若くして亡くなった母の実母を養女として育てたのが川村屋だったそうである。つまり、その養女は私の実の祖母に当たるのだが、聞いてみるとこの人の運命はかなり悲しいものだった。
 私の実の祖母に当たる人は両親が亡くなるまでは何不自由のないお嬢様として育ったそうである。営林署の署長の一人娘であったという。調べてみると、営林署というのは後の名称で、明治・大正時代は林区署と称していたようである。その頃の公務員は大概武士の子孫だったそうである。それが、急に孤児になり、村一番の金持ちの川村屋に養女として引き取られた。養女が成長すると、川村屋は私の祖父に結婚話を持ち込んだ。祖父には実は好きな女性が別にいたのだが、川村屋の養女と結婚した。この好きだった女性が今は後妻となっている人だいうのである。この後妻にきた人は奥地の忌み嫌われているらしい地域の出身のようだった。こういうことはほとんどだれからも聞いてないが、おしゃべりな叔母がしゃべることがあった。真偽のほどはわからないが、家の中がふたつに分かれ、行き来がないのも、そのことと関係がありそうだった。
 この元お嬢様には親から相続した土地や畑があちらこちらにあり、祖父はそこに桑の木やいろいろな作物を植えたようである。かなり遠くにある土地で、そこまで歩いて行き、カゴいっぱいの桑の葉を担いで運ぶのが女たちの日課だったようである。長兄は大工の跡取りとして祖父から期待され、厳しく指導されていたようである。だが、長兄の方は大工に向いていないのかあまり熱心に仕事をしなかったので、ますます祖父から叱られた。そのうち長兄は大工をやめて、折から国策としてすすめられていた満州開拓に妻とともに行くことにした。長兄は結局のところ、極寒のシベリアに何年も抑留され、命からがらようやくの思いで日本に帰ってきた。一緒に行った妻も満州で生まれた赤ん坊も、ともに生きては戻れなかった。長兄は後妻を娶り、二人の子に恵まれた。長兄は村役場の仕事をしていて、大工の跡は継がなかった。
 私の母は「田舎の仕事に比べたら東京の仕事は楽だった」という。長い山道を重い桑の葉を担いで運ぶことに比べたら、肉体的にはずいぶん楽だったに違いない。特に私の母は同級生の中でも一番の小柄で身体が弱かったので、長姉より少ない量しか運べなかったそうである。母の年代の人たちは後の年代の人たちに比べて、総じて十センチ以上小柄のように感じた。家族が多いため、栄養が回らなかったのではないかと思われた。母の話では、母がある時、かさばって重い桑の葉を運んでいると、祖父が隠れてなにかをしているところに出会ったそうである。よく見ると祖父は一人ですべてのあんころもちを食べているところだったとの話。私も子どものころ一人でこしあん串団子をたくさん買い、店の前でその場で全部食べてしまったことがある。祖父に似ているような気がした。
 そんな祖父であるが、村の保育園に小さなジャングルジムを寄贈したりしていた。そのジャングルジムに祖父の名前が書かれてあった。祖父は大工はもうやめているようだったが、菜種だったか菜種油だったかあやふやだが、販売をしていた。小さな看板が出ていたが、お客が来る様子もなかった。
 国道を隔てた斜め向かいにあった旅館に風呂を貸してもらった。五右衛門風呂で木の底板がぷかぷかと浮いていた。
 標高が高く水の流れが速いせいか、稲核には八月だというのに蚊がいなかった。ところが、ハエよりかなり大きな虻に刺され血を吸われた。
 昔、柿などのフルーツの木がいくつもあった隣の庭は川村屋の求めに応じて祖父が譲り、ガソリンスタンドになったそうである。川村屋のおばさんは私たちが稲核から立ち去るころになると、必ずやってきて、私にお金の入った紙袋を渡すのだった。母が遠慮してその紙袋を必ずのように川村屋のおばさんに返した。おばさんはそれでももう一度渡そうとする。これが二、三度繰り返され、最後はおばさんが紙袋を強引に私のポケットに入れてしまうのだった。それもいつも五百円という大金であった。
 後妻の祖母は夏で暑かったせいで、祖父と同じように上半身はは白い肌着だけでいることが多かった。下はもんぺのようなものを穿いていた。私が飼い猫をかまってると、「へぇ、猫をかまうでねぇ。えろうかまうとひっかくだでな」と叱られたのを憶えている。
 東京電力のダムで堰きとめられる以前の梓川で泳いだこともあった。大きな丸い石がゴロゴロしている河原に下りて、狭くて浅い川を泳いで下った。深くて渦を巻いている危険な場所もあった。水が冷たいので、少し泳ぐと、じきに唇が紫色になった。戦死した叔父さんたちもここで泳いだのだろうかと思った。
 川以外には特に他に遊ぶところもなく、ロープでできた吊り橋を渡るのがスリルのある遊びであった。吊り橋は揺れるので怖い。床板の隙間から遥かな谷底が見えた。
 長兄の部屋の方に回ってみても、なかなか人の気配が感じられない。ステレオとかピアノがあるみたいなのだが、人がいるのかいないのか反応がない。「だれかいないのかー」とよんでみるのだが、なかなか反応がない。そのうち、二階の窓から長兄の嫁さんに良く似た女の子が顔を出した。目が合うとすぐ引っ込んでしまった。見ると、長兄の長男が建物の陰に隠れていた。彼はちょうど私と同じくらいの年のころであった。私の叔母に当たる母のすぐ下の妹だけが少し違って社交的だったが、私の母の一族はどうも、大人しい性格の人たちばかりであるようだった。私も学校では完全に無口で通っていた。ただ、家の中では内弁慶であり、たまには面白いことを言って母を笑わせていた。また、自分の大切にしていたプラモデルを弟が足で踏みつけ、壊してしまったのに謝らないことを根にもち、母のいない時に弟をいじめて母を心配させていた。
 母のすぐ下の妹は若いころから人見知りしない性格で、よく国道を通るトラックに一人で乗せてもらっていたようであった。田舎の人はいい人ばかりなので何の問題も起こらないのだが、色々な事件が起きている昨今から考えるとかなり危ない行為のように思われる。が、叔母は平気でやっていたらしい。私たちも道を歩いていると、自動車が停まり、みず知らずの人に「どこに行くのかえ。同じ方向だで、乗っていきましょ」と声をかけられることもあった。
 梓川に下りる崖の下の湧き水もおいしかった。稲核の家は裏山からの湧き水を引いているようで、蛇口をひねると冷たくておいしい水が出てきた。その頃の東京の水道水はカルキ臭くて不快な味が舌に残る水だった。祖父が東京に来ると必ず水道の味の不満を言っていた。塩素で消毒しているので仕方がないものと思っていたが、今では東京の水もずいぶんうまくなっている。何でも本気を出して改善すればできるものかと今となっては思うものである。
 何軒かの庭を通って裏山の麓に行くと、道の傍らに水飲み場があった。ひしゃくが置いてあって水が飲めた。常に山から水が流れ、石で囲まれた場所に水が溜まっていた。そういう場所がいくつかつながって水が流れていた。こういうところにスイカを浸して冷やすこともできた。
 裏山の中腹には風穴と呼ばれる天然の冷蔵庫がいくつもあった。各家庭ごとにそれぞれ風穴を持っているらしい。私の母は「かざな」と言っていた。戸を開けて、中に入ってみると、夏だというのに、そこの気温は九度しかなかった。冷たい地下水で冷やされた空気が出てくる場所だった。
   (2015年「城北文芸」48号)