おれは何に対して怒っているのかはっきりわからなかった。つらい生活に対してだろうか。つらいと思うから余計つらく感じるのだろうか。それとも、自分の希望がかなえられないことに対するいらだちだろうか。 神田の三省堂書店の中は若い人たちでいっぱいだった。近ごろの若い人はテレビの発達で本を読まなくなったというが、ここにいるとそんなことが嘘のようだった。
文庫本のコーナーでSの小説を捜したが、なかなかみつからなかった。 ちょうどおれの隣で、若い女子大生風の二人連れが、すんなりとした美しい指を本の背表紙にからませながら、やはり何かの本を捜していた。若い娘というだけで華やかさを感じさせ、おれは見るともなく彼女らに注意を向けていた。
「先輩がね、この本とっても面白くてためになるから読んでみなさいって勧めるから読んでみたのよ。ほんとに、とても面白かったわ。そうしたら、友だちも大勢読んでいて、みんなすごくよかったって言ってるのよ」
「あっ、これ知ってるわ。わたし、この人の本五冊持ってるわ」
「この人の本は十冊以上も出ているのに、何でここには一冊しか置いてないんだろう。信じられないわ。わたしたちのこと無視されてるのかしら。もっと置いてあってもいいわよね」
女子大生らしい二人連れは去って行った。
今の若い娘はどういう本に関心を持つのだろうという興味で、おれは彼女らが取り出してみた文庫本の戻った位置を横目で見ていた。ピンクの帯の本で目立ったので、容易におれは見当をつけることができた。おれの捜している本もなかなかなくていらいらしたが、こっちのほうは余り知名度のある本ではないのでなくても仕方がないと思った。
彼女らが立ち去った後、おれはそのピンクの帯のついた本をクリーム色の棚から取り出してページをめくってみた。題名は「結婚ゴー」となっていた。題名からしてうきうきするような題名であった。おれは、この本の何が彼女らに受けるのだろうかと思った。まず、最初の出だしが、ともすれば批判的に評される現代の若い女性の生き方の傾向を肯定するところから始まっていた。三高指向という、学歴、身長、収入の高さを結婚相手の男性に求めることを当然だとする。強さ、安定を求めるのは厳しい社会であれば当然で、賢明な選択だと言う。わかるわかる寄らば大樹の陰だ。男性だってこういう女性の選択を非難できる筋合いはない。男性だって、女性を器量の善し悪しで選んでいるのだ。
器量のいい女性や魅力のある女性は結婚をするのが早い。それも決まって次男や三男である。いい条件の男性と結婚してしまう。そういう人が結婚するたびにああうらやましいとわたしは思っていた…。
ところがところが、いい女が条件のいい男姓と結婚したおかげで、わたしのような十人並みの女でも、見てくれは別として、思いやりのあるすばらしい男性と巡り会うことができたのだ。本来ならわたしのような女にはとても得られないような男性が残っていたのだ。だから、うらやましがるどころか、いい女に感謝しなければならないくらいだ。
そして、何年か経ってみると、長男であるわたしの夫の両親はポックリと亡くなり、家だけが残った。次男の理想的男性と結婚したわたしの美しい友人は長男夫婦が海外に赴任し、夫の両親の面倒を見なければならないはめになり、こんなはずじゃなかったとこぼしているなどと書かれてあった。
なんだ、要するに条件の悪い男性と結婚しなければならない女性に勇気と希望を与える本なのだ。若い人の傾向を単に批判するのではなくて、だれしも考える傾向として味方になって考えている。そして、現実の自分の体験を示し、現実は思い通りにならない意外性に思い至らせる。損なクジを引いたかに見えた普通の人が逆転の大ホームランをかっとばすのだ。
なんだ、よく考えてみると、いいことあるから早く結婚せいと言ってるだけなのだ。
三省堂を出て、商店街を歩いて行った。パチンコ屋の前を通った。正面のガラスが全面マジックミラーになっていた。パチンコ屋を通り越したおれは、抗しがたい内なる力に引かされてポルノ書店に入って行った。悪いことをしているような暗い気分になって中が見えないように目隠しされた自動ドアから出てきたおれは、運悪く、知り合いの三沢ひろみとドアの前でばったり会ってしまった。
「あら、須藤さんじゃないの。こんなところで何してるの?」
と彼女は言うと、じろっと店の方を見た。聞くも恥ずかしそうな宣伝文句が書店のドアに張りついていた。
「あ、面白そう。ちょっと待ってて、見てくるから」
と言うと彼女は目隠しのドアから中に入って行った。
つくねんと立ってもいられず、歩き始めると、彼女は逃さないように片方の目で表を見ていたらしく「待っててって言ったでしょう」と叫びながらすぐに出てきた。頬を引きつらせ、右目を軽くけいれんさせていた。
「ああ、いやらしかった。女性を馬鹿にしているわ。男の人ってどうしてああいういやらしいものが好きなのかしら。須藤さんもやっぱり男の人だったのね」
彼女の無理して笑った頬が神経質に引きつっていた。
「何事も勉強だからちょっとのぞいて見ただけで…」
おれは目を伏せて頭をかいた。
「馬鹿、こんな勉強があるか。ちょうどよかった。話があるからちょっと来なさい。時間あるんでしょう」
生まれてくる性を間違えてしまったような二人だった。
こんなわけでずいぶん年下のくせに姉のような口をきく三沢ひろみから道徳教育を受けるはめになってしまった。
彼女は平らな靴を履いているくせにおれよりも上に目があった。まだ十九だというのにおれよりも老けて見えた。
三省堂書店の中に入ると若い人の洪水だった。これを見ている限り、世に言う活字離れ世代とは思えなかった。
最上階にあるカフェテリアで彼女は紙袋から本を一冊取り出しておれの目の前に置いた。それはFの『若人のモラル』という本だった。
「今度この本の読書会をやろうということになったのよ。須藤さんもこれ買ってちょうだい」
と彼女は言った。色白の細長い指をした両手を引っこめて、エヘヘと笑った。顔面神経痛のように片方の目をパチクリさせるところを見ていると、心に何か引っかかるものがあって、それが時々ショートして火花を散らしているようにも思えた。
「『若人とモラル』か。おれ、この本一度どこかで読んだよ」
「あたしもそうよ。でも、もう一度ちゃんと学習して討論するのよ。あたしなんか、この続編も買ったのよ」
なんだよ、学習ってだれかさんの収入を増やすだけじゃないのかよと独りごちながら、おれはその本を手に取って見た。
「今時キリスト教みたいなこと言ったって白けるだけじゃないか。婚前交歩は是か非かなんてこれに書いてあるぜ」
おれは、高校生の時、週に一度教会に英会話を習いに行っていた。その時、そこの牧師に聞かれるまま、おれの親父は悪い男で、飲んだくれで借金をしてギャンブルや女遊びをして家庭を苦しめた男だと話した。幼いころ大人が話していたのを立ち聞きしたもので本当のことはよくわからないと言ったつもりだったが、その牧師は─その悪い親の血があなたのからだの中にも流れています。気をつけないとあなたもきっとお父さんのようになってしまいますよ。必ずなりますよ。あなたはお父さんの汚れた血を持っているのです─と言うのだった。
おれは自分のことを親父とは違うと思っていた。おれは親父とは違う一個の独立した人間であって、親父の顔すら憶えていないくらいだから親父の性格がおれに影響することはありえないと思っていた。それなのにこの牧師は嫌なことを言っておれを脅かしているようにも思えた。親父が悪いということとおれとは全く関係ないのになぜこの男はおれも悪くなると予言しておれを苦しめようとするのか、腹が立った。
おれはその教会で聖書の話を聞き、なぜだかわからなかったが、バスに乗って家路に帰るころには心を洗われたような清らかなすがすがしい気分になっていた。
暗い気分でポルノ映画館を出てきた時など、親父の血がおれのからだの中を流れていることを感じた。親父と同じ血がおれの中を流れている。あれほど嫌いだった親父の血がやっぱりおれのからだの内を流れていたのだ。
反吐を吐きそうなぐったりした気分で、明るいお天道様にまともに顔向けできずに頬を引きつらせておれは大抵ポルノ館をあとにした。
「そうね、わたしも読んだけど、ちょっとこういうふうにはできないって感じね。でも、わたしは高校生の時に信頼していた人に裏切られたのよ。外見は老けて見えるけど中身は全然ねんねだったの。びっくりして、それ以来男の人と素直になれなくなったの。だから、やっぱりモラルって大事じゃないかって思うの。純真な女の子の心に傷を残すんですもの」
と彼女は言って冗談っぽく頬笑んだ。片方のまぶたが顔面神経痛のように瞬いていた。
おれは入った時から会社が嫌でたまらなかった。三年間はやろうと思っていた。おれは金をためて大学に入るのが夢だった。特段はっきりとした職業を目指していたわけではなかったが、大学へ行って知識を得たいという気持ちが強かった。しかし、それには最低三年間は働かなければならないように思った。実際に生活してみると、思ったより残らず、いつもぎりぎりの生活であった。
印刷の仕事は校正刷りが多く、何回もやり直しさせられたので残業の連続であった。残業代が入るからいいように思えるが、残業代を見込んで元を安く押えてあるのだから、結局のところ長時間労働をさせられているにすぎないとおれは思っていた。残業も午後十時を過ぎると、頭の中が白っとしてきて発狂しそうな感じになった。頭の中でおれの分身が暴れまくっていた。女性も残業させられていた。タイム・カードは女性の場合二枚あって、二重帳簿になっていた。
おれは、一日が終わってアパートの一室に戻ると、ヌード写真の上の壁に張った自分で作った暦を眺めた。暦は延々とおれが会社をやめる日まで続いていた。おれはその暦のその日のアラビア数字に黒々とマジックでバッテンをつけた。このバッテンがつくのがひどく遅く感じられた。
なんで毎日こんな長時間労働をしなければならないのだろう。それも、ずっと立ちづくめだ。おれは、たまりかねて係長に椅子を置くように言った。もっとも、要求をしたわけではなくて、おそるおそる提案したに過ぎなかったが……。それでも、係長は目を丸くして驚いたものだった。
「そんなことを言ったのはおまえがはじめてだぞ。足が疲れたら見えないように机の陰に行って、こうやって休むんだよ」と言って、自分でやって見せた。ゴキブリみたいに机の陰にへばりついていた。
おれは働くことに熱心過ぎるほど熱心な人たちの中に入ってしまったのだった。おれはその中では異端児で、変わり者であった。しかし、おれからすると、おれはまともで、彼らこそ変わり者のように思えてならなかった。
昨年の暮れ、朝鮮生まれだという三つほど年上の同じ職場の印刷工の高麗という男に、スキーに誘われた。そこで三沢ひろみにはじめて出会ったのだった。そして、おれは、ほどなく彼女らのグループの一員になってしまったのである。彼女は、おれの勤めていた印刷所から歩いて十分ほどの距離にある製本会社に事務員として勤めていた。十九だというのに二十代後半のような大人びた顔をしていた。グループの集まりでは、おれは同じ十九歳の頬にやましいことをしているような翳りの線が見える直子という女の子が好きだった。気紛れな子で、来たり来なかったり。その子が来ないとおれはがっかりした。
三沢ひろみは熱心な女性で、若いのにグループのリーダーになり、いつも来ていた。もしかすると、毎回来ていたのではないかもしれない。おれには直子が来なかったことが記憶に強く残っていて、そういう時にいつも三沢ひろみがおれのそばにいたような気がしているだけかもしれない。おれには三沢ひろみの薄い唇と、しっかりとした大人びた色白の顔は魅力を感じさせなかった。
そういう時、三沢ひろみはおれの心の中を読み取ったかのように、
「わたしだって嫌よ。須藤さんて暗いんだもん。ここのサークルはいい男全然いないんだもん、つまんないわ。清新のサークルなんか一度見せて上げたいわ。いい男が揃っているから」
と憎まれ口をたたいて目をパチクリさせた。今考えると当時はまだ青年のサークルがそちこちにあって、合流することを今ほど厭わなかった時代であった。
「須藤さん、ボケーとしてどうしたの」
「ああ、ごめんごめん。ちょっと考え事してたんだ」
「水越さんのこと考えていたんじゃないの」
「いや、そうじゃないんだ。ちょっと会社のことを考えていたんだ。毎日トルエンを吸ってるもんだから、脳細胞が破壊されてるかもしれないんだ。最近、物忘れが激しくて、三歳の子でも知ってるようなことが思い出せないで困ることがあるんだ。もっとも、トルエンのせいではないかも知れないけど。子どものころ買い物を頼まれて、よく頼まれた品物の名前を忘れていたから。もとから悪いことは悪いんだけど」
「ヤダー。須藤さん非行青年だったの。トルエンてシンナーのようなものでしょう。わたし聞いたことあるわ」
「会社の仕事で使うんだよ。換気が悪くて、小さな換気扇が天井の隅に一つしかないんだ。これ以上頭が悪くなるんじゃないかと不安だよ」
「それ以上悪くなりようがないわよ。まあ、換気のことは高麗さんに言って職場で問題にしたほうがいいと思うけど、本当に本当は何考えていたの。男の人は何考えているか掴めないからな。エッチなこと考えていたんじゃないの。それとも水越さんのこと? 水越さんね、須藤さんのこと面白い人だって言ってたわよ。よかったわね。この間、彼女のとこ泊りに行って色々と聞いたわよ。須藤さんて意外にやるわね。彼女、すごく面白い人よ。朝まで寝かせないわよ」
明るい子だが、どこか心の傷が顔を引きつらせているような気がしてならなかった。
「やだな。そうじゃないんだよ。おれがあそこに入ったのは見聞を広めるために入ったんで、誤解しないでほしいな。世の男性全体に一般化したんじゃ、真面目なやつがかわいそうだよ」
「須藤さんが言うのは言い訳けだと思うけど、確かに『若人とモラル』にもああいう退廃的なものを見ないように避けるだけではだめだって書いてあったわ。わたしもこの間、はじめてポルノ映画を見たわ。須藤さんの会社の前にある映画館よ。女一人でああいうところに入るのは勇気がいったわ。何度も映画館の前を行ったり来たりして。でも、どうせここまで来たんだから、勇気を出して入らなくちゃと思って入ったわ」
彼女はサムタイムを吸っていた。おれはニヤつきながら聞いた。
「で、どうだった。観た感想は」
「あんまりひとがいなかったわね。前の方に五、六人いただけだったわ。昔のこと思い出したわ。男の人ってみんなこういうことを考えているのかって、やっぱり恐ろしくなったわ」
会社の目の前に以前ヤクザ映画などをやっていた映画館が今はピンク映画専門の映画館になっていた。「未亡人下宿」とか「うずく花芯」とか「巨乳軍団」とかいう看板がデカデカと出ていた。興味をそそられたが、会社の直前でもあるし、まだ入ったことはなかった。
夏など昼休みに冷房の効いている校正刷りの部屋へ行って、コンクリートの床に新聞紙を敷き、休んだものだった。印刷機の並んでいる間に若い労働者たちが毛布にくるまって寝ていた。冷房が効き過ぎて寒いのだった。なぜかいつも太田裕美の「木綿のハンカチーフ」がかかっていた。高麗が好きで、いつもテープをかけていたのだった。都会の何とかに染まらないで帰ってと歌っていた。 (初出誌1990年『城北文芸』24号改題)