城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

坂の下の沼地に咲いた花

2022-05-31 14:12:47 | 私小説

 私たちが住んでいたのは二階建て木造長屋の二階だった。部屋の間取りは六畳か四畳半一間と小さな台所だったと思う。母の話では戦争中は兵舎だったらしい。くすんだ色の古い建物で、大雨が降ると、ところどころに雨漏りがして、たらいやバケツを置いてしのいでいた。台風がくると倒れる恐れがあったので、急遽つっかえ棒がいくつか長屋の側面に施された。水道はなく、長屋の敷地の中に共同の井戸があって、手押しポンプを使って、井戸水を汲み上げた。後年、母は手押しポンプを使用中に手を滑らせ、反動で上昇した鉄の柄の部分が前歯に当たり、口が血だらけになってしまった。急いで医者に行ったが、歯が欠け、母のきれいだった歯並びはバンパイアのようになってしまった。
 多分、私がまだ保育園に通うようになる前のこと、父が部屋で新聞を読んでいた。私が父の膝に手をかけ、あぐらの上によじのぼろうとしたところ、父に頭を叩かれた。私は泣きながら廊下の共同炊事場で鍋釜を洗っている母のところへ行った。私は母の「どうしたの」という問いに答えて、私が泣いている原因を訴えた。すると、母は炊事の手を休めて私の頭を撫で、笑っていた。
「ああ、よしよし、どうしたの」
「お父さんにぶたれた?どこを」
「ああ、ここかい。痛かったろう。かわいそうにねえ」
「おお、泣くんじゃないよ。強い子だねえ。強い強い」
 と言って母は私を慰め、打たれた頭をさすってくれたが、私が母の顔を見ると母は笑っていた。
 私は母に父をとっちめてほしいとたのんだが、母はただ笑って、「困ったわねえ」と言ったきりだった。私は不満で、駄々をこねた。私は母の割烹着に顔を埋め、母を揺さぶった。母は腰をかがめて私の肩に両手を伸ばし、小さい私を母のからだから引き離し、
「あとでお父さんに言ってやるから大丈夫よ。こわくないから。外へ行って遊んでらっしゃい」と言ってまた炊事のしたくを始めたのだった。
 これが私が憶えている父との最初の思い出だった。三つ子の魂百までとはこういうことかなと思うくらい今でも忘れることのできない出来事だった。
 私の父との最初の思い出はたたかれたことだったが、私は母には一度もぶたれたことがなかった。つねられたこともなかった。もっとも、母は後にリウマチを患い、つねる力もなくなったのではあったが。近所の同年輩のお母さんは「言うことをきかない時はぶってやりなさい」と母にすすめるのだったが、母はあいまいに言葉をにごしていた。
「言うことをきかなければ、あたしがかわりにぶってやるから、連れてきなさい」とその人は私の目の前で母に言って聞かせ、私を牽制した。私は相当悪そうに見えたらしかった。
 私の父と母は見合い結婚だった。というか、母の話では写真を見ただけで、会うこともなく、結婚を決めたそうである。その当時は今と違って見合い結婚が多かった。それに、戦争があって、戦死した男性が多く、女性の方が余っていた。結婚できない可能性もあったが、今と違って世話焼きも多く、結婚話も舞い込んできた。母の話では田舎の立派な人の紹介だったそうである。立派な人というのは、職業は何をしているかわからないが、立派な身なりをしていて、村の学校に多額のお金を寄附するので、村人に尊敬の念を抱かしめる存在だったとのことだった。どうも、後で知ったことのようだったが、村のうわさでは、軍の闇ブローカーか何か、いかがわしいもうけをしていた詐欺師ということだったそうだ。窮乏物資がその男の家に行くと、ふんだんにあったという話である。その男が、東京にいる彼の甥にあたる人物と母との結婚話を持ち込んだのだった。
 私の母は、自分の背の低さや年齢にコンプレックスを感じていたらしく、自分などだれも貰い手がないと悲観していたので、見合いもせずに結婚を承諾してしまったのだった。 
 仲人口というのはいいことしか言わないのだが、そんなことも知らなかったのか、母はその立派な人の言うことを信用して結婚を決めたそうである。
 私の父は腕のいい旋盤工だった。とはいえ、私は父の旋盤工としての評判を私の同級生以外のだれからもきいたことはないのだ。ただ、旋盤工というのはかなりの熟練が必要と聞いていた。その意味では腕のいい旋盤工と考えても多分それほど大きな間違えとも言えないに違いない。
 私が中学校の時、同級生に中小企業の社長の子がいた。その会社に私の父が勤めていた。いろいろな会社を渡り歩いてきたらしい。その同級生が、ある時、私の父にあわせてやろうと言った。私は即座に断った。なので、私はいまだに私の父に会ったことがない。顔を憶えていない。
 同級生が言うには私の父は仕事の腕はいいらしいが、かなりの変人とのことだった。どのように変人かは聞かなかった。女性と住んでいるらしい。私は父に全然関心がなかった。ただ、ひとつ関心があったのは、私の父の背の高さだった。というのも、私の母は子どものように背が低かったので、自分も背が低くなるのではないかと心配していたからだった。普通の体格と聞き、一安心したのを憶えている。
 私の両親が結婚式をしたのかどうかはわからない。結婚式の写真がないのである。もっとも、そのころの東京は焼け跡の時代であり、ホテルで披露宴をすることもなかったろうが、どこかの家の中で祝言を挙げたのかどうかも定かではない。今となってはもう母に聞くこともできない。
 結婚した二人は、戦前兵舎として使用されていたという古びた木造長屋の一室に居を構えた。都営住宅の空家抽選に当選したのだった。そこは元々は湿地帯の沼地だったところで、近所の空き地は雨が降ると水浸しになり、夜になるとカエルの声が聞こえるのだった。家賃はその頃のお金で一ヶ月百円から百五十円だったという。労働者の平均月収が八千円ほどだったとしても、民間の貸間と比べるとかなり安かったものと思われる。普通に生活していれば民間の貸間に暮らしている人と比べれば楽に暮らせたものと思われる。
 私の父は、ある中小企業の旋盤工として働いていた。
 私は、一度、母に連れられて、父の働いている工場へ行ったことを憶えている。そこは、工場というより、民家の仕事場を大きくしたようなところだった。土間に旋盤の機械を入れたような零細な企業だった。
 垣根のある石段を登って行った。そこが工場だった。母はその家のおじさんに、何度も頭を下げていた。私の母は生まれつき歯並びが良く、隠す必要はないとおもうのだが、なぜか口に手を当てて、話をしていた。どうもこの人が社長さんらしかった。
 母が困ったことには、私の父は外でどういう生活をしているのか、家に寄りつかなかった。家に給料を入れないばかりか、家の物を質に入れ、遊ぶ金につかってしまうありさまだった。
 私の母は子どもができれば夫も家庭に落ち着いてくれるだろうと赤子の誕生を期待していた。
 私がその長屋の一室で産婆さんの助けで生まれてから、しばらくの間は平穏な日々が続いた。母は父の会社の社長にかけあい、父の賃金を直接母に渡すようにしてもらった。父は母からお小遣いをもらうようになったのだった。
 そのうち、父は母から自分の働いた金を盗むようになった。また、当時の労働者の月給と同じくらいかそれ以上の値段だったがっちりした自転車を月賦で買って、すぐさま売り飛ばし、遊びに使ってしまうということも起こった。借金だけが残った。
 私には父の自転車に乗せられて、繁華街を通った記憶がある。私の父の思い出はたたかれたことと、自転車に乗った思い出の二つしか思い出せないのだった。
 やがて、弟が生まれたが、私の父は全く家に帰ってこなくなった。私がそのことを疑問に思って母に尋ねてみると、母は父が亡くなったというのだった。父の乗船していた船が沈没して海に沈み、突然亡くなってしまったというのだった。私は母が嘘をつくとは思わず、父を哀れに思ったものだったが、それにしても、父の写真がひとつも飾られていなかったのだった。これも母にきいてみると、昔は写真なんぞ撮らなかったというのであった。私は母が父の話をしたがらないことがわかったので、以降、父の死についてきくことはしなかった。幼い私の中では、そのことは触れてはいけないタブーになっていた。
 その頃、近所に創価学会に入っている人がたくさんいた。母が友達になるのはたいていそういう人が多かった。今考えると、彼らは創価学会員を増やそうという運動の一環で母に近づいてきていたのではないかと思われる。そのうち母は私を連れて、畳を敷き詰めただだっぴろい道場のようなところに話をききにいくようになった。母は創価学会の会員になってしまった。
 そのうち、その創価学会員の知り合いの女性から、「あんたはまだ三十代で若いんだから、独りじゃもったいないよ」と言われ、同じ創価学会員の男性を紹介された。その再婚相手の男性は池袋の近くで古道具屋を営んでいた子どものいない中年男だった。
 その男は、スクーターに乗って、私たちの前にあらわれた。ベレー帽をかぶっていた。
 後でわかったことだが、この男がベレー帽をかぶっていたのにはわけがあった。彼はスクーターの後ろにリヤカーをつけて商品の仕入れや配送を行なっていた。
 ある時、彼は、そのスクーターに乗っていて、交通事故に遭遇してしまった。どういう事情でその事故に会ったのかは、彼の話を忘れてしまったので再現できないのだが、頭蓋骨から脳みそが飛び出るほどの重体となったそうである。長いこと昏睡状態が続いたのだったが、幸い、奇跡的に一命を取りとめ、その後機能障害も発症せずに完治した。ただし、頭の皮が剥がれ、頭蓋骨が露出するという醜い痕跡が残った。
 彼がなぜ常にベレー帽をかぶっているのか、一時たりとも頭の上からそれを離そうとしないのかはそういう理由があったのだった。
 彼は、この奇跡的な治癒を彼の信仰心の賜物と熱心に私たちに語ったのだった。とりわけ彼の熱心な「南無妙法蓮華経」という念仏祈禱が彼を救ったと信じていた。
 私の母とこの男は内縁の夫婦となった。私は、多分チョコレートをもらったからだと思うが、この男をすぐに好きになった。私の母は子どもがなついているからという理由で結婚を決めたと言っていた。
 この男の家で内縁の結婚披露のようなものが行われた。狭い部屋の中に何人もの人が車座になり、酒を飲んだり、物を食べたり、しゃべったりしていた。母はあの男の隣に黙って座っていた。母はとりすました様子ですわっていた。細いひだのある緑色のスカートが、足をくずしてすわっている母のまわりにふんわりと円を描いていた。
 私は陽気になって、車座になった人から人へと走り回ったり抱きついたりしていた。母が笑いながら注意しても私はやめなかった。母は最後に少々こわい顔をしてみせたが、私はおかまいなしだった。
 私はここで男の人にぶたれてしまった。私をぶった人は、子どものいたずらには厳しく対処するという主義の人で、アパートの管理人だった。この人は、私の父となる人と、自分のアパートを増築した自慢話をしていた。私の二番目の父に、不動産屋を共同で始めようという誘いをしていた。
 私は涙で母の膝をぬらしながら、腹立たしい思いで彼らの自慢話やもうけ話を聞いていた。
 私はこの二番目の父から色々なことを教わった。まず、彼は、私たち兄弟に、子どもの手より大きなU字型の磁石を与えた。それを使ってできるだけたくさんの鉄やニッケルを集めるようにというのだった。古くぎでも砂鉄でも、手箱一杯になるまで集めたら、それをクズ鉄商に売って、その代金を私たちにくれるというのだった。
 この義父はまた、スクーターなどに乗っている時に警察に出合った時はどうするかということを私に教えた。というより、彼は私をすでにそういうことを承知しているものと考えているふしがあり、彼に叱られることで、わかるようになったのだった。
 一つのスクーターに一度に四人が乗って走ることもあった。うしろの荷台に弟を抱いた母がすわり、運転する義父の前に私が立ち、ハンドルの中ほどを持って自分のからだをささえた。母は荷台をまたいですわるということはしなかったので、弟が荷台をまたいですわったうしろに横すわりにすわった。また、ある時は、スクーターのうしろにつけたリヤカーの上に私が乗って走ったりしたが、そいう時に警察に出合った時は、すばやくリヤカーから降りて隠れなければいけなかったが、最初のころは私にはその理由がわからなかった。
 実際にやったことはなかったが、彼は映画館に無料で入る方法も教えてくれた。
 彼は私にタバコの吸い方も教えようとした。この時は、例のアパートの管理人も古道具屋の店内にいて、彼の講習を止めようとした。
「今から吸わせては子どものからだに良くない」と言って、彼は止めようとした。
 七輪を中にアパートの管理人と椅子に座って対面していた私の義父は、
「一度吸わせてみれば、懲りて吸わなくなる」と言った。
「そりゃ、そうかもしらんわ」
 とアパートの管理人は、細長い痩せた土色の顔を大きく縦に振って感心してみせた。
「おれも小さい時分、ご幼少の時によ、おやじに無理に吸わされて、それで懲りたもんな」
 義父は、タバコを一服大きく吸い込んだ。そして、青白い煙を少し鼻から出して止め、口をゆっくり開くと、口を小さく開けたそのままの格好で、顔を三十度ほど上向きに倒し、突き出した唇の間から煙の輪を続けざまにポッポッポと吐き出した。
 煙の輪は、渦を巻きながらも、輪の形を崩さず、上に昇っていくのだった。そして、徐々に輪の形が崩れていくと、偽物の大判小判のぶらさげてあるあたりで雲散霧消してしまった。
 義父は、
「どれ、吸ってみろ」
 と言うと、彼が今まで吸っていたタバコを私に手渡した。私はその手渡されたタバコを吸ってみたが、煙が喉を通らないうちに、目がくらくらして、咳き込んしまった。私はそれ以来タバコを吸う気にならなかった。
 私は、小学二年生の二学期の時に板橋区の小学校から池袋の小学校に転校した。
 私がその転校先の小学校に最初に行ったのは、九月の初め、二学期の始まる初日だった。
 私は、役所の戸籍には入っていない義理の父だったが、彼に連れられてその小学校の門をくぐった。校舎の中央に高い時計台のある小学校だった。決まった時間になるとその時計台からオルゴールが鳴り響いた。
 義父は教室に入ると、担任の若い女教師の勧めに従い、隅の椅子に腰を降ろし、教室の子どもたちと向き合った。義父は短い足をつっぱね、大股を広げ、大きな尻を椅子の前方の角ギリギリのところに置き、ふんぞり返ってビール腹を突き出していた。背広はちゃんとしたものを着ていたのだが、私は彼の格好を恥ずかしく思ったものだった。私たちの前には、いずまいを正した四、五十人の小さな者らが私たちの一挙手一投足を見守っているのだった。私の義父には私はそういう格好をしてもらいたくなかったのだった。
 しばらくすると、椅子の角に座っているのが疲れてきたのか、義父はいずまいを正した。両手を腹の前に当て、顎を引き締めて笑顔をつくっていた。だが、腹は隠しようもなく出っ張っていたから、やはり見た目にいいものではなかった。顔の造作も不細工な感じで、唇が厚く、しまりのない印象だった。色が黒く、頬はシミだらけだった。鼻は削ぎ落されたような格好をしていた。何度も交通事故に遭っていたため、顔は傷だらけだった。白いものの混じった無精ひげが、彼の粗野さ加減をさらに印象づけていた。
 その時、私の他にもう一人転校生がいた。私たちは並んで紹介された。私たち二人はそれぞれ自己紹介をさせられた。最初に自己紹介をしたその転校生はなぜか緊張のあまり泣き出してしまった。私もそれを見て涙が出そうになったが、泣くまいとこらえた。
 そんなことがあって、家に帰ってから私は義父に褒められた。義父が賞賛する行為と母のいいと思う行為は違っていることがままあるのだった。母がむしろ良くないと思うことを義父は褒めることがあった。私が同級生とけんかした時も褒められた。けんかするくらい元気なほうがいいというのだった。もちろん、私には私なりの「正当な」理由があったのだが、義父は理由については考えに入れなかった。子どものけんかに親が口を出すなというのが彼のモットーだった。いずれにしても、勝てば喜んでいた。
 私の母は、学校の成績を大変気にする人だった。私がまだ低学年のころから、成績を気にしていた。母が再婚してからは、古道具屋の仕事は夜が遅く、私は母に勉強を見てもらうことができなかった。それで、私の学校の成績はかなり悪くなった。母はそれを悲しんでいたが、義父は逆にそれを褒めるのだった。義父の考えでは、学業は不必要などころか、返って害になるものだった。
 私が義父の家にきて、一番いやだったことは、水汲みと朝の祈禱だった。義父は毎日一日も欠かさず仏壇の前に座った。私たち家族も全員義父の後ろで正座した。私はこの正座がいやだった。
 食事の時も母は私たち子どもに正座をさせようとした。長屋にいた時は正座をしたことも、仏壇の前で長時間題目を唱えることもなかった。
 義父は私たちが正座をいやがると、食事の時にあぐらをすることは許したが、お経の時はがんこで、あぐらは許さなかった。
「なんみょうほうれんげえきょう。なんみょうほうれんげえきょう」
 義父は、仏壇の前にどっかりと腰を据え、一心不乱にお経を唱えた。同じ言葉の繰り返しだったが、独特のリズムがあった。
 母は義父の隣で手を合わせ、祈りの姿勢をしていた。私は、母の後で、やはり手を合わせ、黙想した。弟も同様だった。
 義父や母の鳴らす数珠の音がジャラジャラと聞こえ、一通りの祈禱が終わると朝食となるのだった。
 冬になって、母に子どもができたらしかった。私はそれを大人同士の話の様子で知ったのだった。私は妹が生まれることを期待した。しかし、妹も弟も生まれることはなかった。
 その内母は義父から暴力をふるわれるようになった。私にはその理由がわからなかった。私は義父の剣幕と母のくずおれる様子を見ていた。ただただ恐ろしかった。この頃の暴力で母の左耳の鼓膜にひびが入り、以降聞こえが悪くなった。
 そんなことが度重なったある日、母は義父に別れ話をもちかけた。
 それを聞いた私の義父は、最初の内は別れないでくれとか、反省すると言っていた。が、いよいよどうにもならないと見て取ると、
「おまえの始末をだれがみてやったというんだ。相当金が掛かったんだ。おまえの持ってきた家財道具などいくらの値打ちにもなりゃしなかったんだ。出ていくんなら出ていけ。おれはな、おまえがいなくたって生活していけるんだぞ。おどかしたってだめだ。今までだって、そうしてやってきたんだ。このまえの女とおんなじような口をききやがって。おれはおまえが欲しくて一緒になったんじゃない。子どもが可愛いから一緒になったんだ。どうしても出ていくんなら、子どもを置いていけ」
 と激昂した口調で言ったが、私のほうを振り向くと、やさしい口調で、
「裕一郎、おまえ、おかあちゃんと一緒に行くか。おとうちゃんと一緒にいたほうがいいだろう。今度また映画に連れて行ってやるからな。どうだ裕一郎、おかあちゃんと一緒に行くか。行くんなら行ってもいいんだぞ」
 私は義父を嫌いではなかったし、突き放した言い方が私のようなあまのじゃくな性格のものには逆の効果を生むらしく、私は義父と一緒にいると言ったのだった。
「さあ、裕一郎はおれと一緒にいると言ったぞ。出ていくんなら早く出ていけ」
 と義父は母に言った。母は本当に家を出て行ってしまった。
 義父はあわてて私をスクータの荷台にのせ、母を追いかけた。
「おかあちゃんはどこへ行っちまったんだろうなあ」と義父が言いながらスクータを走らせると、母が、着物のすそを左手で押さえ、右手で襟首を合わせて、うつむき加減に歩道を小走りに走っている姿が見えた。
 義父が母に追いつこうとスクータのスピードをあげた。母は足を速めた。うつむき加減の母が、一層うつむき加減になった。
 スクータは母に追いつくと、並んで走った。
「はははは、おかあちゃんが走ってる。いくら走ったって、こっちのほうが速いよな、裕一郎」と義父は元気な声で私に言った。
 スクータの後ろの荷台に乗っていた私は「うん」と生返事を返したのだった。 
 そんなことがあってから、母は逃亡の機会をうかがっていた。ほどなくして、私たちは母に連れられて、義父の家を出ることになった。
 私は母と一緒に行きたくなかった。義父とはいえ、子ども心に別れてほしくなかったのだった。母は、説得が無理だとわかると、「それじゃ、映画に行こう」と私をだまし、電車に乗って、大宮にあった親戚の家に行った。義父は私たちを大宮に迎えにきたが、結局、別れることになった。
 このようにして、母は義父と半年も暮らさずに別れることになったが、母は都営住宅を出てしまっていたために、住むところがなくなってしまった。親戚の家も大家族であったし、長く居候をするわけにもいかなかった。
 今まで住んでいた都営住宅にもう一度戻れないかと母は希望した。母は「あなたが不幸になるのは信心が足りないせいだ」と言われるのがいやになったのか、創価学会をやめようとしていた。ご本尊を返還することになった。母は創価学会の人に相談しても力になってもらえなかったためか、住宅の改善でよく先頭に立って東京都に要請に行っていた伊藤さんに相談した。伊藤さんはその界隈では共産党員と思われていた。母はもともと共産党が嫌いで、「口角泡を飛ばして話す人たち」という印象を持っていたのだった。でも、こうなったら、好きも嫌いも言ってられなかった。
 伊藤さんの部屋は長屋の一階の中ほどにあった。伊藤さんのところだけ庭に向かって一部屋建て増しされていた。小学生の娘がいて、そこでよくオルガンを弾いていた。母は伊藤さんから神野さやさんという共産党の区議会議員を訪ねて行くようにと紹介された。
 神野さやさんは、千九百五十年の朝鮮戦争の前夜まで板橋区清水町の米軍基地施設の中に開設されていた東京自由病院の看護婦で、その病院には「人民による人民のための人民の病院」という看板がかかげられていたそうである。東京自由病院は朝鮮戦争の始まる前日、カービン銃を持った米兵に包囲され、医師や看護婦は退去させられた。彼らが米兵にカービン銃を突きつけられて退去する際には、くやしい思いをしながら、インターナショナルを歌って退去したそうである。その後、その医師や看護婦たちは近くに別々の診療所を開設し、発展を遂げていった。二つに分かれた一方のグループは小豆沢の地に診療所を開設した。当時は医師と看護婦数人だけのようなスタートだった。その草分けの看護婦の神野さやさんが共産党の区議会議員になっていた。
 神野さやさんは住民の要望をただ請負うということはしないようにしていた。母は神野さやさんと一緒に何度も都庁に足を運んだ。そのかいあって、たまたま空き部屋になっていた別の棟の一室に入居が許されることになったのだった。
                     (2017年「城北文芸」50号)

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伊江島に死す

2022-05-20 11:30:23 | 小説「沖縄戦」

 米軍の沖縄本島への上陸作戦が始まったのは一九四五年の四月一日の朝であった。米軍は上陸するにあたって大きな犠牲を覚悟していたが、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けることなく上陸した。おびただしい数の輸送船や軍艦が嘉手納沖に集結し、海が見えなくなるくらいであった。数万人が遠浅の長い海岸めがけて上陸用舟艇に乗って殺到した。米軍はその日の内に北飛行場と中飛行場を占領した。
 陸軍の通訳としてマイケルは最後尾から上陸した。飛行場には米軍の空襲や艦砲射撃で破壊された日本軍の戦闘機の残骸が残っていた。滑走路は穴だらけであった。一九四三年夏から住民の力を借りて珊瑚の山を削り、土や石を馬に引かせて運び、整地をし、急がせて一年以上かかってようやく完成した飛行場も米軍の空襲にあい、十分に機能しないまま半年後には米軍に占領されてしまったのだった。米軍はブルドーザーを使い、三日間で補修を完了させ、とりあえず南部の日本軍に対する爆撃機発進拠点として使用できる態勢を整えた。さらに日本本土攻撃用の大型爆撃機の使用が可能となるよう飛行場の拡張、滑走路の強化、駐機場の増設を進めた。
 マイケルは十三キロにも及ぶ長い海岸線の南側から上陸した。南側には日本軍の砲撃もあり、大きな被害はなかったが、数十人の死傷者を出した。北側には海兵隊の部隊が上陸した。最北部からは従軍記者のアーニー・パイルも午後に上陸している。負傷したのは二人だけで、それも日本軍の攻撃によるものではなく、自損事故と太陽の暑さで気分が悪くなったものであった。昼飯に七面鳥を食べ、ピクニック気分だったと彼は本国に書き送っている。
 北部に避難し遅れた住民はガマと言われるいくつもある洞窟の中に隠れていた。銃を構えた米兵に竹槍で切り込む住民もいた。住民はすぐさま射殺されてしまった。洞窟の中では自決するか否かで意見が分かれていた。洞窟ごとに対応が分かれ、悲劇が起こることになった。あるガマにはたまたま住民の中にハワイ帰りの兄弟がいたおかげで、全員が手を挙げて洞窟から出てきた。そうでないところは住民同士が殺しあうという悲惨な光景が繰り広げられた。米兵は鬼であり、男は戦車に轢き殺され、女は皆強姦されると思われていたのである。天皇が神であると信じこまされていたのと同じように人々はそう信じていた。軍人や学校の先生からそう聞かされていた。住民同士でもうわさしていた。
 マイケルは拡声器を持って洞窟の入り口に近づき、「危害は加えません、手を挙げて出てきなさい」とやさしく呼びかけた。最初に何人かが出てきて保護されると、様子を見ていた人たちが、次々と洞穴から手を挙げて出てきた。中には女性や小さな子どももいた。マイケルは丸腰で拡声器だけを持ち、洞窟の入り口に入っていった。これはかなり危険な行為だった。日本兵が隠れていて狙撃されるかもしれなかった。片手に拳銃を持った隊長が懐中電灯をかざしながら先頭に立って洞窟の奥まで入っていった。
 ブルドーザーで整地し、鉄条網で囲った収容所に住民を収容した。ぼろきれをまとい鍋や薬缶等の家財道具を頭の上に載せ、子どもを負ぶった女たちが群れをなして北部を目指して歩いていく姿が目撃された。老人を荷車に乗せて押していく姿もあった。女たちは髪を短く切り、顔に墨を塗っていた。
 日本軍は南部の丘陵地帯に地下壕を掘り、十万の兵隊が潜んでいた。ここで米軍を迎え撃ち一日でも米軍の本土進攻を遅らせる作戦であった。北部には本部半島に三千人の遊撃隊を配置しただけであった。
 アーニー・パイルは痩せぎすの中年男で、前線にいる一兵卒たちを好んで取材していた。救護班に送られてくる傷病兵の様子を取材していた。腕や足を吹き飛ばされ、気も狂わぬくらいに苦痛にさいなまれている兵士たちをみつめていた。彼の書く文章はすべて軍によって検閲され、不都合な部分は削除された。戦争遂行のための士気の高揚に資する記事しかそもそも新聞には載らない。そういう中でも彼は傷ついた兵士の姿を書き、海兵隊と一緒に歩き、若い兵士に話しかけるのだった。マイケルはアーニー・パイルの書いた記事をよく読んでいたので、彼と一緒の戦線にいることは心強かった。
 北部に進攻した海兵隊は小規模な戦闘を制しつつ、本部半島に向かった。それとは別の海兵隊が東海岸を進撃中、日本軍数十人による夜襲攻撃を受け、三人が殺される被害を受けた。海兵隊も反撃し、日本兵二十人を射殺し、撃退した。日本兵は夜間に米軍キャンプ地に忍び寄り、米兵の背後から手をまわし、音をたてないように口を封じ、ナイフで刺し殺すのを得意としていた。そのため、米兵は夜間は外に出歩かないことになっていた。少しでも動くものがあった場合には、番兵が警告なしに民間人、敵味方の兵の区別なくすべて射殺することになっていた。
 本部半島の平地は四月三日から数日で平定された。日本軍は八重岳の山中に逃れた。屋部海岸に戦車を伴う部隊が上陸し、八重岳の山腹に砲弾を撃ち込んだ。
 マイケルは住民の間によからぬ噂があることに気がついた。米兵のグループが住民の男を連れ去り、連れ去られた男が戻ってこないというのであった。また、若い女を物色し、連れ去って行くというのであった。マイケルが歩いていると住民が空き缶やドラム缶をたたくことがよくあった。どうも色の黒い者は恐れられているようであった。
 いよいよ八重岳は米軍にぐるりと包囲された。空からは爆撃機が爆弾を落とし、戦闘機は低空で機銃掃射をした。いたるところに硝煙が白くたなびき、谷がかすんで見えた。本部沖に遊弋する戦艦からの艦砲射撃にも晒された。
 八重岳に逃げ込んだのは宇土大佐を司令官とする五百人の部隊と佐藤少佐率いる現地召集の一個大隊八百人であった。それに現地の中学生が通信隊として参加していた。県立高女十名も看護要員として動員されていた。さらに一万人もの住民が八重岳の谷間に逃げ込み、身動きができない状態になっていた。
 宇土大佐は一年前の六月に九州から輸送船富山丸で四千六百人の将兵とともに沖縄に向かった。その途中、徳之島沖でアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、積荷のガソリンが発火炎上、船体が二つに折れ、富山丸は轟沈した。乗船した大半の者はやけどを負い死亡した。僚船に救助され、動ける者は四百人ほどが残り、漁船などに乗って沖縄にたどりついた。武器はすべて失われたが、宇土大佐は運よく生き残り、四百人の歩兵部隊を引き連れて本部半島の守備に着いた。
 対岸に伊江島が見える八重岳の麓に二門の重砲を配置していた。伊江島まで射程距離にあったが、海岸の間を悠々と遊弋し、八重岳や伊江島に艦砲射撃を続けている米艦船の群れを前にしてもただの一発も発射することができなかった。もし発射すれば、空と海からの集中攻撃に晒されるに違いなかった。首里の三十二軍本部からの戦略持久の指令に従っていた。結局、一発も打つことなく、米軍の砲弾により破壊されてしまった。
 宇土大佐は八重岳の中腹に藁葺きの小屋をいくつか作らせ、本部戦闘指揮所とした。宇土大佐は還暦に近い年齢であったが、戦略持久をいいことに炊事婦とは別に三人の那覇の遊女と一緒に小屋にこもっていた。いわゆる慰安婦であった。
 軍隊のいるところでは沖縄の住民も皆標準語をつかっていた。意味のわからない沖縄方言をしゃべる者はスパイとして疑われたため、軍から使用禁止令が出ていた。
 住民や兵は入り混じって八重岳の谷間や壕に潜んでいたが、包囲網をじわじわと狭められていた。宇土大佐は反撃に打って出ることもなく、指揮所にじっとしていた。米軍は戦車を繰り出して猛攻撃を始め、火炎放射器で樹木を焼き尽くしながら、出会った日本兵や竹槍を持った住民を殲滅していった。谷間には水を求めて這いつくばっている兵隊の姿があちこちに見られたが、その内、それらの兵隊も動かなくなった。
 いよいよ米軍の砲撃が激しくなると、宇土大佐は女たちを連れて、指揮所を放棄し、すぐそばの平たい高地である真部山に移った。指揮所には重傷者が取り残された。真部山の拠点には中学生の通信隊がいた。彼らの半数は数発の手榴弾以外の武器を持っていなかった。これらの者に若干の兵を混えて、夜間に真部山の山頂に移動し、夜明けを待って突撃を敢行することになった。だが、照明弾が昼間のように山頂を照らしていた。翌朝は米軍の偵察機が山頂付近を飛び回り、それがいなくなったと思うと、海岸沖からの無数の艦砲射撃が山頂に集中した。艦砲射撃がぴたりと終わると、海兵隊が火炎放射器と機関銃を持って、襲いかかってきた。隊長が「おれのあとに続け」と言って、突撃したが、旧式の小銃と斧やスコップを持っただけの生徒たちは、無惨に玉砕した。日没になると米軍は引き揚げて行った。
 宇土大佐はすぐに八重岳から南東に十五キロほど離れた多野岳への撤退命令を出した。四、五人ずつ班を組み、夜陰に紛れて脱出した。
 宇土大佐らはその後、北部の山岳地帯に移動し、住民から食料を強奪しながら、十月まで潜伏した。投降したのは、終戦後二ヵ月近くも経ってからであった。
 宇土大佐が多野岳へ撤退を開始したころ、米軍は伊江島への上陸を始めていた。
 アーニー・パイルは、いったん嘉手納沖の艦船に戻り、本国へ手記を送った。そして、伊江島へ上陸部隊とともに乗り込もうとしていた。生々しい戦争の様子、兵士の様子を書くのが彼の仕事であった。
 本部半島から広い海原を隔てて浮かんでいるのが伊江島であった。エンジンボートで行ったら、おそらく、二、三十分で行けるところであった。けっこう広い島で、徒歩で一周するには、おそらく一日がかりになりそうな島であった。
 珊瑚礁の隆起した島は平坦で、標高二百メートルに満たない岩山が一つ聳え立っていた。平坦地には大小五本の滑走路が建設されていた。現地の住民を動員して急遽つくらせたものだが、またしても、ほとんどつかわれないまま、米軍の手に渡すこととなった。珊瑚礁の島に特有のガマと呼ばれる自然洞窟が千人も入りそうな大きなものも含めて大小たくさんあった。
 マイケルはアーニー・パイルの一行と一緒に伊江島に上陸することになった。
 伊江島には疎開した老人や婦人、子ども以外の五千人の住民が残っていた。井川少佐を司令官とする八百人の歩兵大隊と現地召集の防衛隊、伊江島住民の防衛隊、青年義勇隊などが島の守備についていた。また、女性も救護班はもとより、協力隊として戦闘要員に加えられた。
 伊江島の飛行場は米軍の進攻前にすべて日本軍の手によって爆破された。
 四月十六日が米軍の伊江島上陸日と決まった。バクナー中将の命令であった。上陸前の数日間、艦砲射撃や空爆が徹底的に行われた。だれも生き残っている者はいないだろうと思われるほどの爆弾の量であった。
 上陸当日も早朝から砲撃、爆撃を行い、上陸部隊を支援した。天気は晴れていて、波は穏やかであった。やがて、上陸用舟艇に乗り込んだ先発隊が伊江島の南海岸に上陸した。読谷の海岸に上陸した時と同じように、陸からの抵抗はなく、静かな上陸であった。上陸部隊が次々と上陸して行った。水陸両用戦車も上陸した。
 連日の猛爆で、平らな台地にいる日本軍は吹き飛ばされてしまったのかと思われたが、やはり、そうではなかった。台地の地下には無数の洞窟があり、また、急遽掘りめぐらせた壕の中に隠れていたのである。沖縄特有の大きな亀甲墓はトーチカとして利用し、砲門を備えていた。
 コンクリートでできた村役場のある台地を奪取するために米軍は進攻を開始したが、その途中には無数の地雷が埋められてあり、このために戦車や装甲車が使えなくなった。
 歩兵が台地に近づくや、壕の中やトーチカから反撃の砲弾が打ち込まれ、米軍に死傷者が続出した。米軍は一時退却したり、一進一退を繰り返した。予備の部隊の増援を得て、ようやく米軍は台地を占領した。
 マイケルはアーニー・パイルよりあとの舟で上陸した。上陸してみると、この島の戦闘は大変危険であることがわかった。民間人が日本の兵隊と一緒になって戦っていた。婦人たちも自然洞窟の中で竹槍を構え、米軍陣地に夜間の斬込みをする部隊に参加する者さえいた。斬込みは連日行われた。大半の者は射たれて死んでしまうのだったが、重傷者が生き残って戻ってくると、分隊長から自決を迫られることもあった。
 洞窟内での集団自決があちこちで発生した。
 アーニー・パイルは四月十八日に米軍指揮官の乗るジープに同乗して、海岸線を移動していた。遠くでは激しい砲声が響き渡っていた。丘の手前に来た時、銃声が聞こえ、アーニー・パイルらはすぐにジープから飛び降り、近くの溝に身を伏せた。その時、アーニー・パイルのヘルメットのすぐ下のこめかみに一発の銃弾が当たった。即死であった。
         (2016年「城北文芸」49号)

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風穴の里

2022-05-13 11:25:48 | 私小説

 私の母は大正十二年の生まれであった。七人兄弟姉妹の次女として生まれている。日本が敗戦したときには母は二十二歳ということになる。東京にまで空襲がされるようになる寸前に長野の山奥の実家に疎開していたようである。私は私が中学校三年生の時まで、毎年、学校が夏休みになると、弟と一緒に実家のある長野県に母に連れられて泊まりに行っていた。
 母はそのころ学校の給食調理員をしていたようである。たまに、給食の残り物らしいパンの耳にバターをつけて食べた憶えがある。母の兄弟は多かったので一週間ぐらいずつ実家や兄弟の家を泊まり歩いて夏休みを過ごした。
 まず、最初に行くのが母の実家である。そこには祖父と後妻の祖母、私の叔父にあたる長男夫婦が住んでいた。その昔は新宿から蒸気機関車の旅であった。新宿から中央本線経由で松本まで約六時間の旅であった。夏のことゆえ、母はノースリーブで胸元の開いた服を着ていて、子どもながら多少嫌な思いがしたことを覚えている。窓を開けて風に吹かれていると汚水が顔にかかってきたり、トンネルに入ると窓を閉めて煙が入るのを防がなければならなかった。塩尻のあたりでスイッチバックがあったような気がする。汽車がゆっくりと後ろにバックして、また走り出すのであった。
 松本駅に着くと、男の駅員の声で「まーつもと、まーつもと」という構内アナウンスが聞こえてくるのだった。当時は国鉄で、駅員は男ばかりであった。
 松本駅で松本電鉄の単線電車に乗り換え、終点の島々まで行き、上高地方面行きの登山バスに乗り換えるのだった。島々駅ではプラットホームの端で地面に降りてレールを横切り駅舎に着いたような気がする。駅前に降り立ってみると、そこは山々に囲まれ、三角屋根の駅舎のそばには自分たちの身体よりも重そうな大きなリュックを背負った山男たちが集っていた。厚い登山靴と長い靴下を履いていた。
 古い満員のボンネットバスに乗り込み、二十分ほどすると私の祖父の待つ安曇村稲核(いねこき)に到着するのだが、そこまでの道は大変な道であった。一九九一年に大規模な崖崩れがあり猿なぎ洞門が崩落した後三本松トンネルが建設されて現在はすっかり変わっているが、当時はバス一台がようやく通れる道で、片側は山壁、片側は断崖絶壁であった。谷底までは百メートルはありそうな気がした。怖いので窓から下を一瞥するだけで長くは見ていられない。谷底には梓川が流れていた。ガードレールもついていない未舗装のでこぼこ道をいくつもの急カーブを曲がりながら登って行った。カーブで対向車が見えないところでは警笛を鳴らす。対向車と鉢合わせすると、どちらかの自動車がバックをして岩を削って広くした待避所まで戻り、すれ違うのだった。
 私は調子に乗って「田舎のバスはオンボロ車、デコボコ道をガタゴト走る」と中村メイコがラジオで歌っていた歌を大きな声で歌い、母に小声で「これ、やめなさい。周りの人が気を悪くするじゃないの」と叱られた。いつだか、新しい稲核橋が開通してからだと思うが、「ほら、下に小さな橋が見えるでしょう。あれはおじいさんがつくった橋なのよ。今ではつかわれていないのよ」と登山バスが大きな橋を通ったときに母が指差したことがある。私の祖父は大工の棟梁をしていたという話であった。祖父が一人で橋をつくれるはずもないし、橋をつくるに当たってどのくらい重要な役割をしたのかもわからないが、今は使われていないとはいえ、自分の祖父のつくった橋が残っていることに私は若干誇らしさを感じたことがある。
 稲核のバス停に着くと、降りたのが私たちだけだった。バス停に祖父母が待っていて手を振っていた。一日に何本も通らないバスだったので時刻表を見て迎えに出たものらしい。ここいらのバスは停留所でなくても手を挙げると止まって乗せてくれる。
 祖父は頭が禿げていて、さびしいのかよく自分の頭に手を当てて撫でていた。祖父の家はバス停のすぐそばにあった。間口が狭く、奥に長かった。隣はガソリンスタンドだった。あとで聞いた話では元々そこも祖父の土地で、庭だったそうである。
 玄関を入ると土間になっていた。二階には蚕が飼われていて蚕が桑の葉を食べるパリパリという音がしていた。途中から板で仕切られ、行き止まりになっていて、そこから先は祖父の息子夫婦が住んでいた。屋根には瓦がなく、大きな猫ぐらいの丸い石がいくつも載っていた。母に聞くと、母の生まれる前に稲核には集落中の大半の家を焼失させる大火が二度あって、それ以後ちゃんとした屋根のある家をつくらなくなったそうである。梓川と裏山との間に二百メーターほどの狭い平地が国道に沿って六百メーターほど続いていた。そこに人々がびっしりと家を建てていた。
 家の前の国道は野麦街道と呼ばれる街道でもあり、野麦峠を越えて飛騨高山に通じていた。その昔、飛騨の貧しい農家の娘たちが紡績女工となって諏訪の製糸工場で住み込みで働き、工場の冬期休業前の年末に故郷に帰るときに通るのがこの街道であった。昔はバス道路も開通してなく、徒歩であるくしかなかったので娘たちは寒さと疲労で大変だったに違いない。年末の払いの足しにする給金を親に渡すためにここを必ず通らなければならなかったはずである。いったん帰れば、諏訪の工場は二月二十日ごろまで休みだったらしいので、しばらくは実家で過ごしたみたいである。
 あとになって何かの本で読んだ記憶があるが、具体的なことは書かれていなかったが、相当腹に据えかねることがあったのだろう、稲核はその娘たちの恨みを買ったらしく、彼女らが稲核を通過する時は「稲核は三度焼けろ」と言って通ったそうである。
 私の母は十七歳で東京に出てきた。何かの時に母から聞いた憶えがある。東京では最初に大きなお屋敷の住み込みのお手伝いさんをしていたこともあるようで、田舎言葉を笑われたそうである。母が下町には似合わないやけに丁寧な言葉づかいなのもその時に直されたからかもしれない。
 母はもう亡くなってしまったので今となってはいつのことかわからないが、夜間の教員養成所にも通ったようである。小学校の教員になりたかったそうだが、試験に受からず、小学校の教員にはなれなかった。それでも幼稚園の教員の資格は得たようであった。私の家には、母が自分でつくったものかも知れないが、実際の折り紙がいくつも張り付いた分厚い折り紙の教本があった。また、板橋区の私立幼稚園で若々しい私の母が二、三十人の園児と並んで写っている記念写真があった。肩下まで伸びた黒髪が先のほうで細かく波打っていた。こんな髪の長い母は見たことがなかった。その他、母は看護婦試験を受けて受かり、看護婦にもなっていた。どちらが先だったか、今となってはわからない。県レベルごとに試験があり、受かりやすそうな県を択んで受験したそうである。十七歳で一人で東京に行くのはかなり勇気がいっただろうと私は思った。東京には戦死した母の兄がいたので心強かったものと思われる。「叩けよさらば開かれん」と母はよく言っていた。
 祖父が「わんだー」と言っていたのを憶えている。「おまえたち」という意味らしい。「こわかねーか」というのは「疲れてないか」という意味であったり、「ズクがないもんでのー」というのは「エネルギーが沸かなくなったもので」とか「根性なしなもので」というような意味であった。母は実家に帰ると自然にその土地の言葉を話していた。稲核には周りの地域ではつかわれない稲核でしかつかわれない言葉もあったようである。母は稲核言葉と言っていた。
 小学校の分校の近くのお寺の本堂には稲核出身で戦死した多くの若者の写真が飾られていた。その中に私の母の兄の姿もあった。彼は東京に出て、昼間働きながら物理学校の夜間部に進み、旧制中学校の教員になった期待の星であった。小学校の先生が私の叔父を上の学校に進ませるよう、わざわざ祖父のところに勧めにきたそうである。彼は昼間部の学生と互角の成績であったというから、相当努力をしたに違いない。徴兵され、南太平洋の海に沈んだきり、戻ってこなかったそうである。船で沈んだといえば、私の父も私が三歳ごろ、船に乗っていて遭難し、亡くなったことになっていた。離婚したということを知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
 親戚の人が集まると、必ずお互いを褒めあっていた。褒められた相手は必ずそんなことはありませんと謙遜していた。これはひとつの表向きの規則のようだった。本人のいないところではまた違う打ち明け話をしていた。
 母は一時期、村の分校で代用教員をしていたらしい。教員養成学所に行っていたんだからできるだろうということのようだった。村に帰ると教え子から「先生」と言われて遭遇することがあるので気恥ずかしくて嫌だと言っていた。ボロを着ていられないというのであった。
 伝説のその兄に私がそっくりだと親戚の人によく言われた。「生まれ変わりに違いない」と言う人もいた。家にあった名刺判の大きさのセピア色の白黒写真には学生帽を被った眉毛の吊り上った一重まぶたのテル叔父の姿が写っていた。私がテル叔父に似ているということを聞いて、祖父はうれしそうにしていた。
 しかし、ある時、どんな悪いことをしたか今はすっかり忘れてしまったが、私は祖父に怒られて、離れにある土蔵の中に入れられ、鍵を掛けられてしまった。私は土蔵の中で長いことわんわん泣いていた。そのうち目が暗闇に慣れてくると、私は土蔵の中に興味が湧き、薄暗い階段を登って二階に行き、行李を開けて見た。塵にまみれた分厚い書物といくつかの古いノートブックを見つけた。あとで聞いたところでは、それは私の伝説の叔父の形見の品で、分厚い書物は聖書だったらしかった。私の叔父はクリスチャンだったそうで、「兄はへぃ、クリスチャンだでな、人殺しができないでな、軍隊に入ってえろう苦労したんでねぇかのう」という人もいた。
 泣き声がしなくなったのを心配して、祖父は土蔵を開けに来た。祖父は禿げた頭に手をやりながら、「われはテルでねぇ、テルでねぇ」と呪文のように唱えていた。
 私は今、テル叔父がどのような気持ちで軍隊に行っていたのだろうかと考えてみる。叔父は伍長という下士官であったそうである。敬虔なるクリスチャンであったらしい。「テル兄はのう、学があるだで将校になれるとこさ自分で伍長にしたっさだ」と親戚のだれかが言った。もう一つの伝説である。伍長という階級は海軍にはなかったようなので、陸軍の乙種幹部候補に振り分けられたものと思われる。甲種、乙種は適正によって振り分けられるようなので、自分から択ぶものでもないようである。幹部候補に志願したものの中から試験の結果で将校や下士官になるらしい。伍長という階級は海軍にはないようなので、彼は陸軍に召集され、輸送船で南方に渡る途中で消息を断ったのではないかと思われる。未だに遺骨も帰ってこないそうである。戦死したことにはなっていたが、母は「まだどこかで生きているのではないか」と言っていた。
 私は、子どものころはよく知らなかったが、大人になると、キリスト教は人を殺してはいけないと説き、悪人が右の頬を叩けば左の頬を差し出せとすら教えていることを知った。けれども、どうして世の中から戦争がなくならないのか、多くの罪も無い子どもたちが殺されてしまうのか、ベトナム戦争の無差別爆撃の報道を見るにつけ、長い間疑問に思っていた。アメリカの議員も大統領も多くはキリスト教徒ではないか。
 だが、最近、「聖書の名言集」という本を読んでいて、ようやくその疑問が解けた。つまりその本によれば、頬を叩かれる程度の軽いものではなく、戦争という重大な事態の時には、国の指導者が神は我らの側にあると言えば人殺しも許されると大方は解釈されているということのようである。日本の神は天皇だったから、明らかにキリスト教が言う唯一の神ではない。確かに、これではテル叔父は人殺しを正当化できなかったはずである。共産主義者のように兵役を拒否して牢獄に入っていれば、日本の敗戦後彼は生きて出てこられたかもしれない。しかし、それをするには大変な勇気がいったに違いないと私は思う。非国民の汚名を着せられ、家族にも大変な迷惑がかかったに違いない。そして、戦後、私の祖父が遺族の代表として九段会館に宿泊し、靖国神社にお参りすることもなかっただろう。
 私たちが祖父の家に行くと、必ず川村屋にあいさつに行く。この集落で一番の金持ちとのことだった。「大草原の小さな家」のドラマに出てくるネリーの家のようなもので、村で唯一の商店なのであった。母はそこと親戚同様のつきあいをしていた。子どもたちを連れて行くと中でも川村屋のおばさんが大歓迎をしてくれた。若くして亡くなった母の実母を養女として育てたのが川村屋だったそうである。つまり、その養女は私の実の祖母に当たるのだが、聞いてみるとこの人の運命はかなり悲しいものだった。
 私の実の祖母に当たる人は両親が亡くなるまでは何不自由のないお嬢様として育ったそうである。営林署の署長の一人娘であったという。調べてみると、営林署というのは後の名称で、明治・大正時代は林区署と称していたようである。その頃の公務員は大概武士の子孫だったそうである。それが、急に孤児になり、村一番の金持ちの川村屋に養女として引き取られた。養女が成長すると、川村屋は私の祖父に結婚話を持ち込んだ。祖父には実は好きな女性が別にいたのだが、川村屋の養女と結婚した。この好きだった女性が今は後妻となっている人だいうのである。この後妻にきた人は奥地の忌み嫌われているらしい地域の出身のようだった。こういうことはほとんどだれからも聞いてないが、おしゃべりな叔母がしゃべることがあった。真偽のほどはわからないが、家の中がふたつに分かれ、行き来がないのも、そのことと関係がありそうだった。
 この元お嬢様には親から相続した土地や畑があちらこちらにあり、祖父はそこに桑の木やいろいろな作物を植えたようである。かなり遠くにある土地で、そこまで歩いて行き、カゴいっぱいの桑の葉を担いで運ぶのが女たちの日課だったようである。長兄は大工の跡取りとして祖父から期待され、厳しく指導されていたようである。だが、長兄の方は大工に向いていないのかあまり熱心に仕事をしなかったので、ますます祖父から叱られた。そのうち長兄は大工をやめて、折から国策としてすすめられていた満州開拓に妻とともに行くことにした。長兄は結局のところ、極寒のシベリアに何年も抑留され、命からがらようやくの思いで日本に帰ってきた。一緒に行った妻も満州で生まれた赤ん坊も、ともに生きては戻れなかった。長兄は後妻を娶り、二人の子に恵まれた。長兄は村役場の仕事をしていて、大工の跡は継がなかった。
 私の母は「田舎の仕事に比べたら東京の仕事は楽だった」という。長い山道を重い桑の葉を担いで運ぶことに比べたら、肉体的にはずいぶん楽だったに違いない。特に私の母は同級生の中でも一番の小柄で身体が弱かったので、長姉より少ない量しか運べなかったそうである。母の年代の人たちは後の年代の人たちに比べて、総じて十センチ以上小柄のように感じた。家族が多いため、栄養が回らなかったのではないかと思われた。母の話では、母がある時、かさばって重い桑の葉を運んでいると、祖父が隠れてなにかをしているところに出会ったそうである。よく見ると祖父は一人ですべてのあんころもちを食べているところだったとの話。私も子どものころ一人でこしあん串団子をたくさん買い、店の前でその場で全部食べてしまったことがある。祖父に似ているような気がした。
 そんな祖父であるが、村の保育園に小さなジャングルジムを寄贈したりしていた。そのジャングルジムに祖父の名前が書かれてあった。祖父は大工はもうやめているようだったが、菜種だったか菜種油だったかあやふやだが、販売をしていた。小さな看板が出ていたが、お客が来る様子もなかった。
 国道を隔てた斜め向かいにあった旅館に風呂を貸してもらった。五右衛門風呂で木の底板がぷかぷかと浮いていた。
 標高が高く水の流れが速いせいか、稲核には八月だというのに蚊がいなかった。ところが、ハエよりかなり大きな虻に刺され血を吸われた。
 昔、柿などのフルーツの木がいくつもあった隣の庭は川村屋の求めに応じて祖父が譲り、ガソリンスタンドになったそうである。川村屋のおばさんは私たちが稲核から立ち去るころになると、必ずやってきて、私にお金の入った紙袋を渡すのだった。母が遠慮してその紙袋を必ずのように川村屋のおばさんに返した。おばさんはそれでももう一度渡そうとする。これが二、三度繰り返され、最後はおばさんが紙袋を強引に私のポケットに入れてしまうのだった。それもいつも五百円という大金であった。
 後妻の祖母は夏で暑かったせいで、祖父と同じように上半身はは白い肌着だけでいることが多かった。下はもんぺのようなものを穿いていた。私が飼い猫をかまってると、「へぇ、猫をかまうでねぇ。えろうかまうとひっかくだでな」と叱られたのを憶えている。
 東京電力のダムで堰きとめられる以前の梓川で泳いだこともあった。大きな丸い石がゴロゴロしている河原に下りて、狭くて浅い川を泳いで下った。深くて渦を巻いている危険な場所もあった。水が冷たいので、少し泳ぐと、じきに唇が紫色になった。戦死した叔父さんたちもここで泳いだのだろうかと思った。
 川以外には特に他に遊ぶところもなく、ロープでできた吊り橋を渡るのがスリルのある遊びであった。吊り橋は揺れるので怖い。床板の隙間から遥かな谷底が見えた。
 長兄の部屋の方に回ってみても、なかなか人の気配が感じられない。ステレオとかピアノがあるみたいなのだが、人がいるのかいないのか反応がない。「だれかいないのかー」とよんでみるのだが、なかなか反応がない。そのうち、二階の窓から長兄の嫁さんに良く似た女の子が顔を出した。目が合うとすぐ引っ込んでしまった。見ると、長兄の長男が建物の陰に隠れていた。彼はちょうど私と同じくらいの年のころであった。私の叔母に当たる母のすぐ下の妹だけが少し違って社交的だったが、私の母の一族はどうも、大人しい性格の人たちばかりであるようだった。私も学校では完全に無口で通っていた。ただ、家の中では内弁慶であり、たまには面白いことを言って母を笑わせていた。また、自分の大切にしていたプラモデルを弟が足で踏みつけ、壊してしまったのに謝らないことを根にもち、母のいない時に弟をいじめて母を心配させていた。
 母のすぐ下の妹は若いころから人見知りしない性格で、よく国道を通るトラックに一人で乗せてもらっていたようであった。田舎の人はいい人ばかりなので何の問題も起こらないのだが、色々な事件が起きている昨今から考えるとかなり危ない行為のように思われる。が、叔母は平気でやっていたらしい。私たちも道を歩いていると、自動車が停まり、みず知らずの人に「どこに行くのかえ。同じ方向だで、乗っていきましょ」と声をかけられることもあった。
 梓川に下りる崖の下の湧き水もおいしかった。稲核の家は裏山からの湧き水を引いているようで、蛇口をひねると冷たくておいしい水が出てきた。その頃の東京の水道水はカルキ臭くて不快な味が舌に残る水だった。祖父が東京に来ると必ず水道の味の不満を言っていた。塩素で消毒しているので仕方がないものと思っていたが、今では東京の水もずいぶんうまくなっている。何でも本気を出して改善すればできるものかと今となっては思うものである。
 何軒かの庭を通って裏山の麓に行くと、道の傍らに水飲み場があった。ひしゃくが置いてあって水が飲めた。常に山から水が流れ、石で囲まれた場所に水が溜まっていた。そういう場所がいくつかつながって水が流れていた。こういうところにスイカを浸して冷やすこともできた。
 裏山の中腹には風穴と呼ばれる天然の冷蔵庫がいくつもあった。各家庭ごとにそれぞれ風穴を持っているらしい。私の母は「かざな」と言っていた。戸を開けて、中に入ってみると、夏だというのに、そこの気温は九度しかなかった。冷たい地下水で冷やされた空気が出てくる場所だった。
   (2015年「城北文芸」48号)

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B29 空の要塞

2022-05-08 17:32:41 | 小説「沖縄戦」

 一九四五年四月一日、沖縄嘉手納沖からほとんど抵抗らしい抵抗を受けずに上陸した米軍は南部の丘陵地帯で日本軍の激しい抵抗に会い、犠牲者が増え、征服に手間取るようになった。しかし、少しずつ激戦を制し、日本軍の司令部のある首里に肉薄していった。日本軍の主要部隊が首里から島尻南部の摩文仁に撤退するころになると、米軍は火炎放射器や火炎砲を備えた戦車をつかって、一つひとつの地下陣地や塹壕を破壊していった。嘉手納や読谷の穴ぼこだらけの飛行場はブルドーザーで整地され、駐機場も沢山整備され、上陸から十日目にはある程度使用可能になっていた。しかし、日本本土攻撃用の重爆撃機の基地にするにはさらなる工事が必要であった。日本軍がつくった珊瑚の岩を敷き詰めた滑走路は米軍の重い戦闘機や重爆撃機を運用するには層が薄すぎて、もっと厚くする必要があった。排水設備も不備であった。燃料を貯蔵するタンクなどを建設する必要もあった。五月、六月は連日激しい雨が続き、工事が遅れてしまった。千五百メートルだった日本軍の滑走路は二千メートル以上に拡張され、B29が沖縄に到着したのは八月を過ぎていた。
 B29は日米開戦前の一九三九年に開発が計画され、三年後の一九四二年九月に最初の飛行が行われている。四基のプロペラエンジンを持ち、九千メートルの上空から大量の爆弾を落とすことができた。最長航続距離は九千キロと言われ、遠く離れた場所を攻撃することができた。乗員はふつう十一名で、十二門の機銃と、後部に二十ミリ機関砲を持っていた。機関砲は戦局が日本軍に壊滅的に不利になり日本軍機の迫撃能力がなくなると、撤去された。
 最初はインドや中国内陸部にB29が出撃できる飛行場をつくった。この飛行場建設には現地の何万人もの中国人住民が動員され、石を運ぶなど、人力に頼って早期に建設された。一九四四年六月十五日に中国成都の基地を飛び立ったB29四十七機が夜間九州北部上空に飛来した。八幡製鉄所を狙ったものだった。最長航続距離九千キロとはいえ、それは通常の経済的な飛行での最大値に過ぎず、戦闘モードに入ればたちまち燃料を消費するため、中国からの日本本土攻撃は二千六百キロの距離にある九州までが限界とされた。九千メートル上空を飛行している限り、まず、日本の高射砲の射程外であった。九千メートル上空でB29に追いつける日本の戦闘機もまずいなかった。しかし、目標に爆弾を落とすには低空から落とす必要があった。結局、この時は八幡製鉄所の高炉に爆弾を命中させることはできなかった。B29二機が撃墜され、その他五機が帰還までに墜落し、米軍は合計七機のB29をを失った。中国奥地からのB29の攻撃はうまくいかなかった。その原因はまず第一に航続距離の関係で九州しか攻撃出来なかったことであった。そのために、日本軍は他地域から戦闘機を九州に集め、防衛する体制を強化した。八月二十日の八幡攻撃では山口県下関から発進した屠龍の体当たり攻撃でB29一機が撃墜されるなど米軍は十四機のB29を失った。
 米軍は一九四四年六月十五日サイパン島上陸を皮切りに、七月から八月にかけてサイパン、グアム、テニアンの日本軍守備隊を壊滅させ、飛行場を確保した。B29用に滑走路や駐機場を拡張し、日本本土に向け出撃させるのにはそう時間がかからなかった。十月から十一月にかけて、数百機のB29がマリアナ諸島の飛行場に続々と集結した。マリアナ諸島から東京までは約二千四百キロであり、十分攻撃可能な距離であった。
 十一月、米軍はB29による東京付近の偵察を行い、上空から写真撮影をした。その後B29による爆撃を試みたが、思ってもいない困難のあることがわかった。大量の爆弾や燃料を運ぶため、機体が非常に重くなり、離陸時に墜落するB29も少なくなかった。また、冬期は日本付近の高高度にジェット気流が吹いていることを米軍は知らなかったため、かなりの機体が目的地に到達できなかった。マリアナの飛行場に戻る途中で太平洋に不時着するB29が続出した。また、硫黄島から出撃した日本軍機がサイパン島のB29を破壊することもあり、B29護衛の中継基地として硫黄島確保が急がれることになった。米軍は二月十九日に硫黄島に上陸を開始し、一ヶ月余りの激戦ののち同島を占領した。すぐさま飛行場が整備され、長距離戦闘機ムスタングが配備された。四月上旬には、マリアナから硫黄島付近で合流したB29がムスタングに先導され、東京を空襲に向かった。
 高高度からの爆弾投下では効果が薄いということがわかり、アメリカ陸軍航空司令官ヘンリー・アーノルド元帥は一月二十日、ルメイ少将をマリアナに移った第二十一B29戦略爆撃グループ司令官に任命した。ルメイは中国から八幡攻撃を行なった際、実際に八幡まで到達したB29の数が少ないことに気がついた。また、パイロットは高高度から爆弾を落として引き返したがることにも気がついた。そこでルメイは自ら先頭のB29に乗り込み、先導し、低空から爆弾を落とさせた。司令官自ら先頭に立って危険を冒すのであるから、他のパイロットもそれに続く。そのようにして彼は爆撃精度を上げたのであった。まさに、鬼のルメイとでも言うべき司令官であった。
 また、彼は三月十日の東京大空襲を初めとする、都市部に於ける住宅地を狙った焼夷弾攻撃を命じた人物であった。彼は焼夷弾攻撃を命ずるに当たり、アーノルド司令官に作戦の裁可を求めず、自分の責任で命令を発した。彼はB29の後部にある銃座を取り除いた。そうすることにより搭載する爆弾の量を増やした。そして、昼間の高高度爆撃から、夜間低空爆撃に作戦を切り替えた。
 何人の民間人が死ぬかわからない作戦であった。彼はこの作戦に人道上の問題があることを自覚していたが、日本人が何人死のうとかまわないと考えていた。そのことに関しては少しの同情もなかった。
   (2014年「城北文芸」47号)

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米軍住民救出班

2022-05-07 14:32:59 | 小説「沖縄戦」

 1945年4月1日に沖縄本島に米軍が上陸してから、一ヶ月以上が経過していた。以前聞かされていた話と相違して米兵は意外と親切であることが山中に避難していた人たちに知られるようになり、半信半疑ではあっても、次第に米軍の収容所に収容される人たちが増えていった。
 そのような中でマイケルは収容所にいる沖縄人を連れて南部戦線に行くことになった。任務は、各地洞窟にいる沖縄住民を安全に救い出すことであった。
 ガールフレンドとはうまくいかなかったので考えることもなかったが、国に残っている病弱の母親は自分のことを心配しているのではないかと気になった。マイケルには弟が一人いたので、万一のことがあってもその分気が楽であった。彼はヘルメットの内側に母親からの手紙を折りたたんで貼り付けてあった。そこには、無事に任務をまっとうして帰還することを皆で神に祈っていると書かれてあった。
 マイケルは収容所にいる沖縄人の中から、米軍に協力的な者を選んで、住民救助隊に組み込んだ。そして、彼らはいくつかの班に分けられた。その中には片言の英語をしゃべる者もいた。その片言の英語をしゃべる彼は避難者用の堅パン製造を委託されていた食品加工工場の職員だった者で、山中に避難している最中に米軍と遭遇し、片言の英語で話しているうちに米兵が避難民に危害を加えないということが分かり、集団で投降したのであった。
 救出班に選ばれた沖縄人たちは海兵隊の本部に軍用トラックで移動した。海兵隊本部への移動に要した道路はブルドーザーで道幅が拡張され、蒲鉾状に整地されていた。短期日のうちにすばやく整地してしまう米軍の能力に彼らは目を丸くした。海兵隊の本部で、彼ら沖縄人には海兵隊の青い制服が与えられた。一番小さいサイズの服が支給されたが、それでも、袖や裾がだぶだぶであった。マイケルは彼らの服の袖や裾を捲り上げてやった。彼らには米兵と同じ給料が支給され、米軍の売店において肉や果物、菓子類など避難生活では考えられないような豪華な食事にありつくことができた。だが、南部戦線では食うや食わずで戦っている幾万人もの軍民がいることを思うと、目の眩むようなとまどいを彼らは覚えるのだった。
 マイケルが所属した住民救出班は隊長のスミス中尉以下米兵8名、そして通訳のマイケル、沖縄人3名のつごう13名であった。海兵隊と一緒に南部に向けて出発した。南部戦線では日本軍の粘り強い抵抗と、沖縄独特の激しい雨のため、米軍の制圧作戦がなかなか思い通りに進まなかった。しかし、米軍は激戦の末、嘉数高地を制し、日本軍の司令部のある首里に迫っていた。
 マイケルら救助班は海兵隊と一緒に、軍用トラックに乗り、数日間を過ごした海兵隊本部の瓦葺民家を後にして、牧港へと移動した。そこはもう首里から数キロの地点で、日本軍の射程距離内に入っていた。散発的に迫撃砲の落下する音が聞こえた。運悪くそれに当たれば死ぬかもしれなかった。
 マイケルたちは牧港近くの丘のふもとに穴を掘り、テントを張って露営した。米軍兵士は夜間はテント内に閉じこもることになっていた。暗がりの中、テントの外で生き物の動きがあれば、問答無用で撃ち殺される手はずになっていた。日本軍の得意とする夜襲攻撃対策のため考えられた作戦であった。日本軍はテントに忍び寄り、背後から米兵に襲い掛かり、口をふさぎ、音をたてずにナイフで命を奪っていく。米軍は南の島々で経験済みであった。時折、日本軍の砲弾が炸裂する音が聞こえ、マイケルはテントの中で夜眠れなかった。真夜中の2時ごろ、海岸方面で銃撃戦の音が聞こえた。日本軍の逆上陸かと緊張した。
 翌日、日本兵が海兵隊に捕らえられたという一報が救援班に入った。マイケルは救助班の一人の沖縄人をつれて、その捕らえられた日本兵に会いに、海兵隊の本部に行った。その日本兵は糸満出身の漁夫で、応召された一兵卒だった。数日前に読谷沖の米艦船攻撃を命じられ、那覇港から爆弾を積んだ小舟を数人で漕ぎ、夜陰にまぎれて体当たり攻撃を敢行する予定だったが、米軍監視船に発見され、撃沈されてしまった。泳ぎのうまい彼だけが海岸にたどりついたのだった。それから捕虜になるまでの間、彼はなにも食べていなかった。マイケルたちが面会に行くと、最初は二世が尋問にきたのかと思っていた日本兵も、何を話しているかマイケルには聞き取れなかったが、沖縄人同士で話をするうちに、食事も堰を切ったように食べるようになった。あまり急に食べ過ぎるなと心配になったほどであった。米軍は日本人捕虜を戦車のキャタピラで轢き殺し、婦女子は片っ端から陵辱されるというのが、沖縄で流布していたもっぱらの噂であったが、マイケルたちのおかげで、彼は安心して、収容所に送られていった。
                      (2011年「城北文芸」44号)

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