城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

沖縄軍最後の命令

2023-04-18 13:50:14 | 小説「沖縄戦」

沖縄軍最後の命令    有馬八朗

 一九四五年四月一日に始まった米軍の沖縄侵攻作戦も六月を過ぎて、いよいよ大詰めを迎えていた。沖縄の日本軍は最南端の摩文仁方面に後退し、そこに司令部を移した。そして、圧倒的な物量の米軍の掃討作戦の前に追い詰められていった。
 沖縄本島最南端の摩文仁の洞窟に日本軍は司令部を移した。洞窟の南側はすぐに海岸である。この地域の海岸は険しい断崖が続いていて、アメリカ軍が大軍で上陸するには適さない場所であった。
 摩文仁洞窟の東北方向二キロくらいのところに仲座岳、北方向二キロくらいのところに八重瀬岳、その西隣に与座岳があって、日本軍の兵隊が洞窟に立てこもった。日本軍はこの狭い地域に全部でまだ三万人の兵士を擁していた。摩文仁の周辺には沢山の自然洞窟ができていて、中でも具志頭(ぐしかみ)には数百人も収容できる自然洞窟があった。ここには鈴木少将が指揮する混成旅団の大隊が入って固守することになった。
 小禄の海軍洞窟にいた海軍部隊の主要部隊は牛島司令官の発した命令を取り違えて、五月二十四日に砲台、機関銃座のすべてを破壊し、数百人の小部隊を残しただけで、南部に撤退を始めた。その海軍の動きを察知した陸軍司令部は海軍部隊に対し五月二十八日、海軍根拠地に復帰するよう命令した。
 海軍部隊の司令官だった大田実少将はすぐにに配下の兵隊を引き連れて小禄の海軍洞窟に戻った。しかし、砲台等はすべて破壊してあったので、抵抗する力は白兵戦を挑むか、自爆攻撃をするか、少人数で闇夜に敵のキャンプに忍び寄り、不意打ちをくらわすのが精いっぱいの抵抗であった。
 六月二日、牛島司令官は改めて海軍部隊に「撤退せよ」と命令した。その時、沖縄軍の司令部はすでに摩文仁に到着していた。その時、大田少将は意地でも最後まで海軍洞窟で戦う強い意志を持っていたものと思われる。二二六事件を思い出すまでもなく、日本軍にはいろいろと理由をつけて部下の者が内密に独断で行動を起こす傾向が見られた。
 その命令の二日後の六月四日には米軍の第六海兵師団が水陸両用車に乗って、小禄海軍基地の裏側に当たる那覇の海岸に上陸し、海軍洞窟を完全に包囲してしまった。洞窟には五千人の日本軍が息をひそめていた。この洞窟の攻防には十日ほどかかり、双方に多数の死傷者を出した。
 この海兵隊の水陸両用車は米軍にとって物資の補給の上でも役に立った。沖縄特有の豪雨によって道がぬかるみ、補給物資が前線の兵士に届けにくくなっていたため、兵士は食料を節約して戦っていたのだった。
 六月五日、海軍洞窟が米兵に包囲されようとしている時、大田少将は大本営、その他、陸軍宛てに、「軍主力の喜屋武(きゃん)半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地地帯に拠る(よる)わが海軍の奮闘により、すでに成功したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて小禄地区を死守し、武人の最期をまっとうせんとする考えである。ここに懇篤(こんとく)なる指導恩顧を受けた軍司令官閣下に、厚く御礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る」という同文の電報を発した。
 この大田少将からの電文を受け取った牛島司令官以下軍首脳たちは驚愕した。すぐに牛島司令官は大本営、その他、海軍宛てに、撤退を促し、陸・海軍合流し、最期を全うしたいと切望する旨打電した。その後、海軍部隊に再び撤退命令が発せられた。
 だが、大田少将の意志と決意が固かったためか、包囲されたため撤退不能に陥ったためか、海軍部隊は動かず、海軍基地にとどまったままであった。一気に陥落すると思われていた小禄地区の戦闘だったが、周辺の高地で日本軍はよく持ちこたえ、アメリカ軍をてこずらせた。双方に多数の死傷者を出した。戦況は毎日無線で摩文仁の司令部に送られてきた。しかし、ついに六月十一日になって、「敵はわが司令部洞窟を攻撃し始めた。これが最期である。無線連絡は十一日二三三〇を最後とする。陸軍部隊の健闘を祈る」という電報が八原の元に届いた。
 アメリカ軍の司令官バックナー中将は六月十日に、牛島将軍宛ての降伏勧告書を日本軍の前線内部に投下した。そこには「歩兵戦術の大家である牛島将軍よ。閣下の率いる軍隊は、勇敢に闘い、善戦しました。歩兵の戦略は、閣下の敵である米軍から、ひとしく尊敬されるところであります・・。閣下は本官同様、長年学校と実戦で経験を積まれた立派な歩兵の将軍であります・・。しかし、閣下もご承知のように思われますが、いまや日本軍の抵抗も数日で終わるであろうことは明白であります。これ以上悲惨な戦闘を継続しても有為な青年を無益に犠牲にするだけであります。したがって、人格高潔な将軍よ。速やかに戦いを止め、人命を救助せられよ」と大意書かれてあった。
 アメリカ軍は沖縄戦で住民や日本軍に向けて多数の宣伝ビラを飛行機や大砲から投下した。米陸軍の通訳が日本語に翻訳して投下していた。アメリカ陸軍の通訳養成所を出た伍長のマイケルも沖縄戦に参戦し、アメリカ軍に従軍していた。日系二世の通訳たちと協力しながら、ビラの作成に従事したり、時には拡声器を使って、前線に近い洞窟に潜む日本兵や住民の説得に当たった。
 六月十日ごろには以下のようなビラが住民や兵士向けに日本語でまかれた。
「生命を助けるビラ
一、このビラに書いてある方法通りにする人はアメリカ軍が必ず救けます。
二、そして國際法によって良い取り扱ひ、食物、着物、煙草、手當などを與えます。
三、男は褌、もしくは猿股だけを着け、女は自分の着ている着物で宜しい。直ぐ、必要な着物をあげます。
四、夜間は絶対にアメリカ軍の所へ來てはいけません。
五、此のビラは軍人軍属も一般人民も朝鮮人も誰でも使えます。
六、此のビラを持たなくても右に書いた通りにすれば宜しいのです」
 そのころ、沖縄南部の激戦の収まった戦線で、アメリカ陸軍通訳のマイケルは小型拡声器で、日本軍が立てこもっているとみられる洞窟に向かって「命を助けるので手を挙げて出てきなさい」と呼びかけた。何の反応もないので、マイケルは、ピストルを握りしめ、懐中電灯をかざしながら洞窟に足を踏み入れた。いつどこからか弾が飛んでくるかわからなかった。中に入ったマイケルはその場のあまりの悲惨さに言葉を失った。負傷した兵士や病気になった兵士が数十人も、足の踏み場もない洞窟の中で声もなくうめいていた。蒸し暑い洞窟内は悪臭で満ちていた。洞窟の外は激しい雨音がした。その雨が洞窟の中に流れ込み、水浸しになっていた。傷ついた日本兵には何の補給もなく、溺れそうになりながら、軽傷の兵士たちも死んでいくほかない状態であった。死亡した遺体の首にたくさんの白い蛆虫が湧いているのをマイケルは見た。
 日本の航空隊も多くて数機であったが、毎日のように決死の飛行を行い、喜屋武(きゃん)半島の陸地に向けて弾薬などの補給物資を投下しようとした。その量はわずかなものであったが、日本兵の期待を繋ぐものであった。
 最後の日本軍の司令部となった摩文仁の洞窟は海岸沿いの自然洞窟であった。すぐ裏側が崖っぷちとなっていて、断崖絶壁であった。洞窟の天井には鍾乳石が垂れ下がり、雨水が四六時中滴り落ちていた。八原大佐の寝棚の上からも水が滴り落ちてくるので、彼は眠れなかった。八原にはそれが水責めの刑にあっているように感じられた。
 日本軍の野戦築城隊が司令部の自然洞窟に発電機を設置し、電灯を灯したが、数日で断線してしまった。アメリカ軍の哨戒艇が至近距離を遊弋するようになり、崖に向けて機関銃を乱射するようになったのだった。崖下に設置していた発電機から伸びた電線が機関銃の乱射で切れてしまうのだった。
 また、断崖から数十メートルの海上を遊弋する米軍の哨戒艇から流ちょうな日本語で、「兵士諸君、諸君らは最後までよく戦った。しかし、勝敗はいまや決している。これ以上戦うことは無意味である。命は保証する。薬や食べ物も与える。崖下に降りて、我々のところに泳いでこい」と拡声器で呼びかけるようになった。
 日本兵はだれもそのような呼びかけを意に止めていないようであったが、八原は兵士たちの様子を注意深く観察していた。一人だけ、哨戒艇の方に泳いでいく者があったという報告が八原にあった。それが兵士だったのか住民だったのかは確認されなかった。
 司令部洞窟では食料も残り少なくなり、兵士等には一人当たり握り飯一日一個の配給となった。若い当番兵は日が暮れると、危険を冒して、周辺の農家の畑に食料調達に出かけた。砂糖黍やサツマイモが主だったが、大豆が見つかることもあった。勿論、断りなく失敬したものであった。サツマイモは小指大のものが多かったが、八原にとっては空腹時に食べる茹でたサツマイモは米よりもうまく感じるのであった。
 海岸の崖下に泉があって、住民や兵士が水筒を持って集まる場所があった。アメリカ軍の哨戒艇がそれを知ると、その周辺にたびたびやってくることになった。哨戒艇からの機銃掃射で泉の周辺に死体が折り重なるようになり、そこは日本兵の間で「死の泉」として恐れられるようになった。
 首里の司令部洞窟に八原たちと一緒にいた三十名ほどの女性たちが摩文仁の司令部洞窟を探し当て、やってきた。八原たちが彼女らと首里で別れる時、「私たちは女ではありません。一緒に死なしてください」と泣いて抗議した娘たちだったが、米軍によって軍民が島の南端に追い詰められると、彼女らは結局摩文仁の司令部を頼ってやってきた。娘たちは今までの苦労話を涙ながらに話すのだった。参謀長は、もうどこにいても同じ運命だとばかりに、彼女らの司令部滞在を許可したのだった。
 沖縄から本土に帰還を命じられて様子をうかがっていた神少佐が刳船に乗って沖縄を脱出することに成功し、与論島を経由して徳之島に到着し、そこから飛行機で東京に向かった。その一報が摩文仁の司令部にもたらされると、司令部の洞窟の中は羨望のため息で満たされたのだった。
 六月十七日になって、バックナー司令官からの降伏勧告文が摩文仁の沖縄軍司令部に第一線の兵士の手を通して届けられた。そこには敵の将軍に対する丁重な尊敬の言葉とともに、十二日をもって崖下の海岸に白旗を持った五名の代表を派遣することを求めていた。
 期限が過ぎていたこともあったが、日本軍の司令部にいた軍人たちはこの勧告文を一笑に付した。彼らの思いは、国のために尽くして、死んだあとで、魂となって靖国神社で会おうということであった。白旗を持って命乞いをすることなどありえなかった。それは最も軽蔑すべきことだった。
 摩文仁の司令部洞窟の北側二キロほどに八重瀬岳、その西側に与座岳、さらにその西側の海岸近くの真栄里の高地に日本軍は防衛線を展開した。八原はその残存兵力を三万人と推定したが、実際の戦力は未訓練の後方部隊や沖縄防衛隊の少年たちがその大半を占めていた。
 物量に圧倒的に優るアメリカ軍の昼間の砲撃は止むことなく相変わらず続いていた。米戦艦の大型砲弾が落下すると自然洞窟の司令部はグラグラと揺れ動いた。弱い部分の壁面が崩壊する時もあった。
 アメリカ軍は戦車などの爆弾による攻撃のみならず、新たに火炎放射器を使った攻撃を多用し始めた。米軍は洞窟の上に馬乗りになり、垂坑道からガソリンを投下した。これをやられると日本軍は防ぎようがなかった。結果は目も当てられないような日本軍兵士の悲惨な光景となった。洞窟にいた者は蒸し焼きになった。あるいはその前に煙で酸欠になり死亡するのだった。
 八原の元には前線から無電が次々と入って来る。八重瀬岳を拠点としていた弱体化した日本軍六十二師団は大した抵抗もできずに八重瀬岳を放棄した。アメリカ軍第七師団は東側から八重瀬岳を攻撃した。それと共に北側の八重瀬岳と与座岳の間の緩急部から浸透作戦を開始した。北側と東南側から挟撃された与座岳の日本軍二十四師団は、間もなくして与座岳の山頂を米軍に奪われた。すると、その後、殴り込み部隊の米海兵隊が俄然強襲攻撃を始めた。中央の国吉台は争奪戦が続いた。八原のところには国吉台が奪われたという報告が入るすぐ後に国吉台を奪い返したという報告が現地の守備隊から入ってきた。前線の西側の海岸沿いからは報告が届かず、八原は戦況の掌握ができなかったが、真栄里(まえざと)東南の高地を守っていた歩兵連隊の司令部の洞窟が爆雷攻撃を受け、連隊長以下全滅するという短い電文が到着するに及び、苦戦していることが知れるのだった。
 摩文仁の司令部洞窟の東側一キロ余の近距離に米軍戦車群が砲撃を始めた。西側二キロほどの真壁(まかべ)村付近をを米海兵軍団が侵入、同じく真壁村の南に位置する米須付近には米軍戦車数台が暴れ回っているとの報告が寄せられるに至った。電話が全く通じなくなり、時々無線が通じるのみだったが、やむなく徒歩で伝令が司令部にやってくるのだった。伝令たちの伝えるそれも「某大隊全滅」とか「某連隊長戦死」という八原には気分の滅入る報告ばかりであった。砲撃の音が司令部の洞窟近くで賑やかに聞こえるようになった。
 そんな中、アメリカ軍の司令官バックナー中将は西側の海岸に近い真栄里周辺の高地の戦いを視察していた。米軍第八海兵連隊が沖縄戦の最終局面になって増援のため沖縄に投入され、新たに第一海兵師団に追加配備されたのであった。第八海兵連隊はレーダー基地を建設するため、沖縄本島の西側にある島を攻略した後、六月十五日に沖縄本島に上陸した。その新参者の第八海兵連隊の戦いぶりの視察にバックナー中将はやってきたのであった。
 第八海兵隊は国吉台の道路を確保して日本軍を二手に分離し、一方を海岸に追い詰める作戦であった。六月十八日正午ごろ、バックナー中将はウォレス大佐と並んで海兵隊の戦車と兵隊が国吉台の谷を連なって侵攻する様を丘の上から一時間ほど双眼鏡で視察した。アメリカ軍の中将は普段星三つの付いたヘルメットをかぶっていたが、そのヘルメットが日本兵に狙われるあそれがあったので、部下から注意され、彼は無印のヘルメットに替えていた。視察を終えて、次の場所に移ろうとしていたその時、日本軍の砲弾が数発近くのサンゴ礁の岩に着弾し、サンゴ礁の破片を吹き飛ばした。その破片が中将の胸を貫通し、司令官はその場に倒れ込んだ。バックナー中将はその十分後、担架の上でアメリカ軍の兵士に介助されながら亡くなった。
 摩文仁高地の東側から米軍の戦車群が侵入を始め、大暴れして帰って行くようになった。アメリカ軍が摩文仁の司令部洞窟に到着するのもあと数日と予想された。司令部の最期の時はあと数日に迫っていた。
 戦線が混乱し、日本軍は諸部隊との連絡も不可能になりつつあった。連絡が届かない状態では司令部が各部隊に命令を発して指揮をするわけにもいかなくなった。牛島軍司令官は各部隊に発する最後の軍命令を起案するように命じた。
 沖縄での戦闘開始以来の全作戦命令が綴られた分厚い二冊の作戦綴りを大事そうに抱えた長野参謀は、「高級参謀殿、これが最後の軍命令です。参謀殿自ら起案してください」と八原に言った。
 八原は、最後の一人まで玉砕するということに疑問を感じていた。それでは日本民族滅亡ではないか。本土決戦でいたずらに死者を増やしていって、何を守ろうとしているのだろうか。敗戦を少しでも彼らに有利にして、大本営にいる彼らが生き延びようとしているだけではないのかと八原は考えるようになった。
 八原は長野参謀にこの最終命令の起案を頼んだ。それはやりたくないことを彼に押し付けた形だった。
「今や戦線錯綜し、通信もまた途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらばこの命令が最後なり」
 八原がこれを参謀長に持って行くと、長参謀長はいつものように赤インクに筆を浸し、「最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と太々と加筆した。
 牛島司令官はこれまたいつものように黙って淡々と署名するのであった。その沖縄戦最後の命令の意味するところは、今後は各々の部隊の判断に任せ、最後の一人が死ぬまで戦闘を継続しろということであった。六月二十二日に沖縄軍司令官たち二人が海を臨む崖の中腹で自害したあとも多数の犠牲者が止むことなく発生することになったのも、この最後の命令によるところが大きかった。各部隊は遊撃戦と称し、山にこもり、八月十五日の終戦後まで生き延びた部隊もあった。沖縄軍の正式な降伏調印式があったのはその年の九月七日になってからであった。牛島司令官や長参謀長らは自害していなくなっていたため、先島群島司令官の納見中将らが代わりに沖縄軍を代表して降伏文書に調印した。住民に対しても、降伏して捕虜になれと言わなかったため、六月二十二日以降も住民の犠牲者を多数増やす結果になったのだった。
 薬丸参謀は、沖縄軍の司令部が崩壊し、軍の組織的戦闘ができなくなった後の作戦計画を提案した。彼の提案では、各参謀は、前線を突破し、アメリカ軍占領地内に潜入し、各参謀が占領地内の残存小部隊を糾合編成して米軍に対し遊撃戦を展開すべきというものであった。
 薬丸少佐は彼の計画を提案した時に、八原の耳元で、「参謀は指揮官ではない。ここで死ぬ必要はない」と、低いが強い口調で囁いたのだった。参謀たちは無言で同意し、司令官の決裁を受けた。牛島司令官はいつもの通り淡々と具申通りに署名するのだった。
 六月十八日朝、長参謀長は、薬丸、木村参謀にアメリカ軍の包囲網を突破しアメリカ軍占領地内で遊撃戦を指揮すべく出撃の命令を下した。三宅参謀、長野参謀には、本土に帰還し、大本営に戦況、戦訓を報告せよと命令した。彼は八原高級参謀にも長野参謀とほぼ同様の本土帰還命令を与えた。
 八原は、後世の証のためにと参謀長が紙に書いた命令をしっかりと握りしめた。それと同時に八原には、「よくぞおめおめと生きて帰ってきたもんだ」と後ろ指を差す人たちの姿も容易に想像できた。本土帰還を命令した長参謀長に感謝しつつ、八原は、牛島司令官と長参謀長の最期を必ず見届けてから、この地をあとにしようと思った。
 六月二十一日になると、アメリカ軍の戦車群が稜線を超えて、摩文仁の部落に侵入し、小渡付近を防御する日本軍を背後から攻撃するに至った。部落の周辺にアメリカ軍の陣地が構築された。いよいよ司令部洞窟が攻撃されるのは時間の問題となった。夜には大本営から参謀総長、陸軍大臣連名の決別電報が沖縄軍司令部に届いた。その電報の中にアメリカ軍の司令官であるバックナー中将が戦死したというビッグニュースが入っていた。それは沖縄軍には初耳であった。海外のニュースが大本営を通じて入ってきたのだった。洞窟にいた兵士たちは、それを聞いて、戦争に勝ったような気分になった。長参謀長に至っては有頂天の極みだった。しかし、牛島司令官だけは敵将の死を悼むかのようにボーッと遠くを見ているような浮かない顔をしていた。
 六月二十二日、ついに米軍の歩兵は摩文仁の司令部洞窟の頂上を占拠し、真上から垂坑道に手榴弾を投下した。参謀長室付近に多数の死体が散らばっていると聞いた八原が垂坑道の近くにある参謀長の部屋に行こうと、多数の死体を乗り越えて進むと、参謀長室は崩れてなくなっていた。八原が付近を探すと、参謀長は牛島司令官の部屋の寝棚に座っていたのだった。両将軍の周囲には将兵が総立ちになり、護るように囲んでいた。部屋の隅には女性が泣き出しそうになるのをこらえて呆然としていた。八原が医療室を覗いてみると、誰かわからないほどむくんだ顔をした女性が二人ベッドに横たわっていた。八原が見るところ、彼女らを早く楽にするために軍医が青酸カリを注射する準備をしているところのようであった。
 夜になって、沖縄軍司令部は、両将軍の遺体を埋葬する係の副官部将兵十名と最後の電報を大本営に送る通信部隊十数名を残して、他の全員が山頂を奪回する攻勢に出ることに決めた。そして、両将軍は奪回した山頂で自決することに決したのだった。
 いよいよ日本軍最後の攻勢開始の時刻が迫ってきた。月も出ていない漆黒の静かな時が流れていた。アメリカ軍の哨戒艇が二隻、洞窟の崖を監視するように、闇夜にひっそりと浮かんでいた。アメリカ軍のいつものパターンで、夜間は砲撃がパタリと止むのであった。
 先頭を切って工兵分隊が唯一開口していた副官部の洞窟出口から一名ずつ匍匐前進して出撃した。しかし、アメリカ軍からは手榴弾攻撃もなにも反撃の兆しもなかった。闇夜に浮かぶ崖の下のアメリカ軍の哨戒艇からの砲撃もなにもなかった。八原は、アメリカ軍はいつものように夜間は休んでいるのだろうかと思った。山頂付近で散発する銃声が聞こえたが、戦闘が始まっている様子でもなかった。
 やがて残る司令部全員の攻撃命令が下され、将兵が軍刀を携えて出て行った。作戦部の書記らもそれに続いたのだった。が、実際の戦闘の経験のない彼らに多くを期待することはできないと八原は考えていた。案の定、彼らは山頂に行く手前の断崖絶壁に阻まれて、引き返してきた。
 八原が山頂部奪還総攻撃は断念せざるを得ないことを参謀長に伝えに行くと、参謀長はすでに酒が回っているらしく、上機嫌であった。ろくに八原の報告も聞かずに、「まあ、いいから一杯やれ」と八原に酒を勧めるのだった。
 夜半を過ぎて、参謀長は山頂奪回を断念することに決し、司令官と参謀長は副官部出口で自決することになった。その他の者は夜が明ける前に洞窟を退去する手筈だった。
 午前三時ごろに呼び出しがあり、八原が正装して出口に行ってみると、将兵が列をなして洞窟を駆け降りる時を待っていた。司令官と参謀長は白い服装に着かえていた。その時、急に洞窟内に一発の轟音が鳴り響いた。それは二人の沖縄軍最高責任者が自決する直前に前触れもなく経理部長が短銃自決をした音であった。
 翌日、無抵抗の摩文仁洞窟を捜索した米軍は日本軍司令官のらしい軍服が落ちているのを発見した。洞窟の中はもぬけの殻だった。司令官の遺体はどこを探しても見つからなかった。      (初出『城北文芸』2023年春刊)
 


雲間の月明かり

2022-07-26 15:49:53 | 小説「沖縄戦」

 一九四五年五月二七日夕闇の迫るころ、首里城址の洞窟に陣取っていた沖縄軍司令部将兵は梯団を組んで次々と首里山を後にした。アメリカ軍の砲撃はやむことなく、首里山を揺るがし続けていた。
 アメリカ軍は日本軍が最後の一兵まで首里山で抵抗するものと予想していた。が、第一海兵師団の司令官デル・バッレ少将は五月二六日に日本軍がいろいろな洞窟に蓋をし始め、兵を撤退し始めていることに気がついた。彼はその日の午後すぐに空からの偵察を要請し、戦艦ニューヨークのカタパルトから偵察機を打ち上げさせて首里山の裏側の繁多(はんた)川谷地周辺を空から偵察させた。彼には日本軍が撤退するという直感が働いていたのだった。厚い雨雲の下で、折からの豪雨の中、日本軍はアメリカ軍に気づかれないように忍び足で逃げ出しているに違いなかった。
 案の定、偵察機からは、日本軍が首里山の裏側の道路を戦車やトラックを伴って移動している様子が報告されてきた。道路に溢れるように銃を持って移動していた。その数は数千人と報告された。
 雨で視界は極めて悪かったが、アメリカ軍はすぐに沖合の戦艦が砲撃体制に入り、占領した沖縄の飛行場に駐機していた海兵隊のコルセア五十機も加わって、首里山裏側の谷地に砲弾を打ち込んだ。攻撃態勢に入っていた海兵隊も射程圏内にいる者は谷地に向けて迫撃砲を打ち込んだ。
 それらの素早い攻撃の結果、撤退中の日本軍には数百人の被害が出た。谷間には日本軍のトラックや戦車も破壊されて散らばった。日本兵の屍が谷間の道端にいくつも転がっていた。
 この撤退劇の二日前の夜には日本軍の義烈空挺隊が熊本の基地から重爆撃機十二機に乗り込み、北飛行場(読谷)と中飛行場(嘉手納)に決死の殴り込み攻撃を敢行していた。
 これら双発の九七式重爆撃機一機には十四名の隊員が乗り込んでいた。そして、爆撃機が北飛行場と中飛行場に着陸すると、隊員が飛行機を飛び出し、手榴弾や小銃を使い、白兵戦を展開し、なるべく多くの米軍機や軍需物資集積所、司令部などを破壊する手筈になっていた。
 五月二五日夜に熊本の健軍飛行場を飛び立った九七式重爆撃機十二機はレーダーの探知を避けて、超低空飛行を続けた。飛行の途中でそのうち四機がエンジンの不調を理由として熊本に引き返した。
 夜七時ごろ熊本を出発した特攻隊は三時間半後の十時半ごろに沖縄上空に到達した。五機が北飛行場に、二機が中飛行場に突入した。米軍の激しい対空砲火によって、そのうち六機が撃ち落とされた。撃ち落とされた一機は高射砲の陣地に突っ込み、高射砲を操作していた八名のアメリカ海兵隊員をなぎ倒した。
 撃ち落とされなかった九七式重爆撃機一機が対空砲火をかいくぐって、北飛行場に胴体着陸をした。日本軍の爆撃機は管制塔の近くで停止した。米軍は日本軍の大胆な攻撃に不意討ちをくらい、大慌てで対空砲火を打ちまくった。アメリカ軍は自軍の弾によって駐機場に停めてあった自軍の飛行機にかなりの損害を与えることになった。
 胴体着陸した爆撃機からは十人くらいの兵隊が手榴弾や自動小銃を持って駆け降りてきた。後に米軍が点検してみると、三名は爆撃機の座席に座ったまま死亡していた。
 北飛行場の滑走路に降りた十人ほどは雄たけびを上げて、四方八方に散らばり、駐機している飛行機に爆雷を仕掛け、破壊していった。手榴弾を次々と投げ込んだ。航空燃料を貯蔵した六百本のドラム缶集積場に火の手があがり、赤々と燃え上がった。管制塔にいた中尉ら二名が死亡し、十八名が負傷した。中には片足を吹き飛ばされて防空壕に逃げ込むなど、米軍にとっては悲惨な状況となった。
 飛行場を守っていた米軍の海兵隊は白兵戦の経験がなく、敵の部隊が多人数だと取り違え、防空壕に避難してやたら目ったら弾を撃ちまくった。この流れ弾が駐機中のアメリカ軍の飛行機に当たり、損害が大きくなった。飛行場を守備していた部隊は近くの海兵隊部隊に至急援軍を要請したが、援軍がきたのは明け方だった。後の米軍の調べでは、コルセア戦闘機三機、長距離偵察用に用いられていたB二四爆撃機二機、C四七輸送機四機が破壊され、コルセア機二二機、ヘルキャット戦闘機三機、B二四爆撃機二機、C四七輸送機二機が損害を受けたとなっている。義烈航空隊の目標であったB二九は沖縄に配備されていなかったので被害はなかった。
 明け方にアメリカ軍の援軍が到着し、飛行場に潜む日本兵の掃討作戦を行った。最後の日本兵が次の日の昼過ぎに海岸沿いの雑木林に隠れているところを発見され、米兵に撃ち殺された。北飛行場は一時的に使用不能となった。

 五月二七日の日暮れ時、「第四梯団は第五坑道に集合」という号令が日本軍の首里山洞窟司令部に響き渡った。いよいよ首里山をあとにする時がきた。八原大佐は二ヵ月ほど過ごした蒸し暑い洞窟生活を思い出していた。三宅参謀が起案した各部隊に向けた感謝状を牛島司令官が忙しく清書していた。数十名いた若い女性たちは二十日前ごろに後方に撤退させた。彼女たちは、「私たちは自分たちをもう女とは思っていません。最後まで一緒にいさせてください」と言って泣いて抗議した。
 沖縄は雨季に入り、普段でも水が流れている坑道の足元は小川のように水が流れていた。第四梯団は牛島軍司令官、八原高級参謀ら五十名ほどであった。第五梯団は長参謀長や参謀たちなどやはり五十名ほどの梯団であった。
 牛島軍司令官は地下足袋に巻き脚絆のいでたちで、扇子を片手にジャボジャボと水浸しの坑道を歩いて行った。八原たちも司令官に遅れまいとついて行った。第五坑道との分岐点には水が滝のように流れ落ちていた。第五坑道には重武装の将兵がところ狭しと泥水に足をつかりながら出発の命令を装備品や糧秣の重さに耐えながらじっと待っていた。八原は「高級参謀だ。通せ、通せ」と叫んで、鮨詰めの坑道を無理やり坑口に向かった。
 第五坑道は百五十メートルほどの長さだった。坑口が見えてきた。牛島司令官らが洞窟から飛び出す頃合いをうかがっている様子が見えたが、坑口付近は兵隊たちが密集していてこれ以上進めそうになかった。八原が坑口近くの側室を覗くと、長参謀長や参謀たちと独立部隊の鈴木将軍たち幹部らがいて、乾パンをたべながらなにやら話をしていた。
 坑道の出口付近には砲弾が盛んに炸裂していた。米軍の照明弾が次々と投下され、夜空を明るく照らしていた。
 やや砲弾が途切れたころ、牛島司令官は決然と洞窟を後にした。四、五十名の兵隊が後に続いた。八原大佐もその後に続こうと駆け寄ろうとしたところ、出口付近に爆弾がいくつもさく裂して、二、三十人の兵隊があわてて戻ってきた。
 残った兵隊たちはまた砲弾の雨が小やみになるころを待っていた。一時間ほど経ったころ、砲弾が下火になり、長野参謀を先頭に八原大佐や長参謀長らが出発した。彼らは谷地の緩斜面を登っていった。後には縦隊が続いた。緩斜面を登り切ろうとすろころ、また、耳をつんざく迫撃砲の集中砲火が右斜面前方に落下した。八原大佐はすぐに左斜面の灌木中に身を伏せた。坂口副官は参謀長の手を取って斜面を引き上げ、「閣下早く」と声を掛けた。長参謀長はうつむき加減に八原大佐の傍らを通り過ぎて行った。密集した兵隊がそれに続いて行った。
 八原大佐は縦隊が通り過ぎるのを待って、洞窟に戻った。また一時間後、砲弾が途切れたころを見計らって出発することにした。三名が八原大佐にはぐれずについてきていた。側室に入って時期のくるのを待った。鈴木将軍は八原が戻ってきたのを見て、「怖気づいたか」と言わんばかりのあきれ顔をしていた。
 一時間後、やはり、思った通り砲弾の勢いが弱まった。今回は何があっても八原は戻れなかった。八原たち参謀部の四名は洞窟を飛び出した。鈴木将軍たちは深夜遅くに出発する予定のようだった。米軍の照明弾が広範囲に次々と打ち上げられ、八原たちの足元も照らし、足元にはっきりと影ができていた。粘土質の土が連日の雨で滑りやすくなっており、前進するのも容易ではなかった。一行ははぐれそうになるので、声を掛け合って前進するしまつであった。しばらくすると、重武装の日本兵が一人、俯せに倒れていた。ピクリともしなかった。艦砲射撃の砲弾が行く手に数発散らばって落ちた。米艦隊は日本軍が仕掛けた機雷を除去し、西側の東シナ海側と東側の中城(なかぐすく)湾に戦艦や重巡洋艦を配置し、海兵隊と合わせて、三方から砲弾を撃ち込んでいた。兵隊の心理で八原には自分たちが追いかけられているような気がした。谷地を登り、首里方面からやって来る迫撃砲の射程外に出たところで、八原たちはやや安心した。顔の汗が雨に流されて、心地よかった。二ヵ月ぶりに腹いっぱい吸った外気がこれほどうまいと思ったことはなかった。通り過ぎる兵隊の群れもあった。そんな中で参謀部の下士官二人と出会い、一行は共に行動することになった。
 将兵はまず、津嘉山(つかざん)の洞窟に撤退し、それから摩文仁(まぶに)に向かうことになっていた。繁多川谷地を登り切る手前で、八原は工兵連隊の洞窟を見つけた。しばし休憩をするために洞窟に入ると、連隊長がお茶を淹れてくれた。壕内は蒸し暑い上に煙草の煙が充満し息苦しいことこの上なかった。 
 八原大佐たちは繁多川谷地を登り切り、一日橋を避けて国場(こくば)川の上流方向に向かい川を渡った。一日橋は南部から首里に行く道路が集まる要衝で、米軍の攻撃目標になっており、日本兵数十人の死体が収容することもできずに横たわっているところだった。遠くの与那原(よなばる)方面で激しい戦闘音がはっきりと聞こえてきた。それが近づいてきている様子だった。八原は増援部隊が行っているはずだからこの辺はまだしばらくは安全だと自分自身に言い聞かせていた。
 八原たちは低いなだらかな丘が幾重にも連なっている地帯を歩いていた。道が小さな窪地につながっていた。窪地の底には一軒の農家が奇跡的に無傷で残っていた。砲弾がパラパラと低地の縁に落下していたが、一行は比較的安全と見て、農家の石垣の影に伏せて休憩を取った。雲の隙間に月が覗いて見えた。タバコを一服して出発のつもりが、皆が先を急ごうとしたが、八原はなかなか動く気になれず留まっていると、一行の目の前の斜面に砲弾が三発着弾して轟音とともに赤い炎が舞い上がった。幸い砲弾の破片は頭の上を通り過ぎたらしく、誰も怪我はなかった。
 八原たちはまず津嘉山の日本軍用に手掘りでつくられた洞窟に行き、そこから最終目的地の摩文仁の丘に到着する算段であった。津嘉山に近づくにつれ、砲弾が激しくなってきた。西から東から艦砲が飛んできた。北からの銃弾もやってくる。どこに着弾するかもわからないので、避けようがなかった。津嘉山の付近は丘が重層的に連なっており、どこが津嘉山の洞窟なのかも定かではなかった。暗闇の中を歩いているうちに一行はバラバラになってしまった。薄明りの中、八原がようやく地上の様子に気が付くと、日本兵の死体はかたづけられているらしく、あまり見当たらなかったが、銃器や装備品がそこいら中に散らばっていた。
 八原は人影を追いかけて、丘を駆け下り、また次の丘を登ると、途中に洞窟の穴が見えた。八原はそこが目的の津嘉山の陸軍洞窟かどうかわからなかったが、入って行った。洞窟には武装した日本兵が充満していた。
 津嘉山の陸軍洞窟は沖縄で一番大きな手掘りの洞窟で、端から端まで歩いて三十分もかかるほどだった。元々はここを司令部として構築を進めていたが、後に首里山の洞窟に司令部を置くことになったため、津嘉山の洞窟は食料や軍需品の後方集積地となっていた。軍の土木作業には住民の協力が欠かせなかった。飛行場の建設に成年男性の大多数が動員されたため、津嘉山の洞窟には残った地元の少年や女性たちが動員されることになった。八原には「勝つまでは頑張ります」と言った少年のけなげな姿が思い出された。
「高級参謀」と呼ぶ声があった。部下の薬丸参謀だった。別行動になった牛島司令官や長参謀長もすでに到着していることがわかった。暗闇の中はぐれてしまった長野参謀や参謀たちの身の回りの世話をしていた勝山伍長たちとも再会した。八原は下士官の案内で司令部に割り当てられた洞窟の部屋に向かった。
 暗くて長い洞窟を歩いていくと、八原は洞窟の片側の寝棚の上に半身を起こして八原をジッと見ている男好きのしそうな大柄の年増女性の存在に気が付いた。暗いランプの灯火の中で、蒸し暑さで眼鏡が曇っていたが、確か、あの女性は昨年末まで首里にいた辻町の女将ではなかったかと、八原は思った。八原は気が付かないかのように無言でその女性を通り過ぎたのだった。
 曲がりくねった坑道をしばらく歩くと、八原たちは割り当てられた部屋についた。八原大佐はすぐに部下の長野を連れて、隣の軍司令官の部屋に挨拶に行った。
 軍司令官の部屋には牛島司令官と長参謀長と経理部長がいて、上機嫌に食事をしている最中だった。「無事到着おめでとう。お前たちがなかなか顔を見せないから心配していたぞ。万一おまえたちが来なかったら命令起案も自分でやらなければならなくなると冗談混じりに話していたところだ」と長参謀長が言った。
 八原は将軍たちに挨拶を終えると隣室に戻り、汗と泥にまみれた軍服を着替えた。兵隊靴も新品をもらい、室外の坑道に揃えて置いた。津嘉山の陸軍洞窟は物資の補給基地となっていたため、必要なものは何でもあり、食料品もまだまだ豊富に貯蔵されていた。缶詰や酒もあった。割り当てられた部屋は四畳間ほどの広さの部屋で、両側に寝台が置いてあり、真ん中に机が一つあった。蝋燭の灯が結構明るく、本も読むことができた。
 津嘉山は軍の後方補給基地で、食糧は前線部隊より豊富に備蓄されていたが、前線部隊の兵士たちが一日二食で頑張っているのに自分たちが三食食べるわけにはいかないと前線と同じ一日二食であった。八原たちは経理部長による心づくしの赤飯をご馳走になった。長野はパイナップルの缶詰と酒をどこからか調達してきた。しばらくすると綺麗な娘さんがやってきて、接待をしてくれた。八原が聞いてみると、その娘さんはある銀行の支店長の女中の娘さんで、焼け跡になった部落の防空壕で母と二人で暮らしていたが、支店長の口利きで軍の洞窟に収容されることになったとのことである。数年前にはアルゼンチンにいたとの話であった。
 沖縄特有の豪雨によってアメリカ軍の戦闘力が阻害され、日本軍の退却はやりやすくなっていた。軍の退却を支援する体制として、残留部隊の他に、第六十二師団をもって米軍に対し退却攻勢に打って出ることを八原は考えた。また、那覇にある海軍洞窟の戦いも陸軍の退却支援には重要であった。しかし、第六十二師団の様子がおかしかった。攻勢に出るどころか、少しも自分たちの居場所から動こうとしなかった。なぜ動かないのか図りかねて、八原はイライラしてくるのだった。それどころか、あろうことか、那覇の海軍部隊は沖縄軍司令部からの命令を取り違え、重火器を自ら破壊して、海軍洞窟から南部へ撤退を始めてしまったのだった。
 八原が部下の参謀に意見を求めると、
「元気だった昔の六十二師団はもういません。数も少なくなり、攻勢は不可能です」
 と彼の部下は答えた。いつもは元気のいい八原の部下の参謀だったが、救いがたいくらい元気のない声だった。
 重火器を破壊して撤退を始めた海軍部隊にどういう命令を出すかも八原の頭を悩ませた。海軍部隊を重火器を破壊した海軍洞窟に戻らせることにすると、部隊を丸腰で米軍に向かわせるようなことになる。それは問題が起きそうな案だった。
 その部下の参謀の起案は、海軍部隊を洞窟に戻すという命令であった。それは問題が起きそうな案だったが、八原はやむなく起案に同意して参謀長に提出した。ここまでくると命令は参謀長による字句の修正を経て、司令官の名で発令される。いつものパターンである。責任は牛島司令官が取ることになるのだった。
 海軍部隊を海軍洞窟に差し戻す命令が発令されると、海軍部隊の参謀として派遣された後津嘉山洞窟に戻っていたある参謀は、自らを武装して海軍洞窟に向かおうとして、参謀長に止められるということが起こった。海軍部隊を海軍洞窟に差し戻す命令を出した数日後、間もなく牛島司令官は海軍部隊に撤退せよという命令を出したのだが、その時海軍司令官の大田少将はもうその命令には従わなかった。もう彼は撤退をすることはなかった。その後、大田少将は有名な「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という決別電報を発し短銃自殺を遂げたが、彼が命令に背いたものか、米軍が迫っていて撤退できなかったものかは、永遠に彼の胸の中に閉まったままになっている。
 沖縄軍司令部の津嘉山からの出発は五月三十日午後九時と決まった。将軍や参謀たち幹部は二台の木炭トラックに乗っての出発だった。その他の兵隊たちは持てるかぎりの食料品を肩に背負い、日没とともに徒歩で摩文仁へと向かった。
 木炭トラックが津嘉山陸軍洞窟の麓に到着したのは真夜中の十二時を過ぎていた。兵隊たちはすべて摩文仁に向かってすでに出発しており、洞窟内はがらんどうであった。八原には暗くさびしいかぎりであった。ヤモリのようなトカゲが洞窟の壁に吸い付いていた。坑道の縁に八原が揃えて置いておいた新品の軍靴はだれかが持って行ったらしくなくなっていた。こんな時にも盗む者がいるのかと八原は暗澹たる気持ちがした。八原は以前の汚い靴を履いて出発することとなった。出発の隊列を整えてから牛島司令官を案内しようと八原が思っていると、牛島司令官は案の定、自分からさっさと洞窟を降りて行った。八原は遅れまいと司令官の後を追って行ったが、途中で足を滑らせ、深い窪みに落下し、時計を失った上に顔や手にかすり傷を負うというありさまだった。暗く寂しい末路を暗示しているようなめぐり合わせだった。ようやくの思いで麓の自動車のところに到着したが、それは古いトラック二台で、トラックは一向に動かなかった。砲弾が周りの山頂あたりにひっきりなしに落下していた。やっと動き出した一台に首脳部が乗り込み出発した。トラックを運転する兵隊は暗闇の中をヘッドライトも点けずに器用に運転した。
 東風平(こちんだ)街道にさしかかると、歩兵の部隊が小集団ごとに見事に整然と行進していた。八原が聞いてみると、彼らは最前線に配置されていた部隊だった。この部隊がこの地点を歩いているということはすでにほとんどの部隊がここまで撤退したに違いないと八原は思って安堵した。
 東西を結ぶ道路と交差する交通の要衝の山川橋付近は大小の砲弾がさく裂した跡の穴だらけであった。死体が散乱し、死臭が漂っていた。橋の左右前後にひっきりなしに砲弾が落下していた。
 司令部首脳らが乗ったトラックは、ちょうど山川橋手前付近で、兵站輸送を担当する輜重(しちょう)兵部隊のトラック数台とすれ違った。道路がえぐれていて、八原たちはハラハラしながら辛うじてすれ違った。ようやくの思いで山川橋を通過すると、古い木炭トラックは急にエンストを起こして立往生した。「司令官殿とここで死ねるなら自分は本望であります」としおらしいことを言う者もいた。すぐに修理をして、トラックはまた動き出した。
 しばらく行くと、地元の少年らを召集した防衛隊の一団が軍需品を担いで北進してくるのに八原はトラックの上で出会った。前線への補給物資だった。鼻の下に産毛を生やしたような少年たちが担いでいるのだった。八原は故郷に残した息子たちのことを思い出した。八原は自然と頭が下がる思いがしたのだった。
 山川橋から東風平に出る丘陵の手前で、トラックはまたエンストを起こした。ここも米軍の砲撃目標地点だった。八原たちはすぐにトラックから飛び降りて、窪地を降りていくと、日本軍の砲兵隊が十数人砲弾を避けて休んでいた。その付近には黒焦げの死体がいくつも転がっていた。中には腰かけた姿勢で黒焦げになっているものもあった。
 また、修理を終えてトラックが動き出した。八原たちはトラックに飛び乗り、再び南下を始めた。トラックは先に津嘉山を出発していた娘たちの一群を追い越した。東風平部落は焼け跡になっていた。東風平部落を右折してトラックは志多伯(したはく)に出たが、そこは日本軍の砲兵隊の陣地のあったところだったが、集中砲火を受けた惨状となっていた。死臭が漂っていた。風呂敷包を抱えた避難民とおぼしき死体が多数見受けられた。八原は日本軍が退却を決めた時に住民は知念半島に避難するように命令を出したはずなのにどうしたことかと思った。まだ四百人の警察隊も県知事含め県職員も県民を守るために配置して健在だった。だが、実のところ陸軍の命令は遅すぎたのだった。知念半島はすでに米軍に占領されていた。住民は怖くて「鬼畜米兵」のいる半島にいく気にならなかった。日本軍が撤退する南部に住民も移動したのだった。
 製糖所を過ぎるころには首里方面からの砲弾は届かなくなっていた。代わりに糸満沖から米艦船の砲撃が激化した。それは大型の砲弾が多く、すさまじい轟音を伴って火を噴き炸裂した。路傍には軍需品が散乱していた。トラックも二両ひっくり返ったまま放置されていた。米軍機の機銃掃射でやられたようだった。荷を背負った子馬が主を失ったらしくあてもなく彷徨っていた。
 流れる雲の合間に月が顔を出した。遠くにはひっきりなしに照明弾が打ち上げられていた。トラックはゆっくりと走っていた。この戦場に子供の泣き声が聞こえた。八原が目を凝らしてよく見ると、七、八歳の女の子が荷物を頭の上に載せて歩いていた。八原は女の子に「どうした?」と問うたが、女の子は泣きじゃくるばかりだった。八原は女の子を助けようと女の子に手を伸ばしてトラックに乗せようとしたが、「高級参謀殿、戦場に情けは禁物であります」と丁寧だが大声で叱責する部下の声が聴こえた。ここで女の子をトラックに乗せて最期の洞窟に連れて行ったところでだれも助かるわけではない。女の子の親や知り合いが近所にいるのかもしれない。戦場に情けは無用とついに八原は悟るのだった。                               (初出2021年「城北文芸」54号)
 
 
 


疎開者の群れ

2022-07-14 15:30:31 | 小説「沖縄戦」

 太平洋戦争も末期の頃、米軍が沖縄に侵攻した。米軍としては、早期の沖縄占領後、日本が八月十五日に無条件降伏を受け入れたため実際には実行されなかったが、九州上陸作戦、九十九里浜上陸作戦を計画していた。米軍が沖縄本島に侵攻した一九四五年四月一日以前に米軍はグアム、サイパン、テニアンなどのマリアナ諸島をすでに占領し、飛行場を改修整備して日本本土に対するB二九による爆撃を行っていた。東京から二千五百キロのマリアナ諸島の飛行場を確保することによって、米軍はB二九による日本本島爆撃を可能とすることになったのだった。
 一九四五年の一月になると、米軍の艦船や航空機による攻撃が激しさを増し、沖縄に兵器や弾薬を輸送することが困難になってきた。食料物資の補給は二の次となった結果、兵士に配給できる食料は最大で半年分しか確保されていなかった。
 三月には、必死の思いで調達した迫撃砲弾七万発を搭載した輸送船三隻が鹿児島港から沖縄に向かう途中、奄美大島の辺りでアメリカ軍の爆撃を受け、火災を起こし、大損害を受けた。奄美大島で木造船に積み替え、なんとか戦闘開始直前に沖縄に到着したが、その数は一万五千発に減っていた。
 一九四五年四月一日の時点で、日本軍は十万人の沖縄全軍の兵隊を三ヵ月養うだけの食料を集積していた。そのほとんどは各地の前線部隊に配備されていた。首里の軍司令部壕には司令部全員が四、五ヵ月生きられるだけの食料が保管され、一日三度の白米と缶詰のおかずが調理されて出された。ビールや日本酒などもあり、参謀長などはスコッチウイスキーなどを隠し持っていた。たまには参謀たちに振舞うこともあった。
 沖縄近海にはアメリカ軍の潜水艦が出没し、アメリカ軍の沖縄上陸一年前の六月には輸送船富山丸がアメリカ軍の魚雷の餌食となっていた。駆逐艦による護衛にはさまれた船団を組んで、鹿児島湾から那覇に向かう途中、富山丸は徳之島沖で二発の魚雷を受けて船体を真っ二つにされ轟沈した。そこには四千人余の兵と千五百本のドラム缶に入ったガソリン、軍用車両、食料、砲、弾薬、などが積まれていた。ガソリンが発火し、海上に浮かんだ兵士は逃げることが出来ずに、三千七百人が犠牲となった。
 日本軍は前年の夏ごろから沖縄住民の避難計画を策定し始めた。沖縄日本軍の長参謀長からの要請を受け、日本政府は沖縄県知事に打電し、住民の島外疎開を命じた。それは戦闘に役立たない者たちを島外に送り、食料の消費を減らすことに目的があった。それで浮く食料を沖縄に派遣する十万人の兵隊に割り当てるものであった。老人、国民学校以下の子どもと婦女子を対象とした輸送船による九州や台湾などへの十万人の島外疎開を進めた。当初住民は日本が勝つものと信じているものが多く、また、未知の場所に移動する恐れもあって、なかなか希望者が集まらなかった。軍が命令を出し、隣組を通じて強力に勧誘した。また、十月十日に米軍の大規模な空襲があり、各地の軍事施設が攻撃を受けた。那覇市街の九割が焼夷弾攻撃により消失した。この空襲によって戦況の悪化が住民に知られるようになり、このことによって日本軍はようやく輸送船による疎開を進めることができた。のちには希望者が多くなり、輸送船が足りなくなり、学童たちが待たされる事態となった。それらの疎開船は砲・弾薬や兵隊の輸送に使われ沖縄に寄港した帰りの空の輸送船を利用したものだったが、その頃、海上にはアメリカ軍の潜水艦が出没し、米軍の偵察機が飛んでいて、海上輸送は非常に危険であった。住民は軍艦による輸送を望んだが、かなわなかった。
 そんな中で、一九四四年八月二一日、日没後、駆逐艦や砲艦に守られて那覇港を出港した三隻の輸送船があった。その三隻の一つである八百人近い学童を乗せた対馬丸が八月二二日の深夜にアメリカ軍の潜水艦によりトカラ列島の悪石島沖で撃沈されてしまった。台風が近づいている風雨の中、真っ暗な荒波に投げ出された子どもたちが海に浮かんでいた。乗船していた合わせて千五百名近くが犠牲となった。筏に乗って二隻の漁船に助けられた者たちや、近くの無人島に漂着した者もいた。奄美大島には水死した遺体が数多く漂着した。三百人近い生存者には箝口令が敷かれたが、親たちにはいつまでたっても子どもたちから手紙が届かなかったため、送り出した住民には察しがついた。疎開を強力に勧めた国民学校の校長に抗議をする者もいた。沖縄では親族の間で輸送船が沈没したという噂が蔓延した。子どもの消息を尋ね回るものは「流言飛語を流す非国民」とされ、憲兵によって留置された。学童の生存者は五十九人と言われている。
 こういう悲劇があったものの、疎開船に関する限り悲劇はこの一度だけで、一九四五年三月まで続いたアメリカ軍上陸前の疎開船は延べ一八七隻に及んだが、他の船は無事に任務を完了したとされている。されているというのは、政府はこのことに関する詳しい記録を持たないでいたためである。政府は疎開船の遭難を秘密にしたのである。戦後にいたっても関係者は口を閉ざしていた。対馬丸の事件が世間に知られることになったのは戦後十五年も経ってからである。だれも言わなければなかったものになってしまうに違いない。
 米軍は疎開船とわかれば攻撃しなかったものと思われるが、米軍は日本軍の無線を傍聴し翻訳し報告していたし、偵察機で様子をうかがっていたが、軍事物資を輸送しているものかどうか見分けるのは困難であった。
 百八十名を乗せて終戦直前の一九四五年七月三日に石垣港から台湾に向かった最後の疎開船第一千早丸と第五千早丸の二隻は尖閣諸島近海で米軍機の機銃掃射を受け、第五千早丸は沈没した。航行不能になった第一千早丸は修理して魚釣島に漂着した。一ヵ月以上も救助を待つ間餓死する者もあった。八十名が亡くなった。この時の機関銃射撃はアメリカ軍司令官のバックナー中将が六月八日に日本軍の砲弾を受けて亡くなったことに対する恨みの仕返しであったと言われている。
 富山丸や対馬丸の他にも沖縄近海でアメリカ軍の潜水艦による沈没事件は起きていた。一九四三年一二月には那覇から鹿児島を結ぶ定期航路に就航していた湖南丸が、海軍予科練習生や女子挺身隊、疎開者など七百人近くと郵便物などの貨物を運んで那覇を出発し、鹿児島に向けて口永良部島西方沖合を航行中、アメリカ軍の潜水艦から二発の魚雷を命中され、沈没した。生存者は五名と言われている。
 その他にも、神戸から鹿児島を経て那覇に向かった台中丸は一九四四年四月一二日、奄美大島西方海域で、アメリカ軍の潜水艦の魚雷を受け、沈没した。犠牲者は百人以上と見られる。
 鹿児島から名瀬、那覇に向かう定期航路を航行していた宮古丸は一九四四年八月五日徳之島近海でアメリカ軍の潜水艦から雷撃を受け、沈没した。軍人や軍属、民間人の乗客ら三百人近くが死亡した。軍需品や郵便物などの貨物も積んでいた。
 また、軍需品輸送に携わった玄武丸は沖永良部島近海で、同じく陵水丸は大東島近海で一九四四年四月に米潜水艦の魚雷の餌食になっている。
 その頃のサイパンや南太平洋では同様に軍艦はもとより、幾多の軍需物資や人員の輸送船などがアメリカ軍の潜水艦あるいは飛行機による攻撃で破壊されていた。台湾を含む東南アジアの海域において民間であるか軍艦であるかを問わず、無差別攻撃を可能とする指令がアメリカ軍司令官から米太平洋潜水艦隊に出されていたことがアメリカ軍の秘密記録でわかっている。
 その頃、アメリカ軍は潜水艦を急速に増強し約百隻を西太平洋に実戦配備していた。アメリカ軍の編成は実践部隊を三つに分け、三分の一は攻撃に使い、他の三分の一は基地で休養を取り、残りの三分の一は交代のための移動を行うというものであった。十か所のドックでは潜水艦の修理、点検を行っていた。
 民間人初の大量遭難は一九四二年五月八日に長崎県五島列島沖の東シナ海でアメリカ軍の潜水艦から雷撃を受けて沈没した大洋丸であった。軍人三十人以上と民間人千人ほどを乗せ、軍需品二千数百トンを積み込み、門司港を出発し、船団を組んで、護衛の軍艦に守られて、シンガポールに向かっていた。その中には東南アジア各地に派遣さる予定の日本人技術者が多く乗船していた。中には台湾南部でダム建設に従事した水利技術者八田與一も乗船していた。八田も含めて八百人以上が死亡した。
 日本軍も護衛の駆逐艦や護衛空母から飛び立った哨戒機などが爆雷を投下して威嚇した。アメリカ軍の潜水艦による日本軍の被害は大変大きなものがあったが、アメリカ軍にも被害はあった。戦争が終わる日までにはその潜水艦たちの二割は戻ってこなかった。
 アメリカ軍は日本軍の補給路を断つことを戦略目標としていたため、東南アジアからの日本の石油輸送船団は壊滅的な状況となった。潜水艦による被害は散発的な被害であったが、制空権が握られ、輸送船団が空襲されるようになると、船団が全滅に近い状況となった。一九四五年一月一二日にはベトナム沖でアメリカ軍の空襲を受け、油槽船、貨物船が沈没、又は炎上して、ベトナムの海岸に近かったため、いくつかの船が座礁した。海岸に近かったので、人的被害は少なかったが、これによって、石油の輸送が困難になり、戦争の遂行が不可能になりつつあった。一九四五年三月一四日に奇跡的に護衛艦との単独航でシンガポールから門司に入港した東亜丸が最後の南方石油となった。
 赤十字の救援物資を日本からマレー、ジャワに届けた帰りの阿波丸は一九四五年四月一日、台湾海峡で、軍人、軍需物資を積み込んだままアメリカ軍潜水艦の雷撃を受け沈没、二千人以上が死亡した。
 一九四五年三月になると、沖縄近海には米空母群が居座り、度重なる大規模な波状攻撃を加えるようになった。
 一九四五年三月一日、輸送船四隻と護衛四隻で船団を組み鹿児島から那覇へ向かっていた輸送船団は奄美大島の久慈湾に入り、錨を下して停泊していた。夜の帳が降りようとしている時、アメリカ海軍空母部隊から飛び立ったグラマン数十機に襲われた。慰安婦や一般乗客多数も乗せていた大信丸は二発の爆弾を受け、沈没した。爆薬やガソリンを運んでいた第十一星丸は大爆発を起こし、沈没した。乗客は事前に避難し、無事だったが、乗組員三十人以上が死亡した。金山丸も大爆発を起こして沈没した。大亜丸は浸水したが、加計呂麻島まで航行し、後日沈没した。乗客は加計呂麻島の山林に避難した。給糧艦杵(きね)崎は沈没したが、他の護衛艦三隻は損傷しながらも、佐世保に帰還した。
 この艦載機の大編隊は三月一日に各地を襲い、南西諸島では全体で十一隻撃沈されている。沖縄本島では水雷艇真鶴、特設砲艦白山丸、宮古島では敷設艦燕、輸送船とよさか丸、民間貨物船大建丸などが破壊されている。鹿児島沖縄間の定期船琉球丸は同日加計呂麻島付近でグラマン数十機に襲われ、爆弾二発を受け、岸辺の近くで沈没したが、乗客乗員は全員助かっている。三月一日名瀬港に停泊中だった呂宋丸は同じくグラマンの大編隊に襲われ沈没した。積み荷の非常米は前日までに荷揚げされていて無事だった。奄美大島北端沖を航行中だった石洋丸も空爆を受け同日に沈没している。
 いよいよ沖縄への空襲が激しさを増す中、三月一日の空襲で傷ついた輸送船を応急修理して集めた輸送船四隻と護衛艦五隻を船団として編成して、沖縄へ陸軍増援部隊や軍需物資を運ぶために、三月一三日に鹿児島港を那覇港に向けて出港した。そのうちの開城丸には沖縄の民間人も乗っていた。船団は危険を感じ、奄美大島に一時待機していたが、一六日に再び航行を始めたが、三月一八日夕刻に第三筑紫丸が潜水艦による雷撃を受け、沈没した。
 ちょうどその頃、アメリカ軍航空部隊は九州、瀬戸内海の軍事施設の攻撃を行っていた。迎え撃つ日本軍航空隊との間で九州沖航空戦が戦われた。状況の悪化を受けて、船団は一旦中国の舟山群島方面に退避することを決断した。船団は舟山群島に到着し、二、三日停泊した。大本営はアメリカ空母五隻を撃沈したと過大な戦果を発表した。船団は再び那覇に向け出航した。アメリカ軍の空母機動部隊はは大小十七隻の空母を持ち、四つの空母群に分かれていた。一つの空母群で四隻の空母とういうことになる。大抵一つか二つの空母群で作戦が行われるが、最大作戦の際は四つの空母群が連携して作戦を行う。空母機動部隊全体を指揮する司令官も二人いて、数ヶ月ごとに交代していた。
 この時の航空戦で日本軍の爆撃機は空母フランクリンと空母ワプスに爆弾を命中させ、 大きな損害を与えたが、大破に終わっている。フランクリンでは八百人以上が死亡し、ワプスでは百人以上が死亡した。空母フランクリンと空母ワプスは空母部隊から脱落し、米本土に修理のために帰還した。日本軍は、沖縄攻撃のためにアメリカ軍の大船団が集結したトラック島に近いウルシー環礁の内海に米空母機動部隊は帰還したものと思っていた。が、彼らは未だ沖縄近海に留まっていた。日本の輸送船団はマリアナ諸島から飛んできたB二四により発見されて、東シナ海を北上して逃げたものの、トカラ列島沖で、米空母艦載機百二十機の波状攻撃を受け、三月二四日全滅した。千人以上が死亡、生存者は数人であった。この時以降、日本軍は余りにも危険すぎるため、船団による沖縄への輸送を中止してしまった。
 日本軍の潜水艦もアメリカ軍の戦艦を撃沈していた。極秘の任務で広島の落とされた原爆用の部品と核材料をテニアンに運んだアメリカ海軍の重巡洋艦インディアナポリスは一九四五年七月二八日乗員の訓練のためにレイテへ向けてグアムを出港した。二日後の七月三十日の未明、日本軍の潜水艦発射による魚雷が主砲の爆薬を誘発し、インディアナポリスは大火柱とともに轟沈した。九百人近くが死亡した。
 現地徴集軍人軍属、兵、防衛隊、学徒隊、義勇隊等二万五千人余を除くと、島内に残った住民は約三十万人と推定された。ちなみに一九四四年二月の沖縄県の人口は四十九万人余であった。
 沖縄日本軍は一九四四年夏に沖縄本島内住民疎開計画を定めた。沖縄軍はアメリカ軍の圧倒的な人的物質的な優位の下に地下壕に潜んだ持久戦を準備していた。本島南部の人口の多いところが戦場となる予定であった。本島北部はアメリカ軍の上陸とともに、すぐにアメリカ軍の手に落ちることは自明の理であった。北部には遊撃隊を組織し、山に籠ってゲリラ戦を戦うことになっていた。
 日本軍高級参謀の八原大佐は、恐る恐る、住民をアメリカ軍が支配するであろう北部に疎開させるという計画を日本軍司令官の牛島中将に相談した。当時は一億玉砕の標語が日本中に溢れ、サイパンでは日本軍が玉砕するともに米軍に追い詰められた住民が次々と海岸の断崖絶壁から海に身を投げて自殺した。日本ではこれらが美化されて報道されていた。
 八原は叱咤されるかと恐れていたが、牛島中将はよく言ってくれたとばかりに、即座に快諾した。
 戦闘や建設、農耕などに足手まといになる六十歳以上の老人や子どもや女性は米軍上陸前早期に北部に疎開する、その他の非戦闘員は米軍が上陸する直前まで作業に従事し、上陸が迫るやすみやかに北部に移動する軍の計画が裁可された。
 問題は、南部は比較的に甘藷が豊富にあったが、北部は山岳森林地帯なので、食料の確保が難しいということであった。沖縄は米の自給率が少なく、台湾からの買い入れに頼っていた。足りないところを甘藷で補っていた。海上輸送が困難になり、住民用の米は五月末の分しか残っていなかった。軍隊用には十月までの米が集積されてあった。
 一九四四年十二月中旬に、沖縄ホテルで、軍と県首脳部との協議会が開かれた。八原は軍の代表としてその協議会に出席した。県知事は北部に疎開する住民の食料を確保すること、住民の疎開を進めること、軍は軍用自動車や舟艇を使って住民の疎開を援助することが示された。八原は米軍の上陸が迫っていること、戦場になれば米軍の砲弾で地上にあるすべてのものは吹き飛んでしまうであろうことを強い口調で警告した。
 県知事は協議が終わると、牛島司令官に会い、疑問点を質問した。知事と部屋から出てきた司令官は赤い顔をして八原をじっと見つめたが、一言も話さなかった。
 その後、県知事は県内疎開を協議するためと称して東京に出張した。県知事が沖縄を離れることによって県庁の士気は阻喪した。もっともらしい理由をつけて沖縄を離れる幹部が続出した。県知事は沖縄に飛行機で帰る予定の前日になって他県の知事として発令され、沖縄には戻らなかった。
 新任の官選沖縄県知事兵庫県出身の島田叡(あきら)が飛行機で沖縄に着陸したのは一九四五年一月三一日のことだった。島田は軍と折り合いの悪かった前任者と違い、八原の上官にあたる長(ちょう)参謀長とは旧知の仲だった。長参謀長から疎開者用に六ヶ月分の米の確保を要請された新任の島田県知事は早速二月中に台湾総督府に飛行機で飛んで行き、台湾米三千石の買い付けに成功した。海上輸送の困難な中、台湾米は三月に那覇に到着した。
 島田知事や荒井警察部長らは住民を疎開させるために奮闘した。前任の県知事が疎開に反対して動かなかったため荒井警察部長は苦労していたが、島田知事がきて疎開を大きく進めることができた。とは言っても、軍による戒厳令のような強制手段ではないので、住民の理解を進め、疎開を勧めることしかできなかった。住民はなかなか疎開に応じようとしなかった。「死んでもかまわん。ここに置いてくれ」と言って動こうとしない年寄りもいた。
 しかし、度重なる空襲を受けて、島外に疎開する人たちがいつ来るとも知れない船を待って、那覇埠頭にたむろするようになった。老人及び児童、児童を世話する女子たちが列をなして嘉手納街道を北へ向かった。軍のトラックも輸送に使われた。作業に従事していた非戦闘員も米軍上陸の直前に北部に疎開するという指示を日本軍は出していたが、米軍に捕まったら殺されると思っていた住民は怖気づいて南部に留まる者が多かった。住民は日本軍とともに沖縄南部を逃げ回わり、住民の犠牲を多くしてしまった。
 一九四四年七月にはサイパンが米軍に陥落し、八月にはグアム、テニアンが占領された。日本軍が建設した飛行場はすぐさま米軍建設工兵隊のブルドーザーで拡張整備され、B二四が沖縄に偵察飛行に来るようになった。
 一九四四年十月二十日には米軍がレイテ島に上陸した。沖縄には連日のように本土の航空部隊が飛来し、フィリピンに向けて飛び立って行った。三ヵ月間でその数は三千機にも達したように八原には思えた。日本軍が保有する航空機の半数にも値する数であった。沖縄軍の航空部隊からも特攻隊員が選定され、フィリピンに飛び立って行った。皆十八、九の若い下士官であった。連日の爆音を聞いていると、戦況が好転するのではないかと八原は錯覚を覚えるのだった。
 ところが、戦況は一向に好転せず、日本軍は三千機の飛行機をすべて失ってしまった。若いパイロットが練習不足のためか、機械の故障のためか、戦場に行くまでに海に墜落してしまったり、米艦隊に近づいたとしても、飛行機のそばで爆発させる特殊な高射砲で撃ち落とされてしまった。
 一九四四年十月二四日から二五日にかけて戦われたレイテ沖海戦では、日本軍は残存空母、戦艦のほとんどを総動員して、アメリカ軍に挑んだ。大本営海軍部は十月二七日、敵空母八隻撃沈、撃破七隻、航空機撃墜五百機と発表したが、実際は軽空母一隻と小さい護衛空母二隻を含めた七隻の艦船を沈めたものだった。日本側は正規空母一隻を含め、空母四隻を失い、戦艦武蔵を含め、戦闘に参加した大部分の艦船を失ってしまった。
 大本営は当初首都マニラ市のあるルソン島での決戦を計画していた。航空優位の方針のもと、沖縄でも比島でも人力で苦労して飛行場の建設を進めていた。結果は、飛行場を使う間もなく、アメリカ軍機によって大部分の飛行機を破壊され、逆に米軍に占領され、米軍の飛行場になってしまった。米軍のために飛行場を作っていたような恰好になった。
 八原には大本営の計画が読めなかった。比島決戦なのか、本土決戦を計画しているのかであった。比島決戦であれば、大部分の兵力を比島に投入するべきである。本土決戦ならば、兵力を温存しておかなければならない。そうであれば、沖縄防衛は、本土決戦を遅らせるための持久戦となるはずである。
 一九四四年十月十日に那覇市は大空襲を受けた。十月十日は日本軍が軍事演習を予定していた日で、前日には沖縄ホテルで全軍の隊長などを集めて宴会が行われた。その次の日の早朝にアメリカ軍のグラマンが現れたのだった。八原は参謀たちと料亭に二次会に行き、深夜帰宅し、ほろ酔い加減で寝ていたところを、夜が明ける前に部下に叩き起こされた。電波探知機が敵機来襲を探知したのであった。
 空襲の第一波はグラマン百数十機による空襲であった。雲一つない晴天の中に銀翼を朝日にきらめかせて、多数のグラマンが飛行場めがけて突進していった。刻一刻とグラマンの数は増えていった。迎え撃つ日本軍機は飛び立つ前に破壊されるか、飛び立っても多勢に無勢、なすすべもなく撃墜されてしまった。第一波の空襲は数十分で終わり、その後一時間半くらいして、同数程度の第二波が来襲した。那覇港と飛行場を攻撃した。那覇港は黒煙が高く立ち昇り、ドラム缶から発火したような赤い炎が所々に散見された。港に停泊中の数隻はグラマンの攻撃で火災を起こし、港外に遁走した。ジグザグに走って魚雷をかわそうとのたうちまわっていた。その攻撃は一時間半程で終わって、グラマンは一斉に帰っていった。
 八原大佐は、この攻撃は米軍の比島上陸作戦を援護するためのものと予想していたが、米軍が沖縄にすぐにも上陸するのではないかという不安も持っていた。まだ洞窟の建設も終わっていなかった。
 洞窟の建設には坑木が必要であった。日本軍が主戦場と構える沖縄南部の半島は珊瑚礁が隆起して出来た地帯で、厚い地層となっていた。低い山脈のようにいくつもの丘が連なっていた。珊瑚礁の岩盤は硬く鉄兜のように砲弾を跳ね返した。珊瑚礁の岩盤を苦労して掘ると、その下には比較的柔らかい土丹岩であった。この土丹岩の落盤を防ぐために十分な坑木が必要になった。沖縄南部は住民が多く、土地は農地として開墾され、森林は残っていなかった。そこで、五十キロも離れた北部の密林から松を切り出し、南部に運ぶことになった。住民と協力し、切り出した木材を沖縄でサバニと呼ばれるくり船に乗せ、昼間の空襲を恐れて、夜間に運ぶのだった。道のあるところはトラックで運ぶこともできたが、空襲でガソリンの貯蔵庫を炎上され、残りがわずかになっていた。後の輸送のためにガソリンを確保しておく必要があった。長参謀長が中央に何度も要望していたが、掘削機のような機械力は供給されず、ツルハシやシャベルによって人力で進められた。そのツルハシやシャベルも不足していた。結局、兵が塹壕掘り用に携帯している十字鍬や小型のシャベルを使って掘り進められた。
 八原は第一波と第二波の間隔から類推して、第三波の空襲がくるまでに一時間ほどの猶予があるものと考え、軍医と一緒に自動車で那覇港に向かった。七万の人口の那覇市には人の気配がなく、通りは閑散としていた。住民は防空壕に避難しているのであろうか。目抜き通りの商店のガラスは爆風で飛び散っていた。臨時の救護所には重傷者や死体が運びこまれていた。港には大小多数の船が炎上していた。
 八原は沖縄ホテルに軍事演習参加のために宿泊していた宮古島と徳之島の将軍たちがいたことを思い出し、司令部に帰る前に立ち寄った。将軍たちはガラスが散乱した室内に悠然と構えていた。八原は二人の将軍を自動車に乗せて、司令部に帰還した。途中で第三波のグラマンがやってきた。グラマンが通りすぎるまで、自動車を降りて繁みに隠れた。
 グラマンは第五波までやってきた。主として飛行場と港湾に対する攻撃だったが、最後には那覇市街に焼夷弾を落としてきた。当時の那覇は強風が吹き荒れていた。強風にあおられ、焼夷弾はすぐさま那覇市全体を火の海にしてしまった。荒井警察部長の要求を聞き入れ、軍の救援部隊を投入したが、バケツリレーによる防火はすでに蔓延している大火に対してはほとんどなんの役にも立たなかった。
 日本軍は飛行場や港に配備してある高射砲や機関砲を使ってグラマンを迎え撃った。グラマン撃墜の報告は各所から上がってきたが、八原が見る限り、実際に墜落したのを見たのはただの二、三機ほどだった。
 日の暮れるころ、最後のグラマンが退散していった。軍司令部北側にあった小高い丘には司令部の将兵や勤労奉仕の娘たちが集まっていた。司令官や参謀長も群衆の中に呆然とたたずんでいた。那覇市の大部分は炎に包まれていた。那覇埠頭のあたりは大型の砲弾が次々と大爆発を起こし、宙に舞い上がった。炎は各地に集積された弾薬、銃弾を誘爆させ、豆を炒るような破裂音が続いた。小禄、糸満、与那原あたりも炎が天を焦がしていた。飛行場も被害は甚大で、ほとんどの飛行機は破壊されてしまった。大規模な攻撃だったが、人的な被害は比較的軽微だった。特に軍人の被害は海上が主で、陸上の被害は少なかった。島民の被害は五百人ほどだった。
 司令部では師範学校の校庭で昼食を準備していた経理部の者たち十人ほどに犠牲者が出た。グラマンに狙われたのだった。
 軍の物質的損害は、食糧全軍の一ヵ月分、砲弾数千発、銃弾七十万発、その他軍需品多数に上った。国民学校や平場の建物や埠頭の施設を集積場にしていたのがやられてしまった。もう少し注意深く考えていればよかったと八原は反省した。
 十月十一日、アメリカ機動艦隊は次に台湾を目指して、進路を変更してきた。日本軍航空部隊はこの艦隊に対し、カウンターアタックを開始した。九州方面から沖縄の航空基地に次から次へと飛行機が降り立った。八原は小禄の海軍飛行場を視察に行った。今は那覇国際空港となっているところだが、日本軍の飛行機がところ狭しと群がっていた。若いパイロットたちは出撃の緊張感でいっぱいであった。その中でも若さの特権か笑顔が絶えなかった。ものすごい爆音を残して、彼らは大空に飛び立って行った。
 軍司令部の門前には新聞社の掲示板があって、「敵空母十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻を轟撃沈、空母八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻を撃破」等の景気のいい戦果が掲示された。那覇市から首里方面に避難する住民たちは通りがかりにその掲示を見て、小躍りして喜んでいた。
 しかし、八原の胸にはこの戦果を額面通りに受け取れなかった。実際、全滅したはずの米空母機動艦隊はレイテ沖を目指して沖縄南方海上を遊弋しているではないか。今回の米機動艦隊艦載機による九州、沖縄、台湾の航空基地攻撃がレイテ上陸作戦の援護にあることは明らかだった。那覇市大空襲の十日後に米軍はレイテ島上陸を開始した。八原の元にはフィリピンに関して大本営発表以外の情報は入ってこなかった。噂のような話が聞こえてくるのみであった。それによると、フィリピンでも多数の飛行場建設に人手を取られていたらしい。航空優位の戦略思想に基づいて建設を進めていたのだった。米軍がレイテ島に上陸する二日前に、これら飛行場は米軍機に爆撃され、日本軍の航空機は大部分が破壊されてしまった。日本軍は木製の囮飛行機を並べたり、ジャングルに戦闘機を隠したり、カモフラージュの覆いを被せたりして被害を減らそうとしたが、かなりの部分を失ってしまった。米軍の航空基地を作ってやったような恰好になってしまったのだった。
 大本営は米軍の比島上陸を阻止すべく、捷一号作戦を発令した。八原の目にした電報には要旨「陸海空の総力を投じ、皇国の興廃存亡を賭して、最後の決戦を行う」と書かれてあった。八原には大本営から本土決戦の計画は知らされていなかった。比島の次は沖縄と予想して、沖縄防衛軍は急ピッチで迎え撃つ準備をしていたのだった。比島の決戦のために台湾軍の部隊が比島に送り込まれた。その穴埋めに沖縄軍の部隊が台湾に引き抜かれることになった。そのための軍の会議が台北で開催された。八原は自らが起案した沖縄軍の意見書を持ってその会議に参加した。その意見書には、「一兵団を引き抜かれるほどならば、むしろ軍主力をもって国軍の決戦場である比島に馳せ参ぜんことを希望する」と書かれてあった。この一文は相当強烈な嫌味の籠った反対論だった。高級参謀である八原が起案したものを長参謀長が語句を修正し、牛島司令官がそのまま裁可するといういつものパターンで決定されたものだった。八原は長参謀長から、軍司令官の決意は意見書に明確に書いてあるから余分なことは台北会議で何もしゃべる必要はないと言われたので、彼は会議でいっさい黙して語らなかった。このことは会議の参加者には相当生意気な態度に映ったに違いなかった。
 確かに言葉通りに比島を最後の決戦場にするならば、その後の防衛は必要がなくなる。しかし、大本営は、最後の決戦と言いながら、次の米軍沖縄上陸に備えているのだった。
 大本営から本土決戦の方針が沖縄軍に正式に伝達されることはなかった。ただ、沖縄軍に属していた第九師団が台湾軍に引き抜かれたのち、姫路の一師団が沖縄に増派されるという話があり、沖縄軍首脳たちは期待していたところ、その日のうちにそれが取り消されるということがあり、台湾軍の参謀長が飛行機に乗ってその説明のために沖縄にやってきた。つまり、沖縄軍に増派はないということ、比島に軍需物資の輸送が不可能となったため、その分を沖縄軍に与えるとのことであった。諌山中将は大本営は本土決戦の準備に熱中していると力のない様子で立ったまま長参謀長や八原大佐に話すのだった。
 ここで八原は沖縄軍の役目が持久戦を戦い、一日でも長く沖縄戦を引き延ばし、本土決戦の準備を助けることにあることを悟るのだった。しかしそれは沖縄の多くの人々の犠牲と本土決戦で起こるさらに多くの本土の人々の犠牲の上に何かを守ろうとしているのだった。                      (初出2020年「城北文芸」53号)


小説 嘉数の戦い

2022-06-26 15:38:24 | 小説「沖縄戦」

 千九百四十五年三月二十六日、米軍はまず、沖縄本島に上陸する前に那覇から四十キロほど西方に位置する慶良間(けらま)列島に上陸した。日本軍はそれを知って大変あわてた。慶良間には特攻用のベニア製エンジンボートを数百隻隠してあったのである。米軍上陸により、海上特攻隊員は自ら舟を破壊し、山に逃れ、持久戦を戦うことになった。米軍は掃討作戦を行わなかったため、彼らは終戦まで生き残ることになった。鬼畜米英と教えられていた島の住民の中には洞窟の中で殺し合い、自ら命を絶った人たちが多数にのぼった。 
 四月一日、米軍はいよいよ沖縄本島嘉手納沖に千五百隻の船を集結し、二十キロほどの長い海岸に上陸した。初日に上陸した六万の米軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けずに前進した。海兵隊は二日後には東海岸に到達し、北上した。沖縄に上陸した戦闘部隊は十五万四千人に達した。
 四月二日、米陸軍第九六師団は南部に向けて進撃を開始した。南部の丘陵地帯の地下をくり抜いた洞窟には十万の日本軍が息をひそめて敵が来るのを待っていた。
 マイケルは通訳として陸軍に同行し、連行されてきた沖縄出身の民間人から日本軍の情報を聞きだそうとしたが、だれも日本軍の居場所を教える者はいなかった。
 日本軍は昼間は洞窟の中でじっとしていた。攻撃に出るのは常に夜間であった。それも少人数で夜陰にまぎれて敵陣に近づき、気づかれないようにナイフを使って忍者のように一人二人殺すのを得意としていた。
 米軍の方は戦闘は昼間のみ、工場労働のように時間になると攻撃を止めてしまう。夜は外出を禁止し、テントの外で動いたものは問答無用ですべて撃ち殺すことになっていた。
 四月四日から八日にかけて、米軍は日本軍の強い抵抗を受けるようになっていった。ついに米軍は日本軍が潜んでいる洞窟陣地の地帯に到達したのであった。尾根と谷が幾重にも連なった地帯であった。米軍はここで大変苦しむことになった。そこは首里にある日本軍の司令部から五キロほど北方にある陣地で、東西の海岸線までの距離は十キロほどであった。米軍の南進を止めるべく配置されていた。その阻止線の真ん中にあるのが嘉数高地であった。ここは東西に連なる陣地の中でも最も激しい戦いが行われたところであった。
 嘉数高地は標高百メートルくらいの小さな二つの丘で、駆け登れば二、三分で登れるような低いそれほど急でもない斜面であったが、米軍は多くの出血を強いられたのであった。ここを制圧するのに米軍は大変な苦労をした。日本軍は沖縄の住民を動員し、シャベルやつるはしで岩をくり抜き、地下要塞をつくっていた。コンクリートで固めたトーチカをつくり地下通路でつなげていた。谷は狭く、戦車が通れなかった。横腹から回り込もうとすると猛烈な砲弾が降り注いだ。沖に展開する戦艦からの砲撃はほとんど効果がなかった。
 四月九日、アメリカ軍はこの嘉数高台の二つの丘を占領するために攻撃を開始した。三つの大隊のうち二大隊に攻撃を命じた。残りの大隊は予備に待機させていた。アメリカ軍の攻撃パターンは、予備の部隊をとっておき、一定の攻撃が終わると、予備の部隊と攻撃を交替するのである。日本軍は常に休養十分な相手と戦うことになる。
 この二つの大隊はそれぞれ三つの中隊に分かれ、一つの丘に対し二中隊が攻撃し、一中隊は攻撃に参加せず、待機した。
 通常、米軍は暗いうちに攻撃することはなかった。だが、西側の嘉数高台を攻撃した中隊は夜明け前に丘を駈け登り、丘と丘の平坦地に身を寄せた。もう一つの中隊は動きが遅く、夜が明けてから登ろうとしたが、敵の攻撃のためにふもとに足止めされた。
 米軍は嘉数高台が地下要塞になっているとは思わなかったので、簡単に制圧できると思っていた。
 日本兵がどこからともなく現れると、銃を乱射した。米兵は穴を掘って身を隠そうとしたが、珊瑚礁の岩盤は硬く穴を掘ることができなかった。手榴弾を投げ合う白兵戦となった。双方にかなりの死傷者が出た。
 嘉数守備隊の隊長は、複雑に掘り進められた地下奥深くに潜み、時には伝令を使って兵を動かした。
 日本兵は爆薬を抱えて突撃してくることもある。反対側の斜面から三百三十ミリ臼砲の砲弾が飛んできて、米兵は無防備状態であった。だが、米兵も必死でカービン銃を乱射し、手投げ弾を投げ、臼砲を破壊した。
 昼ごろになり、日本軍は四回の波状攻撃を敢行した。自軍の迫撃砲が落ちる中爆弾を抱えて突撃した。捨て身の攻撃である。これらの四回の攻撃は撃退されたが、アメリカ軍にはかなりの心理的ショックを与えた。顔に迫撃砲の破片を受けて負傷した中隊長は無線で援軍を要請したが、夜明け前に嘉数に登れなかった部隊はふもとから一歩も上がれる状態ではなかった。気性の強いエディ・メイという米軍の司令官は撤退すればより多くの犠牲者がでるという理由でガンとして撤退に反対した。
 しばらく考えていた中隊長はメイ大佐ではなく、化学砲兵隊の隊長に煙幕弾を打ち込むように要請した。煙幕のおかげで中隊は負傷者を連れて安全にふもとに戻ってきた。
 頂上に残された動けない負傷兵を助けに再び登る勇敢な兵隊もいた。日本兵をたくさん殺し、負傷兵を連れて戻ってきた。もう一度登った時に戦死し、名誉のメダルを贈られることになった。沖縄戦の戦闘で特に戦果をあげて戦死した歩兵の名前は戦後沖縄の米軍キャンプの名称として命名され、キャンプハンセンとかキャンプシュワブとして残った。
 初日のこの攻撃で米軍の死傷者数は三百人余りだった。日本軍は千二百人の守備隊の内半数の六百人を失った。
 翌日、米軍は歩兵四大隊三千人を動員した。砲兵隊の十五センチ砲などと空爆、沖合の戦艦による砲撃を加え、物量による制圧を試みた。この珊瑚の丘や洞窟の形を変えるばかりの大量の爆撃は日本軍にかなりの死傷者を出しているのは明らかだったが、いざ、砲撃を止めて、歩兵が丘を登ろうとすると、銃弾が飛んできて登れなかった。機関銃や迫撃弾も飛んできた。砲弾の重さが三百キロもある臼砲も健在で、着弾すると五メートルの大穴をうがった。
 アメリカ軍も死を賭して坂を登るのだった。やがて、沖縄特有のスコールがやってきた。激しいどしゃぶりであった。これによって二日目の戦闘はまたしてもアメリカ軍の失敗に終わった。
 三日目も四日目もアメリカ軍は嘉数高台の制圧を試み、陸、海、空からの大量の援護爆撃の後に丘を侵略にかかったのだが、そのつど撃退させられた。それどころか、三十三センチの臼砲が健在で大穴をうがち、それが地滑りを起こさせ、米軍が救援基地としてつかっていたふもとの洞窟を塞ぎ、米兵五十名の死傷者をだすにいたった。
 日本軍は四月六日から菊水作戦と称し航空特攻作戦を行った。断続的に八月まで続いたが、合計千九百機が出撃した。その多くは低速の練習機を改造したものであり、パイロットもろくに飛行訓練もしていない未熟な若年兵であった。大部分は沖縄にたどり着く前に海の藻屑となって墜落してしまった。戦艦や駆逐艦には命中する前に撃ち落とされてしまい、命中できたのは補給艦ぐらいだった。
 アメリカ軍の攻撃の要は物量作戦であり、大量の弾薬を必要とした。六日からの日本軍の特攻作戦により、九州の基地から飛び立った特攻機が米艦隊を襲い、二隻の補給艦を撃沈した。これにより、弾薬の補給が一時遅れてしまい、米軍の沖縄戦勝利を遅らせる要因となった。

(初出2007年「城北文芸」41号)


お天道様

2022-06-07 14:44:10 | 小説「沖縄戦」


 一九四五年四月一日に米軍が沖縄に上陸してから二か月近くが過ぎ、米軍が一つ一つ徐々に日本軍の洞窟陣地を破壊し、いよいよ牛島中将ら幹部が立てこもる洞窟に近接してきた。作戦参謀の八原大佐は玉砕戦術、バンザイ攻撃に傾きがちの長参謀長を批判的に見てきた。八原大佐は幾人かいる参謀の中でも主に作戦の計画を策定する中心であった。だが、作戦は参謀長の指示の下に八原大佐が策定した。作戦は参謀の間で議論し、参謀長がまとめ、牛島司令官に裁可を求めるのだった。牛島司令官は今まで参謀長のもってきた作戦計画に反対したことはなかった。いつでも裁可だった。八原大佐は長参謀長の攻撃作戦指示の中でなるべく自軍の損害が少なくなるように作戦を立てたが、長参謀長を説得して攻勢作戦をやめさせることはできなかった。
 一九四五年四月一日の時点で、日本軍は少なくとも三か月分の食料を各洞窟陣地の中に集積していた。首里の本部陣地には五か月分の食料が貯蔵されていた。本部陣地には一流の料理人や菓子職人もいて、白いご飯や缶詰のおかずもあった。おやつまで食べられた。ビール、日本酒、ぶどう酒などもあった。参謀長はウイスキーを秘蔵しちびちびと飲んでいた。発電機が稼働しており、洞窟内は常に電灯がついていた。外気を取り入れる通風機も機能していた。司令部内には女性も勤務していた。盛装して化粧した彼女たちのおかげで洞窟内は華やいだ。その娘たちも五月の中頃には司令部の指示で後方に撤退していった。
 摂氏三十度を超す洞窟内の温度と、高い湿度のため、洞窟内は常にべとついていて、兵隊たちは汗疹に悩まされた。タバコもカビが生える状態であった。
 五月も終わりに近づくと、日本軍は幾度かの米軍に対する無謀な攻撃で主力戦力を大幅に失ったあげく、首里の地下陣地を放棄して、豪雨と厚い雨雲を味方につけて、南部喜屋武半島を目指して、十万人と言われる沖縄守備軍の内生き残った約五万人の兵が南へ撤退を開始した。 
 米軍による大量の戦艦からの砲撃と艦載機による空爆をうけながら、それでも日本軍はまだ輸送用トラック八十台ほどを温存していた。そのトラックに少なくなった日本軍が一か月ほど生き延びられるくらいの食料を積んで日本軍は南を目指して夜間出発した。八原大佐もそのトラックに乗って南を目指した。途中で豪雨が止み、雲の切れ目に月が顔を出した。夜の野原に幼い女の子が泣き叫んでいるのを八原は見つけた。八原は手を差し伸べてその女の子をトラックに乗せ、摩文仁へ連れて行こうかと一瞬思いが湧いた。しかし、乗せていったところで、最後は米軍に焼き殺される運命である。八原にはどうすることもできなかった。
 八原大佐は日本軍を南部に撤退させることで、沖縄戦を長引かせ、米軍の本土上陸を遅らせることが重要だと考えていた。そのために沖縄の人口の大きな部分を占めた南部住民を戦火に巻き込んでしまった。また、住民は知念半島に避難するという方針が出されたが、知念半島にはすでに米軍が展開していて、怖気づいた住民は結局日本軍と一緒に行動することになった。それが住民の被害を大きくした。
 日本軍と行動を共にしていた者には県知事や県庁職員、警察部職員等がいた。それらの者たちも南部に撤退してきた。また、首里の後方にあった陸軍病院も自力で歩けない重傷患者らに自決用の毒薬を与え、彼らを置き去りにして、摩文仁の壕に移動した。おにぎり一つを与えられた比較的軽傷の患者は南を目指して畑の中をさまよい歩いた。陸軍病院には県立女子高等学校の生徒たち二百人余が看護要員として従軍していた。
 米軍は日本軍が首里で最期まで戦うだろうと予想していたので、日本軍の撤退に最初のうち気づかなかった。また、梅雨の時期と重なり、厚い雲が垂れ込め、航空機の視界が利かなかった。そのため、日本軍は思ったより安全に撤退することができた。とはいえ、実際に喜屋武半島に到達したのは五万の兵のうち三万人だけだった。二万人は退却途中で死傷したか、動けなくなって途中に留まったものと思われる。
 沖縄南部にはガマと呼ばれる石灰岩でできた鍾乳洞が地下に無数に存在していた。天井には鍾乳石がつららのように垂れ下がり、常に水滴がポタポタと落ちていた。洞窟の底には水たまりができていて、水を飲むことができた。それが恰好の避難所となった。
 真壁村の大きな自然洞窟の中には住民三百人ほどが避難生活を送っていた。そこは奥行き百メートルはあると思われるほどの大きな隆起珊瑚礁の洞窟だった。地下に川が流れていた。
 日本軍が南部に撤退した時には日本兵や一緒に避難してきた住民たちがその大きな洞窟に入り込み、洞窟内部の避難者は倍の人数に膨れ上がった。
 そこに島田県知事や県庁職員、警察官たちも避難してきた。島田知事は日本軍が南部撤退を決めた時、軍司令部に対し首里放棄、南部撤退は住民の犠牲を大きくするとして反対を申し入れた。しかし、それはかなわなかった。また、軍司令部の早めの司令と強力な指導があれば、四百人の警官をまだ掌握していた島田知事や警察部長は住民を知念半島に避難させることができたかもしれなかったが、住民への避難指示は遅れ、知念半島にはすでに米軍が入り込んでいた。日本軍のしたことは住民の避難計画を策定することよりも軍事戦略、戦術を作成し、戦闘を長引かせることが主任務であり、住民の安全ということが頭の中の考えに入る余地がきわめて少なかった。むしろ、鬼畜米英の捕虜になるより死を選べという考えが住民に浸透し、渡された日本軍の手榴弾などをつかって集団自決をした人たちも多数いたくらいであった。そもそも命を守るという発想より、国のため天皇のために死ぬことが一億国民に求められていたのだった。
 だが、長参謀長はさておき、牛島中将や八原大佐が人命を散らすことを奨励していたとは思えないふしもあった。小禄の洞窟陣地に立てこもっていた海軍が、六月二日以降となっていた撤退命令を読み違え、五月二十六日に自軍の重火器を破壊して、南部に撤退を始めてしまった。それを知った牛島司令官は海軍部隊に小禄の地下壕に戻り三十二軍の撤退の支援に回るよう命令した。海軍沖縄方面根拠地隊司令官の大田少将は命令を誤読したことに深く責任を感じ、部隊を小禄の洞窟陣地に戻すとともに、そこで最期まで戦う決意を固めた。そして、いよいよ米海兵隊が小禄飛行場の海岸から上陸し、海軍陣地を包囲すると、六月五日、観念した大田海軍司令官は、沖縄軍司令部に決別の電報を送った。そして、次の日に東京の海軍次官あて、「沖縄県民斯く戦えり」という有名な決別電報を発した。その電報には天皇陛下バンザイという言葉はなく、沖縄県民の窮状と献身する姿が伝えられていた。
 三十二軍の撤退の支援に協力してくれた海軍部隊とせめて最期を共にしようと考えていた牛島司令官は大田少将の決別電報を読んで、あわてた。すぐに大田司令官に撤退命令を出したが、大田司令官の決意は変わらなかった。撤退命令の行き違いですでに海軍は手持ちの重火器を破壊してしまったため、米軍が包囲網を狭めてくる際には、歩兵による突撃戦術より方法がなかった。六月十一日、いよいよ米軍が海軍司令部の地下壕に集中攻撃を始めた。六月十二日に大田司令官は兵隊全員を一堂に集めたが、整列したものはわずか二百七十名であった。彼はそこで、自決ではなく、できるものに脱出を命令した。一万人の海軍を統括していたことになっていたが、海軍といっても実際は現地で招集した兵隊が多数であった。それに、海軍の精鋭部隊を含め、大部分を首里の防衛に援軍として送り込んでいた。六月十三日、三百人の傷病兵や数人の幹部将校たちは手榴弾を爆発させ、自決した。責任者である大田少将は短銃で自殺した。いわゆる玉砕であったが、できるものは生き延びよと命令もしていた。日本兵百五十九名の集団投降があったのもこの命令があったためと思われる。沖縄戦で初めての日本兵の集団投降であった。
 島田知事らはいまだに住民指導や警備隊本部と称していたが、今となっては、実際は外部との連絡は何もなすすべもなく、米軍の攻撃にさらされていた。空の上をトンボと呼ばれる軽飛行機が飛び回り、偵察していた。やがて艦砲射撃がはじまり、壕のちかくに砲弾が落下してきた。米軍の攻撃は照明弾をつかった夜間の攻撃もあったが、それも常というわけではなく、主には昼の間だけで、夜になると砲弾の音は静かになった。
 グラマンなどの米軍の艦載機も飛び回り、爆弾を落としていったが、夕暮れ時にはいなくなるので、その時が兵隊や住民が食料を確保するチャンスの時だった。砲弾の炸裂で土が掘り返された畑にもサトウキビやイモが残っていた。
 そのような時に日本兵十数人が壕の中にやってきた。これからここを野戦病院として使うから全員今すぐ壕から出ていけというのであった。小さい子どももいるのにとんでもないことをいう兵隊であった。もともと戦争を引き延ばして国体護持、天皇に有利に終戦を導こうとしていたのが沖縄に派遣された日本軍であるから、住民のことは二の次三の次であっても不思議でもなんでもなかった。彼らは大声で怒鳴り散らし、住民を追い出そうとした。「役人も警察も戦場にはいらん。早く出ていけ」と怒鳴るのだった。
 普段は温厚で知られる島田知事の顔色も変わるかに見えた。
「ここにおられるお方をどなたと心得る。沖縄県知事閣下にあらせられるぞ。警察部長もおられる。われらは沖縄軍司令部の命を受けて住民の指導と警護に当たっているところである。この壕を出て行けというのであるなら軍司令部の許可証を見せてもらいたい。それがなければこの壕を明け渡すわけにはいかない」
 と島田知事付の警視が断固として言い放った。もとより彼ら日本兵には許可証などあろうはずもなく、兵隊たちはすごすごと立ち去った。
 米軍の艦砲射撃が激しくなる中、洞窟の中にいた者たちは外部との連絡も一切できない状態であった。六月半ばごろ、島田知事は解散を宣言した。そして、知事と警察部長は一足先に軍司令部のある摩文仁を目指して避難して行った。
 知事と警察部長は洞窟を去ったが、その他の県庁職員や警察職員はまだ洞窟に残っていた。油もなくなり、やがて壕の中は真っ暗闇になった。
 その後いく日かして、十数人の敗残兵が洞窟にやってきた。彼らは乾いた一番過ごしやすい場所を占領すると、住民や県庁職員たちを湿った場所に追い出し、バリケードを作って入れないようにした。また、「子どもが泣き声を上げると、敵に聞こえるから泣かせるな、泣かせたら殺す」と脅した。
 いよいよ米軍が近づいてくると、壕の中にガソリン缶や手榴弾が投げ込まれ、兵隊や住民の間に死傷者が多数でた。洞窟の底を流れる川は血の色で赤く染まっていった。死体がいくつも川に浮かび、蛆が湧いてきた。死臭のする川の水を人々は飲んで生き延びるのだった。
 乳飲み子を抱えたお母さんは栄養が足りないせいか十分な乳が出ず、子どもがよく泣いていた。そのうち、やせ細った赤子は泣く力もなくなり、力つきて動かなくなった。お母さんは泣きながら「こんなときに産んでしまってごめんね」と言い、暗闇の中手探りで這いずっていき、その乳飲み子の遺体を洞窟の端っこを掘って埋めた。
 日本兵は住民が持っていたわずかな食糧も取り上げ、自分たちで食べてしまった。そして住民たちは食料になりそうなイモやサトウキビを探しに洞窟の外に出たかったが、日本兵が銃を持って監視していたため出ていかれなかった。壕内の情報が敵に知れてしまうという理由で外出が禁止されていた。そのため、高齢者などの弱い者から餓死する者も出てきた。また、母親の持っていた黒砂糖を日本兵が取り上げ、それを取り返そうとした子どもが日本兵に殺されるという事件も起こった。
 残留していた警官が見かねて住民を外へ出すように兵隊に要求した。兵隊は銃を握りしめて強硬に「まかりならんと」言うのだった。警官も、「これでは全員餓死してしまう」と強く迫った。新たな出入り口を掘って出ていく分にはいいことになったが、珊瑚礁の岩盤は鋼鉄のように硬く、ツルハシやシャベルを使っても簡単にはすぐに出入り口を掘って出ていくことはできなかった。
 住民は日本兵のいるところで沖縄方言でしゃべることができなかった。スパイと見なされ、なにをされるかわからなかった。
 その住民の中に沖縄出身の海軍上等兵が小禄の海軍地下壕を追われて洞窟に逃げてきていた。ハワイ出身の彼の妻も一緒だった。その後、二人は洞窟を出て、アメリカ軍の捕虜になった。彼の妻が英語を話したため、洞窟の様子が米軍に伝わった。彼女は米軍に住民の救助を要請した。
 アメリカ軍の通訳として従軍していたマイケル軍曹は捕虜となっていた具志堅というその海軍上等兵を捕虜収容所の有刺鉄線越しに尋問した。洞窟の中には日本兵がいるので、住民を救出するのは難しいということがわかった。そうでもなければマイケルは自ら洞窟に入って話をすることもやぶさかではなかった。とはいえ、マイケルは陸軍日本語学校で標準的な日本語を習っただけで、沖縄方言は話せなかった。なので、洞窟に入って説得するのは沖縄出身の二世が一番適役だった。沖縄方言で話すので信用されやすかった。
 具志堅という捕虜は自ら住民の説得を買って出た。米軍は火炎放射器による洞窟攻撃を一時中止し、彼に一人で説得に行かせた。
 彼が洞窟に入り、住民に方言で話しかけると、日本兵たちは「このスパイめが」と言って銃口を向けてきた。
「いま出て行かないと、これから一斉攻撃が始まって、皆殺しにされてしまう。手を上げて出ていけば命が助かる。これは本当だ」と彼は言ったが、皆は彼の言うことを本気にしなかった。結局、彼は二度三度と洞窟に通うことになった。
 彼が「本当にこれが最後だ。いま手を上げて洞窟を出て行かないと米軍の一斉攻撃が始まる。皆殺しにされる」と言った時に、ようやく住民の間で「どうせ死ぬのならお天道様を見て死のう」という声が上がり、住民たちは手を上げて洞窟を出て行ったのだった。こうして住民たちは救われたのだった。