城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

伊江島に死す

2022-05-20 11:30:23 | 小説「沖縄戦」

 米軍の沖縄本島への上陸作戦が始まったのは一九四五年の四月一日の朝であった。米軍は上陸するにあたって大きな犠牲を覚悟していたが、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けることなく上陸した。おびただしい数の輸送船や軍艦が嘉手納沖に集結し、海が見えなくなるくらいであった。数万人が遠浅の長い海岸めがけて上陸用舟艇に乗って殺到した。米軍はその日の内に北飛行場と中飛行場を占領した。
 陸軍の通訳としてマイケルは最後尾から上陸した。飛行場には米軍の空襲や艦砲射撃で破壊された日本軍の戦闘機の残骸が残っていた。滑走路は穴だらけであった。一九四三年夏から住民の力を借りて珊瑚の山を削り、土や石を馬に引かせて運び、整地をし、急がせて一年以上かかってようやく完成した飛行場も米軍の空襲にあい、十分に機能しないまま半年後には米軍に占領されてしまったのだった。米軍はブルドーザーを使い、三日間で補修を完了させ、とりあえず南部の日本軍に対する爆撃機発進拠点として使用できる態勢を整えた。さらに日本本土攻撃用の大型爆撃機の使用が可能となるよう飛行場の拡張、滑走路の強化、駐機場の増設を進めた。
 マイケルは十三キロにも及ぶ長い海岸線の南側から上陸した。南側には日本軍の砲撃もあり、大きな被害はなかったが、数十人の死傷者を出した。北側には海兵隊の部隊が上陸した。最北部からは従軍記者のアーニー・パイルも午後に上陸している。負傷したのは二人だけで、それも日本軍の攻撃によるものではなく、自損事故と太陽の暑さで気分が悪くなったものであった。昼飯に七面鳥を食べ、ピクニック気分だったと彼は本国に書き送っている。
 北部に避難し遅れた住民はガマと言われるいくつもある洞窟の中に隠れていた。銃を構えた米兵に竹槍で切り込む住民もいた。住民はすぐさま射殺されてしまった。洞窟の中では自決するか否かで意見が分かれていた。洞窟ごとに対応が分かれ、悲劇が起こることになった。あるガマにはたまたま住民の中にハワイ帰りの兄弟がいたおかげで、全員が手を挙げて洞窟から出てきた。そうでないところは住民同士が殺しあうという悲惨な光景が繰り広げられた。米兵は鬼であり、男は戦車に轢き殺され、女は皆強姦されると思われていたのである。天皇が神であると信じこまされていたのと同じように人々はそう信じていた。軍人や学校の先生からそう聞かされていた。住民同士でもうわさしていた。
 マイケルは拡声器を持って洞窟の入り口に近づき、「危害は加えません、手を挙げて出てきなさい」とやさしく呼びかけた。最初に何人かが出てきて保護されると、様子を見ていた人たちが、次々と洞穴から手を挙げて出てきた。中には女性や小さな子どももいた。マイケルは丸腰で拡声器だけを持ち、洞窟の入り口に入っていった。これはかなり危険な行為だった。日本兵が隠れていて狙撃されるかもしれなかった。片手に拳銃を持った隊長が懐中電灯をかざしながら先頭に立って洞窟の奥まで入っていった。
 ブルドーザーで整地し、鉄条網で囲った収容所に住民を収容した。ぼろきれをまとい鍋や薬缶等の家財道具を頭の上に載せ、子どもを負ぶった女たちが群れをなして北部を目指して歩いていく姿が目撃された。老人を荷車に乗せて押していく姿もあった。女たちは髪を短く切り、顔に墨を塗っていた。
 日本軍は南部の丘陵地帯に地下壕を掘り、十万の兵隊が潜んでいた。ここで米軍を迎え撃ち一日でも米軍の本土進攻を遅らせる作戦であった。北部には本部半島に三千人の遊撃隊を配置しただけであった。
 アーニー・パイルは痩せぎすの中年男で、前線にいる一兵卒たちを好んで取材していた。救護班に送られてくる傷病兵の様子を取材していた。腕や足を吹き飛ばされ、気も狂わぬくらいに苦痛にさいなまれている兵士たちをみつめていた。彼の書く文章はすべて軍によって検閲され、不都合な部分は削除された。戦争遂行のための士気の高揚に資する記事しかそもそも新聞には載らない。そういう中でも彼は傷ついた兵士の姿を書き、海兵隊と一緒に歩き、若い兵士に話しかけるのだった。マイケルはアーニー・パイルの書いた記事をよく読んでいたので、彼と一緒の戦線にいることは心強かった。
 北部に進攻した海兵隊は小規模な戦闘を制しつつ、本部半島に向かった。それとは別の海兵隊が東海岸を進撃中、日本軍数十人による夜襲攻撃を受け、三人が殺される被害を受けた。海兵隊も反撃し、日本兵二十人を射殺し、撃退した。日本兵は夜間に米軍キャンプ地に忍び寄り、米兵の背後から手をまわし、音をたてないように口を封じ、ナイフで刺し殺すのを得意としていた。そのため、米兵は夜間は外に出歩かないことになっていた。少しでも動くものがあった場合には、番兵が警告なしに民間人、敵味方の兵の区別なくすべて射殺することになっていた。
 本部半島の平地は四月三日から数日で平定された。日本軍は八重岳の山中に逃れた。屋部海岸に戦車を伴う部隊が上陸し、八重岳の山腹に砲弾を撃ち込んだ。
 マイケルは住民の間によからぬ噂があることに気がついた。米兵のグループが住民の男を連れ去り、連れ去られた男が戻ってこないというのであった。また、若い女を物色し、連れ去って行くというのであった。マイケルが歩いていると住民が空き缶やドラム缶をたたくことがよくあった。どうも色の黒い者は恐れられているようであった。
 いよいよ八重岳は米軍にぐるりと包囲された。空からは爆撃機が爆弾を落とし、戦闘機は低空で機銃掃射をした。いたるところに硝煙が白くたなびき、谷がかすんで見えた。本部沖に遊弋する戦艦からの艦砲射撃にも晒された。
 八重岳に逃げ込んだのは宇土大佐を司令官とする五百人の部隊と佐藤少佐率いる現地召集の一個大隊八百人であった。それに現地の中学生が通信隊として参加していた。県立高女十名も看護要員として動員されていた。さらに一万人もの住民が八重岳の谷間に逃げ込み、身動きができない状態になっていた。
 宇土大佐は一年前の六月に九州から輸送船富山丸で四千六百人の将兵とともに沖縄に向かった。その途中、徳之島沖でアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、積荷のガソリンが発火炎上、船体が二つに折れ、富山丸は轟沈した。乗船した大半の者はやけどを負い死亡した。僚船に救助され、動ける者は四百人ほどが残り、漁船などに乗って沖縄にたどりついた。武器はすべて失われたが、宇土大佐は運よく生き残り、四百人の歩兵部隊を引き連れて本部半島の守備に着いた。
 対岸に伊江島が見える八重岳の麓に二門の重砲を配置していた。伊江島まで射程距離にあったが、海岸の間を悠々と遊弋し、八重岳や伊江島に艦砲射撃を続けている米艦船の群れを前にしてもただの一発も発射することができなかった。もし発射すれば、空と海からの集中攻撃に晒されるに違いなかった。首里の三十二軍本部からの戦略持久の指令に従っていた。結局、一発も打つことなく、米軍の砲弾により破壊されてしまった。
 宇土大佐は八重岳の中腹に藁葺きの小屋をいくつか作らせ、本部戦闘指揮所とした。宇土大佐は還暦に近い年齢であったが、戦略持久をいいことに炊事婦とは別に三人の那覇の遊女と一緒に小屋にこもっていた。いわゆる慰安婦であった。
 軍隊のいるところでは沖縄の住民も皆標準語をつかっていた。意味のわからない沖縄方言をしゃべる者はスパイとして疑われたため、軍から使用禁止令が出ていた。
 住民や兵は入り混じって八重岳の谷間や壕に潜んでいたが、包囲網をじわじわと狭められていた。宇土大佐は反撃に打って出ることもなく、指揮所にじっとしていた。米軍は戦車を繰り出して猛攻撃を始め、火炎放射器で樹木を焼き尽くしながら、出会った日本兵や竹槍を持った住民を殲滅していった。谷間には水を求めて這いつくばっている兵隊の姿があちこちに見られたが、その内、それらの兵隊も動かなくなった。
 いよいよ米軍の砲撃が激しくなると、宇土大佐は女たちを連れて、指揮所を放棄し、すぐそばの平たい高地である真部山に移った。指揮所には重傷者が取り残された。真部山の拠点には中学生の通信隊がいた。彼らの半数は数発の手榴弾以外の武器を持っていなかった。これらの者に若干の兵を混えて、夜間に真部山の山頂に移動し、夜明けを待って突撃を敢行することになった。だが、照明弾が昼間のように山頂を照らしていた。翌朝は米軍の偵察機が山頂付近を飛び回り、それがいなくなったと思うと、海岸沖からの無数の艦砲射撃が山頂に集中した。艦砲射撃がぴたりと終わると、海兵隊が火炎放射器と機関銃を持って、襲いかかってきた。隊長が「おれのあとに続け」と言って、突撃したが、旧式の小銃と斧やスコップを持っただけの生徒たちは、無惨に玉砕した。日没になると米軍は引き揚げて行った。
 宇土大佐はすぐに八重岳から南東に十五キロほど離れた多野岳への撤退命令を出した。四、五人ずつ班を組み、夜陰に紛れて脱出した。
 宇土大佐らはその後、北部の山岳地帯に移動し、住民から食料を強奪しながら、十月まで潜伏した。投降したのは、終戦後二ヵ月近くも経ってからであった。
 宇土大佐が多野岳へ撤退を開始したころ、米軍は伊江島への上陸を始めていた。
 アーニー・パイルは、いったん嘉手納沖の艦船に戻り、本国へ手記を送った。そして、伊江島へ上陸部隊とともに乗り込もうとしていた。生々しい戦争の様子、兵士の様子を書くのが彼の仕事であった。
 本部半島から広い海原を隔てて浮かんでいるのが伊江島であった。エンジンボートで行ったら、おそらく、二、三十分で行けるところであった。けっこう広い島で、徒歩で一周するには、おそらく一日がかりになりそうな島であった。
 珊瑚礁の隆起した島は平坦で、標高二百メートルに満たない岩山が一つ聳え立っていた。平坦地には大小五本の滑走路が建設されていた。現地の住民を動員して急遽つくらせたものだが、またしても、ほとんどつかわれないまま、米軍の手に渡すこととなった。珊瑚礁の島に特有のガマと呼ばれる自然洞窟が千人も入りそうな大きなものも含めて大小たくさんあった。
 マイケルはアーニー・パイルの一行と一緒に伊江島に上陸することになった。
 伊江島には疎開した老人や婦人、子ども以外の五千人の住民が残っていた。井川少佐を司令官とする八百人の歩兵大隊と現地召集の防衛隊、伊江島住民の防衛隊、青年義勇隊などが島の守備についていた。また、女性も救護班はもとより、協力隊として戦闘要員に加えられた。
 伊江島の飛行場は米軍の進攻前にすべて日本軍の手によって爆破された。
 四月十六日が米軍の伊江島上陸日と決まった。バクナー中将の命令であった。上陸前の数日間、艦砲射撃や空爆が徹底的に行われた。だれも生き残っている者はいないだろうと思われるほどの爆弾の量であった。
 上陸当日も早朝から砲撃、爆撃を行い、上陸部隊を支援した。天気は晴れていて、波は穏やかであった。やがて、上陸用舟艇に乗り込んだ先発隊が伊江島の南海岸に上陸した。読谷の海岸に上陸した時と同じように、陸からの抵抗はなく、静かな上陸であった。上陸部隊が次々と上陸して行った。水陸両用戦車も上陸した。
 連日の猛爆で、平らな台地にいる日本軍は吹き飛ばされてしまったのかと思われたが、やはり、そうではなかった。台地の地下には無数の洞窟があり、また、急遽掘りめぐらせた壕の中に隠れていたのである。沖縄特有の大きな亀甲墓はトーチカとして利用し、砲門を備えていた。
 コンクリートでできた村役場のある台地を奪取するために米軍は進攻を開始したが、その途中には無数の地雷が埋められてあり、このために戦車や装甲車が使えなくなった。
 歩兵が台地に近づくや、壕の中やトーチカから反撃の砲弾が打ち込まれ、米軍に死傷者が続出した。米軍は一時退却したり、一進一退を繰り返した。予備の部隊の増援を得て、ようやく米軍は台地を占領した。
 マイケルはアーニー・パイルよりあとの舟で上陸した。上陸してみると、この島の戦闘は大変危険であることがわかった。民間人が日本の兵隊と一緒になって戦っていた。婦人たちも自然洞窟の中で竹槍を構え、米軍陣地に夜間の斬込みをする部隊に参加する者さえいた。斬込みは連日行われた。大半の者は射たれて死んでしまうのだったが、重傷者が生き残って戻ってくると、分隊長から自決を迫られることもあった。
 洞窟内での集団自決があちこちで発生した。
 アーニー・パイルは四月十八日に米軍指揮官の乗るジープに同乗して、海岸線を移動していた。遠くでは激しい砲声が響き渡っていた。丘の手前に来た時、銃声が聞こえ、アーニー・パイルらはすぐにジープから飛び降り、近くの溝に身を伏せた。その時、アーニー・パイルのヘルメットのすぐ下のこめかみに一発の銃弾が当たった。即死であった。
         (2016年「城北文芸」49号)


B29 空の要塞

2022-05-08 17:32:41 | 小説「沖縄戦」

 一九四五年四月一日、沖縄嘉手納沖からほとんど抵抗らしい抵抗を受けずに上陸した米軍は南部の丘陵地帯で日本軍の激しい抵抗に会い、犠牲者が増え、征服に手間取るようになった。しかし、少しずつ激戦を制し、日本軍の司令部のある首里に肉薄していった。日本軍の主要部隊が首里から島尻南部の摩文仁に撤退するころになると、米軍は火炎放射器や火炎砲を備えた戦車をつかって、一つひとつの地下陣地や塹壕を破壊していった。嘉手納や読谷の穴ぼこだらけの飛行場はブルドーザーで整地され、駐機場も沢山整備され、上陸から十日目にはある程度使用可能になっていた。しかし、日本本土攻撃用の重爆撃機の基地にするにはさらなる工事が必要であった。日本軍がつくった珊瑚の岩を敷き詰めた滑走路は米軍の重い戦闘機や重爆撃機を運用するには層が薄すぎて、もっと厚くする必要があった。排水設備も不備であった。燃料を貯蔵するタンクなどを建設する必要もあった。五月、六月は連日激しい雨が続き、工事が遅れてしまった。千五百メートルだった日本軍の滑走路は二千メートル以上に拡張され、B29が沖縄に到着したのは八月を過ぎていた。
 B29は日米開戦前の一九三九年に開発が計画され、三年後の一九四二年九月に最初の飛行が行われている。四基のプロペラエンジンを持ち、九千メートルの上空から大量の爆弾を落とすことができた。最長航続距離は九千キロと言われ、遠く離れた場所を攻撃することができた。乗員はふつう十一名で、十二門の機銃と、後部に二十ミリ機関砲を持っていた。機関砲は戦局が日本軍に壊滅的に不利になり日本軍機の迫撃能力がなくなると、撤去された。
 最初はインドや中国内陸部にB29が出撃できる飛行場をつくった。この飛行場建設には現地の何万人もの中国人住民が動員され、石を運ぶなど、人力に頼って早期に建設された。一九四四年六月十五日に中国成都の基地を飛び立ったB29四十七機が夜間九州北部上空に飛来した。八幡製鉄所を狙ったものだった。最長航続距離九千キロとはいえ、それは通常の経済的な飛行での最大値に過ぎず、戦闘モードに入ればたちまち燃料を消費するため、中国からの日本本土攻撃は二千六百キロの距離にある九州までが限界とされた。九千メートル上空を飛行している限り、まず、日本の高射砲の射程外であった。九千メートル上空でB29に追いつける日本の戦闘機もまずいなかった。しかし、目標に爆弾を落とすには低空から落とす必要があった。結局、この時は八幡製鉄所の高炉に爆弾を命中させることはできなかった。B29二機が撃墜され、その他五機が帰還までに墜落し、米軍は合計七機のB29をを失った。中国奥地からのB29の攻撃はうまくいかなかった。その原因はまず第一に航続距離の関係で九州しか攻撃出来なかったことであった。そのために、日本軍は他地域から戦闘機を九州に集め、防衛する体制を強化した。八月二十日の八幡攻撃では山口県下関から発進した屠龍の体当たり攻撃でB29一機が撃墜されるなど米軍は十四機のB29を失った。
 米軍は一九四四年六月十五日サイパン島上陸を皮切りに、七月から八月にかけてサイパン、グアム、テニアンの日本軍守備隊を壊滅させ、飛行場を確保した。B29用に滑走路や駐機場を拡張し、日本本土に向け出撃させるのにはそう時間がかからなかった。十月から十一月にかけて、数百機のB29がマリアナ諸島の飛行場に続々と集結した。マリアナ諸島から東京までは約二千四百キロであり、十分攻撃可能な距離であった。
 十一月、米軍はB29による東京付近の偵察を行い、上空から写真撮影をした。その後B29による爆撃を試みたが、思ってもいない困難のあることがわかった。大量の爆弾や燃料を運ぶため、機体が非常に重くなり、離陸時に墜落するB29も少なくなかった。また、冬期は日本付近の高高度にジェット気流が吹いていることを米軍は知らなかったため、かなりの機体が目的地に到達できなかった。マリアナの飛行場に戻る途中で太平洋に不時着するB29が続出した。また、硫黄島から出撃した日本軍機がサイパン島のB29を破壊することもあり、B29護衛の中継基地として硫黄島確保が急がれることになった。米軍は二月十九日に硫黄島に上陸を開始し、一ヶ月余りの激戦ののち同島を占領した。すぐさま飛行場が整備され、長距離戦闘機ムスタングが配備された。四月上旬には、マリアナから硫黄島付近で合流したB29がムスタングに先導され、東京を空襲に向かった。
 高高度からの爆弾投下では効果が薄いということがわかり、アメリカ陸軍航空司令官ヘンリー・アーノルド元帥は一月二十日、ルメイ少将をマリアナに移った第二十一B29戦略爆撃グループ司令官に任命した。ルメイは中国から八幡攻撃を行なった際、実際に八幡まで到達したB29の数が少ないことに気がついた。また、パイロットは高高度から爆弾を落として引き返したがることにも気がついた。そこでルメイは自ら先頭のB29に乗り込み、先導し、低空から爆弾を落とさせた。司令官自ら先頭に立って危険を冒すのであるから、他のパイロットもそれに続く。そのようにして彼は爆撃精度を上げたのであった。まさに、鬼のルメイとでも言うべき司令官であった。
 また、彼は三月十日の東京大空襲を初めとする、都市部に於ける住宅地を狙った焼夷弾攻撃を命じた人物であった。彼は焼夷弾攻撃を命ずるに当たり、アーノルド司令官に作戦の裁可を求めず、自分の責任で命令を発した。彼はB29の後部にある銃座を取り除いた。そうすることにより搭載する爆弾の量を増やした。そして、昼間の高高度爆撃から、夜間低空爆撃に作戦を切り替えた。
 何人の民間人が死ぬかわからない作戦であった。彼はこの作戦に人道上の問題があることを自覚していたが、日本人が何人死のうとかまわないと考えていた。そのことに関しては少しの同情もなかった。
   (2014年「城北文芸」47号)


米軍住民救出班

2022-05-07 14:32:59 | 小説「沖縄戦」

 1945年4月1日に沖縄本島に米軍が上陸してから、一ヶ月以上が経過していた。以前聞かされていた話と相違して米兵は意外と親切であることが山中に避難していた人たちに知られるようになり、半信半疑ではあっても、次第に米軍の収容所に収容される人たちが増えていった。
 そのような中でマイケルは収容所にいる沖縄人を連れて南部戦線に行くことになった。任務は、各地洞窟にいる沖縄住民を安全に救い出すことであった。
 ガールフレンドとはうまくいかなかったので考えることもなかったが、国に残っている病弱の母親は自分のことを心配しているのではないかと気になった。マイケルには弟が一人いたので、万一のことがあってもその分気が楽であった。彼はヘルメットの内側に母親からの手紙を折りたたんで貼り付けてあった。そこには、無事に任務をまっとうして帰還することを皆で神に祈っていると書かれてあった。
 マイケルは収容所にいる沖縄人の中から、米軍に協力的な者を選んで、住民救助隊に組み込んだ。そして、彼らはいくつかの班に分けられた。その中には片言の英語をしゃべる者もいた。その片言の英語をしゃべる彼は避難者用の堅パン製造を委託されていた食品加工工場の職員だった者で、山中に避難している最中に米軍と遭遇し、片言の英語で話しているうちに米兵が避難民に危害を加えないということが分かり、集団で投降したのであった。
 救出班に選ばれた沖縄人たちは海兵隊の本部に軍用トラックで移動した。海兵隊本部への移動に要した道路はブルドーザーで道幅が拡張され、蒲鉾状に整地されていた。短期日のうちにすばやく整地してしまう米軍の能力に彼らは目を丸くした。海兵隊の本部で、彼ら沖縄人には海兵隊の青い制服が与えられた。一番小さいサイズの服が支給されたが、それでも、袖や裾がだぶだぶであった。マイケルは彼らの服の袖や裾を捲り上げてやった。彼らには米兵と同じ給料が支給され、米軍の売店において肉や果物、菓子類など避難生活では考えられないような豪華な食事にありつくことができた。だが、南部戦線では食うや食わずで戦っている幾万人もの軍民がいることを思うと、目の眩むようなとまどいを彼らは覚えるのだった。
 マイケルが所属した住民救出班は隊長のスミス中尉以下米兵8名、そして通訳のマイケル、沖縄人3名のつごう13名であった。海兵隊と一緒に南部に向けて出発した。南部戦線では日本軍の粘り強い抵抗と、沖縄独特の激しい雨のため、米軍の制圧作戦がなかなか思い通りに進まなかった。しかし、米軍は激戦の末、嘉数高地を制し、日本軍の司令部のある首里に迫っていた。
 マイケルら救助班は海兵隊と一緒に、軍用トラックに乗り、数日間を過ごした海兵隊本部の瓦葺民家を後にして、牧港へと移動した。そこはもう首里から数キロの地点で、日本軍の射程距離内に入っていた。散発的に迫撃砲の落下する音が聞こえた。運悪くそれに当たれば死ぬかもしれなかった。
 マイケルたちは牧港近くの丘のふもとに穴を掘り、テントを張って露営した。米軍兵士は夜間はテント内に閉じこもることになっていた。暗がりの中、テントの外で生き物の動きがあれば、問答無用で撃ち殺される手はずになっていた。日本軍の得意とする夜襲攻撃対策のため考えられた作戦であった。日本軍はテントに忍び寄り、背後から米兵に襲い掛かり、口をふさぎ、音をたてずにナイフで命を奪っていく。米軍は南の島々で経験済みであった。時折、日本軍の砲弾が炸裂する音が聞こえ、マイケルはテントの中で夜眠れなかった。真夜中の2時ごろ、海岸方面で銃撃戦の音が聞こえた。日本軍の逆上陸かと緊張した。
 翌日、日本兵が海兵隊に捕らえられたという一報が救援班に入った。マイケルは救助班の一人の沖縄人をつれて、その捕らえられた日本兵に会いに、海兵隊の本部に行った。その日本兵は糸満出身の漁夫で、応召された一兵卒だった。数日前に読谷沖の米艦船攻撃を命じられ、那覇港から爆弾を積んだ小舟を数人で漕ぎ、夜陰にまぎれて体当たり攻撃を敢行する予定だったが、米軍監視船に発見され、撃沈されてしまった。泳ぎのうまい彼だけが海岸にたどりついたのだった。それから捕虜になるまでの間、彼はなにも食べていなかった。マイケルたちが面会に行くと、最初は二世が尋問にきたのかと思っていた日本兵も、何を話しているかマイケルには聞き取れなかったが、沖縄人同士で話をするうちに、食事も堰を切ったように食べるようになった。あまり急に食べ過ぎるなと心配になったほどであった。米軍は日本人捕虜を戦車のキャタピラで轢き殺し、婦女子は片っ端から陵辱されるというのが、沖縄で流布していたもっぱらの噂であったが、マイケルたちのおかげで、彼は安心して、収容所に送られていった。
                      (2011年「城北文芸」44号)


日本軍の反攻

2022-05-06 16:14:30 | 小説「沖縄戦」


 
1945年3月26日、アメリカ軍は、沖縄本島から約40キロ西にある慶良間列島の阿嘉島に上陸した。これが沖縄戦における最初の米軍上陸であった。これには日本軍は大変あわてた。それというのも日本軍は慶良間列島の渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島の入り江や谷間にベニアで作ったエンジン付の特攻艇を数百隻隠してあった。
 日本軍はそれらすべてを自ら破壊し、持久戦に入ると称し、山中に退避した。その時島民多数が日本軍から渡された手榴弾などで集団自殺を図った。
 米軍は4月1日、エープリルフールに沖縄本島嘉手納沖の海岸に早朝から砲撃を開始し、大した抵抗もないままに上陸、二つの飛行場を手に入れ、翌日には太平洋岸に到達した。
 日本軍は主力を南部の丘陵地帯の地下に潜ませて、敵が攻めてくるのを待っていた。
 米軍通訳のマイケルは北へ避難するボロをまとい、ヤカンなどのわずかな家財道具を頭上にのせた老人や女、子どもの列を見ていた。15歳から45歳までの男は見つけ次第捕虜にして収容所に送り込んだ。マイケルは捕虜から日本軍の居場所を聞きだそうとしたが、だれ一人答える者はいなかった。
 米軍が南部の丘陵地帯に迫ると、日本軍の抵抗は徐々に激しくなってきた。
 長参謀長のもとには沖縄軍の直属上級司令部である陸軍第十方面軍より水際で攻勢を取るようにとの要請電が届いていた。連合艦隊からも米軍が占領した二つの飛行場を使用不能にするための攻撃を求めてきた。台湾の飛行師団からも同様の激烈な要請電が寄せられていた。さらに大本営からも敵を攻撃し飛行場を再び確保せよという要請電が届くにいたった。
 長参謀長は参謀長室に参謀全員を集め、攻勢に転ずるべきとの意見を述べた上で金鵄のパイプタバコをふかしながら各参謀の意見をきいた。口ごもる者もいたが、長参謀長の断固たる決意に押されるように若手参謀が次々と攻勢賛成の意見を述べた。
 八原高級参謀はこの状況を苦々しく聞いていた。彼ははっきりと反対の意見を述べた。
 八原の考えは、米軍の圧倒的な火力の前に洞窟を出て攻撃をしかけても、裸で砲弾の前に立つようなものであり、自殺をするようなものである。米軍に占領されている飛行場を使用不能にするには、かねての計画通り、長距離砲を打ち込めば、一人の損害もなく目的を達せられる。大本営や方面軍などの司令部からの要請電報は命令ではなく、あくまでも要望である。いや、命令であっても状況が不利になることが明白であれば、有利な方向に変えることが許される--というものであった。
 長参謀長は全員の意見を聞き終わると、一言も反論せず、「多数決により攻勢に決する。これから司令官の裁可を受けに行く」と言い残し、参謀長室を出て行った。
 牛島司令官の決裁はいつも同じだ---と八原は思った。長参謀長の提案にOKを出すだけである。
 八原が予想したとおり、牛島司令官は攻勢を決定した。八原はもちろん納得できなかった。司令官が攻勢と決した以上はこれをくつがえすことは不可能に近いが、作戦の結果が明白である以上、これを止めなければならぬという一途な信念から、彼は今一度再考を促すべく参謀長室へと向かった。
 参謀長室前の坑道で立ち話をしていた牛島司令官と長参謀長に、八原は自論を展開した。攻勢は兵を死なすだけに終わるということを切々と訴えた。八原の目からは涙がしたたり落ちた。
 牛島司令官と長参謀長は顔を見合わせたまま一言もしゃべらなかった。
                      (2009年「城北文芸」42号)


沖縄軍退却す

2022-05-04 17:54:25 | 小説「沖縄戦」


 五月四日の反転攻勢は八原の予想したとおり、失敗に終わった。
 夜間に来襲する日本の爆撃機は沢山のサーチライトに照らされ、対空砲火にさらされた。落とされた爆弾は夜間のため狙いが定まらず、大部分が空振りに終わった。しかし、特攻機による体当たり攻撃で駆逐艦リトルと揚陸艦一隻が沈み、機雷敷設艦や揚陸支援艦など数隻が損害を受けた。
 那覇から暗い海を渡ってきた数隻の艀はパトロール中の米巡洋艦や駆逐艦などに発見され、銃撃を受け、あわてて、近くの海岸に上陸し、そこにいた海兵隊の部隊に雄叫びを上げて切り込んだ。海兵隊の水陸両用戦車がそれを追いかけ、上陸部隊を挟み撃ちにした。五百人の上陸部隊が射殺された。
 東海岸では海軍のパトロール艇が日本の舟を発見した。米軍は多数の照明弾を発射し、夜を昼に変えてしまった。四百人の上陸部隊が殲滅された。
 前日の夜から砲兵隊が敵陣地に向けて砲撃を開始した。その砲弾の数は一万三千発以上に達した。砲兵隊の砲撃に支援され、歩兵部隊が早朝丘を制圧し、米軍陣地に切り込むはずだったが、夜が明けると、米軍の艦砲射撃や迫撃砲により、死傷者続出となってしまった。南部の部隊を増援した上での総攻撃だったが、あっという間に日本軍は全軍の三分の一に当たる精鋭部隊を失ってしまった。
 高級参謀八原大佐は自分が命がけで反対しなかったからこうなってしまったんだと自分を責めた。牛島司令官からすぐに作戦中止の命令が下った。司令官は八原に自身の不明を恥じ、今後は八原の計画どおり作戦をすすめるよう彼に命じた。
 ヨーロッパ戦線では、ついにナチスドイツが追い詰められ、ヒットラーは四月三十日にベルリンの地下司令室で愛人と服毒自殺を図った。五月七日にドイツは連合国と無条件降伏の文書に調印した。日本の同盟国はこれですべて崩壊した。ドイツ降伏の一報が五月十日ごろ沖縄の洞窟陣地にも伝わった。
 八原は、いよいよ日本の敗戦も時間の問題だと思った。軍のお偉方の保身のために日々民衆や将兵の命が無駄に費やされていくとしたら、早く終戦の決断をすべきだと八原は強く思った。だが、頑迷な軍の上層部が戦闘を放棄するとは考えられなかった。
 ちょうどそのころ、神参謀に本土帰還の命令が下った。沖縄戦の戦況報告と航空部隊による米艦船攻撃の増援を直接大本営に直訴するのがその任務であった。八原は今まで何かにつけて書きとめたメモ帳を紙袋に入れて、元陸軍中将である妻の父に届けるよう神少佐に託した。
 酒宴の折には酒を注いで回っていた司令部勤務の女性たちも洞窟から撤退することになった。彼女たちは自分たちも始めから死ぬ覚悟だったと、口々に八原に不平を言った。
 神少佐は摩文仁の沖から水上飛行機で本土に脱出することになった。夜陰に紛れて、糸満の漁夫の刳り舟で摩文仁の海岸に行き、岩陰に隠れ、じっと水上飛行機が到着するのを待った。水上飛行機は二度ほど摩文仁の沖に着水した。隠していた刳り舟で早く行きましょうと漁夫たちは言ったが、神少佐は危ないと言って、なかなか出ようとはしなかった。そのうち決死の敵中飛行を敢行した水上飛行機はどこかへ飛び去ってしまった。
 すると、神少佐は刳り舟で徳之島まで行けと漁夫に命じた。とんでもない、わしらのような年寄りにはとてもできないと五十代後半の漁夫たちは拒否した。若いものにかえてくれと言う。そこで、糸満の若い漁夫上がりの防衛隊員が集められ、ぬかる雨のなか夜中歩いて摩文仁にやってきた。
 その後、一艘の刳り舟は夜中摩文仁岬を回って島の東海岸を北上し、徳之島へと黒潮に乗り、沖縄脱出に成功したのだった。

 米軍通訳のマイケルは後方のベースキャンプで怪我人が次々と運ばれるのを見ていた。腕や足を吹き飛ばされ、痛々しい者もいた。
 捕虜収容所には日本兵の捕虜が次々と送られてきた。日本兵は捕虜にならないように、最後まで戦って死ぬように教育されていたが、一旦捕虜になってしまうと、極めて従順で協力的になる者がほとんどであった。捕まったらどんな拷問が待っているかわからない。沖縄では米軍に捕まったら、男は戦車のキャタピラに踏み潰され、女は強姦されると吹聴されていた。ところが、実際は、傷の手当てを受け、十分な食料が与えられる。マイケルのような日本語をしゃべる米兵には日本人はすぐに打ち解けてしまった。捕虜となって日本に帰っても村八分になるのが関の山である。どうせ非国民である。国民でないと言われているのであれば、米兵に協力してどこが悪いのかであろう。捕まった後の教育がなされていなかったということらしい。マイケルが日本兵の捕虜の話を聞く内に、日本軍の洞窟陣地の様子がわかってきた。日本軍は死ぬまで頑強に戦うつもりであるらしいことがわかってきた。
 沖縄は雨期に入っていた。沖縄特有の土砂降りの激しい雨が急に降ってきた。雨は断続的に何週間も続いた。行軍中の米兵は常にびしょぬれ状態で、ポケットに入れた肌身離さず携帯している家族からの大事な手紙はインクが滲み、読めなくなった。タバコは水浸しで使えなくなった。ヘルメットの中に入れて確保するしか術がなかった。折りたたみナイフは錆びて動かなくなった。銃身は常に下を向けていないと雨水が銃口に入り、青黴が付着した。銃創の弾丸はくっついてしまった。機関銃のベルトから弾丸を取り出し、油を塗って手入れをするのが米兵の日課であった。
 特攻機を伴った日本軍の航空機による米艦隊への攻撃は数は少なくなってきたが、いまだに続いていた。特に雨の日にそれは現れた。雨雲が邪魔をして最新鋭の米軍のレーダーシステムがうまく働かないのだった。
 嘉手納と読谷の飛行場から米海兵隊のコルセア戦闘機が日本軍機を迎え撃った。コルセア戦闘機は地上軍の戦闘を援護したり、レーダーシステムを守るのが主な任務のはずだったが、このため、地上軍の援護から外れることになった。

 日本軍は菊水作戦と称し、沖縄の米軍基地および沖縄周辺に展開する米艦隊に対し、十度にわたる航空攻撃を行った。通常の爆撃機とともに、体当たり特攻機や一式陸攻機の下に取り付けた人間ミサイル「桜花」など総数にして数千機を出撃させ、空母バンカーヒルやエンタープライズなどを破壊し、損害を与えたが、航空母艦や戦艦を撃沈することはできなかった。撃沈できたのは輸送艦などの反撃力の弱い小型の船のみであった。

 首里には、軍司令部の壕の他に、新聞社の壕と師範学校の壕、県庁の壕などがあった。新聞社の壕には朝日新聞支局長や、毎日新聞支局長、沖縄新報の社長の他記者等がいた。壕の中には活字台や印刷機があり、陣中新聞をつくらされていた。新聞社の壕と師範学校の壕とは奥の方でつながっていた。師範学校の学生や教師は、男は鉄血勤皇隊として斬込隊や作業隊、宣伝隊等に編入されていた。女は従軍看護婦となって軍と行動を共にしていた。
 壕の地下深くには地下水がたまっていた。それを汲んで、高温多湿の壕内に蓄えてあるベトついた米を炊いた。十万人の将兵が数ヶ月食べていけるだけの食料が壕の中や各地の食料集積所に備蓄されていた。
 食料を食べれば排泄をしなければならない。便所は壕の出口から外に出て、通路の突き当たりに穴が掘ってあるところだった。昼間は米軍の攻撃が激しいので、なるべく我慢しているが、それでもたまらなくなり、出て行くことになる。一応菰で囲いがしてあったのだが、それも爆風で飛ばされてしまい、汚物が穴からあふれているところに四、五人が並んで尻を剥き出しにしている光景が日常化していた。男も女もなく、すばやく排泄を終えると、逃げるように戻ってきて、下着を引き上げた。
 やがて、県庁の壕にいた島田知事は、軍司令部から「非戦闘員は首里から即刻立ち退け」という命令を受けた。知事は直ちに連絡のつく市町村長を集め、緊急市町村長会を開いた。
 招集状を受け取った市町村長は、各々の壕を出て、砲弾の飛び交う中、決死の行進を開始し、首里の県庁の壕にたどり着いた。上空には照明弾が輝き、真昼のような明るさだった。島田知事はじめ、各課長、警察署長、市町村長など百人ほどが集まり、灯火の下で会議を始めた。
 軍司令部からは戦果を強調する話がされ、士気を阻喪させるような利敵行為をさせないよう、警戒してもらいたい旨発言があった。
 島田知事は、日本本土からの激励電報を披露した。食料を増産するようにとの意見が次々と出された。

米軍は南部からの上陸作戦をしなかった。米軍司令部内で検討されてはいたが、自軍の人命損傷を最小限にとどめることを優先する米軍の戦略から実施は見送られた。
 南部の海岸は中部のような砂浜が長く続く海岸線がなく、切り立った断崖絶壁や岩場が続いていた。日本軍は二個師団を南部に置き、米軍の上陸に備えていた。米軍はたびたび南部湊川沖に戦艦や戦闘機に護送された輸送船団を展開し、上陸すると見せかけたが、そのたびに撃退された。日本軍は反転攻勢のため、この南部を守っていた二個師団を北上させた。
 米軍はまた、日本軍の神風攻撃を防ぐため、B二九爆撃機を九州各地に送り、日本軍の航空基地を叩いた。滑走路や誘導路に穴をあけ、格納庫を破壊した。
 一万メートル上空から爆弾を落としている分にはB二九は無傷でいられたが、それでは爆弾は当たらない。低空で爆弾を落とせば、日本軍機に追いかけられることになった。結局、二十四機のB二九を失うことになったが、九州各航空基地に壊滅的損害を与えた。
 とはいえ、飛行場にあいた穴はすぐに修復されてしまい、飛行機も隠してあったので、相変わらず、特攻攻撃は継続された。

 米軍は序々にではあるが、一つづつ丘を制圧し、首里に迫っていった。その際、一番威力を発揮したのが、火炎放射器であった。中でも、戦車の砲身部分を火炎放射器に改造した新兵器の威力は絶大であった。
 歩兵を伴った火炎放射型戦車が日本軍の洞窟陣地に近づくと、洞窟の坑口に、火炎放射器で、ナパームとガソリン等を混合した液体を火炎とともに流し込むのだった。弾丸は衝立があれば、そこで止まったのであるが、この火の点いた液体は中に浸み込んでくるのだった。日本兵は洞窟の奥へ避難せざるをえなかった。すると、歩兵が丘の頂上に登り、頂上に開いている洞窟の通気口からガソリンを流し込んだ。これで、洞窟内の日本兵は一気に壊滅した。洞窟から飛び出した日本兵は撃ち殺された。
 シュワブ一等兵は、火炎放射器をつかい、自己の生命もかえりみず、丘の正面に進み、日本軍の機関銃陣地に攻撃をしかけた。日本兵の銃撃によって味方の海兵隊員数人が死傷したにもかかわらず、前進を続け、日本兵多数を殺害し、戦死した。また、ハンセン二等兵は、自己の生命をかえりみず、バズーカや手榴弾をつかい、匍匐前進し、丘の中腹にある日本軍のトーチカを破壊した。日本兵の銃撃でバズーカを破壊されるや、ライフルを手にし、丘の頂上まで登り、弾がなくなるまでライフルを撃ちまくり、四人の日本兵を撃ち殺した。さらに手榴弾で敵の迫撃砲陣地を破壊し、日本兵八人を殺した。両人の名前は、戦後、沖縄の米軍基地の名前(「キャンプシュワブ」「キャンプハンセン」)としてそれぞれ残されることとなった。
 五月四日の総攻撃で砲弾を大部分使い果たした日本軍は、つかう砲弾の数を制限せざるをえなかった。ダイナマイトを抱えて戦車の下にもぐりこみ、自爆するという戦法しか残された道はなかった。これは戦車の陰にいる歩兵によって撃ち殺され、成功率は小さかった。
 安謝川(あじゃがわ)を渡河した米軍は那覇に通ずる街道沿いの天久台(あめくだい)を攻撃した。この天久台の戦闘は激しいものがあり、アメリカ軍は日本軍の逆襲を受け、料理係まで動員せざるをえなかったが、部隊の大半が死傷するというはめになった。援軍が到着し制圧するまで十日を要した。そして、沢岻(たくし)高地を制した米軍は大名(おおな)渓谷にも火炎放射型砲身に改造した十数台の戦車を先頭に入り込んできた。戦車の後方にはライフルを構えた歩兵が戦車を守るために立っていた。洞窟陣地から戦車に向かって迫撃砲が飛んできた。歩兵がライフルで応戦した。日本兵も陣地から飛び出してきて、白兵戦を展開した。決死の肉弾戦を敢行し、爆弾を抱えて戦車に向かって行った。一人の兵士が米軍戦車のキャタピラの下に飛び込み、戦車を破壊した。しかし、他の戦車はじりじりと洞窟との距離を縮めて行き、丘の中腹の坑口に火炎を放射した。丘の裏側にも火炎がとどき、日本軍の砲撃が止まった。後方に待機していた海兵隊の部隊がバズーカ砲や火炎放射器、手榴弾、ダイナマイトで武装し、洞窟の開口部やトーチカを攻撃した。泥だらけになりながら、味方の歩兵の援護射撃を受けながら、日本軍との白兵戦を敢行し、丘の頂上まで登っていった。丘の裏側の斜面から発射される臼砲を手榴弾や迫撃砲をつかって駆逐した。丘の頂上の通気口から火炎放射器の燃料を流し込んだ。

 天久台が制圧されると、米軍はシュガーローフと名づけた高地を攻撃した。ここでの戦闘は熾烈で、米軍は幾度となく撃退を余儀なくされ、数千人の死傷者を出し、占領するまでに五日を要した。
 シュガーローフが占領されると、首里の日本軍司令部が戦車砲や重機関銃の射程距離に入った。ここに至って、牛島司令官は、主力部隊の南部への撤退を命じた。連日どしゃ降りの雨が続いていたおかげで、隠していたトラックをつかって、米軍に気づかれることなく、主力部隊は南部に撤退することができた。
 天久台への砲撃で戦果を挙げていた小禄の海軍部隊は重火器を自ら破壊し、南部に撤退を開始した。その後、牛島司令官より、元に戻るようにとの命令を受けた。この間の命令伝達、意志疎通の不手際は大田少将以下数千人の海軍軍民にとってたいへん悔やまれるものであった。また、撤退の際に、陸軍の部隊が洞窟にいた民衆を追い出している姿を目の当たりにして、大田少将は憤りを覚えた。軍隊は何を守るためにあるのか。

 アメリカ軍の若い兵士たちは東京から発信される英語の短波放送を聞くのが楽しみだった。若い女性アナウンサーの声を聞きながら、どういう人が話しているのだろうと想像するのだった。アメリカ軍の士気を阻喪させるための謀略放送であったが、故国の流行歌も放送していたので、楽しんでいた。

 米軍は那覇から渡河して小禄飛行場になだれ込み、迂回して南側から海軍の洞窟陣地を攻めた。海軍司令部は孤立してしまい、撤退することもままならなくなってしまった。最後は火炎放射器で洞窟の内部が焼け焦げることとなった。ただ、この海軍の洞窟は通路をわざと狭くして体の大きな人間は入り込めないようになっていたのと、蛇行させてあったため、火炎が奥まで届かなかった。大田少将以下の将兵は脱出できたものを除き、洞窟の中で自害した。

 大田少将は自害することになる前に大本営海軍次官宛てに以下のような電報を打った。
 「左の電文を次官に御通報方取計をえたし。
 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも県には既に通信がなく、第三十二軍司令部又通信の余力なしと認められるに付、本職県知事の依頼を受けたるにあらざれども現状を看過するにしのびず、これにかわって緊急御通知申し上ぐ。沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんどかえりみるに暇なかりき。しかれども、本職の知れる範囲においては県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相つぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難、なお、砲爆撃下‥‥風雨にさらされつつ、乏しき生活に甘んじありたり。しかも若き婦人は率先軍に身を捧げ、看護婦、烹飯婦はもとより、砲弾運び、挺身斬込隊すら申出るものあり。所詮、敵きたりなば、老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。看護婦に至りては軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、身寄無き重傷者を助けて‥‥真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず。さらに軍において作戦の大転換あるや、自給自足、夜のうちにはるかに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。之を要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕・物資節約を強要せられて‥‥一木一草焦土と化せん。糧食六月いっぱいを支うるのみなりという。沖縄県民かくたたかえり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」
             (2010年「城北文芸」43号)