北部九州には神功皇后伝説が各地にあるので、知っていることを元にすこし物語を書いてみます・・・あくまで私見で想像を元にしてます、詳細な年代など調べないで書いているのでアバウトなものです。読まれても難しく考えないでくださいね。歴史に詳しい方は笑ってパスしてください。
この時代のことは魏志倭人伝を元に、卑弥呼や邪馬台国についてのいろんな説がありますね。
作家の井沢元彦さんの逆説の日本史に書いてありますが・・・卑弥呼は日の皇子ではないか。その卑弥呼は神功皇后だったのではないかという説の方も居られます。
同一人物説は信憑性が高いですね、と言いますのは。権力者が同時代に二人でともに女性だったとは考えにくいです。
北部九州にある環濠集落跡や古墳ですが、その何処かが邪馬台国だったのでしょうか?
まず環濠集落を考えてみるときに、周囲に掘られた濠は敵の侵入を防ぐためという説が多いですね・・・私はそうではないのではと考えています。動物の侵入を防ぐ為のものではと考えます。九州には熊もいましたし、猪や野犬(オオカミ)なども集落に入って来られては困ります。
然し乍ら遺跡から出てくる人骨には矢じりや切られた痕が残っています。やはり人同士の争いはあったでしょうが、それは日常的にあったとは考えにくいですね。集落内での揉め事であった可能性もありますし。
環濠集落の分布を考えてみたときに、有名な吉野ヶ里遺跡、今の朝倉市甘木にある平塚川添環濠遺跡などはほぼ同時代です。しかも数百キロも離れていません、数十キロ人が丸一日かけて歩けば到着する距離ですね。互いに交流はあったと想像します・・・というのは・・・
稲作が伝わったと言われてます、福岡空港南側の板付ですが。その百年後には青森県でも稲作が始まったといわれ、稲作が列島を駆けあがって行ったのですね。どこを通って・・・陸路と海路(水路)しかありませんが(笑)
古代の道はほとんど列島を網羅するくらいにあったと思います。人は旅をする(笑)
あの山の向こうには、目の前の海の向こうにはどんな人びとが住みどんな暮らしているかは興味あったことだと思います。人は昔から生活の工夫や知恵を寄せ合っていたのは間違いないと思います。
さて人々の行き交う古代の北部九州に話を戻しますが・・・当時の建物はいわゆる掘立柱に棟をかけ屋根を作ったものですが、工法も簡単ですから短期間で集落は出来たのだろうとおもいます。
では神功皇后さんや卑弥呼さんはどこにいたのでしょうか?定住していたのでしょうか?
私は移動していたと思ってます・・・北部九州全体を一ヶ所から治めていたというのは無理がありそうです。自らの権威を行き渡らせるにはどうしましょうか?治めている各集落を巡って居住していたのではないかと考えます。いわゆる中央集権的な発想はまだない時代でした。
年によっては不作の地もあったでしょう、そんな時は作物のすこしでも採れたところに移動するのは当然でしたでしょう。
移動は数年ごとに行われるか、或いはなにかの暦や呪術?のようなもので決められていたのではないかと考えます。神功皇后さんや卑弥呼さんを迎える集落では、新しく住まいを建てていたのでは無いでしょうか?王を迎えるときには古い建物でとはいかないでしょうからね(笑)
その新しくして迎えるということが、後の遷宮などにつながっている気がしてなりません。神や仏を迎える為に新しく神社やお堂を建てていますね。各地の神社では収穫祭などには、ご神体を頓宮(仮屋)へ移し本宮を一新するという遷宮祭も行われていますす。実際は建て替えはしませんが・・・
北部九州には発見されている環濠集落は、吉野ヶ里、平塚川添と壱岐の島の平の辻遺跡がありますが、他にも環濠集落の形態をとらずに済む集落も各地にあったでしょう。
何を書いているのか分からなくなりそうなので、今夜はここまで。
北部九州からの移動ですね次は・・・奈良まではまだ遠いです(笑)