一句鑑賞

神功皇后さんのお家は?(4)

大己貴神社(おおなむちじんじゃ)で兵は揃いました・・・じゃあ出発しようかと簡単には動けませんね。

どのくらいの兵の数だったのでしょうか?・・・数百では不足かな?数千ぐらいかな?万人単位では多すぎますね。では数千人としてお話を進めましょう。

兵の食料はどうしましょうか?各集落から持ち寄って賄ったでしょうか?ちょっと足りないのではと思いますね・・・一年か二年か分かりませんが滞在して、食料の蓄わえたのではないでしょうか。

食料も武器も準備できました、さてどのルートを通って北部海岸へ出たのでしょうか。また対馬海峡を渡るには相応の船舶が必要ですね。ここにヒントがあります・・・

今の筑豊本線が通っている冷水峠を越えて、筑豊盆地へと出たのではないでしょうか?

数千人を乗せる船は、一艘に数十人としても百艘以上の数が必要でしょう。筑豊盆地は遠賀川や英彦山川などの河川があり、その源は森林で造船に必要な木材も豊富でしたでしょう。また出来た船を利用して兵食料も下流へと運んだと思います。

ということで遠賀川河口付近から船出したのではと考えてます。船出して間もなく帆柱が折れ、替えの帆柱の木材を八幡西区皿倉山の西方の山、帆柱山から切り出したと言われています。

筑豊にも古墳がありますね・・・桂川町には王塚古墳、宮若市には竹原古墳が有名ですね。直接に神功皇后との繋がりは分かりませんが興味深いです。時代的に300年ほど違いますからね。

http://www.town.keisen.fukuoka.jp/shisetsu/kofun/ouzuka_story.php

 http://www.city.miyawaka.lg.jp/hp/page000000800/hpg000000749.htm

ご参考にして下さい。時代的には神功皇后さんとは違います。

さて日本へ戻り遠賀川をさかのぼって来た一行は、飯塚市の曩祖(のうそ)八幡宮への段へ上陸したそうです

http://www.nouso.or.jp/history/

今の遠賀川から水路がひかれていたのか、或は本流の流れが神社のすぐ下だった。今は緑道となっていますがここに流れがあったようです・・・

今はあるかどうか知りませんが・・・段の上茶屋という蕎麦、うどんのお店が境内にありました。食べたことあります(笑)。

飯塚からどのルートを通って行ったのでしょうか?

続きはまた・・・この時点ではまだ応神くんは誕生していません、がもう直です(笑)

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事