大己貴神社(おおなむちじんじゃ)で兵は揃いました・・・じゃあ出発しようかと簡単には動けませんね。
どのくらいの兵の数だったのでしょうか?・・・数百では不足かな?数千ぐらいかな?万人単位では多すぎますね。では数千人としてお話を進めましょう。
兵の食料はどうしましょうか?各集落から持ち寄って賄ったでしょうか?ちょっと足りないのではと思いますね・・・一年か二年か分かりませんが滞在して、食料の蓄わえたのではないでしょうか。
食料も武器も準備できました、さてどのルートを通って北部海岸へ出たのでしょうか。また対馬海峡を渡るには相応の船舶が必要ですね。ここにヒントがあります・・・
今の筑豊本線が通っている冷水峠を越えて、筑豊盆地へと出たのではないでしょうか?
数千人を乗せる船は、一艘に数十人としても百艘以上の数が必要でしょう。筑豊盆地は遠賀川や英彦山川などの河川があり、その源は森林で造船に必要な木材も豊富でしたでしょう。また出来た船を利用して兵食料も下流へと運んだと思います。
ということで遠賀川河口付近から船出したのではと考えてます。船出して間もなく帆柱が折れ、替えの帆柱の木材を八幡西区皿倉山の西方の山、帆柱山から切り出したと言われています。
筑豊にも古墳がありますね・・・桂川町には王塚古墳、宮若市には竹原古墳が有名ですね。直接に神功皇后との繋がりは分かりませんが興味深いです。時代的に300年ほど違いますからね。
http://www.town.keisen.fukuoka.jp/shisetsu/kofun/ouzuka_story.php
http://www.city.miyawaka.lg.jp/hp/page000000800/hpg000000749.htm
ご参考にして下さい。時代的には神功皇后さんとは違います。
さて日本へ戻り遠賀川をさかのぼって来た一行は、飯塚市の曩祖(のうそ)八幡宮への段へ上陸したそうです
http://www.nouso.or.jp/history/
今の遠賀川から水路がひかれていたのか、或は本流の流れが神社のすぐ下だった。今は緑道となっていますがここに流れがあったようです・・・
今はあるかどうか知りませんが・・・段の上茶屋という蕎麦、うどんのお店が境内にありました。食べたことあります(笑)。
飯塚からどのルートを通って行ったのでしょうか?
続きはまた・・・この時点ではまだ応神くんは誕生していません、がもう直です(笑)