ちょっと先のイベントですが、是非に予定をあけといて秋の京都にお越しください
旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画2009
韓国「ナヌムの家」から
被害女性・姜日出(カン・イルチュル)さんと
日本人スタッフ・村山一兵さんを招いて
11月29日(日曜日)
ひとまち交流館・京都 大会議室
(京都市・河原町五条下ル) 午後1時30分開場
午後2時~5時集会
参加費 一般500円 学生300円 18歳以下無料
午後5時30分~同じ部屋で交流会(会費1000円)
主催 旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・京都実行委
http://shogenkyoto.blog70.fc2.com
「ナヌムの家」は韓国にある、日本軍性奴隷被害女性たちが共同して暮す家です。「ナヌム」とはわかちあいという意味です。1992年ソウル市に初めて作られた家は、1995年に現在の緑豊かな京畿道広州市に移りました。歴史館も併設され、多くの日本人を含む訪問者があります。
私たち京都実行委は2004年より「慰安婦」問題の解決に向けて活動しているグループです。韓国やフィリピン、台湾などの被害女性たちに出会い、向き合うことを通じて歴史を学び、歩んできました。
被害女性は大変高齢になり、毎年たくさんの方が亡くなっています。今年は日本に来ていただける最後の年になるかもしれません。多くの人々に、被害女性の本当の声を聞いてほしいと思っています。
いまだに被害者女性たちに誠意ある謝罪と補償を行っていない日本政府。共に声を上げていきましょう。
姜日出(カン・イルチュル)さんの紹介
1928年10月26日、韓国の慶尚北道尚州郡で、12人兄弟の末っ子で生まれた。そのとき、すでに上の兄弟6人は亡くなっていた。連行されたのは1943年、16歳の時。当時、『処女供出』『報国隊』の名目で、若い女性を募集する動きが激しくなっており、ハルモニの家にも警察が刀を下げてやって来た。軍靴の紐を編む工場で働くと騙されて連れていかれた。
多くの朝鮮人、日本人、中国人の女性とともに、汽車や車、トラックで移動させられ、中国の牡丹江の慰安所で性奴隷生活を強いられた。慰安所では、『オカダ』と呼ばれた。暴力はやむことなく続き、慰安所にきた翌年の春に腸チフスにかかった。1945年、軍人に焼かれようとしたとき、朝鮮人たちが日本軍と戦ってハルモニを背負って逃げてくれた。
その後中国で、朝鮮人の男性と結婚し、1女をもうけたが、その後朝鮮戦争が起こり、中国人民志願兵として参戦した夫は、戦争で死亡、娘も3歳ぐらいで病気で死んでしまった。19歳のときだった。朝鮮戦争時は、(中国人民)解放軍の看護婦として働き、戦後も中国吉林の病院で看護婦として勤務しながら、一人で暮らしてきた。30歳を過ぎて、中国人と結婚するが、その後夫とは離婚、45歳で退職し、吉林市で年金生活を送っていた。2男1女がいる。2000年4月にナヌムの家に入居。畑で野菜を育て、手料理をふるまう明るいハルモニです。 (『ナヌムの家歴史館』ハンドブックより)
プレ企画のご案内
学習会
テーマ「語られなかった日本人『慰安婦』問題」
・10月31日(土曜日)
午後2時から毎日放送の映像90「くびきの女 朝鮮人従軍慰安婦」を上映します。城田すず子さんが紹介されています。午後3時~5時 学習会
・場所 京都大学 文学部新館 2階 第4講義室
・コメンテーター 山下 英愛(やました よんえ)さん
・資料代300円 同じ場所で交流会(1000円)
実行委のメンバーも日本人「慰安婦」問題について調べ発表し、一緒に内容を考えていく場にしていきたいと思っています。
【山下英愛さん紹介】1959年、東京生れ。多摩美術大学、津田塾大学、韓国の梨花女子大学で学び、90年代の韓国で「慰安婦」問題に取り組む。現在は立命館大学非常勤講師。専門は女性学。著書に『ナショナリズムの狭間から』、訳書に、韓国女性ホットライン連合編『韓国女性人権運動史』、権仁淑『韓国の軍事文化とジェンダー』、チョン・ギョンア『まんが「慰安婦」レポート1』などがある。
旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画2009
韓国「ナヌムの家」から
被害女性・姜日出(カン・イルチュル)さんと
日本人スタッフ・村山一兵さんを招いて
11月29日(日曜日)
ひとまち交流館・京都 大会議室
(京都市・河原町五条下ル) 午後1時30分開場
午後2時~5時集会
参加費 一般500円 学生300円 18歳以下無料
午後5時30分~同じ部屋で交流会(会費1000円)
主催 旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・京都実行委
http://shogenkyoto.blog70.fc2.com
「ナヌムの家」は韓国にある、日本軍性奴隷被害女性たちが共同して暮す家です。「ナヌム」とはわかちあいという意味です。1992年ソウル市に初めて作られた家は、1995年に現在の緑豊かな京畿道広州市に移りました。歴史館も併設され、多くの日本人を含む訪問者があります。
私たち京都実行委は2004年より「慰安婦」問題の解決に向けて活動しているグループです。韓国やフィリピン、台湾などの被害女性たちに出会い、向き合うことを通じて歴史を学び、歩んできました。
被害女性は大変高齢になり、毎年たくさんの方が亡くなっています。今年は日本に来ていただける最後の年になるかもしれません。多くの人々に、被害女性の本当の声を聞いてほしいと思っています。
いまだに被害者女性たちに誠意ある謝罪と補償を行っていない日本政府。共に声を上げていきましょう。
姜日出(カン・イルチュル)さんの紹介
1928年10月26日、韓国の慶尚北道尚州郡で、12人兄弟の末っ子で生まれた。そのとき、すでに上の兄弟6人は亡くなっていた。連行されたのは1943年、16歳の時。当時、『処女供出』『報国隊』の名目で、若い女性を募集する動きが激しくなっており、ハルモニの家にも警察が刀を下げてやって来た。軍靴の紐を編む工場で働くと騙されて連れていかれた。
多くの朝鮮人、日本人、中国人の女性とともに、汽車や車、トラックで移動させられ、中国の牡丹江の慰安所で性奴隷生活を強いられた。慰安所では、『オカダ』と呼ばれた。暴力はやむことなく続き、慰安所にきた翌年の春に腸チフスにかかった。1945年、軍人に焼かれようとしたとき、朝鮮人たちが日本軍と戦ってハルモニを背負って逃げてくれた。
その後中国で、朝鮮人の男性と結婚し、1女をもうけたが、その後朝鮮戦争が起こり、中国人民志願兵として参戦した夫は、戦争で死亡、娘も3歳ぐらいで病気で死んでしまった。19歳のときだった。朝鮮戦争時は、(中国人民)解放軍の看護婦として働き、戦後も中国吉林の病院で看護婦として勤務しながら、一人で暮らしてきた。30歳を過ぎて、中国人と結婚するが、その後夫とは離婚、45歳で退職し、吉林市で年金生活を送っていた。2男1女がいる。2000年4月にナヌムの家に入居。畑で野菜を育て、手料理をふるまう明るいハルモニです。 (『ナヌムの家歴史館』ハンドブックより)
プレ企画のご案内
学習会
テーマ「語られなかった日本人『慰安婦』問題」
・10月31日(土曜日)
午後2時から毎日放送の映像90「くびきの女 朝鮮人従軍慰安婦」を上映します。城田すず子さんが紹介されています。午後3時~5時 学習会
・場所 京都大学 文学部新館 2階 第4講義室
・コメンテーター 山下 英愛(やました よんえ)さん
・資料代300円 同じ場所で交流会(1000円)
実行委のメンバーも日本人「慰安婦」問題について調べ発表し、一緒に内容を考えていく場にしていきたいと思っています。
【山下英愛さん紹介】1959年、東京生れ。多摩美術大学、津田塾大学、韓国の梨花女子大学で学び、90年代の韓国で「慰安婦」問題に取り組む。現在は立命館大学非常勤講師。専門は女性学。著書に『ナショナリズムの狭間から』、訳書に、韓国女性ホットライン連合編『韓国女性人権運動史』、権仁淑『韓国の軍事文化とジェンダー』、チョン・ギョンア『まんが「慰安婦」レポート1』などがある。
彼女の家庭
戦争と性(かもがわ出版)
私は一二人兄弟の末娘として生まれ、家は裕福でとてもかわいがられた。
ナヌムの家歴史館ハンドブック
父母の畑仕事の手伝いや、食事の準備などで学校にはあまり通えず・・・
(あまり裕福ではないように思えますが)
彼女のいた慰安所
ナヌムの家歴史館ハンドブック
牡丹江の慰安所
戦争と性
吉林省長春の慰安所
連行の経緯
ナヌムの家HP
学校をやめて 2年頃家で働いてから引かれて行った。
巡使ふたつが来ました。
日本人なのか朝鮮の人なのか分からないです。
ヤフーコレア
小学校で家に帰って来たら日本軍人と警察 2人がトラックをひいて来て強制で積載するに乗せて連れて行った
(学校は辞めた筈では)
慰安婦の期間
ヤフーコレア
日本軍慰安婦で3年を送った。
ナヌムの家HP
1943年秋、連行
1944年年初、慰安所に到着
1945年初夏脱走
2年に満たないのですが。
ブログをいつもチェックしてくださっているようですね。
どうもありがとうございます
ただ、質問に答えるも何も、その前にまず、アラディアさんの引用の方法では、実際にそのように書いてあるのかさえ、わたしの方では確認できませんよね。困ってしまいます
「ヤフーコレア」ってなんですか? YAHOO! KOREAのことですか? URLや記事題名や最終閲覧日がなければ、何の事だかまったくわかりません
ウェブの情報って、日々変わっていきますよね? 昨日見ることができたものが、今日はなくなっている、ということも多々ありませんか?
なにかを「検証」したい、あるいは、質問したい、とおっしゃるのであれば、本や論文なら出版者だけでなく、執筆者と該当ページ・出版年、ウェブならURL・記事名や最終閲覧日を明記していただけないと、お答えのしようもありません。
それよりも、もっと重要なことは、アラディアさんの質問が「証言」というものを全く理解せずに、ただの文字の羅列か何かとして考えているという点で大きな問題を含んでいるということです。
いくつかをあげると、
1)通訳・翻訳の問題
姜日出さんの証言を聞く、読むという場合、わたしは日本語に通訳・翻訳されたものを聞き、読むことになります。
通訳や翻訳をはさめば、何らかの誤訳が生じることもあるはずです。当時の朝鮮半島の状況や戦争について理解していないひとが通訳・翻訳をすれば、その可能性はより高くなりますね。
子どものころにやった「伝言ゲーム」を思い出してください。1つの言語の中でもあれだけの「誤訳」が生じうるのですから、2言語、多言語間ならなおさらです。
2)「記憶」とはなにかという問題
アラディアさんは60年後に今日のことをどのくらい覚えていると思いますか?
わたしは、9年前にひどい怪我をして3週間ほど入院していたのですが、その時のことを話せと言われても、正直、断片的にしか思い出せません。大体の流れは覚えているけれど、前後関係や人間関係がひどくあいまいな部分があります。本当に入院期間が3週間だったのかもあやふやです。オリンピックやってたな、とかは覚えているのですが。
約10年前のことでもそうです。じゃ、60年前のことだったら?
しかも、被害なのに「恥」と思い込まされてきた記憶です。ずっと、語ることのできなかった記憶です。なんとか忘れたいと思ってきた記憶です。それをどれほど「正確に」覚えていられるのでしょうか?
3)語りたくないことを語るという状況であるという問題
(2)に書いたような「恥」と思い込まされていた、周りに話せば、自分が非難されると思っていた、そんな記憶を語るのは大変なことだと思いませんか。
本当は話したくない、隠しておきたい、けれど言わなければ死んでも死にきれない。どうしてわたしがあんな目に逢わなければならなかったのか、その責任者は誰なのか、ひどいことをした人たちが悠々と暮らしているのに、どうしてわたしが苦しまなければならないのか…。
そういった逡巡の中で語ることがどれほど苦しいことか…。ここまでは話せるが、これ以上は…ということもあるかもしれません。その日の体調次第でも話せることが違うかもしれません。そういうのって、トラウマや何かの被害の記憶でなくても、生活の中でわたしたちは日々出くわしているのではないでしょうか?
4)誰に語っているのかという問題
そして、このことは、上に書いたことすべてに関係していることなのですが、誰に語るのかによっても、わたしたちの語り方は大きく変わりはしませんか?
たとえば、アラディアさんが昨日職場で(バイト先でも・学校ででもかまいません)大きな損害を被ったとします。そのことを、わたしに話してくれるとしたら、アラディアさんがどこでどんな人たちとどんな仕事をしているのか、職場での立場はどんなものなのか…といった背景知識から話さなければ話しが全く通じないかもしれませんよね?
では、いつも一緒に仕事をしている人にだったらどうでしょうか? そこら辺は省略できますよね?
わたしがアラディアさんに損害を与えた人と近しい関係にあるとしたら? わたしがアラディアさんのほうに非があると思っているとしたら?
長くなりましたが、根深い問題に気づいていただけたでしょうか?
歴史史料に批判的な読みが必要なのはご存じのことと思いますが、それは、ただ字面通りに読めばいい、というものではないですよね? 年代はいつごろで、どういう特徴の文書で、だからこう読む、という作法がありますよね。
それと似たことで、「証言」を聞くあるいは読むときには、「証言する」とはどういうことなのかを考慮したうえで、聞き読まなければならないのではないでしょうか? ただ「証言」を記録した字面だけを追い「矛盾」を指摘するのでは、なんにもなりません。
結局、どちらが正しいのでしょうか?
また、正しいという根拠はどのような検証から来るものでしょうか。
私は自分の資料を見て生じた疑問を出しただけで、それで彼女達を嘘つきと断定するつもりはありません。しかし、以前慰安婦さん達の証言を調べてみたのですが、こういった矛盾点が多くありますので、一度関係者に聞いてみたいと思いました。
どちらってなんですか?
みんさんが言ってること、
何も理解してないですよね。。