みんです。交換日記が回ってきたら、広島旅行のことを書こうと思っていたのですが、もう8か月くらい経ってしまって、なんだか遠い昔のことになってきてしまいました。それでも、あの旅行は私にとって、とても大切なものだったので、覚えている限りを書いておこうと思います。
久しぶりに、旅行中のメモとか、写真を見返しています。
今日は8月6日のこと。
ご存じのとおり、6日は朝から平和記念公園で式典が開かれます。公園には、それぞれがそれぞれの思いを込めたのぼり、チラシ、プラカード……を持った人たちが集まっています。反核・反原発の署名を集める人の姿も。
「忘れていない」という思いを伝えあうことの大切さをかみしめる一方で、8月6日は静かに過ごしたいと思われる、被爆者、遺族がいるというのも、もっともなことだと思いました。
野田首相(当時)が大飯原発の再稼働を表明したのが6月8日の記者会見。式典に出席し式辞を述べる野田さんへの「原発を停止してから参加しろ!」の声もたくさんあがっていました。
第二次安倍内閣が発足した今、事態はますますひどくなるばかりで、今年の式典で安倍さんがなにを語るかには、しっかり注目しなければ、とおもいます。
さまざまな思いに出会いながら、広島城周辺フィールドワークの集合場所に向かうと、なんと、昨日の大久野島でガイドをご一緒させていただいたみなさまに出会いました!なんだかすてきな再会!
平和記念公園から広島城まで歩き、護国神社のこと、そこに建つ碑のことなどガイドしてもらいながら、当時軍の通信基地として使われてた地下壕に入りました。
その壕の中で、岡ヨシエさんという女性のお話を聞きました。岡さんはこの壕の中で被爆したのです。岡さんはそれまで、8月6日は静かに追悼をすることにしていて、体験をお話しされたことはなかったのだそうです。この時、初めて6日に、しかも、ご自身が被ばくされたその場所で、お話を聞かせていただくことができたのです。
岡さんに、そして、このフィールドワークを企画してくださった皆様に、感謝の気持ちでいっぱいです。
当時女学生だった岡さんは学徒動員でこの壕の中で軍の通信のための交換手をしていました。5日の夜の夜勤(当時、岡さんは比治山高等女学校の女学生。今で言う中学生が動員され、夜勤をしていたのですね…)に入っていた岡さんは、朝の8時に交代にやってくる人たちを待っていたのだそうです。
でも、この日に限って8時になっても交代の女学生がやってこない。仕事の時間が終わったといっても、情報室をあけることはできないから、交換機の前に座って待っていたら、8時13分、広島に警戒警報が発令されました。
司令部から渡されたメモを読み上げた岡さん。「ケイカイケイホウハ」まで読み上げたところで、
「ピカ」
気絶した岡さんが目を覚ますと、岡さんの体は吹き飛ばされ、窓際に座っていたはずが、
部屋の真ん中にいたそうです。交換機の下敷きになっていました。
何とか外に出ると、「巨人に踏まれたよう」に周りの建物はぺしゃんこで、見渡す限りがれきの山。遠くを見ると、広島湾まで見渡すことができ、似の島まで見えたのだそうです。怪我をした軍人がうめき声で「新型爆弾にやられた…」とつぶやいていたのを聞いたそうです。
情報室に戻ると、一緒に働いていた女学生が通信機を手にどこかと連絡を取ろうとしていて、岡さんも通信を試みたのだそうです。
最初につながったのは福山の歩兵連隊司令部。
岡さんが「広島が全滅しました」と伝えても「全滅とはどういうことだ?分かるように説明しなさい」と信じてもらえず、外で聞いた軍人の言葉を思い出し、「新型爆弾にやられました」と伝えたのだそうです。
岡ヨシコさんは、広島に原爆がおとされたことを最初に知らせた方だったのです。
すごく、貴重なお話を聞かせていただいたのです。
本当は、今回、6日の話は全部書いてしまおうと思ってたのですが、やっぱり、岡さんのお話までに…。とてもだいじな心に留めておきたいお話だったので、省略ができませんでした。続きはまた次回。
みん
久しぶりに、旅行中のメモとか、写真を見返しています。
今日は8月6日のこと。
ご存じのとおり、6日は朝から平和記念公園で式典が開かれます。公園には、それぞれがそれぞれの思いを込めたのぼり、チラシ、プラカード……を持った人たちが集まっています。反核・反原発の署名を集める人の姿も。
「忘れていない」という思いを伝えあうことの大切さをかみしめる一方で、8月6日は静かに過ごしたいと思われる、被爆者、遺族がいるというのも、もっともなことだと思いました。
野田首相(当時)が大飯原発の再稼働を表明したのが6月8日の記者会見。式典に出席し式辞を述べる野田さんへの「原発を停止してから参加しろ!」の声もたくさんあがっていました。
第二次安倍内閣が発足した今、事態はますますひどくなるばかりで、今年の式典で安倍さんがなにを語るかには、しっかり注目しなければ、とおもいます。
さまざまな思いに出会いながら、広島城周辺フィールドワークの集合場所に向かうと、なんと、昨日の大久野島でガイドをご一緒させていただいたみなさまに出会いました!なんだかすてきな再会!
平和記念公園から広島城まで歩き、護国神社のこと、そこに建つ碑のことなどガイドしてもらいながら、当時軍の通信基地として使われてた地下壕に入りました。
その壕の中で、岡ヨシエさんという女性のお話を聞きました。岡さんはこの壕の中で被爆したのです。岡さんはそれまで、8月6日は静かに追悼をすることにしていて、体験をお話しされたことはなかったのだそうです。この時、初めて6日に、しかも、ご自身が被ばくされたその場所で、お話を聞かせていただくことができたのです。
岡さんに、そして、このフィールドワークを企画してくださった皆様に、感謝の気持ちでいっぱいです。
当時女学生だった岡さんは学徒動員でこの壕の中で軍の通信のための交換手をしていました。5日の夜の夜勤(当時、岡さんは比治山高等女学校の女学生。今で言う中学生が動員され、夜勤をしていたのですね…)に入っていた岡さんは、朝の8時に交代にやってくる人たちを待っていたのだそうです。
でも、この日に限って8時になっても交代の女学生がやってこない。仕事の時間が終わったといっても、情報室をあけることはできないから、交換機の前に座って待っていたら、8時13分、広島に警戒警報が発令されました。
司令部から渡されたメモを読み上げた岡さん。「ケイカイケイホウハ」まで読み上げたところで、
「ピカ」
気絶した岡さんが目を覚ますと、岡さんの体は吹き飛ばされ、窓際に座っていたはずが、
部屋の真ん中にいたそうです。交換機の下敷きになっていました。
何とか外に出ると、「巨人に踏まれたよう」に周りの建物はぺしゃんこで、見渡す限りがれきの山。遠くを見ると、広島湾まで見渡すことができ、似の島まで見えたのだそうです。怪我をした軍人がうめき声で「新型爆弾にやられた…」とつぶやいていたのを聞いたそうです。
情報室に戻ると、一緒に働いていた女学生が通信機を手にどこかと連絡を取ろうとしていて、岡さんも通信を試みたのだそうです。
最初につながったのは福山の歩兵連隊司令部。
岡さんが「広島が全滅しました」と伝えても「全滅とはどういうことだ?分かるように説明しなさい」と信じてもらえず、外で聞いた軍人の言葉を思い出し、「新型爆弾にやられました」と伝えたのだそうです。
岡ヨシコさんは、広島に原爆がおとされたことを最初に知らせた方だったのです。
すごく、貴重なお話を聞かせていただいたのです。
本当は、今回、6日の話は全部書いてしまおうと思ってたのですが、やっぱり、岡さんのお話までに…。とてもだいじな心に留めておきたいお話だったので、省略ができませんでした。続きはまた次回。
みん