海底電線陸揚室1は ここ
この建物は明治30年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の
通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果た
してきた所である。
明治28年の日清戦争終結後、日本は領有するところとなった台湾との間に
軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、明治29年、まず鹿児島と沖
縄本島との間に、次いで明治30年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷
いた。これによって、本土-沖縄本島-石垣島-台湾の通信施設が完成した
のである。
開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のちに逓信省に
移管され、一般公衆用通信にも共用された。
太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となったので、無数の弾痕が残る。
今回は向かって左側の室内の写真です。
入口から室内を見る
同、室内上面
室内中央より左方を見る
室内中央から見る
孔のなか
この建物は明治30年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の
通信に利用された海底線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果た
してきた所である。
明治28年の日清戦争終結後、日本は領有するところとなった台湾との間に
軍用海底線を敷設する必要が生じたことから、明治29年、まず鹿児島と沖
縄本島との間に、次いで明治30年、石垣島を経て台湾との間に海底線を敷
いた。これによって、本土-沖縄本島-石垣島-台湾の通信施設が完成した
のである。
開通したこの海底電信線は、当初陸軍省が管理していたが、のちに逓信省に
移管され、一般公衆用通信にも共用された。
太平洋戦争の際には連合軍の攻撃目標となったので、無数の弾痕が残る。
今回は向かって左側の室内の写真です。
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同、室内上面
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