平成28年5月22日(日)
2016年名鉄 春の歩け歩け大会
「❿花と緑のうるおいファーム西尾市憩いの農園から吉良の里へ」の続きです。
これから源徳寺の本堂へ入って行きます。
信じる道の山
信道山 源徳寺
おじゃましま~す。。
展示室に来ました。
室内はこんな感じです。
気になるのだけ順番に見ていきます。
荒神山の決闘のお芝居などなど。
五木ひろしさんも芝居されたようですね。
公演前に墓参されていました。
昭和3年頃の西尾市葵町、江崎一家の記念写真
清水次郎長の女房三代目、おてふ(お蝶)は、西尾藩士江崎丹次(十石二人扶持)の娘です。
仁吉は、次郎長と兄弟分の杯を交わす仲。
荒神山(こうじんやま)の喧嘩(1866年 慶応二年)
神戸長吉(かんべちょうきち)と穴太徳(あのうとく)の縄張り争いが荒神山(現在の鈴鹿市)でありました。
次郎長は神戸長吉側につき、吉良仁吉を大将に、大政と大瀬半五郎らを荒神山に向かわせます。
穴太徳・黒駒の徒130人余を相手に闘い、穴太徳の弟分角井門之助を倒すも、このとき仁吉・法印大五郎が戦死。
憤慨した次郎長は480名を動員し「長槍170本、鉄砲40丁、米90俵」を船に積み、
穴太徳に再び挑んだところ、穴太徳とその後ろ盾の丹波屋伝兵衛らは恐れおののき、
ひたすら陳謝し和議を受け入れました。
この事件以降、全国に「清水次郎長」の名を馳せ、貫禄を増すことになりました。
寺男 法被
藤の花があしらわれている。
そしてこちらは仁吉の位牌。
釋馨香
仁吉の妻、おきく使用の鏡と油つぼなど。
慶応二年(1866)、伊勢、神戸の長吉が、桑名の穴太徳に荒神山(庚申ヶ原)の縄張りを奪われ、
仁吉に助成を求めた。。
しかし三か月前に嫁となった「おきく」は、穴太徳の養女である。
義理のため女房を離縁し、長吉に助成することになった仁吉。
清水一家の中主だった大政、小政をはじめ十八人衆が助成することになり、総勢二十四人が
寺津港より荒神山に向けて出港しました。
喧嘩は仁吉が勝利となったが、仁吉、法印大五郎、幸太郎は戦死した。
仁吉28歳でした。
仁吉の姉、イチさん。
仁吉かしら?
御朱印大変そうw
頑張ってください。
ご本尊様がありました。
お参りしてきます。
人生劇場の一説ですね。
尾崎士郎
人生劇場望郷編
比翼塚の章より
震災で倒壊してしまった鐘楼。
山門も倒壊して、今はありませんでした。
源徳寺を後にして、次は人生劇場を書いた尾崎士郎の眠るお寺さんを訪れます。
続きはまたです。