心中、常に心に払るの事ありて、
わずかにこれ徳を進め行を修むるの砥石なり。
もし言々耳を喜ばし、
事々心に快ければ、
すなわちこの生を把りて鴆毒の中に埋在せしむるなり。
いつも口うるさく言われたり、
いつも心配事があるのって、
実は、自分を成長させるキッカケに囲まれて過ごしているようなものだよ。
もし、耳触りの良いことばっかり言われたり、
周囲の配慮で何の苦労もなく生きてきたりすると、
自力でぬるま湯から出られない人間になっちゃうから、その人の為にならないよ。
これって、一般的な捉え方をすると修身論ですが、逆から見れば教育論ですよね。
最近は、”友達のような親子関係”というスタイルというものを、よく耳にします。
昭和生まれの人間にとっては共感しづらいですが、こうした考え方は時代の変化による影響が大きいと思います。
現代は、何時でも何でも購入できる便利な時代であり、昔の様に何でも自分たちで解決しなければいけないという不便な時代ではなくなりました。
また、家庭における子どもの絶対数が減少し、1人の子どもに向き合える時間が増えたという事だと思います。
さて、家庭において、親からアレをしなさいコレをしなさいと口うるさく言われて来たのが私達の世代。
そうした躾の目的は、それをする習慣を身に付けさせるところにあります。
では、口うるさく言えば、その習慣づけができるのかと言えば、そうとも言えない。
子どもとは元来、”知りたがり”、”やりたがり”、”見せたがり”です。
そういった特性を踏まえながら、きちんと伝え、やらせてみて、子どもの自主性に繋がるようにしてやる必要があります。
よく「叱る」と「怒る」は違う等と言われますが、「口うるさく言う」という行為は、指導としてなされるものと、注意としてなされるもので、受け取られ方が異なるという事でしょう。
昔はそうした事が、保護者(親)と被保護者(子)という関係上で行われて来ました。
現在はそうした事を、人生の主体(子)とそのサポーター(親)という関係上で行うという事なのでしょう。
おそらくそれが、”友達のような親子関係”の本来の姿だと思います。
しかしこの関係も、本文にあるように一歩間違えると、単に甘えた人間を生み出してしまう結果になりかねないんですよね。
以上、「教育論における本質は変わらない」というお話でした。
(。・ω・。)<五十六!?
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