TEAM HAYASAKA

四国八十八か所巡礼お遍路の旅 第5回 そして桜井総合公園

25.9.22(日)
今週も四国八十八か所巡礼へ。
自宅を10時前に出発して30分程で第53番札所圓明寺に到着。

<圓明寺>
749年、聖武天皇の勅願により、行基が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して堂宇に安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。和気町は伊予の国府があった今治へと伸びる今治街道が通る要所だ。町に隣接する堀江港も古くからの要港で、万葉集に詠われた伊予の熟田津との関連が指摘されている。
その後、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615~1624)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。

今日は暑いので、昨日買ったばかりのGAPの帽子(半額)をかぶってきた。




このマウンテンバイクのお遍路さんは東京から来ていた。ここ円明寺(松山)から、今治の延命寺、南光坊、泰山寺に至るまで、自転車にもかかわらず、すべての寺で出会った(こちらは道の駅で休憩していたが)。驚異的なハイペースと体力。


円明寺から今治に向かう途中、北条の道の駅<風和里>で一服。

夏の名残惜しさが漂うビーチから、中島を眺める。


サイクルスタンドにかっこいいGIANTのロードバイクを発見。


なんと、サイクリング部のボスのバイクでした。

フレームはカーボンで超軽量。ペダルにはビンディングが付いており、専用のシューズにより固定されるとのこと。ほんの数メートルだけ試乗させてもらったが、タイヤの細さと軽さで宙に浮いている感じがしてバランス的に難しい。
松山から来たボスはここで折り返し、復路30㎞を軽やかに漕ぎ出していった。


11:30 ここでさわが「お腹と背中がくっつきそう」と言うのでお昼ご飯。
たこめし、たこやき、巻き寿し。




第54番札所延命寺。数年前、ここから数百メートルのところに住んでいた。久しぶりの参拝。
<延命寺>
養老四年に聖武天皇の勅願により、行基が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間(810~824)になって、弘法大師が嵯峨天皇の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。
その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。この間、鎌倉時代の文永5年(1268)、華厳宗の学僧・凝然(1240~1321)が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる「八宗綱要」を著述した。「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、上下2巻に記されている。
本堂



大師堂




第55番札所南光坊へ。
<南光坊>
大宝3年、伊予水軍の祖といわれた伊予の国司、越智玉澄が、文武天皇の勅願を受け、大山積明神を大三島に勧請し、別宮大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法し、霊場に定た。
その後、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。
さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。


四天王。東方 時国天、南方 増長天、西方 広目天、北方 多聞天。四方を守護する役目を持つ。如来や菩薩を護っている。

本堂

大師堂




第56番札所泰山寺
<泰山寺>
泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っている。
弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ。蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。
大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、「延命地蔵経」の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。
寺はその後、淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。
泰山寺の右約300m「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、「八宗綱要」を撰述した凝然(1240~1321)が誕生した地とされている。



本堂。

大師堂。




第5回四国八十八か所巡礼……第53番札所圓明寺、第54番札所延命寺、第55番札所南光坊、第56番札所泰山寺。

その後桜井総合公園へ、ソリ遊びに行った。
ほうきの様に長い人工芝が下に向かって階段状に伸びており、水がなくてもよく滑る。滑り過ぎると海に向かって飛び出していく可能性がある……???。


昔は怖がっていたが、今は一人で滑っては登り、滑っては登りを繰り返す。












やはり子供は参拝より遊ぶ方が100倍楽しいに決まっている。

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コメント一覧

やっこ
さわのそり
運動会前のいいトレーニングになったよ。
70GG
青空ですね
そりもなかなかの傾斜で面白そうですね。
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