『慟哭』 15
手紙の差出人はチョン・ユジン
目の前に白衣姿で座る彼女は
脳神経外科の医師のイメージとはかけ離れた穏やかな感じの医師だった。
診察が終わるまで2時間も待合室で待たされたミンウに彼女は
申し訳なさそうに声をかけた。
「お待たせしてしまって・・。失礼しました。
ハン・ユンスさんのご主人だと看護師から聞きましたが・・」
手に持った名刺を眺めながら彼に話しかける。
「はい。」
「奥様のお加減はいかがですか?
こんなに病院に長い間いらっしゃらなくて痛みがひどいのではないかと心配になって。・・・」
「妻はひと月ほど前に亡くなりました。」
「えっ・・」息を呑むユジン。
「自殺です。マンションのベランダから飛び降りました。」
「えっ・・・。ひと月前といったら私が最後にお会いしてからいくらも経ってないかもしれない・・」
動揺を隠せないユジンは席から立ち上がり窓の外に目を向けた。
「ひと月前に会ったんですかユンスに。」
「ええ。私が初めてユンスさんに会ったのは今から3ヶ月以上前になります。
この病院が5軒目だとおっしゃってました。
奥様はとても聡明な方ですね。
ここに来るまでに訪れた病院で受けた診断内容を
きちんと整理して説明してくださいました。
そして私の診断と今後の治療方針についてとても丹念に聞かれたのです。
手術の危険性と生存できる可能性・・・」
「あの・・・」
全く話の見えないミンウはユジンの言葉をさえぎった。
「まさか・・・ユンスさん、ご主人に話されなかったのですか。
あの時もっと詳しくご主人のことを聞けばよかった・・・。」
ユジンは席に戻り頭を抱えた。
「あの時・・・って」
「最後にお会いしたときです。」
ユジンはそういうと彼女が知るすべてを話し始めた。
「奥様は脳腫瘍を患っていらっしゃいました。
しかも末期です。
腫瘍の場所も神経の入り組んだ深い部分に大きく広がっており、
無理に手術したとしても言語機能、運動機能、身体機能に大きな障害が残る可能性がとても高い状態でした。
抗がん剤、放射線での治療もあまり効果を望めない。
いずれの病院でも余命3ヶ月と診断されたようです。
私の診断も同様のものでした。
数パーセントの可能性を信じて手術と抗がん剤での治療を行い、
お嬢さんのために少しでも長く生きることを勧める私に彼女は言いました。
ベッドに縛られて意識もなく抱くこともかなわない
微笑かけられもしないおっぱいもあげられない・・・
先生は私にそんな母になっても生きろとおっしゃるんですか。と。
奥様はとても冷静でした。
無理に治療して娘と一緒に過ごす時間が減るのであれば自分は治療を望まない。
そうおっしゃいました。
そしてその日は痛み止めのモルヒネと副作用の少ない抗がん剤を処方したのです。
それから数回来院されました。
病状は悪化していました。
おそらく私に告げているよりはるかにお辛かったのではないかと思います。
そうこうするうち同い年だったこともあってユンスさんと親しくなって。
ご主人も身寄りもいらっしゃらないと伺っていたので
相談相手になれればと個人的な連絡先をお教えしたんです。
そして彼女から会いたいと。」
「それがひと月前」
ミンウが尋ねる。
「そうです。会ったとき彼女は思っていたよりもはるかに元気そうでした。
最初、話は主にお嬢さんのことでした。
どれくらい可愛いか・・
毎日新しい驚きがある・・
自分が逝ってしまったあと、
お嬢さんが困らないようにいろいろ準備を始めたことを
時には笑顔を浮かべながら話してくれました。
それが段々様子が変わってきて。
いつも冷静なユンスさんがうつむいてポタポタと涙を落とし始めて。
自分が死んでしまうことを一番大切な人にどうしても言えない、
彼女はそういいました。
彼が悲しむ姿をどうしても見たくない。
彼と出会ってから今までずっと彼が何を望んでいるか
彼はどうしたら喜んでくれるか、それを叶えることを生きがいに生きてきた。
彼の喜ぶ笑顔が自分のすべてなのだと。
彼にとっては死ぬまで完璧な自分でありたいから、だから言えないって。
でも、嘘をつくのがつらい。
彼を騙している自分は最低な女だと思う。
そういって泣いていらっしゃいました。
おそらくご主人のことだろうと思いました。
病状が悪化してくれば黙っていることは不可能ですし、
彼女がこれほど愛しているご主人であれば
充分に彼女の残りの人生の苦しみを分かち合い
彼女を支えてくれる方に違いない・・
私は彼女の話を聞いてそう感じました。
だからご主人に話すことを強く勧めたんです。
私から連絡してもいいとも言いました。
「僕がいけないんです・・。」
黙って聞いていたミンウが重い口を開いた。
「意識していなかったにしろ僕が彼女に完璧であることを望んだんです。
彼女はいつも僕がほしいものをほしいときに与えてくれて。
それが当然のような生活でした。
僕は自分の仕事にばかり一生懸命で
彼女の具合が悪いのにも全く気がつかなかった。
彼女を追い詰めたのは僕です。
僕に病気のことを知られることを彼女は拒んだんです。」
「・・・・・そうかもしれない。
でも、彼女はあなたがそんな風に悔いることを望んでいたのではないと私は思います。
彼女が自ら死期を早めたのは苦しみ悩むあなたを彼女自身が見たくなかったからなのではないでしょうか・・・。
今、目の前に彼女がいたら
私は彼女に向かって自分勝手すぎると怒鳴ると思います。
残されたものの悲しみを彼女は知らなさ過ぎます。」
「ユンスを・・・・あなたにユンスの何がわかるんですか。
彼女を悪く言わないでくれ。
・・・・すいません。つい・・言い過ぎました。」
声を荒げ動揺したミンウは頭を抱えた。
「いえ、私こそ差し出がましいことを。
私もユンスさん大好きです。
でも、今回ばかりは彼女の判断は間違っていたと思います。
彼女が死を選んだことで最愛のあなたが今一人でこうやって苦しんでいるのですから。」
ミンウは流していた涙を袖で拭き立ち上がった。
「お忙しいのに・・・長くお邪魔しました。」
深く一礼する。
「何かお役に立てることがあればいつでもご連絡ください。
ご自分を責めてはいけません。」
ミンウは答えることなく診察室を後にした。
手紙の差出人はチョン・ユジン
目の前に白衣姿で座る彼女は
脳神経外科の医師のイメージとはかけ離れた穏やかな感じの医師だった。
診察が終わるまで2時間も待合室で待たされたミンウに彼女は
申し訳なさそうに声をかけた。
「お待たせしてしまって・・。失礼しました。
ハン・ユンスさんのご主人だと看護師から聞きましたが・・」
手に持った名刺を眺めながら彼に話しかける。
「はい。」
「奥様のお加減はいかがですか?
こんなに病院に長い間いらっしゃらなくて痛みがひどいのではないかと心配になって。・・・」
「妻はひと月ほど前に亡くなりました。」
「えっ・・」息を呑むユジン。
「自殺です。マンションのベランダから飛び降りました。」
「えっ・・・。ひと月前といったら私が最後にお会いしてからいくらも経ってないかもしれない・・」
動揺を隠せないユジンは席から立ち上がり窓の外に目を向けた。
「ひと月前に会ったんですかユンスに。」
「ええ。私が初めてユンスさんに会ったのは今から3ヶ月以上前になります。
この病院が5軒目だとおっしゃってました。
奥様はとても聡明な方ですね。
ここに来るまでに訪れた病院で受けた診断内容を
きちんと整理して説明してくださいました。
そして私の診断と今後の治療方針についてとても丹念に聞かれたのです。
手術の危険性と生存できる可能性・・・」
「あの・・・」
全く話の見えないミンウはユジンの言葉をさえぎった。
「まさか・・・ユンスさん、ご主人に話されなかったのですか。
あの時もっと詳しくご主人のことを聞けばよかった・・・。」
ユジンは席に戻り頭を抱えた。
「あの時・・・って」
「最後にお会いしたときです。」
ユジンはそういうと彼女が知るすべてを話し始めた。
「奥様は脳腫瘍を患っていらっしゃいました。
しかも末期です。
腫瘍の場所も神経の入り組んだ深い部分に大きく広がっており、
無理に手術したとしても言語機能、運動機能、身体機能に大きな障害が残る可能性がとても高い状態でした。
抗がん剤、放射線での治療もあまり効果を望めない。
いずれの病院でも余命3ヶ月と診断されたようです。
私の診断も同様のものでした。
数パーセントの可能性を信じて手術と抗がん剤での治療を行い、
お嬢さんのために少しでも長く生きることを勧める私に彼女は言いました。
ベッドに縛られて意識もなく抱くこともかなわない
微笑かけられもしないおっぱいもあげられない・・・
先生は私にそんな母になっても生きろとおっしゃるんですか。と。
奥様はとても冷静でした。
無理に治療して娘と一緒に過ごす時間が減るのであれば自分は治療を望まない。
そうおっしゃいました。
そしてその日は痛み止めのモルヒネと副作用の少ない抗がん剤を処方したのです。
それから数回来院されました。
病状は悪化していました。
おそらく私に告げているよりはるかにお辛かったのではないかと思います。
そうこうするうち同い年だったこともあってユンスさんと親しくなって。
ご主人も身寄りもいらっしゃらないと伺っていたので
相談相手になれればと個人的な連絡先をお教えしたんです。
そして彼女から会いたいと。」
「それがひと月前」
ミンウが尋ねる。
「そうです。会ったとき彼女は思っていたよりもはるかに元気そうでした。
最初、話は主にお嬢さんのことでした。
どれくらい可愛いか・・
毎日新しい驚きがある・・
自分が逝ってしまったあと、
お嬢さんが困らないようにいろいろ準備を始めたことを
時には笑顔を浮かべながら話してくれました。
それが段々様子が変わってきて。
いつも冷静なユンスさんがうつむいてポタポタと涙を落とし始めて。
自分が死んでしまうことを一番大切な人にどうしても言えない、
彼女はそういいました。
彼が悲しむ姿をどうしても見たくない。
彼と出会ってから今までずっと彼が何を望んでいるか
彼はどうしたら喜んでくれるか、それを叶えることを生きがいに生きてきた。
彼の喜ぶ笑顔が自分のすべてなのだと。
彼にとっては死ぬまで完璧な自分でありたいから、だから言えないって。
でも、嘘をつくのがつらい。
彼を騙している自分は最低な女だと思う。
そういって泣いていらっしゃいました。
おそらくご主人のことだろうと思いました。
病状が悪化してくれば黙っていることは不可能ですし、
彼女がこれほど愛しているご主人であれば
充分に彼女の残りの人生の苦しみを分かち合い
彼女を支えてくれる方に違いない・・
私は彼女の話を聞いてそう感じました。
だからご主人に話すことを強く勧めたんです。
私から連絡してもいいとも言いました。
「僕がいけないんです・・。」
黙って聞いていたミンウが重い口を開いた。
「意識していなかったにしろ僕が彼女に完璧であることを望んだんです。
彼女はいつも僕がほしいものをほしいときに与えてくれて。
それが当然のような生活でした。
僕は自分の仕事にばかり一生懸命で
彼女の具合が悪いのにも全く気がつかなかった。
彼女を追い詰めたのは僕です。
僕に病気のことを知られることを彼女は拒んだんです。」
「・・・・・そうかもしれない。
でも、彼女はあなたがそんな風に悔いることを望んでいたのではないと私は思います。
彼女が自ら死期を早めたのは苦しみ悩むあなたを彼女自身が見たくなかったからなのではないでしょうか・・・。
今、目の前に彼女がいたら
私は彼女に向かって自分勝手すぎると怒鳴ると思います。
残されたものの悲しみを彼女は知らなさ過ぎます。」
「ユンスを・・・・あなたにユンスの何がわかるんですか。
彼女を悪く言わないでくれ。
・・・・すいません。つい・・言い過ぎました。」
声を荒げ動揺したミンウは頭を抱えた。
「いえ、私こそ差し出がましいことを。
私もユンスさん大好きです。
でも、今回ばかりは彼女の判断は間違っていたと思います。
彼女が死を選んだことで最愛のあなたが今一人でこうやって苦しんでいるのですから。」
ミンウは流していた涙を袖で拭き立ち上がった。
「お忙しいのに・・・長くお邪魔しました。」
深く一礼する。
「何かお役に立てることがあればいつでもご連絡ください。
ご自分を責めてはいけません。」
ミンウは答えることなく診察室を後にした。