Highway XXX

怒られている内が花

最近、「怒られている内が花」(正確には「言ってもらえるうちが花」?)だなあ、ということを強く感じています。

この言葉は僕の父が昔子供に説教をしてくるときによく使っていたフレーズなのですが、いつもこの言葉の後に、

「社会に出たらもう誰も怒ってはくれんぞ。こいつは馬鹿や、勝手に損してしまえ、と思われてそれで終わりやぞ。全部自分で自分を成長させられるように生きていかなあかんなる」

みたいな感じのフレーズが続くわけです。


昔はこのようなセリフを聞くたび、「怒られるのは嫌に決まっとるやろ、もう怒らんでくれ」と思っていました。(当然、このようなセリフを聞くのは怒られている時であるので、子供としては反発してしまうわけです。)

でも、最近はこの言葉は正に真理だなぁ、と感じるようになってきました。

僕はドMではありませんので当然、「(積極的に)怒られたいぜ」なんてことを思ったりはしませんし、怒られることそれ自体は嫌なのですが、怒られるということは、自分を変えるきっかけとなり得るし、なにより相手が自分のことを何らかの思いがあって変えようとしてくれている証拠でもあると思います。

まあ、純粋に心配してくれているときもあれば、上司として部下の間違いを正さねば自分の立場が危うくなるなど、どちらかというと自分の立場を考えて注意している場合、はたまた単なる意地悪で怒る人も少数いるかもしれませんが、いずれにせよ、自分の悪いところを変えていくきっかけとなるのは確かであると思います。

そもそも、意図がどんなものであれ怒るのって結構エネルギー要りますからね…。

どーでもいい奴には、怒る必要なんかはなくって、ほっとけばいいだけだと思います。(それか、馬鹿にされるだけ。もちろん陰で聞こえない風に。)

実際、大学生になって、家庭、バイト先以外では直接個人的に怒られたような経験はないです(陰でコソコソ悪口を叩かれたと感じることは多々ありまましたが)。

やはり、もう自分で色々気づいていかねばならない、という感じなのでしょう。

もし色々と怒ってくれる方がいらっしゃれば、その意図はあまり深読みしようとせずに、自分を心配してくれているのだと捉えて(実際その場合が多い気がします)、感謝して、自分を変えていけるようにしていきたいです。

でも、そんな親切な人はもう現れそうにないな…。


さて、一方で色々言われることを単なる悪口・嫌味としか捉えることができずに甘い生活している奴って、確かにいると思います(僕もその面は大いにありました)。

この年(23才)になってそんな人間は周りにはほぼいないのですが、確かに存在はしています。

そういった人に気づきを与えるためには、一体どのようにすれば良いのでしょうね?

まあ怒っても反発するか避けられるだけでしょうからねぇ。


…ま、えっか。

僕は目の前のことを頑張っていきたいと思います。



長くなってしまいましたが、読んで下さり、ありがとうございました
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