Highway XXX

言語化による苦しみ

「肩がこる」という言葉がない国では、「肩がこる」という概念は存在せず、したがって、「肩がこる」という「症状」を訴える人も存在しないらしい。


この場合は、「肩がこる」という概念が先に存在していたから、「肩がこる」という言葉が生まれたのであろうか。
一体、言葉があることによりその概念が生まれるのか、それとも、何らかの概念が存在しているがゆえに、言葉が生じるのか。

この命題(言葉が先なのか、後なのか、ということ)に対して、ここで考察を行いたいわけではない。
(本題とはずれるし、考察ができるほどの能力を僕が持ち合わせている訳ではないから。)


さて、今回僕が言いたいのは、「言葉」が存在しているがゆえにその言葉により説明される「概念」により苦しむ、ということがあり得る、ということである。

冒頭で挙げた肩こりの例で言うならば、「肩こり」という言葉が存在しているがゆえに「自分が肩がこっている」という風に認識し、それにより苦しむ、という訳である(まあ、「苦しみ」というほどのものではないかもしれないが)。


これと同じように、何か自分が苦しんでいることに対して、「漠然と苦しい」としか言えない場合、その苦しみを直視することすらできないかもしれない。
この是非についてはともかく、「なんとなく嫌な感じ」という感覚どまりで、それ以上の「余計な」苦しみを感じることはない、という訳である。

しかし、自分の感じている違和感をはっきりと言語化できる場合には、その言語化された言葉に対する認識により、苦しみが持続する、ということがありえる。

過去の記事「多数派と少数派」という記事において多数派と少数派についての事実をすでに述べているが、感性における少数派に属する人間は「自分のもつ多数派とは異なる感性」について詳細に説明することが出来るなら、それが多数派の持つものとは異なることをしっかりと認識することができる。

しかし、解決点を見出すことはできない。
なぜなら、多数派に属する感性には少数派の感性は単なるわがままとしてしか映らない場合が多いからである。


自分の苦しみを言語化できるマイノリティは、結局は社会的な結果を出すことのできない甘ちゃんになるしかないのだ。

つまり、口ではべらべらと社会に対する不満や、今の自分に対する不満を並べ立てておきながら、それに対して一切の対抗策をうた(て)ない、ということになる。


恐ろしい現実である。
以上、小利口なニートが生まれる原理を語ってみたつもりです 笑。

結局何がいいたいのか訳の分からない支離滅裂な文章になってしまいましたね。
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