大河ドラマ”どうする家康”で盛り上がっている
愛知県岡崎市にある大樹寺へ行ってきました。
以前の岡崎ブログ記事の続きになります。
同じ愛知県内でも、尾張地方と三河地方では
微妙な違いを感じます。尾張地方に住む私は
三河地方に行くのは、遠くに旅行する気分…。
どことなく街の空気が変わるような気がします。
それって方言の違いからくるもの…?
ちなみに、”食べなさい”という言葉の方言、
尾張地方では”食べやぁ”と言いますが、
三河地方では、”食べりん”と言うそうです。
愛知県のおいしいもの言えば、味噌カツ…。
尾張地方では、「味噌カツ、食べやぁ~。」
三河地方では、「味噌カツ、食べりん。」
こんな感じの表現となるでしょうか…。
愛知県は”戦国の三英傑”の出身地ですが、
尾張地方では”推し武将は信長、秀吉”…!
三河地方では”推し武将は家康”…!
…と、いう方が多いと聞いています。
家康の出身地は三河地方、岡崎です。
岡崎は家康ゆかりの地がたくさんあります。
家康生誕の地である岡崎城や、家康の先祖
松平家、徳川将軍家の菩提寺の大樹寺…。
その大樹寺に久しぶりに行って来ました。
大樹寺は。何年ぶりになるでしょうか…。
三代将軍、徳川家光が建立したという、
立派な山門をくぐって、境内に入ります。
大樹寺は家康の祖先、松平家が創建した
古い歴史を持つ寺院です。このお寺は、
大河ドラマ”どうする家康”にも登場しました。
家康19歳の時、桶狭間合戦がありました。
当時、家康は今川義元の人質でした。
思いがけず、戦いで義元が倒されたので、
家康は兵糧を運んだ大高城から、岡崎の
自分ちのお寺、大樹寺に逃げこんだ…!
そして先祖の墓の前で自害しようとしたところ
大樹寺住職の登誉上人に、”厭離穢土、
欣求浄土”の言葉で諭され、自害を取りやめ
追っ手たちと戦い、敵を退散させたそうです。
”厭離穢土 欣求浄土”和尚さんの言葉は、
「戦国時代の世を住みよい浄土にするのが
あなたの役目。」というのメッセージだった…。
大河ドラマでは、大樹寺シーンに榊原康政
本多忠勝がからんで、印象的な場面でした。
ドラマの中では、和尚さんに諭されたようには
描かれていなかった。そういう演出でした。
さて、本堂に入ってご本尊にご挨拶します。
”厭離穢土 欣求浄土”と大きく書かれた
金色に輝く板がとても印象に残ります。
大樹寺の御朱印には、ご本尊の名前の
代わりに、この言葉が書かれていました。
本堂には、「このポスターはフラッシュを
たいて写真をとると何かがおこります。」
…と書かれているポスターがありました。
何が起こるのでしょうか…?
さっそくフラッシュをたいて、写真撮影…!
すると、”厭離穢土 欣求浄土”の言葉が
くっきりと、浮かび上がりました。
本堂には、大樹寺の紹介の音声ガイドが
流れていました。その後、拝観料をお納めして
宝物殿を拝観します。宝物拝観オススメです。
まず豪華な襖絵を見ました。もちろん
写真撮影は禁止です。”将軍御成の間”は
格調高く、ひときわ豪華な障壁画でした。
これ、レプリカだそうでしたが…。
晩年の家康の日課は、戦いで亡くなった人の
供養だったそうです。”南無阿弥陀仏”と
びっしり書かれた掛け軸が残されていました。
一番最後が”南無阿弥家康”になっています。
これって何の意味があるのでしょうか…?
「皆のモノ、家康を拝め…!」の意味ではなく、
「今日の供養ここまででおしまい。」、という
印だっかかもしれない…、とのことでした。
大樹寺には家康公の先祖と徳川歴代将軍の
位牌が安置されていました。位牌は等身大。
亡くなった時の身長の高さで作られています。
家康公の位牌は、ほぼ159㎝でした。
ちなみに5代将軍綱吉公は、たった124㎝。
お寺での遺体の発掘調査によると、位牌と
遺体の身長の誤差はわずかだったとか…。
ここに位牌があるのは14代将軍までです。
15代将軍のものはありませんでした。
これは明治維新が影響しているのではなく、
15代将軍さんだけは、神道の様式で
葬儀が行われたからだそうです。
家康公の木像もありました。これは家康
33回忌の時に三代将軍家光公によって
造られたものです。家康公は亡くなる前に、
「ワシに逢いたくなった時は、大樹寺に
参るが良い。」と、周りの人に言ったとか…。
家康の像、とてもリアルな感じがします。
家康公に逢いたくなったら、ぜひ、
家康公の菩提寺、大樹寺へ…!
それなら…。
私の推し武将、雲八さんに逢いたくなったら、
雲八さんの菩提寺、関の大雲寺に
参ればよいのじゃな~。
では、春のお彼岸には、岐阜県関市、
大雲寺に参ろうではないか~!