2023年3月21日、93歳で関ヶ原の合戦に
参戦した戦国武将、大嶋雲八の菩提寺の
岐阜県関市、大雲寺に行って来ました。
ちょうどお彼岸で彼岸会供養の真っ最中…。
副住職さんの読経の声が届いてきました。
檀家さんたちが本堂に集まってお参りです。
大雲寺にはしだれ桜の古木があります。
見るからに長い歴史を感じさせます。
雲八さんも眺めた桜なのでしょうか…?
しだれ桜は、見ごろまであと4、5日かしら…。
満開になると素晴らしい眺めとなります。
法要が終わって、この度、修理完成した
雲八さんの甲冑を見せていただきました。
年月が経ってぼろぼろだった甲冑ですが、
糸など色やかに修復され、立派に見える。
甲冑師の先生が、雲八さんの時代のものに
近いもので…と、材料は吟味されたとか…。
材料を揃えるだけで時間がかかったそうです。
なんせ戦国時代から伝わってきたものだけに、
とても神経を使う、細かい手作業だったとか…。
おそらく家臣のものだっただろう甲冑と
2つ並べて、本堂に飾られていました。
ここで副住職さんが、待ってましたとばかり、
とっておきのニュースを伝えてくれました。
「最近、いろいろな歴史博物館、資料館から
雲八さんに関して問い合わせが相次いで、
驚いていますが、今回はちょっと特別です…!
なんと、雲八さんと家康、2人ゆかりの茶道具、
”大島肩衝”が存在するみたいです…!」
「え~っ、雲八さん、茶道もやってたの…?」
「そうだよ。戦国武将の多くは、茶道を嗜んで
いた…。武将の必修教養科目だったかもね。」
副住職さんが言われました。
「先日、埼玉の遠山記念館の学芸員さんから
連絡があり、資料が送られてきました。
そこで、雲八さんが持っていたという、
”大島肩衝”というものを知ったのです。」
「それは藤堂高虎所有のもので、子孫に伝わり、
後に徳川幕府に献上された茶道具なんです。
藤堂高虎の前は、”大島某”の所有だった。
その”大島某”をよ~く調べたら”大嶋雲八”に
間違いないことを学芸員さんが突き止めた。」
「その証拠となる古文書は…?」
「寛政重修諸家譜には、”これよりさき光義
(雲八)領地にありて茶入をたてまつりしところ
のちに又光義(雲八)にかへし賜う”と、記され
ています。つまり、雲八さんが家康に茶入れを
献上して、その後、返されたという茶入れこそ
”大島肩衝”である…、との報告でした。」
さっそく、資料をお見せしますね…と、
遠山記念館から送られた”大島肩衝”の
資料コピーを見せていただきました。
でもどうして、雲八さんの持っていた茶入れが
藤堂高虎のものになったのでしょうか…?
雲八さんと藤堂高虎の関係は…?
どこかの戦いで一緒に戦った戦友(?)…?
”戦国武将茶道サークル”の(?)仲間…?
ここのところを知りたいですね。
ともかく、武将の”推し活”をしていると
時々、思いがけない大きな発見があります。
”雲八さんが家康に献上した茶入れ”が
存在して、今も残されているとはビックリです。
思ってもみなかった嬉しいニュースでした。
”大島肩衝”の実物も見てみたいなぁ~。
さて、この後”関鍛冶伝承館”に行って、
もう一つの雲八さんの甲冑を見ました。
揚羽蝶の家紋の入った立派な甲冑です。
雲八さんは坂本の戦いの時、この甲冑を
着用し、大活躍したと伝えられています。
雲八さんの子孫の方が関市に寄付され、
以前は、関市役所に飾られていました。
現在は”関鍛冶伝承館”に展示されています。
この甲冑をもとにして、アプリ”雲揚羽”の
イラストが描かれたと言われています。
同じく”関鍛冶伝承館”にイラストのパネルも
展示されていました。菩提寺の大雲寺には、
この”顔出しパネルバージョン”もあります。
この後、関の特産キウイフルーツのイベントで
賑わっていた”本町BASE”に行きました。
その後、”せきてらす”、旗本大嶋家ゆかりの
春日神社、”刃物会館”にも立ち寄りました。
また次のブログ記事でご報告します。