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敦賀茶町台場物語 その3

2021年04月01日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その3

 

それまでは、敦賀城の北の土地には雑多な職業の者が居住していた。敦賀城の築城を始めた時、特に大掛かりな工事として行われたのが庄の川の付け替えで、庄の橋辺りから西へ大きく曲がって流れていた川を、真っ直ぐに海へ流れ込むようにした。これによって、敦賀津の西の入江に流れ込む水流は遮断されたが、敦賀城の東の外堀としての庄の川が、城の消滅もあって商用に使用された。これによって町は大いに発展したのだった。

茶町が出来たのは寛永十四、五(一六三七、八)年頃のことで、美濃や畿内からお茶を買い、北の国へ売りさばいた。そのお茶のおかげで敦賀の湊と町は京の都にもひけを取らない賑わいだったと伝わっている。ところが北国でもお茶の栽培が始められ、また、宝永三(一七〇六)年には火事で茶町が焼けてしまい、お茶の商いは廃れてしまったそうだ。

そんな昔のことは、もちろん又吉の知るところではない。今は文久ニ(一八六一)年の十月で、嘉永六(一八五三)年にアメリカの黒船が浦賀に押し寄せて来てからというもの、世情は何かと浮き足立ち、落ち着かなくて足の裏がむず痒い心持ちの日々が続いている。

「ああ、今日も明日も、ずっと台場の土運びだよ」

又吉はいつもの挨拶をくり返した。橋番は両町交互に毎日替わるので、そろそろ茶町の者も一巡する頃かもしれない。何しろ八月から毎日なのだから。八月の二十四日に肝煎の集会である町一統惣寄が開かれ、翌日から工事が着手されたが、これまでにない大きな規模の台場だから、完成がいつになるのかわからない。

「雪の降るまでには終わるのかね?」

甲高い声で又吉に聞くのは、もう一人の橋番の甚左衛門だ。甚左衛門は茶町で四十物(あいのもの)の店を開いている。四十物とは、干魚や塩魚などの、魚の半加工品のことをいう。生魚は、漁師の家から女が売りに歩いて来る。盥(たらい)に魚を入れて、それを二段も頭に乗せて町に売りに来る。漁師町の特権として昔から認められている商いだ。焼き魚や煮魚などは生魚を買って家で作る。上等なものは料理屋で売っている。

「なんのなんの、春まではかかりそうだ。やっと石を積み終えて、中の土にかかったところだよ。それに、茶町の浜が終われば、次は金ヶ崎だという噂だよ」

そう言って又吉は今橋を渡り、庄の川の西沿いを河口に向かって歩いた。

茶町の浜に台場を築く土は、金ヶ崎を削った土をテンマ船で運んで来る。その船から、浜に積んだ石垣の中へ土を運び入れ、棒で突き、数人がかりの大木槌で固める。その前には石垣に使う石を、庄の川の上流や東浦・西浦から船で運んで来たのだ。