四、蝦夷島の親王
海が荒れていたため、鷹義を乗せた船が蝦夷島へ着いたのは十一月の末だった。
船には時元配下の昆布衆の男たちと、水主(かこ)が二十人ばかりも乗っていた。時元は尊良親王を、時元の主筋の者で、鷹義だと紹介した。源氏の姓は親王が宮家を離れる時に賜る姓である。それに時元は倣ったもので、鷹義が後醍醐天皇の一宮である事は、時元と桔梗の二人しか知らない。
昆布衆の頭である時元が鷹義にかしずき、娘の桔梗もしきりに世話をするので、船上では自然と鷹義が主のように皆から奉られた。鷹義自身の品格や器量が、他の昆布衆や乗組員をそうさせたのである。
それは蝦夷島に着いてからも同じで、鷹義には一番立派な館があてがわれ、桔梗を妻としての生活が始められた。
翌年(一三三七)一月、後醍醐天皇が十二月に京を抜け出して、吉野で朝廷を開いたとの知らせが鷹義のもとに届いた。いよいよ反攻の時がやって来たのである。
しかし、三月には金ヶ崎城が落とされた。義貞は落城の一月前に逃げ出していたが、恒良親王と、尊良の身代わりを演じていた男は最後まで残った。恒良は昆布衆の者に小舟で救出されて、近くの浦へ逃げたものの、そこで尊氏方に捕らわれ、京へ護送された後に毒殺された。尊良の身代わりとなった男は、尊良として城で自刃して果てた。この男も昆布衆の者であった。鷹義へ追手がかからないようにと、最期まで尊良として生きたのである。
義貞は越前を越えることが出来ず、次の年に些細な間違いで敵兵に殺された。最期まで運の無い男であった。
後醍醐方は反攻の兵を挙げたものの、これからという時に後醍醐が没した。延元四年(一三三九)の八月十六日である。五十二歳であった。
後醍醐亡き後も南朝の戦は続いた。
後醍醐は死の前日に、皇位を義良に譲っており、後村上天皇となった義良はまだ十二歳だったが、兄たちが各地で戦っていることを分かっていた。
鷹義もその一人だが、親王の座を捨てた鷹義は戦の旗印は掲げず、軍資金や軍糧の手配に活躍した。
南朝軍は北朝軍の内部抗争もあって、何度か京を奪回するなどの戦果を上げたが、次第に求心力を失い、戦力も弱まり、ついに北朝に屈した。元中九年(一三九三)閏十月の事である。
この時、鷹義は八十歳を越えていたが、桔梗と共に生きていた。後醍醐が上げた狼煙の最期を見届けたのである。
秋も深まったある日、鷹義は桔梗と二人で館前の浜辺に立った。
「ついに父上の望みは絶たれてしもうた。我が天皇家もこれで潰えるであろう。しかし、良く戦ったものじゃ。桔梗、お前には長らく世話になったな。礼を言うぞ」
「桔梗は、鷹義様のお側にお仕えできて幸せでした。それよりも、息子や孫たちにも鷹義様のお血筋の事は伏せてきましたが、この際全てを打ち明けて、この地から足利の幕府を討つ兵を挙げられましては如何です? 天子様の正しきお血筋は、もう鷹義様だけとなりましたが‥‥」
「もう良いのじゃ。あれは父上だけの夢だったのだ。他の誰にも見る事の出来ぬ、後醍醐だけの夢なのだ。あれほどの夢、他の者には観る事もかなわぬ。真の天皇は父上で終わった。これからは仮面があるのみじゃ。それで良いではないか。戦はもう終わったのじゃ」
夕陽に照らされる鷹義の顔を、桔梗は穏やかな微笑みを浮かべながら見つめていた。
鷹義が言うように、大きな夢が終わったのだ。後醍醐だけにしか観る事の出来ない大きな夢が、叶わないままに終わったのだ。叶わなかった事が神意に沿わぬものならば、後の世に再び後醍醐が現れるであろう。それはその時のことだ。
役割を終えたと悟った鷹義は、それまでに貯めておいた銭を幾つもの大甕に入れて、館の地中に埋めた。そして、波乱に満ちた、それでも幸せな人生を、桔梗や子孫、そして昆布衆に見守られて、静かに終えたのである。
※後醍醐天皇と共に吉野に赴いた昆布衆たちは、南朝滅亡後も吉野に住み、現在でも昆布姓を名乗り、後醍醐を奉っている。
鷹義の埋めた銭と思われるものは、昭和四十三年(一九六八)七月十六日に、函館市志海苔町二四七番地から、道路工事によって発見された。越前古窯の大甕二つと、能登珠洲窯産の大甕一つに、合わせて三十七万四千四百三十六枚の銭が入っていた。その内、最も新しい銭は明代の「洪武通宝」で、初鋳は一三六八年である。一四〇八年に鋳幣されて北日本一帯に大量に流通した「永楽通宝」は一枚も入っておらず、この大甕の銭は鷹義の時代に埋められた可能性が高い。
参考文献
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佐藤進一『南北朝の動乱』
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高橋克彦『炎立つ』弐
『福井県南條郡誌』昭和九年
山本元『伝説の敦賀』昭和十二年
杉原丈夫『越前若狭の民話』昭和四十五年
敦賀美術考古学会『敦賀の昔話』
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