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後醍醐の昆布 その15

2021年02月06日 | 小説

 

  四、蝦夷島の親王

 

 海が荒れていたため、鷹義を乗せた船が蝦夷島へ着いたのは十一月の末だった。

 船には時元配下の昆布衆の男たちと、水主(かこ)が二十人ばかりも乗っていた。時元は尊良親王を、時元の主筋の者で、鷹義だと紹介した。源氏の姓は親王が宮家を離れる時に賜る姓である。それに時元は倣ったもので、鷹義が後醍醐天皇の一宮である事は、時元と桔梗の二人しか知らない。

 昆布衆の頭である時元が鷹義にかしずき、娘の桔梗もしきりに世話をするので、船上では自然と鷹義が主のように皆から奉られた。鷹義自身の品格や器量が、他の昆布衆や乗組員をそうさせたのである。

 それは蝦夷島に着いてからも同じで、鷹義には一番立派な館があてがわれ、桔梗を妻としての生活が始められた。

 

 翌年(一三三七)一月、後醍醐天皇が十二月に京を抜け出して、吉野で朝廷を開いたとの知らせが鷹義のもとに届いた。いよいよ反攻の時がやって来たのである。

 しかし、三月には金ヶ崎城が落とされた。義貞は落城の一月前に逃げ出していたが、恒良親王と、尊良の身代わりを演じていた男は最後まで残った。恒良は昆布衆の者に小舟で救出されて、近くの浦へ逃げたものの、そこで尊氏方に捕らわれ、京へ護送された後に毒殺された。尊良の身代わりとなった男は、尊良として城で自刃して果てた。この男も昆布衆の者であった。鷹義へ追手がかからないようにと、最期まで尊良として生きたのである。

 義貞は越前を越えることが出来ず、次の年に些細な間違いで敵兵に殺された。最期まで運の無い男であった。

 後醍醐方は反攻の兵を挙げたものの、これからという時に後醍醐が没した。延元四年(一三三九)の八月十六日である。五十二歳であった。

 後醍醐亡き後も南朝の戦は続いた。

 後醍醐は死の前日に、皇位を義良に譲っており、後村上天皇となった義良はまだ十二歳だったが、兄たちが各地で戦っていることを分かっていた。

 鷹義もその一人だが、親王の座を捨てた鷹義は戦の旗印は掲げず、軍資金や軍糧の手配に活躍した。

 南朝軍は北朝軍の内部抗争もあって、何度か京を奪回するなどの戦果を上げたが、次第に求心力を失い、戦力も弱まり、ついに北朝に屈した。元中九年(一三九三)閏十月の事である。

 

 この時、鷹義は八十歳を越えていたが、桔梗と共に生きていた。後醍醐が上げた狼煙の最期を見届けたのである。

 秋も深まったある日、鷹義は桔梗と二人で館前の浜辺に立った。

「ついに父上の望みは絶たれてしもうた。我が天皇家もこれで潰えるであろう。しかし、良く戦ったものじゃ。桔梗、お前には長らく世話になったな。礼を言うぞ」

「桔梗は、鷹義様のお側にお仕えできて幸せでした。それよりも、息子や孫たちにも鷹義様のお血筋の事は伏せてきましたが、この際全てを打ち明けて、この地から足利の幕府を討つ兵を挙げられましては如何です? 天子様の正しきお血筋は、もう鷹義様だけとなりましたが‥‥」

「もう良いのじゃ。あれは父上だけの夢だったのだ。他の誰にも見る事の出来ぬ、後醍醐だけの夢なのだ。あれほどの夢、他の者には観る事もかなわぬ。真の天皇は父上で終わった。これからは仮面があるのみじゃ。それで良いではないか。戦はもう終わったのじゃ」

 夕陽に照らされる鷹義の顔を、桔梗は穏やかな微笑みを浮かべながら見つめていた。

 鷹義が言うように、大きな夢が終わったのだ。後醍醐だけにしか観る事の出来ない大きな夢が、叶わないままに終わったのだ。叶わなかった事が神意に沿わぬものならば、後の世に再び後醍醐が現れるであろう。それはその時のことだ。

 

 役割を終えたと悟った鷹義は、それまでに貯めておいた銭を幾つもの大甕に入れて、館の地中に埋めた。そして、波乱に満ちた、それでも幸せな人生を、桔梗や子孫、そして昆布衆に見守られて、静かに終えたのである。

 

 

 

 

※後醍醐天皇と共に吉野に赴いた昆布衆たちは、南朝滅亡後も吉野に住み、現在でも昆布姓を名乗り、後醍醐を奉っている。

 

 鷹義の埋めた銭と思われるものは、昭和四十三年(一九六八)七月十六日に、函館市志海苔町二四七番地から、道路工事によって発見された。越前古窯の大甕二つと、能登珠洲窯産の大甕一つに、合わせて三十七万四千四百三十六枚の銭が入っていた。その内、最も新しい銭は明代の「洪武通宝」で、初鋳は一三六八年である。一四〇八年に鋳幣されて北日本一帯に大量に流通した「永楽通宝」は一枚も入っておらず、この大甕の銭は鷹義の時代に埋められた可能性が高い。

 

 

 

 

 

 

 

   参考文献

山本元『敦賀郷土史談』昭和十年

『陸奥話記』、『群書類従』所収

『奥州後三年記』、同右

『幻雲文集』、同右

『新修鷹経』、同右

『嵯峨野物語』、同右

『白鷹記』、同右

『養鷹記』、同右

『鷹経弁疑論』、『続群書類従』所収

『小倉問答』、同右

『鷹聞書』、同右

『鷹秘抄』、同右

『養鷹秘抄』、同右

『朝野群載』国史大系第二十九巻上、昭和十三年

『扶桑略記』国史大系第二十巻、昭和七年

『水左記』、『増補史料大成第八巻昭和四十年

『若狭管内寺社什物記』昭和三十三年発行版

『松前町史・通史編第一巻上』一九八四年

『函館市史・銭亀沢編』平成十年

『敦賀市史・通史編上巻』昭和六十年

『敦賀市史・資料編第五巻』

『小浜市史・通史編上巻』平成四年

『福井県史・通史編四』平成八年

『福井県史・資料編一』昭和六十二年

『福井県史・通史編一』平成五年

『福井県史・通史編二』平成六年

敦賀市立博物館『紀要』第十四号、平成十一年

『福井県史研究十四号』平成八年

山本元『敦賀の沿革』明治三十五年

山本元『敦賀郡誌』大正四年

天野久一郎『敦賀経済発達史』昭和十八年

『太平記』日本古典文学大系

谷川健一『古代海人の世界』一九九五年

大石圭一『昆布の道』昭和六十二年

山口徹『日本近世商業史の研究』一九九一年

梶島孝雄『資料日本動物史』一九九七年

『百錬抄』国史大系

佐藤進一『南北朝の動乱』

黒田俊雄『蒙古襲来』

網野善彦『異形の王権』一九九三年

豊島泰国『日本呪術全書』一九九八年

谷崎潤一郎『吉野葛』

高橋克彦『炎立つ』弐

『福井県南條郡誌』昭和九年

山本元『伝説の敦賀』昭和十二年

杉原丈夫『越前若狭の民話』昭和四十五年

敦賀美術考古学会『敦賀の昔話』

 



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